パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

カボチャ讃

2011-02-26 18:25:58 | Weblog
 キャスター付きのバッグを紛失してしまった。

 近所のスーパーに買い物に出かける際、ほうれん草でもカボチャでも放り込むつもりで持って出たのだが、スーパーの中で引っ張り回すのを遠慮し、外に置いて買い物をしたら、すっかり忘れてしまったのだ。

 多分。

 はっきりしたことはわからないのだが、多分、3、4日前のことだと思う。

 近所のそば屋に自転車で出かけ、歩いて帰ってしまったので、そば屋から「あんたの自転車が10日くらい前から置いてあるよ」と言われた斎藤清六みたいだ。(斎藤清六は今どうしているのだろう。家業の「米屋」を継いでいるのだろう、と推測するが。)

 そういうわけで、バッグの中は空っぽか、それに近いのだが、もしかしたら住所録が入っていたかもしれない。

 住所録が、一週間くらい前から見当たらないのだ。

 もっともその住所録も、主要なのは、別のメモに書き出してあるので、2、3、支障はあるが、大したことはない。

 しかし、「風に吹かれて」をもって外出する際には、キャスター付きバッグが不可欠である。

 もっともこれまで使った限り、キャスター付きのバッグは、不安定で、いわゆる「コロコロ」に適当な大きさの段ボール箱を縛り付けるのが一番使いよかった。

 ともかく、明日、またフリマで、探そう。

 カボチャを購入。

 メチャクチャ固いのでびっくりしたが、火の通りが良いのにもびっくりする。

 料理法は、ネットを参考に、ひと月前くらいから冷蔵庫にあったベーコンをまずいため、それにトマトとタマネギとカボチャを適当の大きさに切ったものを放り込み、ふたをする。

 ネットの記述では、ささっと塩こしょうで味をととのえ、食べる際に、再度ポン酢で味付けをするみたいに出ていたが、ポン酢の必要はさらさらない。

 塩こしょうもいらないくらい。

 「主食」は、メザシ3匹、プラスほうれん草、プラス大根、プラス人参、プラス玄米飯のチャーハン。

 ともかく、ここしばらくはカボチャにはまりそうである。

 こんなに火の通りが良く、料理が簡単で、美味しいとは思わなかった。

 「カボチャの種」も、非常に健康にいいらしいし。

芸術家は何故貧乏か

2011-02-25 17:03:36 | Weblog
 「口で説明することは不可能」と、複数の人から言われた「謎の店舗」、恵比寿のナディフ本店に「風に吹かれて」を持参し、取引を申し込む。

 「近々、会議があるので、そこで検討したい。置かせてもらう時には、こちらから連絡するが、そうでない場合は、特に連絡はしない。預かった本も、返却は出来ない。店に並ぶとしたら、4月から」と言われる。

 もちろん、なすがまま、キュウリがパパであり、言われるまま承諾して、その時には奥付にある住所に連絡してくれと伝え、その後、店を見て回った。

 ナディフは、恵比寿の都写真美術館にも店を出しているが、品揃えはかなり違う。

 もちろん、都写真美術館の方は、写真集が中心で、ナディフ本店は美術が中心という違い。

 置かれている写真家は、やはり荒木、森山大道、中平卓馬の3人が中心だが、他には、最近活躍の目立つ倉石信乃、清水穣等が積極的に推す作家が並べられているという印象があった。(「帯」等からの推測)

 フリードランダーの巨大な「作品集」があった。

 こちらは「風に吹かれて」の、一冊1.5キロどころか、一冊20キロくらいありそうだったが、「あ、こういう風にとればよかったんだ」と思わされるものがあった。

 ともかく、私はフリードランダーが一番好きだったのだ。

 あと、都の写真美術館には壁に全紙くらいに引き延ばされた荒木の豪徳寺のマンションの屋上の写真が飾られていたが、金子さんによると、あれは「売り物」ではないそうである。

 つまり、あくまでも飾りとして貼られているだけなのだそうで、それはナディフ本店も同様のようだったが、でも、私なんかは、「プリントを売る」という行為に果てしなく憧れるのだ。

 そういうわけで、「風に吹かれて」に掲載されている500点以上の写真も、すべて、基本的にプリント販売に応じますので、よろしく。

 もちろん、「生活の足しにしたい」ということもあるのだが、それだけではない…。

 「シェア・オブ・マイ・ライフ(フォト)」という感じかな。

 そういえば、ナディフ本店に、「芸術家は何故貧乏か」という本が置いてあった。

 かなり分厚い本で、貧乏なんで買えなかったが、「生き方として貧乏を選ぶ」のが、芸術行為の本質である、という感じなのかな?

