パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

どんだけ~!

2013-02-12 00:45:14 | Weblog
 世田谷美術館で開かれる「写真の地層」展の搬入。

 といっても私は写真ではなく文章で、出力センターで印字したA全サイズの紙を五枚、壁に貼るだけ。

 内容は、写真家の大辻清司氏が1975年に「アサヒカメラ」に連載した「大辻清司実験室」の「モノというは言葉であって、モノというモノはない」というフレーズの哲学的読解に挑戦したもの。

 目下、仕上げ中の「写真私史――徐々に無限に向かって」の一部で、その、とりあえずの「決定稿」も受付に置いてあるので、もし興味があったら見てください。

 しかし、その「決定稿」を印字するためにてんやわんやしてしまった。

 壁に貼る文字は前日、プリントセンターで印刷しておいたのだが、本文については家庭用のプリンターでできるので、アパートに帰ってしようと思っていたら、トナーがなくなってしまった。

 前にもトナー切れの警告があったのだが、ドラムを揺するとなんとか印字できるし、プリンターの現在状態を調べると、三分の二くらいで、まだまだ余裕があるように見えたのだ。

 それでなんとか保つのではないかと思ったのだが、最後の最後、肝心の場面で完全にトナー切れになってしまった。

 まあ、いずれ必ずトナー切れ現象は起きるのだから、「肝心の場面」というのはこっちが勝手に決めただけなのだが。

 しかし、ずっと前から、「ヤバい」と思いつつ、その都度、トナー状態をチェックしていたのだから、「裏切られた」感が強く、A4で、6000枚まで大丈夫と書いてあったし、だいぶ印字したが、なんとなく4000枚はいっているが、6000枚にはなっていないはず、なんていい加減なんだ、ブラザーめ、と思いつつ、しょうがないから、壁に貼るだけで、全文を持ち込むのはあきらめようかと思ったのだが、そう思うと、かえってチャレンジしてみたい気持ちが強くなり、搬入の制限時間までも6時間もないお昼過ぎに、西川口から新宿のヨドバシまで出かけてトナードラムを買ってきたが、箱には、「3000枚まで」と書いてあった。

 3000枚は完全に越えている。

 トナー切れになるのは当然の時期だったと反省しながら、途中で印字がストップしたり、紙づまりをこしたりしたが、ともかく懸命に印刷した300枚近い束を持って再び電車で新宿、新宿から、千歳船橋、千歳船橋からバスで世田谷美術館までかけつけた。

 六時までに作業を終えなければいけないのだが、ついたのが五時半。

 西川口→赤羽→新宿→赤羽→西川口→赤羽→新宿→千歳船橋→世田谷美術館→千歳船橋→新宿→赤羽→西川口

 というのが今日の旅程だが、問題は、これにアパートから西川口の駅までの行き帰り20分以上×4が加わる。

 しかしこうやって書き出してみて、改めて思うことは、「行動」は時間がかからないということだ。

 しかも「行動」は、それけで問題が解決する。

 三島が東大全共闘との対話集会で「ここ(駒場)に来るのに30分で来れた。文章を書くことはそうはいかない。行動はいい」と言った通りだ。

 マラソンなんか、2時間半も走り続けるので、いかにも長そうだが、実際は2時間半なんて、あっという間だ。

 もちろん、そのためには長時間の練習が必要だし、それに対するリスペクトはもちろん、忘れないが、でも「練習」にかかる時間と、「考えること」にかかる時間は、質的にやはりちがうのではないだろうか。

 「練習時間」は、消費される時間だし、だからみんな嫌だと思うのだろうが、でも消費した分の見返りはある。

 一方、「考える時間」は、どんなに時間を長くかけても、「見返り」というかたちでの結果はない。

 もちろん、実際には、「この方向で考えていれば、絶対に結果は出る」とわかって、考えているのだろうと思うけれど。

 いったい、何を言いたいのかというと、要するに「写真私史」二十六万字に「どんだけ~」の時間がかかったかといいうことを言いたかったのです。
 

持ち家民主主義

2013-02-05 02:02:40 | Weblog
 「グラフィケーション」で、建築家の塚本ヨシハル氏が、日本には外国人や低所得者向けの住宅政策が存在しないので、つくってみたいという発言を掲載したら、都の担当者から「そんなことはない、認識不足だ」との抗議があった。

