前回の書き込みに、瓦礫処理は広域処理より、現地処理が原則だろうという書き込みがあった。
たぶん、そうなんだろうとは思うが、それはそれとして、その前に、自分たちで協力できることは協力するということを「前提」として確認することの大切さを言ったつもり。
そういうことを、指導者は雄弁に語らねばならないのだが、野田は「演説がうまい」んだそうだが、肝心要をまったく語っていない。
原発の再稼働問題だって、もはや新規建設は不可能なんだから、「革命的な新技術が現れない限り、新規建設は行わない」と明言し、その上で「でも今すぐ原発を廃止するわけにはいかないので、再稼働は原則オーケーとし、太陽発電等の自然エネルギーの現実化をもってそれに代える」と言えばいいではないかと思うのだが、野田の言葉からは「再稼働を認めないと、日本経済は沈没する」みたいなイメージしか伝わってこない。
野田を「バカ」と言うのは、「原発是か非か」みたいなオール・オア・ナッシングな問題設定をしてしまうから「バカ」と言うのだ。
もちろん「オール・オア・ナッシング」は、それで押せば国民はついてくると思っている官僚が後ろで操っている。
さっきニュースでやっていたが、「帰宅難民」が発生した場合、家で取り残されることになる子供のための避難訓練をやっていた。
繰り返すが、地震当日、首都圏では線路がぐにゃぐにゃになったり、車両が転覆したりしたことはいっさいなかった。
だとしたら、JRが終日運休になったことは、果たして適当だったのか、深夜になってからででもいいから、その日のうちに運転を再開することはできなかったのか、そのことをマスコミはまず検証すべきだろう。
もうたっぷり20年近く前、四谷三丁目に事務所があった頃、付近一帯が「地上げ」の対象になり、テレビ東京だったと思うが、その様子をビジネスニュースで放送したが、「いったいどこの街の話?」と見ていて思った。
番組担当者がつくったストーリーしか見えないのだ。
もちろん、私は直接地上げの対象になったわけではないので、そこでどういうことが行われていたのか「実際には知らない」――という意味では、番組をつくったテレビ東京のニュースディレクター氏と五十歩百歩なのだが、ニュースの映像に「私は地上げの本当のところは知らない」という意識を見いだすことはできなかった。
もちろん、テレビ東京のことだけではない。
どこもかしこも「オレだけが知っている」という意識で番組をつくっている。
わざわざ、文字を隠し、それを話の展開でおもむろに剥がす、あのバカバカしい演出方法も、「オレだけが、知っている」という態度が裏にある。
今回の大震災に関するマスコミ報道は、それに輪をかけて、自分勝手に作り上げた「お話」を放送している。
そんな「お話」に、真実は1%もないことは、はっきりわかっている。
もちろん、私だって、東北でいったい何が起きたのか、何も知らない。
でも、ソクラテスじゃないが、私は「知らないことを知っている」。
それにしても、なんでみんな、ああ働きたいのか。
今日も今日とて、春の選抜の初日とかで、「生きる勇気をもらいました」とか「元気になってもらいたい」とか、無能社会部記者の腕の見せ所の映像音声ばかりで、まああれで本当に「勇気をもらって」、明日からまた頑張って働くぞという人がいるのなら…がんばってください。
しかし労働者というのは、つまるところ、奴隷なのであって、だからこそ団結してその権利を主張するのだ。
大阪の市バスの運転手が平均年収800万円以上あることを橋下がバラしたが、バスの運転手が高給をもらってなんでいけないのか?
それは、バスの運転手は、本来、奴隷であるからだ。
言い換えれば、「貧乏は正しい」というテーゼを裏切ることになるからだ。
テレビ取材に、市バスの運転手は顔を伏せて、こう言っていた。
「住宅ローンがあるし…」
どんな住宅に住んでいるんだ!
