パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『カラマーゾフの兄弟』について、ちょっとばかり…

2007-11-30 20:12:48 | Weblog
 いきなり、スメルジャコフなんかを出してしまって、ちょっとアレ(拙速)だったので、『カラマーゾフの兄弟』について、少しフォローしたい。

 『カラマーゾフの兄弟』は、光文社から亀山郁夫の新訳がベストセラーになって話題になっている。売れたのは、「読みやすい」からだそうだが、どんな風に読みやすいかというと、たとえば、上が原卓也の訳で、下が亀山郁夫による「新訳」だ。

《だが、事実フョードルは一生を通じて、演技するのが、それも突然なにか意外な役割を、しかも肝心なことは、たとえば今の場合のようにみすみす自分の損になるとわかっているときでさえ、何の必要もないのに演技して見せるのが好きな男であった。》

 以下、亀山郁夫訳。

《じっさい、フョードルは一生をとおして芝居を打ち、人前で急に何か思いがけない役どころを演じるのが好きだった。しかも大事な点は、ときとしてなんの必要もないのに、たとえば今度の場合のようにそれが自分の損になるとわかっていてなおかつ芝居を打つのである。》

 正直言って、私は原訳のほうが好み(私が読んだのは岩波文庫版で、訳者は米川正夫であるが、雰囲気は原訳に近い)だが、いずれにしたって、「読みやすさ(読みにくさ)」という点では五十歩百歩じゃないのかな。原訳ではわかりにくくて、亀山訳ならわかる、というセンスがわからない。(というか、幼すぎないか、感想が。黒岩涙香の『鉄仮面』なんか、バリバリの文語文だが、ものすごく読みやすいぞ)

 それはさておき、フョードルとは、カラマーゾフの3兄弟の父親で、淫蕩だが、滑稽なことの好きな、一般的には「憎めない」男なのだが、子供たちにとってはそうではない。「父親失格」の典型的タイプで、若い頃は育児を全く放擲し、子供たちが大きくなってからは、たとえば、長男のドミートリーとグルーシェンカという評判の美女をめぐって争う始末である。
 ドミートリーは、すでに婚約者がいたにもかかわらず、それを捨てて、グルーシェンカと一緒になろうとしている。一方、父親のフュードルは、自分と一緒になれば、3000ルーブルあげようという。
 ところが、この3000ルーブルはフュードルの亡き妻が残した遺産のうちの、ドミートリーの取り分であって、激高したドミートリーは、親父をぶち殺してでも3000ルーブルを取り返す、と公言して、実際にある晩、父親の家を襲うが、気後れして逃げ出そうとした矢先、カラマーゾフ家の下男、グリゴーリーと出くわし、殴り殺してしまう。
 しかし、殺したと思ったのはドミートリーの勘違いで、グリゴーリーは気を失っただけで、しかも、その間にフュードルは何者かに殺されてしまい、ドミートリーは、グリゴーリーの証言等をもとに、父親殺しの罪で捕まってしまう。
 しかし、実際に殺したのは、フュードルの私生児と噂されながら、グリゴーリーのもとで育てられたスメルジャコフであった。
 スメルジャコフは非常に大胆、かつ狡猾な男で、自分がフュードルを殺したのだが、それは、父親を憎んでやまないあなた方の意を受けて、そうしたのですよ、と次兄のイワンに打ち明ける。イワンは、びっくりして、では法廷でお前が真犯人であると言うぞ、と言うと、スメルジャコフは、そんなことをしても無駄ですよ、私は全否定しますからね、私が真犯人であるとあなたに告白したなんて、誰が信じるでしょうか、と言う。そして、愕然とするイワンに、「大丈夫ですよ、あなたが殺したんじゃありません」と囁く。もちろん、その真意は、「実際に殺したのはあなたでもドミートリーでもなく、私ですが、本当の責任は、あなた方にあるんですよ」である。
 というのは、イワンは兄のドミートリーが父親を殺しかねない、いや、このままでは殺すにちがいない、と思いながら、それを制止せず、むしろ望んですらいたからだ。
 スメルジャコフは、こう言って自殺してしまう。
 一方、イワンは、法廷で真犯人はスメルジャコフだと主張するものの、スメルジャコフの言う通り、荒唐無稽の作り話であるとして受け入れられず、ドミートリーは有罪となり、イワンは発狂するのだが、このスメルジャコフが大江健三郎に似ているというのは、大江が、沖縄の日本軍守備隊長の赤松中尉を集団自決の命令者であると、事実上、告発しながら、本文中で「殺人者」とは書いていないことをもって、自分への「名誉毀損」の嫌疑を否定するとともに、「実際に殺したのは赤松さん、あなたじゃありません、日本軍(日本国)という、縦の組織が殺したんです」と、ちゃっかり、年来の主張に結びつけているからなのだ。

