パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

お知らせ

2011-11-30 12:31:59 | Weblog
千石空房という駄菓子屋を兼ねた集会所みたいな場所が、文京区の千石にあるのだけれど、そこのオーナーから、近日中に開催予定の「泥団子教室」の集客がピンチ!で、宣伝してくださいというので、宣伝することにしました。

「泥団子」って、千石空房で見たことがあるけれど、意外に「いい」です。

千石空房には他にも、奇妙な手作りグッズがありますが(私の「風に吹かれて」もあります。まだ一冊くらいはあるはず)、みな「言葉では説明しづらい」のが微妙なところ。

ちょっと書き込みがおろそかになっているので、つなぎに書きましたが、まあ、ともかくリンクしておいたので、見てください。

少数派として

2011-11-23 00:29:26 | Weblog
 大王製紙の会長、「背任容疑」で逮捕。

 テレビ解説の元検事が、「現実に会社に損失を与えていない段階でも、その可能性があると認められれば背任罪が成立する」と言っていたが、会長は株を売って返すと言っているという。

 報道で知る限り、返済額は残り40億円くらいだが、会長は、「私にとって一億円は、普通の人にとっての一万円くらい」と語っていたそうだから、それくらい、返せるだろう、というか、返すだろう。

 私の知り合いの金持ちを観察すると、まとまった金を使うときは自分の金ではなく、借りて使うのが普通のようだ。

 理由はよくわからないが、「自分の金」は、本当に「いざ」というときのためにとっておくのかもしれない。

 要するに、ギャンブルであれなんであれ、「楽しみ」は人の金で楽しみ、ひとしきり楽しんだ後、負けという結果が出たら、その分は自分で返す。

 それが今回は40億円だったわけだが、本人にしてみればもう少し取り返すつもりだったのかもしれない。

 それはともかく、そもそも無担保で金を貸したのは、貸した側がそれでよいと判断した結果であり、それで損失が出たとしたら、貸した側こそ「背任罪」を問われるべきではないのか。

 別に、会長を擁護しているわけではない。

 「借りやすいところから借りる」という行動は、それ自体、決してほめられたものではないし、醜いと言ってもいいけれど、たぶん、これまでそれほど実害はなかったのだと思う。

 「絶対服従の会社的風土があった」というが、もし多額の損失が出ていたら、絶対的支配者といえども反旗をひるがえすものは現れただろう。

 今までなんとなく、それでやれてきたので、やってきたし、今後もそれでやるつもりなのだろう。

 なんだか、アレみたいだ。

 福島原発。

 もし菅直人首相の政策・指導よろしきを得て、事故がうまく収束できていたとしたら、「なんとなくやってきた」体制が今後も維持されることになっただろう。

 そんなことがあってはならないがためにも、「背任罪」を負うべきものは誰なのか、純粋に、明瞭に、論理的に考えるべきだ。

 そうであってはじめて、今後、大王製紙がなすべきことも明らかになるはずだ。

 しかし、そんな視点はマスコミには皆無。

 「真面目に働いている大王製紙の従業員が可哀想です」(古館)。

 そんな話じゃないだろ、バカ!

 東海大学の菅野が日ハム入団を拒否、叔父さんが監督をつとめる巨人入団を見据えた「浪人」を宣言!

 うまくいって当たり前、うまくいかなかったら、あることないこと書き立てられるにちがいない。

 江川、元木のケースに比べ、菅野の場合は、監督が親戚だから、話がさらに複雑にこんがらからかりかねない(こんがらかってしまった)。

 そんな巨人より、「他人の関係」の日ハムに入った方が利巧だと思うがね~。

 しかし、そんな視点はマスコミには皆無。

 私のような意見が少数派だということはわかっているが、「皆無」というのは、ちょっと解せない。

 私の頭が変になったというなら、話が別だが、そうではない(はず)。

 たった一人でいい。

 私の言っている事をわかってくれる人が、必ずいるにちがいないと思って、私は書いているのだ(なんか、悲壮な話になっちゃったが)。

また、故郷論

2011-11-20 11:55:40 | Weblog
  テレビ朝日のサンデープロジェクト(というのだったかな? 以前、田原総一郎がやっていた番組だ)を見る。

