保坂和志については、半年近く前、古本屋ならぬ中古ビデオ屋の店頭のワゴンセールで一冊50円で購入した「
書きあぐねている人のための小説入門」ではじめて知ったのだったが(名前はなんとなく知っていた)、そんな人の本を何故、50円と言えども買ったのかと言うと、店頭で立ち読みしたとき、「小説(芸術)の善し悪しは、その小説が描いている対象(日常)の善し悪しが決めるのではなく、小説(芸術)が日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を決めて行く」という文章に共鳴したからだった。
それで、購入後、当該文章をブログネタにした以外、読んでいなかったのだが、その保坂和志の本業である「小説」を数日前、2冊読んでみたのだった。
一つは、『生きる歓び』と『小実昌さんのこと』という短編、いや、中編が二つ収められた
『生きる歓び』と、
『〈私〉という演算』の2冊だった。
『生きる歓び』の2編は、どう見てもエッセイにしか思えないのだが、本人は、「あとがき」で、そんな風に見えるだろうが、小説である、と明言している。
『〈私〉という演算』は、「生きる歓び」よりも、元来、理工系の頭脳であると自ら称する保坂和志の、より科学ネタを強くしたエッセイという感じだが、本人は、これもあとがきで、担当編集者から小説と言っていいか気になると言われ、自分でも気にならないではないが、実際は「自分の思考のなまのかたち」を書いたようなものと書いていた。
要するに、『生きる歓び』の2編は、そう見えないかもしれないが、「小説」であり、『私という〈演算〉』は、「自分の思考のかたち」を、哲学とは違うやり方で探求した文章だというわけだ。
そういうわけで、『私という〈演算〉』は、なかなか難しいことが多く書かれていて、まだちゃんと読めていないのだけれど、『生きる歓び』については、「小説」だと思って読むと、なるほど、小説だ。
というか、『書きあぐねている人のための小説入門』になぞらえて言えば、極めて平易、かつ日常的な言葉遣いで日常を語った文章を、「小説に見えなくても小説なのだ」という意識で読むことで、「小説の小説性(小説の芸術としての本質)を照らし出す小説」として読むことができる。
では、そんな予備知識は全然ない白紙の状態で、いきなり読み始めたらどうなるか。
『生きる歓び』については、お寺の墓地の片隅に捨てられ、カラスに狙われて危うい運命にあった捨て猫を助けた顛末を書いたエッセイ、『小実昌さんのこと』は、西武のカルチャースクールで講師を頼んで以来のつきあいである、田中小実昌を追悼した文章である。
……と、それ以外には思わないだろうし、著者の保坂和志自身もそのことを否定しないだろうが、いずれにせよ、私はこの2編の文章を最後まで読んだのであり、それが「事実」なのだ。
その事実(読んだこと)の後に、「小実昌さんって、意外な人なのだなあ」とか、そんな風に感想、あるいは印象を述べることは、当然「あり」なのだが、でも、保坂和志の小説作品にとっては、それは本質ではない――ということになる。
「いったい、お前は読んで面白かったのか、そうではないのか、はっきりしろ」と言われたら、私は「面白かった」と答えるが、でもその答えは、保坂和志の小説の場合、否、たとえ川端康成の小説であっても、決して「本質」ではない、ということなのだ。
司馬遼太郎とか、吉川英治の小説だったら、違うかもしれないが。
ここは結構肝心なところで、要するに保坂和志の小説の面白さとは、それを読みながら、「面白いとはなにか」と問うプロセスで発見されるもの、というか。
ここは、ウィトゲンシュタインを例に出した方が早い。
ウィトゲンシュタインは、ある詩に触れて「他のほとんどの詩は、詩で表現できないことを表現しようとしているが、この詩にあっては、そのような企てはなく、それ故にその企てが達成されている」と賞賛しているが、「語りえないことに沈黙せよ」というウィトゲンシュタインの有名な言葉はまさにこのことを言ったのだった。