追伸 くろいわるいこう(黒岩涙香)と入力変換したら、「黒い悪い子(う)」となった。トホホ。

大江健三郎=スメルジャコフ説

2007-11-28 21:06:29 | Weblog
 一週間ほど前、京浜東北線の網棚で(網じゃないが…これも、死語だなあ)拾った朝日新聞を広げたら、沖縄の集団自決に関する大江健三郎の著書、『沖縄ノート』をめぐる裁判について、証人として発言した内容についての弁解というか、コメントが載っていた。
 大江の論点は二つあって、一つは、『沖縄ノート』中の、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。」という文章についてで、「かれ」として書かれている原告の赤松氏は、自分に対する、「罪の巨塊」と言う表現は、事実無根の想像によって書かれたもので、名誉毀損にあたるとして告発しているわけだが(詳しいことはよく知らないが)、大江健三郎は、これに対し、「罪の巨塊」とは、集団自決の結果生じた「巨きな数の死体」のことであって、赤松氏本人のことではない。日本語のわかる人なら当然そう解釈するはずだ、と「日本語の表現論」に話をずらして語っている。

 しかし、こりゃ、どう考えても無理でしょう。大江の文章は、要するに、「かれ(赤松氏)は、自分の前に転がっている《巨きな数の死体》を《正気》のままでは、到底見ることもできないであろう(が、それでも正気で生き延びたいと願う)」と言っているのだから、罪の巨塊=赤松と理解するしかないじゃないか。そんな風に思う私は日本語力が足りないのであろうかと思いながら、そのままでいたが、どうやら、私と同じ感想を持った人はかなり多いらしく、あちこちのブログ等で大江批判が燃え盛っていて、その要旨もほぼ上に書いたことのようなことにつきるようなので、未だ、俎上にあがっていない、第2の論点について、少しだけ。

 あ、でもその前に、一つだけ。

 大江健三郎は、赤松氏が、「正気ではいられないような巨きな罪を犯して、なおかつ、正気で生き延びようと願っているにちがいない」と言っているわけだが、これは、考えうる限り、もっとも執拗・狡猾な「罵倒」じゃないのか。「気が狂えば、あんたは楽になる。だから気が狂っては困る。正気でいてくれ」、というのだ。『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンを狂気に至らしめる、カラマーゾフ家の下男、スメルジャコフそっくりだ。裁判官がどう判断するかはわからないけれど、「文学」的にはそう解釈できる。

 それはさておき、大江健三郎は、当該コラム(定義集)を次の文章で終わっている。

 曽野氏は「集団自決」が行われた際、赤松大尉のもとで中隊長だった富野少尉が自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって氏(曽野綾子)の本の核心に据えています。
 「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、なぜ、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をしてその死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」
 ――このように言う者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました。

 なるほど、ここで根本的に意見が分かれるのだ。

 「死の清らかさ」という富野一佐の表現は必ずしも適当とは思わないが、富野氏の気持ちはよくわかる。集団自決した人をはじめ、沖縄で散った、軍人、民間人を含む、すべての日本人にたいし、戦後の日本人は、「すみませんでした」ではなく、「ありがとう」と言うべきだと私は思う。「ありがとう」と言ったからといって、決して「人間をおとしめる」ことにはならないはずだ。そう私は思う。(そもそも「すみません」が、日常語としては、「ありがとう」の意味を強く持ってしまう日本語の特質から、混乱がはじまっているような気がしないでもないが、そうは思いませんか? 日本語の達人、大江健三郎さん。あなたの言い分では解決は決して訪れず、ただ「恨み」ばかりが残るのでは?)

