パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

私だけが、知っている

2012-03-21 21:52:57 | Weblog
 前回の書き込みに、瓦礫処理は広域処理より、現地処理が原則だろうという書き込みがあった。

 たぶん、そうなんだろうとは思うが、それはそれとして、その前に、自分たちで協力できることは協力するということを「前提」として確認することの大切さを言ったつもり。

 そういうことを、指導者は雄弁に語らねばならないのだが、野田は「演説がうまい」んだそうだが、肝心要をまったく語っていない。

 原発の再稼働問題だって、もはや新規建設は不可能なんだから、「革命的な新技術が現れない限り、新規建設は行わない」と明言し、その上で「でも今すぐ原発を廃止するわけにはいかないので、再稼働は原則オーケーとし、太陽発電等の自然エネルギーの現実化をもってそれに代える」と言えばいいではないかと思うのだが、野田の言葉からは「再稼働を認めないと、日本経済は沈没する」みたいなイメージしか伝わってこない。

 野田を「バカ」と言うのは、「原発是か非か」みたいなオール・オア・ナッシングな問題設定をしてしまうから「バカ」と言うのだ。

 もちろん「オール・オア・ナッシング」は、それで押せば国民はついてくると思っている官僚が後ろで操っている。

 さっきニュースでやっていたが、「帰宅難民」が発生した場合、家で取り残されることになる子供のための避難訓練をやっていた。

 繰り返すが、地震当日、首都圏では線路がぐにゃぐにゃになったり、車両が転覆したりしたことはいっさいなかった。

 だとしたら、JRが終日運休になったことは、果たして適当だったのか、深夜になってからででもいいから、その日のうちに運転を再開することはできなかったのか、そのことをマスコミはまず検証すべきだろう。

 もうたっぷり20年近く前、四谷三丁目に事務所があった頃、付近一帯が「地上げ」の対象になり、テレビ東京だったと思うが、その様子をビジネスニュースで放送したが、「いったいどこの街の話?」と見ていて思った。

 番組担当者がつくったストーリーしか見えないのだ。

 もちろん、私は直接地上げの対象になったわけではないので、そこでどういうことが行われていたのか「実際には知らない」――という意味では、番組をつくったテレビ東京のニュースディレクター氏と五十歩百歩なのだが、ニュースの映像に「私は地上げの本当のところは知らない」という意識を見いだすことはできなかった。

 もちろん、テレビ東京のことだけではない。

 どこもかしこも「オレだけが知っている」という意識で番組をつくっている。

 わざわざ、文字を隠し、それを話の展開でおもむろに剥がす、あのバカバカしい演出方法も、「オレだけが、知っている」という態度が裏にある。

 今回の大震災に関するマスコミ報道は、それに輪をかけて、自分勝手に作り上げた「お話」を放送している。

 そんな「お話」に、真実は1%もないことは、はっきりわかっている。

 もちろん、私だって、東北でいったい何が起きたのか、何も知らない。

 でも、ソクラテスじゃないが、私は「知らないことを知っている」。

 それにしても、なんでみんな、ああ働きたいのか。

 今日も今日とて、春の選抜の初日とかで、「生きる勇気をもらいました」とか「元気になってもらいたい」とか、無能社会部記者の腕の見せ所の映像音声ばかりで、まああれで本当に「勇気をもらって」、明日からまた頑張って働くぞという人がいるのなら…がんばってください。

 しかし労働者というのは、つまるところ、奴隷なのであって、だからこそ団結してその権利を主張するのだ。

 大阪の市バスの運転手が平均年収800万円以上あることを橋下がバラしたが、バスの運転手が高給をもらってなんでいけないのか?

 それは、バスの運転手は、本来、奴隷であるからだ。

 言い換えれば、「貧乏は正しい」というテーゼを裏切ることになるからだ。

 テレビ取材に、市バスの運転手は顔を伏せて、こう言っていた。

 「住宅ローンがあるし…」

 どんな住宅に住んでいるんだ!

 もっと貧しい市営住宅に住んでいれば、こんな「貧しい精神」の持ち主にはならなかったはずだ。

 といっても、その市営住宅というのが「年収800万」にあわせて、すっかり豪華になってしまった。

「みんながより豊かな暮らしを営めるように…」

 こうして「公営住宅」はバブルを機に「中流以上向け」になり(私の知り合いはそれで横浜の市営住宅を追い出され、ホームレスになってしまった)、それがバブルで失敗、撤退した結果、貧困者向け住宅は民間アパートだけになってしまった。

 私は今、そういう民間アパートの一つに住んでいるわけだが、その私の住んでいる環境が私のアイデンティティの確立に全く寄与していないのは、「市営住宅」等にはあるであろう「公的関与」がまったくないからだと思う。