 だとしたら、ベンヤミンのブレヒト理解に近そうだが。

「調査捕鯨」終了へ

2011-02-23 22:56:34 | Weblog
 小麦が国際的価格の高騰を受けて、2割近く値上げされるらしいが、販売価格の7、8割が関税なのだから、その関税を下げれば、値上げする必要はないはず。

 と、先に「値上げ」された時に書いたが、今回も同じことが起きている。

 何故、関税を下げることが出来ないのか?

 ニュースでは一切とりあげられない。

 くそマスコミ。

 シーシェパードの攻撃に値を上げた日本の捕鯨船団が、今年の南氷洋における調査捕鯨を中止したそうだが、これも、マスコミはまったく触れない。

 まあ、私は「捕鯨反対」なんで、この「中止」は、歓迎すべきことと思っているが、官房長官は「今年のみの中止で、来年はまた再挑戦する」と言っているようだが、シーシェパードは体制を強化して待ち構えるそうだし、どう考えても、そんなことはあり得ない。

 日本の「調査捕鯨」は完全に息の根を止められたのだ。

 日本は、「文化ナショナリズム」を主張するには、自分が大国過ぎることを深く自覚すべきだ。

 これからは、日本は、「文化ナショナリズム」を抑制し、反発する人々を説得する立場に立たねばならないのだ。

 ――と、私は思うのだが、日本のマスコミには、こういう「自覚」は皆無である。

 「調査捕鯨」の終了を伝えるマスコミが皆無なのも、どうやって、日本国民に、事態が「斯くなった」ことを説明したらいいのか、わからないからかもしれない。

ドーア教授「日本政府は日本国民に毎月生活費を支払いなさい」

2011-02-22 15:40:39 | Weblog
 昨日だったか、たけしの番組に、「ハーバード白熱教室」のサンデル教授が出ていて、まあまあ、面白かったが、番組の後半、「外国の文化人が、日本の抱える諸問題をこう解決する」で、日本の研究家で、現在はイタリアに住んでいるロナルド・ドーア教授が、「日本政府が、全日本国民に生活費として月10万円を支払う」と言った。

会場は、いっせいに「えー?」という、疑惑の歓声に包まれたが、もちろん、これが「ベーシックインカム」だ。

会場の疑惑は、「財源は?」という一点に絞られるのだろうが、市場にバラまかれた十万円はほぼ百パーセント、使われる。

これは、少なくとも工学部的センスで言う限り、財源問題は心配ない、というか、問題がない。

ドーア教授は、ベーシックインカムの専門研究家ではないため、その財源としては、やはり、「税」が語れていたようだが、今の主流としては、政府発行紙幣をベーシックインカムの「財源」とする考えではないか。

よく語られる例だが、日本政府の予算は毎年約90兆円だが、90兆円の紙幣が毎年刷られ、バラまかれているわけではない。

日本全国で使われている紙幣は、すべてで、4兆円くらいらしい。(これはだいぶ前に聞いた話で、今はもう少し増えているかもしれない。)

だとしたら、それを、デリバティブやら、巨大公共投資とやらで使われる巨額の金と切り離し、「生活のため」に使われるお金として、政府が「一種のクーポン券」として発行するのだ。

「財源」なんていうものは、なにしろ、「クーポン券」なんだから、「印刷費用」だけだ。

もちろんこれは、どの国、社会でも可能であるわけではない。

一億人の国民が毎月10万円消費する、その消費対象を生産してくれる社会でなければならない。

そして日本ではそれが出来る。というか、いやっというほど、それが出来る社会だ。

そもそも、オートメーションの発達した現代社会では、社会構成員の4割くらいが、潜在的失業者なのだそうである。

潜在的失業者でないのは、仕事をお互いにまわし合っているのだ。

だとしたら、「ベーシックインカム」は、時代的必然と言うべきではないのか?(NHKも、ロボコンを主宰するだけでなく、なんのためにロボットをつくるのか、そのことを考えるべきだろう。)

混乱

2011-02-20 16:25:02 | Weblog
一昨日、恵比寿の東京写真美術館に「風に吹かれて」を一冊、寄贈してきた。




といっても、「寄贈されてありがた迷惑」ということはないとおもう。

事務局長(なのかな?)の金子隆一さんはかつての仲間というか、親友だし。(一応,かつて写真をやっていた人間なのだ)

写真美術館では、整理した上、三月から三月から公開ということです。

その東京都写真美術館では、4、5月頃から戦前芸術派写真の精髄と題して、元資生堂の社長、福原信三(現社長の福原が写真美術館の館長だ)とか、安井仲治といった人を取り上げるらしい。