大江健三郎=スメルジャコフ説

2007-11-28 21:06:25 | Weblog
 一週間ほど前、京浜東北線の網棚で(網じゃないが…これも、死語だなあ)拾った朝日新聞を広げたら、沖縄の集団自決に関する大江健三郎の著書、『沖縄ノート』をめぐる裁判について、証人として発言した内容についての弁解というか、コメントが載っていた。
 大江の論点は二つあって、一つは、『沖縄ノート』中の、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。」という文章についてで、「かれ」として書かれている原告の赤松氏は、自分に対する、「罪の巨塊」と言う表現は、事実無根の想像によって書かれたもので、名誉毀損にあたるとして告発しているわけだが(詳しいことはよく知らないが)、大江健三郎は、これに対し、「罪の巨塊」とは、集団自決の結果生じた「巨きな数の死体」のことであって、赤松氏本人のことではない。日本語のわかる人なら当然そう解釈するはずだ、と「日本語の表現論」に話をずらして語っている。

 しかし、こりゃ、どう考えても無理でしょう。大江の文章は、要するに、「かれ(赤松氏)は、自分の前に転がっている《巨きな数の死体》を《正気》のままでは、到底見ることもできないであろう(が、それでも正気で生き延びたいと願う)」と言っているのだから、罪の巨塊=赤松と理解するしかないじゃないか。そんな風に思う私は日本語力が足りないのであろうかと思いながら、そのままでいたが、どうやら、私と同じ感想を持った人はかなり多いらしく、あちこちのブログ等で大江批判が燃え盛っていて、その要旨もほぼ上に書いたことのようなことにつきるようなので、未だ、俎上にあがっていない、第2の論点について、少しだけ。

 あ、でもその前に、一つだけ。

 大江健三郎は、赤松氏が、「正気ではいられないような巨きな罪を犯して、なおかつ、正気で生き延びようと願っているにちがいない」と言っているわけだが、これは、考えうる限り、もっとも執拗・狡猾な「罵倒」じゃないのか。「気が狂えば、あんたは楽になる。だから気が狂っては困る。正気でいてくれ」、というのだ。『カラマーゾフの兄弟』で、次男のイワンを狂気に至らしめる、カラマーゾフ家の下男、スメルジャコフそっくりだ。裁判官がどう判断するかはわからないけれど、「文学」的にはそう解釈できる。

 それはさておき、大江健三郎は、当該コラム(定義集)を次の文章で終わっている。

 曽野氏は「集団自決」が行われた際、赤松大尉のもとで中隊長だった富野少尉が自衛隊一佐として勤務する土地を訪ね、次の談話をとって氏(曽野綾子)の本の核心に据えています。
 「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、なぜ、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をしてその死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」
 ――このように言う者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました。

 なるほど、ここで根本的に意見が分かれるのだ。

 「死の清らかさ」という富野一佐の表現は必ずしも適当とは思わないが、富野氏の気持ちはよくわかる。集団自決した人をはじめ、沖縄で散った、軍人、民間人を含む、すべての日本人にたいし、戦後の日本人は、「すみませんでした」ではなく、「ありがとう」と言うべきだと私は思う。「ありがとう」と言ったからといって、決して「人間をおとしめる」ことにはならないはずだ。そう私は思う。(そもそも「すみません」が、日常語としては、「ありがとう」の意味を強く持ってしまう日本語の特質から、混乱がはじまっているような気がしないでもないが、そうは思いませんか? 日本語の達人、大江健三郎さん。あなたの言い分では解決は決して訪れず、ただ「恨み」ばかりが残るのでは?)

なだぎ&友近

2007-11-26 18:12:05 | Weblog
 M崎さんに進められて、テレ朝の『点と線』の後半を、少しだけ見た。M崎さんは、「面白い」と言っていたし、世間の評判も結構良かったみたいだが…私は、日本の役者の、芝居をする時に「どっこいしょ」と声をかけてから身体を動かすようなスピード感の無さが嫌いで、敬遠していたのだが、今回の『点と線』も、結局それを払拭できていなような気がして、途中でやめてしまった。悲しい顔をすれば、悲しい感情が伝わるような思い込みで演技をしているようなところも嫌いだ。さすがに、ビートたけしには、そういう「欠点」は見られないのだけれど。

