パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

いくらなんでも……

2005-11-30 05:04:00 | Weblog
 中国の「故事物語」(河出書房)という本で調べたら、愚公が「移した」山は、黄河中流域にあった太行山と王屋山という山で(もちろん、移しちゃったから今はない)、削った土ははるばる勃海にまでかついで行き、勃海湾に捨てたが、「その往復に1年かかった」そうだ。こ、これはいくらなんでも……(笑)。

 本棚を整理しながら、ふと「コナン・ドイルの心霊学」(新潮選書)という本を見つけてぱらぱらと拾い読みしたら、案外、面白い。たとえば、ドイルによると人は死んだ後、ちょうど生まれ立ての赤ん坊が一日の大半を寝て過ごすように、深い睡眠に入るそうだ。で、赤ん坊が睡眠の間にとてつもない「学習」をするように、「霊界」への準備を行なう。ところが不本意な死を遂げた人は、その睡眠に入ることができない。その結果が、いわゆる「地縛霊」であると。
 なるほどねー。

 後、こんなことが書かれていた。

 「ハイズビル事件(フォックス家に起きたボルターガイスト事件)を契機として新しい啓示が次々と入手されはじめた頃、ブルーム卿(スコットランドの政治家、法律家)が奇妙な比喩を用いて、こう述べた。“一点曇りなき無神論の青空に、たった一つ、雲がただよい始めた。それが近代スピリチュアリズムである”と。」

 ドイルは、「本来なら“無神論の暗雲の切れ間にチラリと(スピリチュアリズム)の青空が見え始めた”とでも表現すべきであろう」と書きつつ、あえて、このような「奇妙な表現」をした意味について、「キリスト教への深い懐疑」と、「スピリチュアリズムの重大性」をブルーム卿が意識していたからだろうと書いている。

 うん、まあ、そうかもしれないけれど、よくわからない解説だ。
 というのも、実は、ブルーム卿とそっくりの言葉をドイルと同時代のある物理学者が言っているのだが、それをドイルは知らなかったらしい。その物理学者とは、ケルヴィン卿という人で(絶対温度の単位、「K」はケルヴィン卿の頭文字をとったもの……だったと思う)、彼は、こう言ったのだ。

 「今、物理学の将来に、二つの暗雲がたちこめている」

 ケルヴィン卿はニュートン力学を信奉する伝統的な物理学者で(19世紀以前はニュートン物理学以外なかったのだから当たり前の話だが)、この言葉は、(ケルヴィン卿が信じる)ニュートンによって完璧に仕上げられた物理学の体系が、やがて崩壊するであろうことを予言したのだと考えられている。その二つの暗雲とは、アインシュタインの相対性理論と、量子力学だ。(もちろん、ケルヴィン卿は、この二つともまったく知らなかった。だから「予言」なのだ)
 このケルヴィン卿の「予言」は、現代物理学の本には必ずといっていくらい出てくる、とても有名なものだが、正直言って、意味がさっぱりわからなかった。もちろん、今もわからないけれど、ただ、一応、類似した表現の先行発言があったのだということだけはわかった。
 それにしても、いったい、どういう意味を込めたんだろう、二人とも。