 もちろんそれがあったとしても、近隣の住人と親しく話をするなんてことはないと思うけれど、でも「心のありよう」は外からはわからない。

 貧しい人はどうしても連帯しないと生きていけないし、そのことを「低所得者向け住宅」における集団的生活は、気づかせてくれる。

 もしかしたら、官僚はそれを警戒して「低所得者向け住宅政策」をネグったのかもしれない。

 たかが東大卒がそこまで頭が回るとは思わないが、いずれにせよ「瓦礫処理」の問題も、広く、この「心のありよう」のことを言ったのだ……と話が戻ったところで。

ポストモダンと明仁天皇

2012-03-16 22:17:40 | Weblog
 前回の書き込みに、「近代の天子様(江戸時代以前の)は、それ以前の天子様はちがうので云々」というコメントの書き込みがあったけれど、近代の天皇、つまり、明治天皇以後の昭和天皇までの三代の天子様に対し、現在の天皇は、まったくちがっている、つまり明仁天皇は、「近代の天子様」ではない、というのが私の、というか関曠野氏の説の前提となっているので、ちょっと説明しておきます。

 昭和天皇は戦後すぐに「人間宣言」をしたけれど、意識はやはり、明治憲法に由来する祖父の明治天皇ゆずりの「近代の天皇」だった。

 対して、明仁天皇は、即位のときに、「国民のみなさんとともに憲法を守り……」と、現行憲法下の「象徴天皇」であることを自ら確認した。

 現行憲法における「象徴天皇」は、意味が必ずしもはっきりしていなかったが、明仁天皇において、その方向が明示され、以後、皇后陛下と二人でその「実践」にあたってきたが、3.11後に放送された「日本国民みなが、被災者を思いやり……」というビデオメッセージは、以前の形式的象徴から、実質的象徴にまで自ら肉づけした「国民の象徴」としての天皇の位置からの発言であった。

 と関氏は言っているのだけれど、私も、明仁天皇の即位時の言葉は覚えているし、その内容が一時、話題になったことも覚えているが、あまり重要には思っていなかった。

 私が、明仁ファンになったのは、皇太后を宮内庁病院に見舞いに行った帰り、様態が急変したことを聞いて、小雨の中を小走りに走って病院に帰った、その様子が写真に撮られていて、その写真を見て以来、信用に足る人だ、と思うようになったのだ。

 その写真は、ブレッソンの「水たまりを飛び越える人」のような感じで、傘をさしたまま、水たまりをジャンプして越えた瞬間を撮ったもので、ブレッソンの写真より事態ははるかに深刻で(ブレッソンの写真で水たまりを飛び越えているおじさんが、どんな理由で空中に飛んだのかわからないが、「肉親の危険」という事態は到底想像できない)伝わってくる雰囲気も、夜中近かったということもあるだろうが、緊張感に満ち、なおかつ、真摯さにあふれていた。

 もちろん、普通の人間だったら、母親を見舞いに行って、いったん無事と思って帰ろうとした直後に、一転、「危ない」と言われたら、どうしたって「真摯」にならざるを得ないけれど、それを越えていた、というか、逆に「天皇陛下も普通の人の子なんだな」と思ったのだった。

 それでまあ、ファンになったのだが、中国の温家宝首相も同じように、ある一枚の写真を見て、「ファン」になった。

 それは、四川省の大地震の時、現地に赴いた首相が、誰の靴だかわからないが、子供のズック靴を両手に持ち、呆然としているところだった。

 私は、中国の「権力者」というものに「偏見」があって、人民のことなんかまさに「草」としか考えない伝統があるのだと思っていたのだけれど、温首相に関する限り、ちょっと違うのではないかと思うようになったのだ。

 その温首相、もうじき退任だそうで、その最後の記者会見があって、そこで、「今のままだと中国は、かつての文化革命時の悲劇を繰り返すことになるかもしれない」と警告して、記者席は、一瞬「静まり返った」そうだ。

 温首相、何を言いたかったのか。

 それはさて、私はいったい何を言いたかったのかというと、要するに、大事なのは「人間性」っつうことやね。

 明仁天皇は、自分が天皇であるという以前に、人間であることを明確に宣言することで、進駐軍が一夜漬けでつくった憲法に「肉づけ」し「内容を与えた」た、というのが関曠野の説だ。(それでも私は、憲法改正そのものはしなければならないと思っているけれど。)