 それで、チャンネルをまわしたら、ディラン&キャサリン、ことなだぎ武と友近の二人が素顔でメントレに出ていた。見る人により意見は分かれるだろうが、なだぎがいい男だと思った。サッカーのゴン中山と少年隊の東山を足して2で割ったような……。いや、だから、意見は分かれるでしょうが、でも最初に見た時、一瞬、東山かと思った。ともかく、不思議なインパクトがあった。そして思った。「こういう役者を『点と線』でもキャスティングすべきなんだよ」と。高橋なんとかみたいなんじゃなく。(もっとも、高橋のキャリアの中では昨日の『点と線』は、それほど悪いものではなかったということになるんだろうが。)なだぎにしても、たまたまディラン&キャサリンが当たったが(私も嫌いじゃないが)、メントレを見ていて、性格的にお笑い向きとは思えなかった。それは、友近がよく分かっていて、彼女がなだぎを「シリアス」の方向にコントロールするようになるのではないか、とおせっかいな感想を抱いた。(二人は「恋人同士」を公言している仲だったんだそうで。知らなかった)

藤野賢次

2007-11-24 21:16:39 | Weblog
 近所の古道具屋でマイクロメーターを買った。ミツトヨ製だ。1500円。ちょっと前に、イランだかに原爆製造が可能となる精密機械部品を売って、捕まったところだと思うが、こういう精密測定器具なんかは日本は得意中の得意だ。ミツトヨは、そのトップメーカーだから、多分1500円でも安いと思うのだが、ネットで調べるともっと安いかもしれないので、調べない。もう買っちゃったんだし。
 と、くだらないことを書いているが、何でマイクロメーターを買ったかというと、今度出す写真集の紙の厚さを知りたいと思ったのだ。それで、今日、いろんな本の紙の厚さを測った。なんでも測っちゃうぞー、という感じ。でわかったことは、手の感触でも、0,01ミリ単位で厚さ(薄さ、というか)の違いを感じ取ることができるということだ。0,08ミリと0,1ミリの違いがわかる。すりすりと手でさわると、明らかに違う。すごいと思ったが、残念ながら、0,13ミリ、とか、0.11ミリとか「数値」はわからない。「数値」が出ないと本の厚さが出ない。そこで、マイクロメーターの出番となる訳だ。
 それはともかく、サランラップで、「なんでも」つつんでしまう女の子のCMがあるが、あれ、好きだなー。

 池田信雄ブログを見たら、姉歯物件スキャンダルによる建築基準法の厳格化による不況の可能性が、相当あちこちで話題になっているみたいだ。何しろ、古い建築物の改築にも、新たな建築基準法が適用されるため、改築がどこでも行われず、古いまま――ということは、脆弱なままの建築物が残る可能性があるんだそうだ。バカらしすぎる。一部では、「コンプライアンス不況」という新語も使われているらしいが、「姉歯不況」のほうがいいんでないかい?
 どこかのニュースショーで、官僚の対応失敗で云々と言っていたが、もちろん、官僚も無能だが、今回の自体に最も影響があったのは、視聴率稼ぎのために、模型をぶっ壊して危機感を煽ったテレビを筆頭とするマスコミじゃないか。

 ニュースショーといえば、今朝、民主党の山岡賢次国対委員長が出ていたが、山岡氏は『徳川家康』のベストセラーで有名な「国民作家」山岡荘八が「義理の父」にあたると紹介していた。てことは、藤野さんの旦那か!

 説明しよう。

 藤野さんというのは、私の中学時代の同級生で、山岡荘八の一人娘だ。山岡はペンネームで藤野が本姓なのだ。「焼き海苔」を貼ったような眉毛がものすごく印象的な女の子で、「色白」がそれに拍車をかけていた。無口で、すごく勉強ができた。我がクラスにはもう一人、勉学に秀でたK本さんという女性ライバルがいた。K本さんはファイトを表面に出すタイプで、1番でなければ、絶対に満足できず、したがって藤野さんを常に意識していたが、藤野さんはおとなしくて、K本さんの挑発を受け流していた。K本さんは、その後、東大の法学部に入った。なんで知っているかというと、「文芸春秋」のグラビアに、「ホープ」として紹介されていたからだ。その後のことは知らないが、そのK本さんのライバルだったわけだ、藤野さんは。住んでいるところも近くて。二人とも梅が丘でね。…まあ、どうでもいいか。
 その藤野さんが、山岡荘八の一人娘だということは、みんな知っていたが、そうかあ、一人娘だったんで、婿養子をとったんだね。
 しかし、私も年を取るはずだよなあ。山岡賢次の奥さんが、「あの」、藤野さんだったとは。

追伸 今時「山岡荘八」ったって、誰も知らないし、いや、知ってたって、山岡荘八の「婿養子」ってことが選挙で有利になるとも思えないから(だいたい、山岡荘八はバリバリの「保守」で有名なんだぞ!)、正直に藤野賢次でいいじゃないかと思うが、まあ、お節介なんで、やめとこ。