安井仲治は、彼自身が作ったプリントが多数残っているそうで、こりゃ楽しみだ。

それから、バルトの写真論「それは=かつて=あった」が、写真がノイジーな「物質」として残っていることが前提されているといったことをしゃべった後、帰宅したが、そのとき、自分が関わっている企画ではないのだがということで、「恵比寿映像祭」を見ていったらどうかと言われ、見ていくことにした。

ヨーロッパ、日本の映像作家、アニメイターらの作品を集めたものだが、案外面白かった。

特に面白かったのは、タニア・グティ・クレティオアスの、交差点を歩いている人をCGで再現したもの。

なぜって、私が撮った「交差点」の写真とコンセプトが似ているから。

単純な話だ。

ところが、こうしてCGで再現されたちっちゃな人々が目の前で行き来しているのを見ていると、それがイメージとして残ってしまい、ヤバいことになった。

「ちっちゃなCG映像」が残ってしまうのだ。

それで、さきほど、ジューサーで人参ジュースとリンゴジュースを作ったのだが、なぜかフィルターを外に巻いてしまったため、ジュースが全然しぼれなかった。

え、なんで?と思ったが、要するに,内と外が逆にセットしてしまったのだ。

フンドシを身体の外に巻いたようなものである。

写真美術館では上から見ていたCG画像が、アパートではなぜか,寝転がって下から見上げる形になっているため(見ているものはCG画像なんかではなく、単に本を棚の下から見ているだけなのだが)、混乱を来したものであるらしい。

よくわからないけれど。

1円切手が450円

2011-02-17 13:00:10 | Weblog



「風に吹かれて」を送付したH氏が、1円切手が450円分びっしり張ってあって、驚いたというか、笑ったというか…という話を人づてに聞いたが、確かに、使い道のない1円切手が500円分くらいあったので、郵便局にもっていったのだが、普通、そういう場合、その切手にスタンプを押し、郵便物自体にはその切手は貼らず、収入分のスタンプを押すと思うのだが…ずいぶん、素人っぽいことをするものだ。

 エー、今日はこれだけ。

ゴーゴリからナガトモまで

2011-02-16 10:19:19 | Weblog
 ゴーゴリの「死せる魂」上下巻を読む。

 実は、二度目なのだが、最初読んだときも面白かったが、読み返して、「驚嘆すべき面白さ」に変わった。

 ロシア人のぐうたらな性格について、様々に活写しているわけだが、一度目は、それが「隔靴掻痒」だったのだろう。

 もちろん、読み返すことでそれが「隔靴掻痒」ではなく、肌身にしみてわかったなどと言うつもりはないが、ロシア人が読んだらどんなに腹を抱えて笑うだろうこと、その様子を想像することができるようになったのだ。

 実際、「死せる魂」ではないが、印刷屋の活字拾いが、渡されたゴーゴリの原稿に抱腹絶倒して仕事にならなかったという逸話がある。

 特に下巻の第一章、上巻でおなじみとなった詐欺師のチチコフが再度登場するあたり、「待ってました!」と声をかけたくなるほどだが、実はこの頃からゴーゴリは精神に異常をきたし、インチキ宗教家(霊媒師か何かか)に入れあげた結果(「因果」の順番は逆かもしれないが)、印刷屋に入れるべき原稿を自ら焼いてしまった。

 それで、わずかに残った原稿をかき集めて作ったのが「死せる魂」の下巻で、したがって、下巻の後半以降はほとんど小説としての体をなしていないので、律儀にすべてを読むことはやめたのだが、ここで、大方の日本人はこう思うかもしれない。

 「やっぱり宗教は怖い」と。

 じゃあ、日本人は無宗教なのか、無神論者の集まりなのかというと、そうではない。

 ここで、話がガラリと変わるが、最近、イギリスのBBCが、「自殺者を出した日本のアパート」の顛末についてのドキュメント番組が放送されたらしい。

 それは、極東ブログというブログで知ったのだが、要するに、血が流れたとか、そういうことではなくても、「清掃」および、「おはらい」にかかった費用とか、数年間は貸すことができないので、貸したとしたら入ったであろう家賃の何割かが、入居時に保証人になった人に請求されるわけだ。

 その金額は、高い場合は100万円以上になるらしいが、いずれにせよ、このことが取材され、放映されるということは、欧米ではそんなことはあまりないのだろう。

 ここで興味深かったのは、実は、記事に寄せられたコメントだ。それは、こう言っていた。

 「日本の宗教はアニミズムであることを世界に発信しなければならない」。

 ということは、そうすれば、日本のアニミズムが、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教等の「世界宗教」と同等のものとして理解され、認知されれば「自殺アパート」のような、ある意味「興味本位」の番組が作られることもない、というのか?

