パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

単純明解だけを追うな

2006-12-21 18:06:21 | Weblog
 前東大総長、一時期、テレビなどによく出ていた佐々木毅氏が、朝日の就職新聞とやらで、「分からないことの深さ、単純明解だけを追うな」と題して、こんなことを言っている。

 さまざまな事件が起き、若い人からは虚しいといった言葉が聞こえてくる。すでに人生半ばを過ぎた大人も、満たされない焦りに似た表情をしています。……

 それは、目に見えるもの、分かりやすいもの、理解しやすいものを余りにも判断の中心に据えてしまったからではないか。人付き合いからメディアの情報、仕事の業績までうまく伝わるものは分かりやすいのです。だから全体の中の分かりにくい部分は放りおかれて、話の単純な最大公約数が伝わる悪循環が起きてくる。世界各地で発生している問題は複雑ですが、島国に住む日本人にはそれを肌で感じることも難しい。勢い、言葉や映像、数字、流行などの単純に加工された情報が入ってくるだけになり、そしてそれに条件反射しているのです。とくにお金に換算できる話は非常に通りが良く、伝播力が強い。世の中はそれだけでも動いていくような錯覚が起きてしまっています。

 分かりやすいこと、単純なこと、そして答えがスッキリ見えることは確かに心地良い。しかしその物差しで生きていくと、考えるという精神的な掘り下げが出来なくなります。

 ……うまく言えないけれど気になること、今ここで形に出来ないけれど志していること、そういう個人の思いを自分だけで考えぬく習慣が、現代の日本人には必要だと思います。組織の中でその考え方が異端であるかもしれない。まったく認知されないかもしれない。しかしそれは、別の角度で何かが見えていることでもある。分からないこと、消化できないことの中に潜む深さを放り出さないで欲しい。



 これは、『厨房日記』で横光利一が扱わんとしたことじゃないか。「分かりやすく、単純な」、言い替えれば、実感に基づいた判断でやっていけるような社会ではもはやないということは、今に始まったことではないが、ますます重要になりつつあるのだ。

 本棚整理していて、テリー伊藤の『お笑い大蔵省』が出てきた。これは、なかなかの名著で「捏造インタビュー」などではないと思うのだが、その証拠に、大蔵官僚自身が、こう言っている。「バブル崩壊がこんなことだとは想像できなかった」、「我々は分析は得意だが、予測はできない」等々。これは、明らかに彼らの本音だろう。そして、「予測ができない」ということは、佐々木氏の言う、「分からないこと」に、本来、法律家である彼らは対処できないのだ。そして、それを自覚しているということは、流石だなとも思うが、しかし、「自分達には限界があり、その枠内でやっているのだから、それを変えたければ、あなたたち(国民)が、選挙権を行使して族議員を落選させろ」は、あまりと言えばあまりの言い草である。

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