犯人画像転載禁止って…

2007-11-16 22:08:27 | Weblog
 川口市のアパートで、25歳の女性を強姦のうえ殺害し、キャッシュカードを奪った、まさに「極悪人」の画像が公開された。びっくりするくらい鮮明で、しかも、着ているセーターは殺された女性が着ていたものらしい。なんとも気味が悪いが、これなら捕まるだろう…とは、残念ながら思わない。英語教師殺害事件の市橋だって、捕まっていないし。加古川の女児殺害事件も同様だ。何度も書くが、栃木の女児刺殺事件もほぼ迷宮入りだろうし、確か山口のほうで起きた、昼寝中に殺された女子高生殺害事件も未解決。世田谷の一家皆殺しも…。
 国会は、警察庁の長官を国会に呼んで叱責するくらいのことをしろ、と思うが、それはさておき、驚いたのが、リンク先の川口警察の画面に、犯人、というか現在のところは重要参考人といったところだろうが、その男の画像の「複写、転載を禁止します」と書いてあることだ。ということは、リンクも禁止ってことか? こんなところで著作権を主張して何になるのだろう。本当に、警察はバカじゃないのかと思ってしまう。
 このように、「バカ」だから捕まらない、ということもあるだろうが、もっと大きな理由が他にあるのだろうと思う。例えば、はっきり言って、「人権の壁」とか…。というのは、人を殺すことのできる人間というのは、やはり普通ではないのであって、警察は、そういった「特殊」な人物の個別データをあらかじめ持っていなければ、そう簡単には捕まらないのではないかと思うのだが…。
 
 ところで、川口といえば、今私が住んでいるところの近くだが、事務所(御徒町)の近所のアメ横でも、ひと月ほど前、暴力団同士の抗争らしいが、白昼堂々といった形でピストルによる殺人事件が発生し、これも捕まっていない。むなしく、情報を求める看板が雨ざらしになっている。

未成年防止装置付きタバコ自販機

2007-11-16 13:05:26 | Weblog
 来年から、未成年はすべてのタバコ自販機が使えなくなるんだそうだ。
 もちろん、問題はどうやって未成年者と成年を区別するかだが、自販機の前面にレンズが装着されていて、タバコを買いに来た人の顔で、未成年か否かを判断するんだそうだ。たとえば、皺が多いか少ないかとかである。

 しかし、人の顔には童顔、老け顔というものがあるから、実際には、未成年か成年かを正確に区別するのは難しいので、結局カード併用もしくはカード専門の自販機になるらしい。しかし、「カード」ってなんなんだろう。ニュースで聞いた限りでは、どうやら、タバコを買いたい人は、買う前にまず自分が二十歳を過ぎていることを証明するカードをゲットしておかねばならないようだ。もちろん、運転免許証とか、健康保険証とかを認識できるソフトも入れてはおくのだろうが。

 いずれにせよ、私はもう半年ほど前に禁煙したので関係ないのだけれど(その前に「未成年」じゃなかった。ハハハ)、そこまでして何になるのだろう。無駄なことをしていると思う。タバコをやめる人が増えるであろうという効果は期待できるけれど(少なくとも、この自販機で喫煙人口が「増える」ことはありえない)、まさか、喫煙者を減らすことを目的にしているわけではないだろうし。

 もちろん、未成年者(厳密に言えば「思春期にある男女」に限るべきであり、だとしたら、たとえば、18、9才が未成年かどうかは、かなり疑問になってくるが、この問題はさておく)がタバコや飲酒を行うことは、よいことではないだろうが、大人の目を盗んでこっそりタバコを吸ったり、お酒を飲んだりすることは、実は、大人への成長過程で不可欠であることは、精神医学的に立証されている。たとえば、アウグスティヌスは、少年時代、友だちと一緒にスイカ畑からスイカを盗んだことがあり、これを反省することで後に聖人になったとかならないとか。

 要するに、「思春期」における「悪事」は、喫煙・飲酒を含め、その多くが大人への反抗としてなされるのであり、それはまた、大人への階梯の一つのステップとなっているわけだ。もちろん、だから未成年の不祥事は大目に見ろ、というわけじゃない。大目に見たら、せっかくの、成長へのきっかけとなりうる「不祥事」が「不祥事」でなくなってしまうから。