愚公、ネジをぶち切る

2005-11-28 18:59:19 | Weblog
 夢の話。
 
 私はセーターに大きめのジャケットを着込み、最近、お気に入りの空色のビニール製のショルダーバッグを背負い、街を歩いている。そのうち、ふと気づくと、バッグがない。たすきがけにかけていたのだから、ないはずはないと思い、必死に探しながらなんとなく手をやると、ちゃんとバッグがある。「ない」と思っていたのは勘違いだったのだとほっとする。眼鏡をはずしたことに気づかずに眼鏡を外そうとして「あれ?」と思ったり、逆に、眼鏡をかけていることを忘れて、眼鏡をかけたまま顔を洗ったりすることは、日常的によくあることなので、きっとそれだったのだ、と思う。
 ところが、それからしばらくすると、またバッグがなくなっている。今度はきっと前のようなわけにはいかないだろうと不安になり、焦って探すが、案の定、どうしても見つからない。歩き回って汗びっしょりになり、ジャケットを脱いで手に持ち、さらに探すが、ふと気づくとそのジャケットがない。探しものに気をとられて、どこかに置きっぱなしにしたのだろう。お気に入りのバッグ、それにジャケットもなくなってしまったと思うと、悲しい気持ちになる。そのうち、気づくとセーターもない。バッグとジャケットに気をとられて、セーターをどこかに脱ぎ忘れたのだ。
 私は、半そでのシャツ一枚になって街を歩く。さすがに寒い。もう、バッグもジャケットもセーターも探す気になれず、途方に暮れる。

 ここで眼が覚めた。 
 私の考えるところ、そもそも夢には二種類あって、一つは見ている最中にそれが夢であることがはっきりと、あるいはなんとなく、わかっている夢。もう一つは、夢とはまったく思っていない夢である。今回は後者だった。というわけで、眼が覚めて、本当にほっとした。あーよかった、バッグもジャケットも、セーターもある、と。

 次の話は、夢ではないが、終わってみると夢のような気がしている。

 スチール棚の棚の位置を一つだけ変えようと思い、ネジを外しにかかった。スパナで八個のうち、七個までは簡単に外れたが、一個だけ、ネジ山が変に食い込んでしまって、どうしても外れない。潤滑剤をたっぷり注いでもダメ。あきらめて、元に戻すという方法もあるが、いずれ解体する時には、また同じことをしなければならないと思うと、絶対に外してやろうといいう思いがふつふつと募り、作業を続行したが、びくともしない。夜十時過ぎからはじめて、やがて夜中になった。「どうするのよ、わたし!、つづ~く」てなことはしたくない。どうしても朝があけるまでに作業を完遂させたいと思い、チャレンジを続けたが、どんなあの手もこの手もきかない。
 かくなる上は、最後の手段、ネジを切るしかない。しかし、道具がない。あるのは、安物のヤスリ一本だけ。でも、やる!と、しこしこ擦り出した。しこしこしこしこしこ……。やがて朝になった。テレビから、「これからお休みになる方も、お起きになる方も、お早うございます」とさわやかな女子アナの笑顔。「これからもずっと起きている方も、お早うございます」と付け加えてくれないかなと思いつつ、しこしこしこ……。早朝の女子アナ見物を楽しみにしているおやじはきっと多いだろうな。オレもそうだ。

 きりがないので、結論。ネジは、切れました! バンザーイ。「愚公、山を移す」の精神だね。時間をかけさえすれば、必ず、切れる。当たり前の話だけれど、これがリアリズムの精神だ。身も蓋もない話で、本当はあんまり好きではないが、役には立つな、リアリズムって。

昨日お亡くなりになった三人

2005-11-26 17:43:06 | Weblog
 今朝のサンケイ新聞の死亡欄は実にバラエティーに富んでいた。

 その1。パット・モリタ、死去。享年72、死因老衰。72で老衰かよ。
 パットモリタというと、『ベストキッド』だと思うが、残念ながら見ていない。パット出演作で私が見たのは、『ヴァン・ダム in コヨーテ』。テレビの深夜放送で偶然見たのだが、面白かった。黒沢の『用心棒』のリメークだけれど、かなり凝った設定で、「リメーク」を感じさせない。最後、黒沢映画で言えば加山雄三にあたる青年が、女の子を映画に誘う。それが『用心棒』。字幕では、「yo-jin-bo」となっていた。
 女の子「それ、おもしろいの?」
 青年「ああ、クロサワのサムライ映画さ」と。
 「ハリウッドの黒沢リメークものの中ではダントツ一番……かどうかは他をあまり知らないからなんとも言えないが。パットは、棺桶屋。『用心棒』の左卜然そのまんまのキャラクターで、とても良かった。これぞ、パット・モリタ! もっとも他のを見てないのでなんとも言えないが……こればっかし。