 高速増殖炉の「もんじゅ」の管理費が一日4000万円だとか。

 長野アナが「わ、高い」と驚くと、もんじゅの管轄官庁である文科省の大臣が「普通の発電所でも一日3000万円くらいかかる。問題は4000万円の出費に見合う収入がないこと」とか言っていたが、もし万が一計画が順調に進んだとしても、「見合う収入」が入ることになるのは、今から半世紀近く後なことだ。

 財政赤字1000兆円とかで大騒ぎしているのに……と思うと、さにあらず。

 「もんじゅ」計画は、特別会計枠でなされているという。

 要するに、我々が払う電気料でまかなわれているので、「もんじゅ」がどんなに金を使っても国の財政負担にはならないのだ。

 電気だけではない。

 ガスも水道も高速道も(多分)JRも、そして医療も年金も、基本的に国の財政負担の限定的な「特別会計」で処理されている。

 EU危機は医療や年金が国に強いる財政負担が根本原因になっているのではないかと想像するが、日本は、本来国(政府)が負担すべきものを特別会計で処理しているので、1000兆円というとてつもない赤字にかかわらず、円の価値は安定……どころか上昇してしまっているのだ。

 政治が混乱していても国民生活が比較的安定しているのは、その混乱を「特別会計枠」で防いでいるからだ。

 と、高級官僚が主張する(はっきり言明してはいなくても、多分そう思っている)のも、「一理ある」とは思う。

 しかし、政治が混乱しているのも、それ自体、現実の反映であって、決して「無意味」というわけではない。

 要するに、混乱すべきときにはちゃんと混乱しないと、破壊されるべきときはちゃんと破壊されないと、先に進めないのだ。

 話は続いて、北方領土問題へ。

 次期ロシア大統領は、多分プーチンだろうが、プーチンは現大統領に比べ、比較的親日で、また中国抑制という至上命題が現実化するだろうから、北方領土のうち、国後、択捉に比べ、小さな歯舞、色丹が戻ってくる可能性はあるという佐藤優の見立てだった。

 ラスプーチンの見立てはともかく、歯舞、色丹に今夏取材したテープが流れたが、「私の母親が歯舞生まれで……」という言葉だけが、北方四島返還要求の根本理由のようだ。

 少なくとも、マスコミは、そこまでしか言おうとしていないし、言えないのだろう。

 北朝鮮拉致問題しかり、震災問題しかり。

 カンバックサーモン、じゃない、カンバック故郷としか言えないのだが、そんな心境で、歯舞の住人の家を訪れ、一緒に楽しく食事をしながら、あなた方が生活している、この島が、かつて日本人が住んでいて云々と話しだすと、雰囲気が一変した。

 最初は「私たちは複雑な事は考えない事にしている」とお茶を濁していたが、最後に決定的な一言。

 「私の母が、この島(ロシア名で言っていたようだが、覚えていない)に移住し、そして私が生まれました。私の故郷はこの島なのです。」

 シ~ン。

 何も言えまへん。

 言える事は、故郷は永遠ではなく、変わるということ。

 福島原発の周辺地の飯館村で頑張って営業を続けている縫製工場があり、「いつかまた私たちの故郷に戻れることを信じて、苦しいけど頑張ります」と経営者は語っていたが、つい先日、この工場も結局閉鎖することになったと報じられていた。

 「故郷」という概念は、本当に誤解されている。

 故郷に戻りたいという思いは万人共通で、悲惨な子供時代を送り、「ふるさとは遠きにありて 思ふもの……うらぶれて 異土の乞食にあるとても 帰るところにあるまじや」と故郷を呪った室生犀星にしても、その後半で「でも帰りたい」と繰り返す。

 なんで、故郷に戻りたいのか。

 それは、そこに家族や親戚、あるいは友人、知人がいるからではない。

 そこに「自分」がいるからだ、と言ったのは橋本治だ。

 大震災以降、「家族を守る」とか、かっこいい言葉ばかり耳にする。

 でも「守る」ものは、最終的には「自分」であり、それ以外は……なんと言ったらいいのかよくわからないが……「無効だ」というか。

 ともかく、橋本治の言葉の真実性を、大震災以降、つくづく噛み締めている。

ミッション・インポッシブル・アット・チャイナ

2011-11-18 00:35:45 | Weblog
 日本がTPP参加に向けて積極的姿勢を見せた途端、カナダ、メキシコ、台湾が日本の後に続く格好になった。

 と思う間もなく、オバマ大統領がオーストラリアの国会で、アメリカの未来はアジアにあると演説、同時に、オーストラリアのダーウィンに米軍の基地を新たに作る事を明らかにした。

