パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

大晦日雑感

2006-12-31 21:50:42 | Weblog
 大晦日。珈琲館でパン、茹で卵、食べ放題のモーニング。
 大晦日で、早々と休みのお店が多いせいか、店内満員で、いつもは全国紙、スポーツ紙合わせて15、6種類の新聞が用意されているのだが、ほとんどお客さんが自分の席にもっていってしまって、二、三紙しかない。
 そこで、たいして見たくもないスポーツ紙を一つゲットして読んでいると、やがてラックには一つもなくなってしまった。しょうがないなーと思いながら、スポーツ紙に視線を戻して、再度読みはじめると、一人のお客さんがレジに向かい、ついでに新聞紙をラックの所定の位置に戻した。しかし、それもスポーツ紙らしかったのでそのまま見過ごしていると、私の隣に座っていた60過ぎの爺さんがパッと立ち上がり、それをとって自分の席に戻った。見ると自分の席にはすでに新聞がひろげてある。では、その新聞を戻すかなと思ったら、この爺いは、新しい新聞を脇に挟んだまま、すでに置いてある新聞を読みはじめた。ラックに一つでも残っているのなら、この勝手な振る舞いもまあまあ許してやってもよいが、一つもないのだ。

 なんだ、このエゴイスト爺いは! こんなやつは、家に帰って息子とチャンネル争いをして刺し殺されてしまえばいいのだ、と心底、嫌になった。こういうやつに限って、今時の若い者はモラルがなってない、とか言うのだろう。(何故って、状況が見えていないからだ。)

 一昨日だが、クリント・イーストウッド主演兼監督の『センチメンタル・アドベンチャー』を見た。例によって、後半からしか見ていないのだが、カウボーイハットをかぶった中年男がギターをひきながら、ぼそぼそとカントリーを歌っている。クリント・イーストウッドによく似ているなと思ったが、彼が歌を歌う映画なんて知らなかったので、クリント・イーストウッドに似ている誰かだろうと思っていたが、話す声もクリント・イーストウッドによく似ている。
 半信半疑で見ていると、男は突然咳き込みだし、歌うのをやめてしまった。

 男は、幼い甥と二人で旅をしながら、オーディションを受けるために、やってきたのだが、結核にかかっていて、今回のオーディションが最後のチャンスだったのだ。
 安宿に戻って失意に沈んでいるところに、レコード会社の男が契約したいと言ってくる。もちろん、わずかの金でしかない。脇で聞いていた甥が、医者が無理だと言っていたではないかと制するが、男は死を覚悟で、それを受ける。
 レコーディング当日、男は20曲ほど歌い続けたが、最後に血を吐いてしまい、バックボーカルでハーモニーをつけていた一人が男の後を継いでレコーディングを終える。
 男は、その日、甥とかつての恋人(らしいが、最初から見てないのでよくわからない)に看取られて、安宿のベッドの上で死ぬ。

 という映画なのだが、最後のエンディングロールで、主演・監督がクリント・イーストウッドであることがわかった。

 しかし、見終わってから、タイトルがわからなくなってしまった。(『センチメンタルアドベンチャー』なんて阿呆なタイトル、誰が覚えられるかっての。)
 そこで、あちこち、「クリント・イーストウッド」をキーワードに探して、それが『センチメンタル……』であることが分かったのだが、これに言及していたとあるブログに、「これを中途半端なメルヘンと見るか、それとも悲劇と見るかで変わってくると思うが」と書いて、星一つ提供していた。
 バカヤロー、星一つはないだろう、と突っ込みつつ、でも、「メルヘン」という言葉は当たっていると思った。メルヘン、必ずしもハッピーエンドにあらず、というか、そうでない方が多いかもしれない。アンデルセンの『鈴の兵隊』なんか、涙なしでは読むことのできぬ、メルヘンだ。

 「鈴の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれどもそれがほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸に燃えている愛のためなのか、よくわかりませんでした……」

 こうして、暖炉の火の中でハート形の錫の塊になってしまう錫の兵隊さんは、たしかにアンデルセンの異常な程に肥大したナルシシズムの象徴かもしれないし、溶けた錫の塊がハート形だったりするところなんか、甘っちょろ過ぎるかもしれない。あるいは、ディケンズの『クリスマスキャロル』にしても、守銭奴のスクルージが最後に隣人愛にあっさり目覚めてしまうところなんか、読んでいて拍子抜けするくらいである。
 かく考えてくると、空っぽのラックには知らんぷりで、自分の手許に新聞紙を二つも三つも抱え込む爺いの「醜さ」が「公徳心」の原点にあるべきものはなんであるか、なんとなく見えてくるような気がする。
 それは、「美」である。「美」に対する観念が、「公徳心」の根っこにあるべきであること、それが大事なのだ。珈琲館の爺いが醜いのは、爺いの一生において、「美」に、遂に出会うことがなかったからである。「醜い」というのは、文字通りの意味なのだ。スクルージが最後に「愛」に目覚めたのは、彼の心が、かつて「美」を知っていたからだ。

 なんか、いきなり「美」が出てきてしまって自分でも戸惑っているが、大晦日ならではかも。以上大晦日雑感。

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