 その2。「レッドスネーク、カモン!」のショパン猪狩死去。享年76。とっくに80歳を越えていると思っていた。筋金入りの芸人一族の出で、調べるといろいろずるずる出てくるらしい。テレビなどでは「蛇使い」しかやってないが、もちろん他にもいろいろあって、切腹して腹からはらわたを引きずり出し、刀でそれをちょんちょんと切り、一切れ摘んで、「うん、いける!」と言って、パタンキューと死ぬギャグがめちゃくちゃ面白かったそうだ。縄師の濡木痴夢男氏談。

 その3。イギリスのサッカースター、ジョージ・ベスト死去。享年59。私と同い年。うーん。もっとも、ベストの現役時代を私は知らない。日本ではサッカーの人気がなかったし。ボビー・チャールトンとは同世代なのだろうか? チャールトンは、イギリスが自国開催のワールドカップで優勝した時のキャプテンで、その記録映画を見たことがある。新聞評で、「すばらしい」と書かれていたので見たのだけれど、サッカーのルール(オフサイドルール)も知らなければ、サッカーワールドカップで勝つことがいかに大変かも全然知らないでは、それを記録した映画を見ても全然面白く思えなかったのは、後で考えれば当然のことだった。当時、見た人の大半がそうだったのではないだろうか。どこの新聞だ、知ったかぶりで「すばらしい」なんて書いたのは! 多分朝日だろうな←決めつけ(笑)。ただ、最後、ゴールネットに枯葉が舞い、「祭りの後」を印象づけつつ、対照的にチャールトンが若はげの頭にシャンペンをかけられて騒いでいるラストシーンだけ、覚えている。で、チャールトンは知っていて、ベストは知らないというわけ。(ベストはチャールトンのすぐ後のスターかもしれない)

HP、直しました

2005-11-26 02:42:20 | Weblog
 小野田さん、やっちさんから、HPが見れないというお知らせがありましたが、やっと直しました。時間がかかってすみません。
 実は、最初に小野田さんから連絡があったのですが、こちらからは全部ちゃんと見ることができる。もちろん、ネットを介してです。それでも「見れない」のは、OSか、あるいはマシンの相性の問題だろうと思っていたのですが、その後、やっちさんからも同じ苦情が入り、ニフティに聞いたら、ニフティで調べても、同じく「見れない」。正確には、ブログ等の外部へのリンクはちゃんと繋がるが、自前で作ったページには行けないことがわかった。
 つまり、こっちのHPのアップの仕方、もしくは製作に不備があったわけだ。しかし、どこがどういけないのか、さっぱりわからない。そのうち、ウェブ製作のプロがたまたまやってきたのでみてもらったところ、HTMLの記述に誤りがあり、それが原因であることがわかった。いわゆる、フリーのHTML記述支援ソフトで作ったのだが、クソソフトだったか。(責任転嫁?)

ちと長いです

2005-11-23 16:38:25 | Weblog
 「顔なし発言」の件ですけど、「後で個人では対応しきれないようなことが起きるかもしれない」というのはその通りなんですけど、それを懸念するなら、マスメディアにおける発言を控えればいいではないかということなんですね。……なんて書くと、「言論封殺」と言い出す人がいそうだけど、コミュニティの集まりなどではどんどん発言すればいいし、あるいは投票行動など、意見表明の場は少なくない。
 この問題に関連することとして、最近、「個人情報保護法」の関連で、たとえば小中学校の運動会等で、学校側が写真を撮ることを控える例が増えてきたらしい。「写りたくない」という人に配慮してのことらしいけど、こんなの、運動会場の入り口に、学校が記念としてスナップ写真を撮ることを明記しておけばいいじゃないの。写されていると思わないでいるから、びっくりして、思わず「イヤー」なんて反応してしまうので、写される可能性があると思っていれば、どってことはない。もっとも、自分が意識していないで、あとで「びっくりする」ほうが楽しいと思うけどね。後々の想い出にもなるし。