 明々白々の中国包囲網作戦。

 不謹慎な言い方かもしれないが、面白くなってきた。

 野田がどこまでこの事態を理解しているのか、よくわからないのがちょっと不安だけど。

 一昨日だったか、NHKニュースのアナウンサーが、番組の締め間際に「日本の外交能力を不安視する人が多いですが、私の知り合いの高官が、日本の外交交渉能力は、実は非常に高いと言っていました」と言っていた。

 私もそう思う。

 実際、アメリカも、日本にしてやられる事が多くて、歯ぎしりしてくやしがっているという話はよく聞く。

 外の評判は落としても、実利はちゃっかりとっているというわけだ。

 でも、これからは「実利」だけでなく、かといって「外の評判」を得るのでもなく、損得勘定を離れた、世界のあるべき姿に向かって汗をかくべきだ、というのが私の意見だ。

 それはともかく、TPP論議がこれからどうなるか、「参加表明」はしたものの、よくわからないが、米問題以上に、反対派が全面に持ち出しているのが、TPPに入るとアメリカのような医療制度になって、日本が誇る健康保険制度が破壊されるという意見だ。

 保険制度については、何度も書いてきたが、アメリカの民主党と共和党が、医療保険制度をめぐって対立している、その論点は何なのか、さっぱりわからなかったのだが、数日前、ノーベル賞学者のクルーグマンがの言葉ですこ~し、わかった。

 クルーグマンによると、共和党は、高齢者向けの医療保険制度である「メディケア」の管理を、行政から民間の保険会社に任せよと言っているが、そんなことをしたらアメリカの医療は破壊されてしまう、と言っていた。

 患者の治療方法が、患者ではなく、保険会社が決めていることはよく聞く話だが、共和党はそれを、現状では「個人」が保険会社と保険契約を結んでいるものを、「国」もしくは「州政府」が保険会社と契約を結ぶかたちにもっていこうとしているのかな、と思った。

 だとしたら、それは、私が以前、ちょっと考えていた事だ。

 つまり、政府が税金で保険会社に保険料を払い、国民が病気になったら、その治療は、保険料を国からもらっている保険会社と契約している医療機関が行うというものだが、クルーグマンは、そんな契約をしてしまったら、利益確保を至上命題とする保険会社に振り回されてしまう、それは医療制度と根本から反するものだというわけだ。

 なるほど、それはあり得るな。

 ……と思ったのだが、クルーグマンの記述は「メディケアを保険会社に渡してはならない」とあるだけなので、以上は私の想像です。

 どこかに詳しく解説してあるブログなり、本なり、あればいいのだが。

幻聴?

2011-11-11 09:49:28 | Weblog
  昨日、2chのTPP論議に参加(笑)。

  きっかけは、「そもそも自由貿易云々以前に日本とアメリカが対等な関係じゃなくて交渉で日本に有利にするのが不可能って事がわからない時点で終わってる話」という書き込みに、昨今の「議論」の特徴が現れていると思ったからだった。

 私は、以下のように反論した。

 「日米関係がもし対等でないのなら、それを是正すべく交渉しなければならない。実際、幕末から明治にかけて、日本はそのことに全力を挙げ、成果を上げた。交渉しても「負ける」に決まっているから交渉するな、とはラサ忍法帖(当該書き込み者)が、内心既にアメリカに「負けている」ことを暴露するものでしかない。」

 と、脇から「誰かTPPのメリットを教えてくれよ」という書き込みが。

 これもまた、今回の議論の特徴だ。

 つまり、メリットがあるなら、参加、ないなら不参加という論法で、これに徹すれば自ずと結論が出てくるだろうという論理だが、これこそ、机上の論理、観念論というべきもの。

 「結果」を求めると、どうしても水掛け論になってしまう。

 それが現今のTPP論議であり、最終的には、前の戦争がそうだったように、「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と、無茶苦茶なことになってしまうのだ。

 実際、反対派は、あたかも「国体を守れ」と言わんばかりであるし、先程の国会中継で、質問者から「国体」という言葉を聞いたような気がする。

 幻聴だろうか?