保坂和志のひどく面倒くさい小説論も、つまるところ、「語ることのできないことには沈黙すべき」というウィトゲンシュタインの有名な言葉の、その「実態」を語ろうとしているのだ。
と思う。
曳いていえば、「小説(芸術)が日常を照らして、普段使われている美意識や論理のあり方を決めて行く」その「やり方」を、何の変哲もない日常を日常のまま語ることで語ろうしているのだ。
というわけで、「冷却剤の投入を早くした結果、事故を防ぐことができたとしたら、原発の危険性についての議論は深まらなかったにちがいない」とし、「問題の本質は、ここにある」という保坂和志の福島原発に関する発言だが、このような論理は、実は、『書きあぐねている人のための小説入門』に「可能性」の問題として散見される。
要するに、「こうもあり得た」であろう可能性と、「こうでしかあり得なかった」事実の相克というか、矛盾というか、として。
で、政府、あるいは官僚トップたちは、理科系宰相、菅直人の「失敗」によって開かれたこの傷(矛盾)を覆い隠そうとしているのだが、保坂和志的立場としては、チェルノブイリ原発の崩壊がソ連邦の矛盾を暴いたように、福島原発もまた、戦後日本の「矛盾」を明らかにすべく、崩壊しなければならない、そう言っているのだ。
と思う。
今、『悪人』をやっている。
つまらない。
昔、映画評論家の品田雄吉が、日本映画を定番放映していた番組のホストをしていた時「日本映画の独特の味をお楽しみください」と決まり台詞ではじめていた。
では「日本映画の独特の味」とはなにかというと、日本映画の「実態」は、日本人にとっては、貧乏臭く、ださく、まどろっこしく、かっこ悪い映画のことでしかないのだが、一部の作家は、それを「独特の味」にまで仕上げることができた。
それを品田雄吉は、「日本映画の独特の味」と称揚したのだと思う。
しかし、こういうことは、実は日本映画だけではない。
フランス人にとってのフランス映画も、イタリア人にとってのイタリア映画も、ドイツ人にとってのドイツ映画も、イギリス人にとってのイギリス映画も、元来、貧乏臭くて、ださくて、かっこ悪いのだ。
何故なら、彼らの日常がそうだからだ。
そして、それは、外国人にはわからない。
でもそれが「独特の味」となって、外国人にも通じる普遍的な価値を持つ作品がたまに生まれるのだ。(ハリウッドの外で映画を作っている、たとえばウッディ・アレンとかコーエン兄弟のつくるアメリカ映画も、本来、アメリカ人にとっては「かっこ悪い」ものだろう)
「国民映画」という言葉があるかどうか知らないが、その「つまらなさ」は、同国人でしかわからない「つまらない日常」を反映しているのだが、それを「それ以外ではあり得ないもの」として再度受け入れたとき、「独特の味」が、同国人以外にも、普遍的価値として醸し出されるのだろう。
そのためには、映像に「再帰性」が感じられるか否かが決定的なのだが、『悪人』には、それが感じられないのだ。
……と、一分も見ないで思ったのだが、今、ラスト近くを見て、日本人の多くは、みんなそれなりに「感動」しているのだろうなあ、と思った。
しかし、何もそんなに無理して感動する必要はない。
まして、悪人にもそれなりの人生があるのだとか納得して、悪人(妻夫木)と深津絵里と一緒に、太陽を見て涙を流すなんて、あえて言うが、「偽善」だ。
そもそも妻夫木って、本来、もっとカッコイイ役者だと思うが、それを役柄に合わせて貧相にしている感じ。
でも、本当に貧相なのは、「役柄」という考え方そのものなのだ。
そういう「考え方」が、この映画を不自由なもの、救いのないものにし、なおかつ、その「救いのなさ」を「感動」で覆い隠しているのだ。
それこそ、偽善ではないか。
と思う。