 その関曠野が京都への再遷都を言うのは、「真の象徴天皇」には、政治の中心である東京より、文化の中心であった京都がふさわしいという理由による。

 ネオ神道の金井某なども、日本近代の誤りは、薩長勢力が天皇を東京に拉致したことに根本原因があるので、天皇は京都に戻るべしと言っている。

 ネオ神道そのものは、「ファンタジー」にすぎないが(でも、結構よくできたファンタジーではある)薩長が天皇を拉致したという政治のリアリズムは関曠野と同じである。

 まあ、そんなわけで天皇陛下が、3.11記念日に、再度「国民皆が被災地の苦難を分かち合い」と明言したせいかどうかわからないが、静岡県の島田市市長が瓦礫受け入れを正式表明したそうで。

 日本国民ならば、まず、受け入れる事に同意するのが前提で、それから、「いや、うちの町はこれこれの理由があるから」と言えばいい。

 そうすれば、少なくとも、他府県の住民から文句が出るというバカげた構図はなくなる。

 反対派は「政府への不信」がその理由だそうで、中をとりもつ「マスコミ新聞」も「不信はごもっとも」と媚を売るが、ここはたとえ野田のバカが相手でも、とりあえず「信用する」が前提だろう。

 野田のバカについて書くつもりだったのだが、今回は「野田のバカ」と言っただけでおしまいとする。(「野田のバカ」だけは言いたかったんだ、と、これで四回言ってやった!)

3.11に思うこと

2012-03-09 23:08:44 | Weblog
 明日は3月11日。(「今日になってしまった」)

 記念番組だらけだろうと思うと、今からうんざりする。

 さっきも、NHKで、「被災地から離れたところに住んでいる人が被災者を励ますためにしてあげられること」というテーマで、ひげ面の私と同年輩の親父(どこかの教授あたりだろう)が、いろいろ語っていたが、きれいごとばっかり!

 「被災地の瓦礫を受け入れること」の一言が言えなくてどうする!

 と言うと「放射能の恐怖を考えると、拒否する人の気持ちもわかる」てな言い訳を言うに違いないが、震災後間もなく、天皇陛下じかじかの要請により放送されたビデオメッセージで陛下がなんと仰られたか。

 「……また国民の一人一人が被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心から願っています。」

 これが何を意味するか?

 遠隔地の住民が「瓦礫を受け入れること」に他ならない。

 日本の知識人たる者、「国民皆が被災者の苦労をわかちあうことを天皇陛下も望んでいる」と言えばいいのだ。

 そんなことを言うと「天皇の政治利用だ」とかなんだとか言う奴が出てくるだろうが 天皇は「国民の統合のシンボル」と憲法で位置づけられているのだから、何も遠慮することはないのだ。

 「沈黙と判断保留(エポケー)が、明証を欠いた事柄に関してのもっともすぐれた捧げもの」

 と、はるか古代の昔にアレクサンドリアのピロンが言っているように「瓦礫問題」の四文字は出さずとも、誰もが「ああ、瓦礫処理のことだな」とわかるし、わかるように語るのが、知識人の役目だろう。

 ともかく3月11日を前に言いたいことは、「頑張ろう」って言っている間は駄目ということ。

 何故なら「頑張ろう」というセリフは、そう言わなければならない理由があって言っているわけだから。

 「頑張ろう」と言わなくなってはじめて明日が見えてくる。

 じゃあ、なんで「明日」が見えないかというと、やっぱり原発が大きいと思う。

 津波だけだったら、3万死のうが、10万死のうが、「助かった人はラッキー」で、その幸運を噛み締めて、明日への希望を胸に「頑張る」ことができるが、原発は、死者は一人もいないが、生きている人全員、不安に苛まれながら生きなければならない。

 そんなんで、どう「頑張る」というのか。

 フジテレビで、福島の原発近辺で自衛隊員が、津波の犠牲者の遺体捜索をしている映像が流れていたが、遺体を見つけたからといって死んだ人が生き返るわけではない。

 犠牲者(死者)が出てはじめて「見直し」がはじまるというのが、これまでのパターンだが、遺体捜索で死者が出る前に「遺体」に対する過剰の執着を考え直した方がいいのではないか。

 「リスクマネジメント」とやらがしきりに喧伝されているが、リスクに対処するには、まず「死んだ人は生き返らない」と割り切ることが必要だろう。

 ニュースでも「遺体捜索」ではなく「死体捜索」と言えばいいのだ。

 臓器移植なんかも、臓器移植自体の是非は別として「遺体」という「言葉」が壁になっていると言ってもいいくらいだ。

 もっとも実際に「壁」になっているのは、生と死の判断が極めて早い段階で求められることに対する違和感、戸惑いだろう。

 なにしろ、体温がまだ暖かい段階で、内臓が取り出されるのだから。

 しかし、世界ではそれが普通になっている。

 というと、我々日本人は繊細にできているとか言いだす。

 だったら、臓器移植は禁止ということにすればいいのだが、実際にはそれもできず、結局、金の力にモノを言わせ、海外で移植手術を受けることになる。

 日本人はなんて勝手なエゴイストなんだろうと、現地の人は思うだろう。

 瓦礫受け入れを表明したものの、住民の反対で挫折した静岡の市長が、「日本人はエゴイストなんだよ」と吐き捨てるように言っていたが、今上陛下が「国民の一人一人が……被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていく」ことを願われたのも、日本人がエゴイストであることを念頭に置いてのご発言であらせられたのか。