 「女帝問題」。これは、以前、「結婚特集」で触れた家族制度の問題であり、レヴィ・ストロースのポストモダン思想が「結婚制度の研究」の結果、見い出された思想であるように、結構難しい問題を含むけれど、私は、女系を含めて、「女帝」支持だ。
 基本認識として、まず、愛子ちゃん(笑)は男系女子なので、将来天皇になっても、これまでの伝統から照らしてもまったく問題はない。問題は、愛子ちゃんが子供を生んで、その子供が天皇位につくと、そこで男系が切れて女系になってしまうということであるらしい。
 しかし、現実問題として、愛子ちゃんが結婚するとしたら、それは「養子」ということになるだろうし、それだったら、歌舞伎とか大相撲の世界でも現に行なわれているし、いいんじゃないのと思うけれど、それだと「天皇家」というブランドの正統性が小和田家に移っちゃうということだろうか。うーん、そんなことはないと思うけどねえ……。もっとも鳩山由紀夫によると、もし女系天皇を認めると、「将を射んとすればまず馬を射よ」で、将来、天皇の座を狙う男が出てこないとも限らないとか。さすが、鳩山家、考えることが一般とはひと味違う。(ちなみに、中国、朝鮮などには「養子制度」はない。「ない」どころか、タブー視されてるそうだ。義兄弟なんかにはすぐなっちゃうくせになんで?と思うが……やっぱり「養子」はセックスがからむだろうか……)

 まあ、それはそれとして、反対論の急先鋒、八木秀次氏のHPをみると、男系天皇の伝統を守るためには天皇家の傍系から選ぶ他なく、実際、歴史的にも相当縁の薄い傍系から天皇が選ばれた例は少なくない。だとしたら、それを採用したらどうかというものだった。要するに、男系維持の方法があるのに、それを顧みないでそれを捨ててしまうのは拙速だというのだ。
 確かに、「傍系からのピンチヒッター」で決めてしまえば、これはこれで雅子様の御心労も軽減されるだろう。しかし、一般国民には馴染みの薄いであろう「傍系」から選ばれた天皇にどれだけの人気(支持)が集まるかと言うと、江戸時代以前のように事実上マスコミが存在しない時代ならいざ知らず、マスコミが発達しまくった現代ではちょっと心もとない。(「人気なんかに惑わされてはいけない」と言われるかもしれないが、そうはイカのキンタマよ。……おっと。やっぱり、「人気」は大事だ。「世論」と言い換えてもよい。ちなみに、「世論」は、本来は「輿論」と書き、お神輿をかつぐことに由来する)

 と、そういうわけなのだけれど、私の「女帝支持」は、実のところ、こういった世間の賛否とはちょっとちがった視点からの「支持」なのだ。では、それは何かと言うと、ここ最近の私の持論なのだけれど、ちょうどきっかり1年前くらいから、バブル崩壊後の危機を脱する目処の立った日本政府は、世界政治における超メジャープレイヤーとしての自覚をもとに、アメリカによる世界平和の実現をサポートすることをアメリカに約束した。日本の「約束」は、フィリピンやオーストラリアや韓国の「約束」とは重みが違う。なんたって、日米で世界の富の45%というんだから。
 それはともかく、そういう「約束」を支持する意味で、それまでの小泉不支持から支持に転換したのだけれど、さて、そういう「世界のメジャープレイヤー」としての自覚を持つものに求められるものはというと、グローバルスタンダードの遵守だ。ローカルルールを全部捨てろというのではないが、できるだけ、率先して世界規準を推進する必要がある。そして、それには「女帝誕生」「生別をとわず第一子即位」の原則を打ち出すことは非常にインパクトがある。