 都の担当者は、ホームページを見ろと言っていたそうだが、見てもよくわからなかった。

 それで実態はどうなっているのか調べたところ、盛り場の街頭で、ホームレスが売っている「ビッグイシュー」のひと月ほど前の号に、神戸大学で住宅政策を専門に研究している平山洋介という学者が、世界的に低所得者向け公営住宅の建設は減少しているが、リーマンショック以後、ヨーロッパのみならず、中国、韓国でも低所得者向けアパートの建設を再開した、が、日本はまったくそのかけらもない、と言っていた。

 なるほど、と思ったものの、住宅政策の流れのようなものは、今ひとつよくわからないでいたが、「公営住宅 ヨーロッパ」でネット検索したところ、以下のようなことがわかった。

 私が見たのは、イギリスの公営住宅政策で、フランス、ドイツ、イタリアの大陸諸国とは根本的に異なるところがあるようだが、そのイギリスの場合で言うと、産業革命以前・以後で状況は異なるが、低所得者向け住宅は労働党政権のもとで数多く建設されていたが、第二次大戦後、イギリス経済の行き詰まりと軌を一にして荒廃が進み、犯罪の温床となってしまった。

 日本で「イギリス病」と言われていた、あれである。

 それで、サッチャーが採用したのが「持ち家政策」だが、日本の「持ち家政策」とは根本的に異なり、労働党が大量につくった公営住宅を住民に売却するという政策で、サッチャー曰く、自分の家を持つことで、その地域に対する愛情、責任感も生まれるというのだ。

 それで、サッチャーの持ち家政策は、「不動産所有民主主義」と名づけられたが、サッチャーの次に首相になったブレアは労働党だったが、サッチャーの「持ち家民主主義」は引き継いだ。

 しかし、リーマンショックで「持ち家民主主義」はその限界を露呈し、低所得者向け公営住宅の建設が再開した、と平山教授は言っていたのだ。

 しかし、サッチャーに「持ち家民主主義」なんてものがあったとは初耳だが、これは彼の国ではサッチャー主義の代名詞のように有名な政策らしいが、マスコミではとんと耳にしない言葉だ。

 でも「家を持つ」ということは、プチブルになるということだから、当然その自覚も求められてもいいはずで、それのない「持ち家」ばかりになったら、どうなるか。

 その結果は、乱雑で、エゴイスティックで、醜い家並みが続く、川口の現状のようになるだけだ。

 否、川口は客観的にはそんなに醜くはない。

 しかし、全然愛着がわかないし、「持ち家」に住んでいる人も同じではないだろうか。

 「持ち家」を所有するということは、自治に責任を持つ、ということなのだが、そんなイデオロギー(観念体系)は、ついぞ聞かされたためしがない。

 やはり、「知っている/知らない」の違いは大きい。

 日本の高級官僚たちは、公営住宅がスラム化してしまった「イギリス病」を見て、日本はあのようにはなりたくないという一念でやってきたので、だろうが、スラム化というのは、低所得者=労働者階級の体制へのプロテストという意味合いもある。

 つまり、スラム化は住民の一つの表現でもあるのだけれど、日本の為政者は、オリンピックの柔道選手の体罰抗議問題にも現れているが、被為政者は管理の対象で、彼らの「表現」をまったく認めないのだ。

 ところで関連ブログを見たら、日本の公営住宅の現状は、高額所得者が所得を隠して住み続け、居住希望者を閉め出す状態は、依然として続いているらしい。

 やっぱり国民総背番号制度はどうしても必要だろう。

 旧社会党系は反対だろうが、旧社会党が反対したことは、ことごとく正しいようなもので…。

 ともかく公営住宅の不正入居は私が中学生の頃から言われていたことで、最近、指摘する人がいないので、低家賃の公営住宅そのものがなくなってしまったのではないかという印象を持ち、それで都の担当者の抗議を招いてしまったわけだが……うーん、いまいち、まとまりに欠けるが、今日は「持ち家民主主義」という言葉があるということを知ったということで。

 ただし「持ち家民主主義」は、サッチャーの先行政権である労働党に対する対抗政策で、問題を解決するものではないことは言っておかねばならない。