もっと貧しい市営住宅に住んでいれば、こんな「貧しい精神」の持ち主にはならなかったはずだ。
といっても、その市営住宅というのが「年収800万」にあわせて、すっかり豪華になってしまった。
「みんながより豊かな暮らしを営めるように…」
こうして「公営住宅」はバブルを機に「中流以上向け」になり(私の知り合いはそれで横浜の市営住宅を追い出され、ホームレスになってしまった)、それがバブルで失敗、撤退した結果、貧困者向け住宅は民間アパートだけになってしまった。
私は今、そういう民間アパートの一つに住んでいるわけだが、その私の住んでいる環境が私のアイデンティティの確立に全く寄与していないのは、「市営住宅」等にはあるであろう「公的関与」がまったくないからだと思う。
もちろんそれがあったとしても、近隣の住人と親しく話をするなんてことはないと思うけれど、でも「心のありよう」は外からはわからない。
貧しい人はどうしても連帯しないと生きていけないし、そのことを「低所得者向け住宅」における集団的生活は、気づかせてくれる。
もしかしたら、官僚はそれを警戒して「低所得者向け住宅政策」をネグったのかもしれない。
たかが東大卒がそこまで頭が回るとは思わないが、いずれにせよ「瓦礫処理」の問題も、広く、この「心のありよう」のことを言ったのだ……と話が戻ったところで。
たぶん、そうなんだろうとは思うが、それはそれとして、その前に、自分たちで協力できることは協力するということを「前提」として確認することの大切さを言ったつもり。
そういうことを、指導者は雄弁に語らねばならないのだが、野田は「演説がうまい」んだそうだが、肝心要をまったく語っていない。
原発の再稼働問題だって、もはや新規建設は不可能なんだから、「革命的な新技術が現れない限り、新規建設は行わない」と明言し、その上で「でも今すぐ原発を廃止するわけにはいかないので、再稼働は原則オーケーとし、太陽発電等の自然エネルギーの現実化をもってそれに代える」と言えばいいではないかと思うのだが、野田の言葉からは「再稼働を認めないと、日本経済は沈没する」みたいなイメージしか伝わってこない。
野田を「バカ」と言うのは、「原発是か非か」みたいなオール・オア・ナッシングな問題設定をしてしまうから「バカ」と言うのだ。
もちろん「オール・オア・ナッシング」は、それで押せば国民はついてくると思っている官僚が後ろで操っている。
さっきニュースでやっていたが、「帰宅難民」が発生した場合、家で取り残されることになる子供のための避難訓練をやっていた。
繰り返すが、地震当日、首都圏では線路がぐにゃぐにゃになったり、車両が転覆したりしたことはいっさいなかった。
だとしたら、JRが終日運休になったことは、果たして適当だったのか、深夜になってからででもいいから、その日のうちに運転を再開することはできなかったのか、そのことをマスコミはまず検証すべきだろう。
もうたっぷり20年近く前、四谷三丁目に事務所があった頃、付近一帯が「地上げ」の対象になり、テレビ東京だったと思うが、その様子をビジネスニュースで放送したが、「いったいどこの街の話?」と見ていて思った。
番組担当者がつくったストーリーしか見えないのだ。
もちろん、私は直接地上げの対象になったわけではないので、そこでどういうことが行われていたのか「実際には知らない」――という意味では、番組をつくったテレビ東京のニュースディレクター氏と五十歩百歩なのだが、ニュースの映像に「私は地上げの本当のところは知らない」という意識を見いだすことはできなかった。
もちろん、テレビ東京のことだけではない。
どこもかしこも「オレだけが知っている」という意識で番組をつくっている。
わざわざ、文字を隠し、それを話の展開でおもむろに剥がす、あのバカバカしい演出方法も、「オレだけが、知っている」という態度が裏にある。
今回の大震災に関するマスコミ報道は、それに輪をかけて、自分勝手に作り上げた「お話」を放送している。
そんな「お話」に、真実は1%もないことは、はっきりわかっている。
もちろん、私だって、東北でいったい何が起きたのか、何も知らない。
でも、ソクラテスじゃないが、私は「知らないことを知っている」。
それにしても、なんでみんな、ああ働きたいのか。
今日も今日とて、春の選抜の初日とかで、「生きる勇気をもらいました」とか「元気になってもらいたい」とか、無能社会部記者の腕の見せ所の映像音声ばかりで、まああれで本当に「勇気をもらって」、明日からまた頑張って働くぞという人がいるのなら…がんばってください。
しかし労働者というのは、つまるところ、奴隷なのであって、だからこそ団結してその権利を主張するのだ。
大阪の市バスの運転手が平均年収800万円以上あることを橋下がバラしたが、バスの運転手が高給をもらってなんでいけないのか?
それは、バスの運転手は、本来、奴隷であるからだ。
言い換えれば、「貧乏は正しい」というテーゼを裏切ることになるからだ。
テレビ取材に、市バスの運転手は顔を伏せて、こう言っていた。
「住宅ローンがあるし…」
どんな住宅に住んでいるんだ!
もっと貧しい市営住宅に住んでいれば、こんな「貧しい精神」の持ち主にはならなかったはずだ。
といっても、その市営住宅というのが「年収800万」にあわせて、すっかり豪華になってしまった。
「みんながより豊かな暮らしを営めるように…」
こうして「公営住宅」はバブルを機に「中流以上向け」になり(私の知り合いはそれで横浜の市営住宅を追い出され、ホームレスになってしまった)、それがバブルで失敗、撤退した結果、貧困者向け住宅は民間アパートだけになってしまった。
私は今、そういう民間アパートの一つに住んでいるわけだが、その私の住んでいる環境が私のアイデンティティの確立に全く寄与していないのは、「市営住宅」等にはあるであろう「公的関与」がまったくないからだと思う。
もちろんそれがあったとしても、近隣の住人と親しく話をするなんてことはないと思うけれど、でも「心のありよう」は外からはわからない。
貧しい人はどうしても連帯しないと生きていけないし、そのことを「低所得者向け住宅」における集団的生活は、気づかせてくれる。
もしかしたら、官僚はそれを警戒して「低所得者向け住宅政策」をネグったのかもしれない。
たかが東大卒がそこまで頭が回るとは思わないが、いずれにせよ「瓦礫処理」の問題も、広く、この「心のありよう」のことを言ったのだ……と話が戻ったところで。