 なーんて思ってるのだね。

 話変わって、日本ではトンデモ発明家扱いの中松義郎がイグ・ノーベル賞をもらったとか。イグ・ノーベル賞とは、「人々を笑わせ、考えさせてくれる研究」に与えられる賞で、「笑わせる」という条件があるものの、決してトンデモ発明家に与えられるものではない。
 その中松の「研究」とは、42歳以後35年間、健康維持に供するためすべての食事を写真に撮って記録したのだそうで、この「研究」に選考委員が目をつけたのだ。
 いや、さすがだ。欧米の科学研究者はちゃんと見るべきところを見ている。
 昔、ガリレオの友人であったサントリオという科学者が、巨大な秤の上で長期間生活し、「食事をとれば、その分、体重が増えること、排せつすれば、その分減ること、食事をとらないでも、時間が立つと、発汗、呼吸時の水分発散などの結果、微量ながら、体重が減ること」などを「発見」した。この「発見」は、生命現象が物理現象に他ならないことを明らかにしただけでなく、数世紀後のことだが、分子の発見にも道を開いた「大発見」だったのだ。
 中松の「食事の記録」は、それに匹敵する……てことはないな。中松によると、中年に入って身体の調子が気になり出した頃、「人間は三日前の食事もほとんど覚えていない」ことに気づいて、写真で正確に毎日の食事を記録することにしたのだそうだが、中松の言う通り、三日前の食事は忘れても、二日前、つまり、昨日、ないし一昨日の食事だったら覚えている訳で、てことは、別に写真に撮って記録せずとも、「昨日の記憶」をもとに、「その都度」食事の内容を調整すればよい。自転車漕ぎと同じだ。傾きかけたら、「その都度」、微妙にハンドルを切り、運転姿勢を修正することで結果的に「ほぼ真直ぐ」走ることができる。食事も同じだ。昨日食べ過ぎたと思ったら、今日、控えればよい。35年間も記録しなくても、「昨日の記憶」と、その修正の連続で「ほぼ正しい」食事をとることができる。いや、まあ、これが「イグ・ノーベル賞」である由縁か(笑)。

顔なし発言は気持ち悪い

2005-11-21 23:49:57 | Weblog
 マンション不正設計問題、マスコミ、煽る煽る。
 さっきのニュースステーションでは、「私の1歳になる息子が、このおうち倒れちゃうの?って聞くんですよ」と男親が泣いていた。地震はいつ起こるかわからないから、不安が募るのはわかるけど、あほかね。また、この問題に限らないが、なんでテレビでコメントを述べる一般人の顔が隠されなければならないのだろうか。マンションの自治会会長すら、顔を隠している。なんで隠す必要があるんだ? 一人だけ、若い奥さんが顔を出して話していたから、「顔隠し」は、テレビ局の方針というわけでは、必ずしもなく、本人の希望のようだが(もっとも、テレビ局のほうで、どうしますか?とか聞くのだろうが)、正直言って、顔を隠すなら発言もすべきではないと、私は思う。被害者だろうがなんだろうが、あらゆる「発言」には、責任が伴うのだ。「どこも責任をとろうとしない」と、件の自治会長は怒っていたが、バカヤロー、てめえがまず顔を出して、発言しろ!

 「英語でしゃべらないと」を久しぶりで、ちらりと見たら、ちょうどトミー・リー・ジョーンズへのインタビューが終わったところだった。

 パッくん、ことパトリック「何か飲み物でも?」
 リー「ノー」

 と言いながら、にこりともせずに席を立ち、あっという間に消えるトミー・リー・ジョーンズ。その後ろ姿を見ながら、カメラに向って「うちのおやじみたい」とひそひそ声のパトリック。