保坂和志についてのあれやこれやと、映画『悪人』について

2011-11-06 16:06:16 | Weblog
 保坂和志については、半年近く前、古本屋ならぬ中古ビデオ屋の店頭のワゴンセールで一冊50円で購入した「書きあぐねている人のための小説入門」ではじめて知ったのだったが(名前はなんとなく知っていた)、そんな人の本を何故、50円と言えども買ったのかと言うと、店頭で立ち読みしたとき、「小説(芸術)の善し悪しは、その小説が描いている対象(日常)の善し悪しが決めるのではなく、小説(芸術)が日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を決めて行く」という文章に共鳴したからだった。

 それで、購入後、当該文章をブログネタにした以外、読んでいなかったのだが、その保坂和志の本業である「小説」を数日前、2冊読んでみたのだった。

 一つは、『生きる歓び』と『小実昌さんのこと』という短編、いや、中編が二つ収められた『生きる歓び』と、『〈私〉という演算』の2冊だった。

 『生きる歓び』の2編は、どう見てもエッセイにしか思えないのだが、本人は、「あとがき」で、そんな風に見えるだろうが、小説である、と明言している。

 『〈私〉という演算』は、「生きる歓び」よりも、元来、理工系の頭脳であると自ら称する保坂和志の、より科学ネタを強くしたエッセイという感じだが、本人は、これもあとがきで、担当編集者から小説と言っていいか気になると言われ、自分でも気にならないではないが、実際は「自分の思考のなまのかたち」を書いたようなものと書いていた。

 要するに、『生きる歓び』の2編は、そう見えないかもしれないが、「小説」であり、『私という〈演算〉』は、「自分の思考のかたち」を、哲学とは違うやり方で探求した文章だというわけだ。

 そういうわけで、『私という〈演算〉』は、なかなか難しいことが多く書かれていて、まだちゃんと読めていないのだけれど、『生きる歓び』については、「小説」だと思って読むと、なるほど、小説だ。

 というか、『書きあぐねている人のための小説入門』になぞらえて言えば、極めて平易、かつ日常的な言葉遣いで日常を語った文章を、「小説に見えなくても小説なのだ」という意識で読むことで、「小説の小説性(小説の芸術としての本質)を照らし出す小説」として読むことができる。

 では、そんな予備知識は全然ない白紙の状態で、いきなり読み始めたらどうなるか。

 『生きる歓び』については、お寺の墓地の片隅に捨てられ、カラスに狙われて危うい運命にあった捨て猫を助けた顛末を書いたエッセイ、『小実昌さんのこと』は、西武のカルチャースクールで講師を頼んで以来のつきあいである、田中小実昌を追悼した文章である。

 ……と、それ以外には思わないだろうし、著者の保坂和志自身もそのことを否定しないだろうが、いずれにせよ、私はこの2編の文章を最後まで読んだのであり、それが「事実」なのだ。

 その事実(読んだこと)の後に、「小実昌さんって、意外な人なのだなあ」とか、そんな風に感想、あるいは印象を述べることは、当然「あり」なのだが、でも、保坂和志の小説作品にとっては、それは本質ではない――ということになる。

 「いったい、お前は読んで面白かったのか、そうではないのか、はっきりしろ」と言われたら、私は「面白かった」と答えるが、でもその答えは、保坂和志の小説の場合、否、たとえ川端康成の小説であっても、決して「本質」ではない、ということなのだ。

 司馬遼太郎とか、吉川英治の小説だったら、違うかもしれないが。

 ここは結構肝心なところで、要するに保坂和志の小説の面白さとは、それを読みながら、「面白いとはなにか」と問うプロセスで発見されるもの、というか。

 ここは、ウィトゲンシュタインを例に出した方が早い。

 ウィトゲンシュタインは、ある詩に触れて「他のほとんどの詩は、詩で表現できないことを表現しようとしているが、この詩にあっては、そのような企てはなく、それ故にその企てが達成されている」と賞賛しているが、「語りえないことに沈黙せよ」というウィトゲンシュタインの有名な言葉はまさにこのことを言ったのだった。

 保坂和志のひどく面倒くさい小説論も、つまるところ、「語ることのできないことには沈黙すべき」というウィトゲンシュタインの有名な言葉の、その「実態」を語ろうとしているのだ。

 と思う。

 曳いていえば、「小説(芸術)が日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を決めて行く」その「やり方」を、何の変哲もない日常を日常のまま語ることで語ろうしているのだ。