 そこまでは思いたくないが、でも、「願う」というのは、現実がそうでないから「願う」わけで……。

 天皇の「ビデオメッセージ」発言は、先端的なベーシックインカム論者で知られる評論家、関曠野の「フクシマ以後」に収められた書き下ろし原稿を参照した。

 彼の皇室論は相当面白い。

 私は、京都には何度か行ったことがあるが、毎回、「本来あるはずの何かが欠けている」と思う。

 「あるはずの何か」、それは「天皇」である。

 「天皇は無理でも、せめて、国民にアイドル的人気のある火星ちゃんこと今上陛下の弟宮、常陸宮殿下の京都在住で対処すべく、政府に請願したらどうか」と、帰京(これも、本来は「京都に帰る」という意味なんだよなあ)直後、おせっかいにも市役所の目安箱にメールしたことがあるのだが、関曠野の皇室論もそれに近いことを言っている。

 関曠野と橋本治が、今のところ、私の先生である。


抜いた?

2012-03-07 23:05:15 | Weblog
 更新をさぼってしまったが、言い訳は後にすることにして、変な夢を見た。

 前日、寝坊して遅刻してしまったので、今日は早めに寝ようと思ったのだが、「風に吹かれて」のテキスト版がここのところ、ちょっと壁に当たっていて、悪戦苦闘。

 その「悪戦苦闘」の息抜きに(これがいけないのだなあ)、テレビをつけたら「クールランニング」をやっていた。

 カルガリだったかの冬季オリンピックで人気者になったジャマイカのボブスレーチームを扱ったコメディだが、主役は実は、チームのコーチで、これがなかなかの「口達者」で、実績がないということで排除しようとしたオリンピックのボスたちに賭け合う「理屈」がなかなかのレトリックで、オリンピックのお偉いさんたちもついにゴーサインを出さざるを得なくなる。

 見ながら、「なるほど」と思ったのだったが、こうやって頭を使うと、寝れなくなるのだなあと心配しながら、布団に潜り込んだのは、もう4時近く。

 そのときには、「頭を空っぽ」にしなければならないのだが、「クールランニング」のコーチの言葉やら、前日の失敗やらなにやらで頭がぼーっとしたまま、気がつくと、外が少し明るい。

 時計を見ると、6時くらいで、2時間も寝ていないのだが、何故か、丸一日寝たような気分で、事務所に行き忘れたと思い込んでしまった。

 それで、会社のK君に電話をして、「昨日は、寝過ごしてしまって、起きてすぐに会社に行こうと思ったのだが、なんだか行きそびれてしまった。ごめんなさい」と誤る練習なんかをした。

 夢でそうしたのではない。

 起きているのだ。

 そのうち、何がどうなっているのか、だんだんわからなくなってきた。

 というか、自分のしようとしていることがわけのわからない、変なことであることが、だんだんわかってきた。

 何しろ、「遅刻」じゃなくて、「昨日、ついうっかりして、会社に行くのを忘れた」なんだから。

 よく見る夢に、無免許でバイクを乗るというのがある。

 これは、最近もまた見てしまったのだが、実際には、私はバイクなんか持っていないので、起きてから「あー夢だった」と安堵することができるのだが、今回は、それがはっきりしない。

 あれこれ考えているうち、「会社に行き忘れた」というのは、事実ではないだろうと思うようになった。

 ケータイのカレンダーで、今日が何日なのかを確かめればわかると思い、そうしようと思ったが、ケータイがどこにあるかわからない。

 まあ、探すのも面倒だし、「会社に行くのを忘れた」というのは、ちょっとあまりにもあり得ないことだから、きっと何かの勘違いなのだろうと考えているうちに、またうとうとしてしまい、気がついたら、朝の10時近くになっていて、このときには、「昨日、会社に行き忘れた」と思ったその「昨日」は現実ではなく、今日は昨日の翌日であることがはっきりしたのだった。

 というわけで、今回書いたのは、「夢」の話ではない。

 起きたら、自分を取り巻く状況がわからなくなり、一日抜かしてしまったように思ったという話だ。