 いやーいーねえ、トミー・リー・ジョーンズ。大好きだよ。

昨日・今日

2005-11-20 16:34:43 | Weblog
 床が汚い。
 床材はPタイルなのだが、そのPタイル自体が変色してしまっているような感じで、綺麗にすることは半ば諦めていたのだが、ふと、カネヨクレンザーを金属たわしにつけてこすってみたらどうかと考え、それに「♪住まいの洗剤マイペ~ット」を少量まぜて試みたら、きれいになった。ただし、ちょっとこすったくらいではだめで、掌底を金属たわしに添えて、全体重をのせてこする必要がある。この姿勢だと、タイル一枚、30センチ四方を仕上げるだけでかなりしんどい。しかし、一応写真ギャラリーでもあるので、「一部きれい」ではおかしい。はじめた以上、全部きれいに仕上げなければならない、それも翌日の昼までに。
 しょうがないので、やった。夜七時から翌朝三時過ぎまでかかった。疲労困憊して、肩、背中がひどくこわばってしまったが、寝る前に念入りに整理体操をやったので、翌朝起きたら、まあまあだった。もし、体操をしなかったら、さらにひどくなっていたはず。みなさん、肩凝りには「体操」ですよ。ビタミン剤を飲むのもいいけれど、それに加えて体操しなかったら肩凝りは直らない。(「整理体操」の重要さは、高校時代ちょびっと在籍した山岳部で教えられた。ちなみに、山岳部に所属したおかげで、それまでの方向音痴がすっかりなおった。)

 さて、ギャラリーを綺麗にした後、Sさん本の出版記念パーティーに。
 ずいぶん盛会で、百人以上来たのではと思ったが、実際には50人強だったそう。いずれにせよ、私はその間中ずっと、会場の片隅でK氏の出版計画に関しK氏の詰問を受けるはめに陥っていた。要するに、私が、同氏の出版計画について、「怠慢」かつ「曖昧」だというのだ。その批判については、甘んじて受けるけれど、「怠慢かつ曖昧であらざるを得なかった事情が存在すること」についての斟酌がまったくないことについては、若干の遺憾を表明せざるを得ない。といって、氏が「斟酌」なるものとまったく無縁の独裁者的人格かというと、あえて「然り」と言いたい反面、人一倍、「斟酌」を重視する人でもあるような感じもする。ただ、「斟酌しましょう」と氏が言う時、その物言い自体が他人にはプレッシャーとなってしまうようなところが、氏にはあるのだ。

 ともかく、言われっぱなしもしゃくなので、最後に自分のアイデアを言った。すると、案の定、間髪入れずに、「ド素人の案だ!」と却下(笑)。
 私の提案がまったくの「素人」のそれであるとは思わないし、また、仮に素人の発想でしかなくとも、それ故に無価値であるということではないはずだと、とりあえず反論した後、「素人の案だろうがなんだろうが、ともかく、私がノー・アイデアなわけではないことを言いたかったのです」と話を締めくくった。
 もちろん、もし私に「アイデア」があるのなら、最初にそれを言うべきなのだが、問答無用で「却下」されることが目に見えているのでは、とてもそれを口に出す勇気は生まれてこず、しかりしこうして、私のアイデアは最後の捨て台詞にまで先送りされてしまったのだ。

 うーん、こうして書いてみると、私も結構言うねえ(笑)。

 Qちゃん、復活優勝。アテネオリンピック選考会におけるQちゃん落選の是非をめぐる2ちゃんバトルにおいて「Qちゃん擁護」で論陣を張った私としては、彼女の力量が並み大抵のものではない(=「スペシャルな存在」と言い得る、世界でも稀なアスリートの一人)ことが明らかになったことは感慨深い……(笑)。

馬鹿ッ!