 ……と、この問題は昔からいろいろ取りざたされながら、結果的には、子供が大人になっていくことで、自然に解決されてきたのだ。

 で、タバコ自販機の未成年防止装置だが、そういった、はるか古代から続いている人類の「知恵」とは全然関係ないところで成り立っているところが、いかにも「バカバカしい」のだ。

オヅラさん……

2007-11-14 20:58:55 | Weblog
 賞味期限の切れた卵は捨てる、という主婦が大半という番組調査の結果に、オヅラさんが、「賞味期限? そんなもの、昔はなかったし、今だって、そんな貼り紙、オレは見たことないぞ」と言っていたが、そうなんだよ。何のために舌があるのか、鼻があるのか。苦かったら毒かもしれない、酸っぱかったら腐っているかもしれない……と、「味覚」には、全部、それなりの存在理由がある。いや、その前に、卵なら、割ってみればいいではないか。それもしないのか、今時の主婦は。メディアの影響は大きいなあ……。オヅラさん、次は、「食品偽装で食中毒でも起きたの? 何十人、何百人という人が職を失ったけど、それほどの代償を払わなければならないほどの問題なの?」と言って欲しいが、なかなか難しいだろうなあ。でも、いつか、誰かが言わなければならないと思う。「グルメブーム」の批判と共に。
 食品だけじゃない。清水建設だったか、ともかく超大手ゼネコンの手になる高層マンションが、鉄筋の数が22本あるべき設計が、20本しかなかったため、工事を中断しているというニュースがあった。新聞ではあまり大きい扱いではなかったけれど、テレビでは一時大騒ぎで、専門家が電話で「信じられない話です!」と大袈裟に騒いでいたが、これもテレビ局の要請なのだろうと思った。なんでって、鉄筋の数が少なかったのは、あくまでも「設計図」に指定されていた数より少なかったので、20本しかないと建築基準法に違反する、とかそういう問題じゃない。あくまでも、設計予定より少なかった、というだけだ。
 ……って、断言してしまったが、その後、改めてニュースに取り上げられたりしていないところを見ると、私の想像で正しかったのだろう。

 それはともかく、こんなことになったのは、「資産価値」を高めるために、建設途中で中間審査をしたところ、ミスが発覚してしまったのだそうで、これぞ、まさしく「やぶ蛇」というやつだ。とはいえ、この「中間審査」は、建設会社が独自に行った審査のようだが、それとは別に、姉歯事件を受けて、今年6月から導入された改正建築基準法そのものがものすごく厳格な建築確認審査を義務づけているため、新規マンションの着工が滞り、着工数でぼ半減してしまったんだそうだ。そしてその結果――産経新聞に書いてあったのだが――7月~9月期の住宅投資額は前期比8%弱減少し、経済成長率全体を0.3%押し下げたそうだ。このまま一年続くと、1%、成長率が下がることになる。特に地方の建設業者に対する影響が大きいらしいが、ただでさえ問題な地方経済が、ますます悪化することになるので、冬柴大臣は、記者会見で「反省している」と述べ、担当役人も責任を認めたのだそうだ。役人が「反省」するなんて、めったにない。

 しかし、この結果は、充分予想できたことだ。何度も言っているが、報道の結果、資産価値が大幅に減少することがわかっているのだから、それをなるべく少なくするような報道が公器たるマスコミには求められるのではないだろうか。「危ない危ない」と煽るだけでなく。

 書こうとするとどうしてもマスコミ批判ばかりになってしまうのだが、誰か、小沢一郎に「あなたの国連中心主義と日米同盟をはどういう関係になりますか? 国連中心主義が採用されたら日米同盟は破棄されるのですか?」と聞いてみてくれ。今は、右も左も「国連中心主義=反日米同盟」という図式で論じられているが、小沢の本音はわからない。小沢の真意はどこにあるか? ここが本当に「肝心」なところなんだから。

糞!