 というわけで、「冷却剤の投入を早くした結果、事故を防ぐことができたとしたら、原発の危険性についての議論は深まらなかったにちがいない」とし、「問題の本質は、ここにある」という保坂和志の福島原発に関する発言だが、このような論理は、実は、『書きあぐねている人のための小説入門』に「可能性」の問題として散見される。

 要するに、「こうもあり得た」であろう可能性と、「こうでしかあり得なかった」事実の相克というか、矛盾というか、として。

 で、政府、あるいは官僚トップたちは、理科系宰相、菅直人の「失敗」によって開かれたこの傷(矛盾)を覆い隠そうとしているのだが、保坂和志的立場としては、チェルノブイリ原発の崩壊がソ連邦の矛盾を暴いたように、福島原発もまた、戦後日本の「矛盾」を明らかにすべく、崩壊しなければならない、そう言っているのだ。

 と思う。

 今、『悪人』をやっている。

 つまらない。

 昔、映画評論家の品田雄吉が、日本映画を定番放映していた番組のホストをしていた時「日本映画の独特の味をお楽しみください」と決まり台詞ではじめていた。

 では「日本映画の独特の味」とはなにかというと、日本映画の「実態」は、日本人にとっては、貧乏臭く、ださく、まどろっこしく、かっこ悪い映画のことでしかないのだが、一部の作家は、それを「独特の味」にまで仕上げることができた。

 それを品田雄吉は、「日本映画の独特の味」と称揚したのだと思う。

 しかし、こういうことは、実は日本映画だけではない。

 フランス人にとってのフランス映画も、イタリア人にとってのイタリア映画も、ドイツ人にとってのドイツ映画も、イギリス人にとってのイギリス映画も、元来、貧乏臭くて、ださくて、かっこ悪いのだ。

 何故なら、彼らの日常がそうだからだ。

 そして、それは、外国人にはわからない。

 でもそれが「独特の味」となって、外国人にも通じる普遍的な価値を持つ作品がたまに生まれるのだ。(ハリウッドの外で映画を作っている、たとえばウッディ・アレンとかコーエン兄弟のつくるアメリカ映画も、本来、アメリカ人にとっては「かっこ悪い」ものだろう)

 「国民映画」という言葉があるかどうか知らないが、その「つまらなさ」は、同国人でしかわからない「つまらない日常」を反映しているのだが、それを「それ以外ではあり得ないもの」として再度受け入れたとき、「独特の味」が、同国人以外にも、普遍的価値として醸し出されるのだろう。

 そのためには、映像に「再帰性」が感じられるか否かが決定的なのだが、『悪人』には、それが感じられないのだ。

 ……と、一分も見ないで思ったのだが、今、ラスト近くを見て、日本人の多くは、みんなそれなりに「感動」しているのだろうなあ、と思った。

 しかし、何もそんなに無理して感動する必要はない。

 まして、悪人にもそれなりの人生があるのだとか納得して、悪人(妻夫木)と深津絵里と一緒に、太陽を見て涙を流すなんて、あえて言うが、「偽善」だ。 

 そもそも妻夫木って、本来、もっとカッコイイ役者だと思うが、それを役柄に合わせて貧相にしている感じ。

 でも、本当に貧相なのは、「役柄」という考え方そのものなのだ。

 そういう「考え方」が、この映画を不自由なもの、救いのないものにし、なおかつ、その「救いのなさ」を「感動」で覆い隠しているのだ。

 それこそ、偽善ではないか。

 と思う。
 

少数意見――問題は、ここにある

2011-11-02 00:58:12 | Weblog
 見たいテレビ番組が皆無なので、しょうがないから国会中継、それも代表質問を見ると、自民党が去年の尖閣諸島沖おける中国漁船拿捕事件の顛末をとりあげ、民主党政権のお粗末な失敗であると攻撃していた。

 私は、事件発生当初から当ブログで言ってきたのだが、菅内閣の、逮捕、中国政府の抗議、クリントン国務長官との協議を経て、船長釈放という対応は実に見事だと思ったのだった。

 自民党政権の場合、領海侵犯漁船は、「退去」であって、「逮捕」したことはなかったのだが、それをあえて「逮捕」したことは、最終的に釈放することで、アメリカに配慮した上、中国政府に「貸し」を作ったとも考えられるからだ。