2005-11-17 17:27:00 | Weblog
 テレビのスイッチを何気なくひねったら、日光の鹿公害のニュースをやっていた。途中から見たので、話の筋道はよくわからないが、鹿を捕まえて用意した柵の中に追い込んでも、じきにその柵を壊して逃げ出してしまうらしい。で、その理由だが、鹿には、「柵に添って動く」という習性があるそうで、そのため、複数の鹿を四角い柵の中に追い込むと、ある程度の時間が経つと、全部の鹿が柵に添って走るようになり、やがて、四角の「角」に全頭が集中してしまい、その圧力で柵が壊れ、一斉に逃げ出してしまう、ということらしい。
 だったら、柵を丸くして、角を作らなければいいじゃないかと思うが、それはさておき、てことはつまり、鹿が逃げるのは、別に「自由」が欲しくてそうしてるわけではなく、ぶっちゃけて言うなら、柵に行く手を拒まれても退くことを知らないため柵に添って走る他なく、その結果、やがて角っこで団子状態になって……要するに……「馬鹿」なんだね(笑)。
 馬もあんまり利口ではないというから、「馬鹿」の語源は、王様の暴力を恐れた役人が、鹿を指して、「あれは馬だな」と言う王様に、「その通りでございます」と答えた故事から、おろかな人間を「馬鹿」と言うようになったという通説より、文字どおり、「馬、鹿なみの頭脳しかない者」を指しているのかもしれない、なんて思ったりした。

 

大人の世界

2005-11-16 18:03:05 | Weblog
 Sさんよりギャラの一部をいただく。
 仏頂面で茶封筒を受け取る私に、Sさんは、「なんだこのやろー」と思ったのではないかと思うが、だって、五万円なんだも~ん。支払い遅延分として、利子扱いにしてほしいくらいだ。いや、マジな話、今後も五万円程度でちびちび払われるのなら、五万~十万円、遅延分として上乗せするよう、交渉するべきかもしれない。
 しかし、Sさん、この「交渉」という言葉をひどく嫌っている。「オレはこれまでずっと信頼関係の中で仕事をしてきた。ギャラもそうだ。決して《交渉》で決めるべきものではない。それがオレの信念だ」と。
 まあ、Sさんが提示したギャラの総額は、ほぼ世間の相場に近いようだし、その限りではこと改めて「交渉」におよぶ必要はない。しかし、前述したように、支払いが細切れだったりすることをはじめとして、仕事を始めるにあたって買い替えたパソコン代をどうするか等、「交渉」できめるべきことが若干残っている、と、そんなに筋道だてて言ったわけではないが、言うと、Sさんは、なにやらぐちゃぐちゃ喋っていたが、よくわからず、帰り道、同席していたMさんに、「Sさんは、結局、なんと言っていたのですか?」と聞くと、「全然払わない、というわけではないということじゃないの」とのこと。ボクみたいな若造にはよくわかんないや、大人の世界って(笑)。

なんだかなーな話

2005-11-14 01:35:56 | Weblog
 千駄木のMさんのレストランで、ギャラ交渉の打ち合わせ中、話が「なんだかなーな」話に脱線した。
 Mさんのレストランの地下は貸しギャラリーになっているのだが、一昨日が入れ替え日だったそうで、その時のこと。
 通常は昼一時から七時までだが、最終日だけは、次の展示の準備のため、五時までとなっている。ところが、借りた作家が五時近くなっても、さっぱり片づけを始めようとしない。そのうち、次の作家がやってきた。Mさんは、催促しようと思って地下におりると、お客さんと雑談している。Mさんが、「もうすぐ五時だから、片づけを始めてください」と言うと、五時になったら始める、それまでは、オレがお金を出して借りているのだから、何をしようとオレの勝手だ、みたいなことを言ったらしい。こんな険悪な言葉をいきなり浴びせかけるとは不思議だが、Mさんによると、それ以前にMさんとの間でちょっと行き違いがあったとのことで、そのため、Mさんに「早く片付けろ」と言われて切れたらしい。それがどんな伏線か、よく知らないけれど、ともかく、両者が「キレる」伏線があったわけで、Mさんも、あっという間に切れた。
 「じゃあ、五時きっかりに明け渡せ」
 「なんだと、そんなことできるわけがないだろ」
 「だったら、今すぐ片付けろ!」
 「五時まではオレの勝手だ!」

  結局、最後は、「お前なんかに二度と貸さない」
 「こんなくそギャラリー、誰が借りるか!」
 と言って別れたそうな。
 いやはや、なんだかなーだ。