2007-11-08 19:42:14 | Weblog
 今回の、小沢辞任、復帰劇についての、私の意見は、2chで見た、下の文章につきる。

 「これでは選挙に勝てない」と判ったら、何をするか。そら、連立を考えるだろうよ。
 何のために連立を組むかと言うと、自分と自分の支持者が考える政策を法律として形にするため。『政権交代』なんてのは形式論でしかなく、政治の目的は「考えを形にして実行すること」。政策を法律にすることより、現政権を倒すことだけを目的とするなら、それは革命ごっこの遊びと変わりはない。

 今日の(朝日新聞)2面に編集委員星浩氏が書いていた言葉『多くの有権者は「自民党的なるもの」に代わる「民主党的なるもの」に期待したはずだ』が、期せずして本質を突いていると思う。
 イメージでしかないのだ。政策も、法律も、行政も、何もない。単なるイメージによって考え、そのイメージを自ら増幅させ、さらに新たなイメージを描く。それをマスターベーションと言わずして何と言う。

 参院選からこっち、現在の衆参両院の状態を「ねじれ」と呼び異常な事態であるかのように喧伝 するマスメディアに不信感があった。この程度の状況など、実際にはたいしたことではないと常々思っていた。一方の意思だけで政策が通らないなら、互いに協議し、妥協し、取引し、少しでも多くの「自分の考え」を政策にねじ込む、議席数に見合った分程度のわがままを通す、それが通常の国会論戦であり、世界中どこの議会でも見られる普通の状況であろうと、今でも考えている。

 連立を組まなければ政治が運営できないと考える与党もひ弱に感じるが。相手の政策を全否定し、全てを自らの思い通りにするために全てを蹴散らす、そんな行動しか出来ない野党連合や、協議や妥協や取引を「密室政治」等と悪印象で語るマスメディアの存在は、それこそが確かに「政治の劣化」であると感じさせる。


 「産經新聞」で、評論家の屋山太郎と桜井よし子が、今回の「大連立」を「大談合」であり、福田首相は、小沢の持論(国連による安全保障)を議会の論戦で論破すべきだ、と書いていたが、上の2ch論文(?)を熟読玩味せよと言いたい。「議論」は、真実に向かって深化させるべきもので、「勝ち負け」を決めるものではないということがなんで彼ら、彼女らはわからないのか。
 また、国際政治の専門家、田久保忠衛も、今回の連立騒動で福田首相が小沢の国連中心主義に方針転換してもよいと述べたと伝えられる件に関して、日米同盟を危うくするとんでもない「方針転換」で云々と、非常な危機感をもった小論文を同じく産經新聞に寄せていた。
 気持ちはわかるが、しかし、小沢の言う「国連中心主義」と「日米同盟(安保条約)」は並立し得ぬものかどうか。まず、それを検討するべきだろう。要するに、「国連中心主義」とは、「国連とアメリカが対決してしまったら、必ず国連を選択すること」なのかどうなのか、肝心要はそこなんだが、アホ記者はともかく、学者の田久保ですら、そこに触れていない事実。糞。
(まさか、いくらなんでも、民主党が政権を取ったら安保条約は廃棄するという意味ではないだろうが…)

 それはそうと、鳩山が、今後の大連立の可能性を聞かれて、「総選挙までは絶対にない」と答えたそうな。
 ふーん、「総選挙まで」ねえ…てことは、総選挙で「ねじれ」が解消されなかったら、「連立」の再浮上の可能性があるというわけだね。
 いろいろ調べると、今回の「連立構想」を、民主党の幹部、少なくとも鳩山、管あたりは知っていたらしいとの報道があるようだが、それを裏付けるような鳩山発言だ。管も、騒動中、なんとなく煮え切らない顔をしていたし、一般党員たちの、「感情むき出し」の反発に、幹部全員が関わっていることがバレたら、連立の善悪を説く以前にどうにもこうにも収拾がつかなくなるので、やむを得ず、小沢一人に泥をかぶってもらったということなのかもしれない。

小沢一郎・母親説

2007-11-04 22:37:45 | Weblog
 驚いた。小沢が辞任。

 私は、年金政策では、これまで何度も書いてきたように、基礎的年金を全額税でまかなう民主党案に賛成だし、農業問題も、あまりよくはわからないのだが、自民党の農協とか地元土木業者等を通じて行う「補助政策」より、直接お金を農家に渡す民主党案のほうがいいのじゃないかと思っていた。
 ただ問題は「外交・安全保障」問題で、小沢は、世間の安直な「反米主義」にのっかってしまったのではないかと危惧していた。国連の議決があれば、派遣自衛隊による直接的軍事行動も可、という発言も、たしかに小沢の持論ではあるが、民主党内の元社会党連中には、「いや、言うのはただだからさー」とか、「実際の場面では、あんた方の意見を尊重するよ」とか言って納めているのではないかと疑っていた。あるいは、インド洋の給油活動の中止についても、あまり切羽詰まったような雰囲気が、自民、民主両党から感じられなかったので、アメリカを含む「国際社会」の了承を得ているのかな~とも思うようになったのだが、期限切れを間近にして、福田とのトップ会談が急にもたれたりして、あれよあれよという間に、「大連立」構想が話し合われ、それを民主党幹部らに拒否られて、辞任ということになった。