 もちろん、そこまで見切ることは考えられないから、たまたま逮捕してしまったことを「もっけの幸い」として、次善の策を上記のストーリーにあてはめたのは、「見事」と言っていいと思ったのだった。

 もちろん、中国政府が反発することは予測できることだったが、反発し過ぎて、非常な不評判を招き、とどのつまりは「日本の勝ち」で尖閣諸島問題は終わったのだった。

 それは「事実」なのであって、菅政権としては、自民党の抗議も、マスコミの批判も受け付けずに、「我々の判断は正しかった。それは歴史が証明する」で通せばよかったのだが、何故かそうせずに「言い訳」に終始した。

 もちろん、今さら、それを撤回し「我々は正しかった」なんて主張することはできないが、マスコミにおいて今でもまだ「尖閣諸島問題」は民主党政権のお粗末ぶりの象徴と考えられているのは許し難い。

 あの事件以後、中国政府、海軍の傍若無人が強化されたか?

 尖閣諸島近辺を中国海軍が我が物顔に走り回るようになったのか?

 もちろん、中国の「傍若無人」は相変わらずかもしれないが、それは大昔からそうなのだ。

 繰り返すが、「勝利者」は日本なのだが、そのことを自覚していないため、まるで「敗者」のように振る舞っているのだ。

 もちろん、今、勢いのあるのは中国で、日本ではないけれど、だからこそ、今、日本は中国に「貸し」をつくったような顔を中国に示すことが求められるのだ。

 イギリスだったら、絶対にそうするだろう。

 え?

 「なんで《貸し》なんだ」って?

 だって、そうじゃないか。

 あのチンケな漁船の船長を、(自国民世論の追求を恐れる)中国政府の顔を立てて、超法規的に「釈放」してあげたのだから。

 「主権の行使」には、様々なかたちがあって、一見「主権の放棄」と見えて、実は高度な「主権の行使」というかたちもあり得るのだ。

 なんで、こんなことにこだわるのかというと、こんなことを言っている人がいないからだ。

 でも、きっと全然いないわけではないと思う。

 たとえば、北朝鮮の「拉致事件」でも、拉致された人々は実質的に、北朝鮮の生活に馴染んでしまっているので、「日本に帰せ」と言い張ってもしょうがないと中島梓は自分のブログに書いて、猛抗議を受け、ブログの閉鎖を余儀なくされたのだったが、彼女の言っていることは至極まとも。

 「めぐみちゃんは、今も、毎日毎晩、日本に帰りたいと言って泣いているに違いないのです」と、めぐみさんのお母さんは言っているけれど、それが「非現実的」な発言であることは、お母さん本人も、たぶんわかっているはず。

 「不本意ながら、嫁がせてしまった」と考えるしかない問題なのだ。

 と、なんでまた、こんなことを蒸し返しているのかというと、私が今、私しか発言していないが、でもきっと他にも同様に考えている人がいるにちがいないと思っている、その「別の人」がやはりいた。

 それは他ならぬ、何度か繰り返し言及したことのある小説家、保坂和志だった。

 保坂は、彼のブログ、「寝言戯言」で、「老朽化したソ連邦がチェルノブイリ事故で崩壊したように、日本もまたしっかり崩壊すべきだ」と書いている。

 そして、その前提として「菅が冷却剤の投入を早くした結果、事故を防ぐことができたとしたら、原発の危険性についての議論は深まらなかったにちがいない」とし、「問題は、ここにある」と書いている。

 日本では原発事故は福島以前にも頻繁に起きているが、そのどれを通じても、「原発の危険性についての議論」は深まらなかった。

 だとしたら、日本はこの際、「しっかり崩壊」するしかない。

 崩壊しなかったら、またこのまま続くだけだ。

 津波の被害者2万5千人を上回る3万人が毎年自殺している社会が、またこのまま続くことは許されるべきでないと、保坂は言う。

 いや、まったくその通りだ。

 保坂は、「しっかり崩壊」した後、自殺者数がさらに増えるかどうかについては触れていないが、私が思うに、増えないと思う。

 今日も「人身事故」のため、京浜東北線は超満員だったが、彼、あるいは彼女は「このまま続く社会」の歯車のなかで圧死したのだ。

 人々は、それで圧死させかねない「お仕着せの希望」より、そんなものは投げ捨て――保坂は「身軽に生きる」という表現を使っているが――絶望の立場に立つほうが、ずっと健康的なのだ。

 きっと。