 ところで、「小沢辞任」が報じられる直前のジャンジャンというウェブニュースに、「大連立拒否で正解の小沢さん」というタイトルの評論記事が載っていた。曰く、「小沢さんの歴史から与えられた任務はただ一つ。自民党を次期衆院選でも「KO」し、民主党を中心とする野党連合政権を成立させる。それにより、参院選のマニフェストの方向の政治を他野党(そのときは連立与党か?)とも補い合いながら実現し、国民生活を守る。それしかありません。」

 これを書いたジャンジャンの記者氏は今頃「涙目」なんじゃないかと思うが、民主党内の「空気」もこんなものではなかったかと想像する。ともかく、「悪いのは自民党」。もちろん、自民党がそんなに立派な政策をもっているとは、私だって思っていないが、自民党が悪の権化で、それを倒すことがすべてに優先するのだったら、「小沢さん」なんかに頼らず、自力でやれよ、と言いたい。なんてったって、小沢一郎は、誰ひとり知らぬもののいない、歴とした元自民党の大幹部、もっとも自民党的と言われた政治家じゃないか。その「小沢さん」に、「お願い、自民党やっつけて」って……「恥」を知らないのか!

 いや、実際、知らないらしい。なにしろ、民主党幹部は、急遽「小沢対策委員会」とやらを作り、週明けから「慰留」に全力をあげるらしいのだ。(「大連立」を受け入れれば、小沢さん、きっと慰留に応じるよ。くすくす。)
 いずれにせよ、「大連立」拒否で「正解」というのなら、今の戦術(議会審議拒否)を続ければ、次の衆院選挙では必ず勝てる」と民主党員の多くは信じているということか? 正直言って、このことは、今回の「政変」ではじめて知った。びっくりだ。なんて脳天気なんだ! 自民党が困れば困るほど、国民は喝采→民主党ウマ-ってことらしい。

 そもそも、「世論は《大連立反対》で決まり」というなら、その世論が支持しない「大連立」を主張する小沢を党首に仰ぐ必要はさらさらないではないか。
 
 このように、まさに正気を失い、右往左往する民主党員を見ていて、頭に浮かんだのは『ドグラ・マグラ』だっけかの、「胎児よ胎児よ、何故泣く。母親の気持ちがわかって恐ろしいのか」という無気味な一節。もちろん「胎児」は民主党員、母親は小沢一郎。

 珍しく読売新聞を買う。もちろん、一面の「大連立は小沢が持ちかけた」という見出しに引かれたのだが、小沢は記者会見で激怒していた。実際のところは、両者、「阿吽」の呼吸で、ということなんだろうが、それはそれとして、面白いコラム記事があった。

 それは、古い話になるが、1956年(昭和31年)の経済白書に記された、「もはや戦後ではない」という有名なセリフについてで、従来、終戦直後以来の混乱した経済を脱し、「高度成長」に向けて力強い離陸をはじめた、とする「自信に満ちた日本経済復活宣言」を見られていたが、実は、この白書を書いた後藤誉之介という官僚は全然逆のことを考えていたというのだ。つまり、後藤氏が言いたかったことは、「もはや」とは、「これまでは朝鮮戦争の特需などでつないできたが、それももはや終わってしまった」、という意味の「もはや」で、これからはよほど気を締めてかからないと大変だぞ、という警告の意味だったというのだ。
 「へー」とびっくりしたが、さらに驚いたことに、白書の著者、後藤氏は、自分の予想とはまったく逆になったことを経済分析家として恥じ、かつ悩み、数年後、自殺してしまったんだそうだ。誉之介の「誉」は伊達じゃない、ってか、ジャンジャン……って茶化したくなったが、マジな話、日本の高級官僚(キャリア)の強烈な自負心に改めて驚く。「天下り」も、この「自負心」に応えるための制度だということをよーっく認識する必要があるのだ。(自民党はそれを知っていて、だから手がつけられないのだろう、きっと)