 それは、あり得ないと私は思う。

 そもそも、そんなことは、まさに岸田国士が批判した日本文化の畸形性をグローバルスタンダードとして認知させよ、と言っているようなものだが、しかし、NHKは、まさにそれを必死に推進しているのだな。

 少女たちの「かわいい」文化とか。

 「畸形性」そのものが悪いわけでは、必ずしも、ない。

 ただ「カンチガイ」は恥ずかしいし、怖い。

 ファッションについて言うならば、少女たちではなく、むしろ、日本の青年のファッションこそ、グローバルスタンダードになりうる。

 それが、就職とともにリクルートファッションに変わってしまうのは残念だが、日本の若者(男性)は、世界一おしゃれでかっこいいと思う。

 実際、ジバンシーだったか、デザイナーが、定期的に日本に来て若い男性のファッション動向をチェックしているとか言っていた。

 中田ヒデ、は、ちょっと「かっこつけすぎ」と言われたらしいが…ナガトモ…いいでないかい。

まるで手品

2011-02-15 13:23:47 | Weblog
 「豚飯」は、いささかイメージが悪かったかもしれない、と、アップされた文字面を見て考えた。

 でも、「豚飯」、けっこううまいのだ。

 特に、イワシとかサンマのような魚の「腸」は、子供の頃は嫌いだったが(たいがいの子供がそうだろう)、好きになった。

 しかし、その「腸」に食べたものがいっぱいに詰まっているよりも、空っぽ、つまり、空きっ腹の「腸」のほうが香りがあっておいしい。

 と、和歌山でサンマの丸干しをつくっている人がテレビで話していた。

 「サンマの丸干し」なんて、東京では見たことがないが、現地の人は、まさに「腹=腸」にかぶりつくようにして食べるのだそうだ。

 うまそうである。

 最近,健康のために毎朝、人参+リンゴジュースをジューサーで作って飲んでいるが,かなり大振りな人参が丸々一本、水も何も加えずに、コーヒーカップ一杯のさらさらしたジュースに変身するのを見て驚いている。

 まるで手品である。

 いったい、町で売られている、「百パーセント濃縮還元」をうたいものにしている野菜ジュースは、どのようにつくられているのか?

 家庭用ジューサーのように、原材料に含まれる水分だけで、あのような「ジュース状」になるのだとしたら,原材料は格段に安くとも、到底採算はあわないのではないか?

 次に驚いたのは,「搾りかす」の量の多さである。

 「搾りかす」、すなわち「ウ○コ」である。

 動物園の草食動物は、たとえば象なんか、ほとんど食べながらウ○コをしているようなものだが、宜なるかな、と思った。

 と、またまたイメージが落ちてしまった。

豚飯

2011-02-14 02:12:57 | Weblog
 JR板橋駅にほど近い場所にある喫茶店「百日紅(ひゃくにちこう)」で、ハーブ・セラピストの由里さんに会い、写真集を渡す。

 購入していただいたのだ。

 由里さんは、ときどき、この「百日紅」で自分のハーブをテーマにしたり、あるいはそうではないものをテーマにした集いを開いているのだそうで、今日は、「ハーブの会」を催したんだそうである。

 私は、この店に向かう途中、故障で修理に出したケータイを受け取った際、意外に時間がかかってしまい、その集いには参加できなかった。

 なんで時間がかかったかというと、ケータイの着信がいきなり留守電モードになってしまうという不調が発覚、それで修理に出したのだが、検査した結果,どこも異常はないが念のため基盤を取り替えたという。

 それはありがたいが、念のため、直っているかどうか確かめてみたいと思い,その場で電話してもらったら、いきなり留守電モードになってしまった。

 「あれれ?」と首を傾げる係員。

 あちこち電話をして確認したりした結果、「直った」みたいで、「しばらくこれで使ってください」と言われた。

 そんなこんなで時間を使ってしまって、「百日紅」に着いたときには会は終わっていたのだが,その後、いろいろ、写真の話題を中心にお話をしたのだが、新鮮でした。

 何しろ5年近く、ほぼ引きこもり状態でいたのだから。

 もっとも、その間、常に「想定読者」と会話を交わしてはいるのだけれど、その「想定」が、編集の変化とともに、で時々刻々変化してしまうから、想定された会話も、どんどん変化してしまうのだ。

 要するに、私としては、ああもすればよかった、これはよけいだったかも、とか、本が完成した今でもまだあれこれ考えてしまうのだが、ともかく、「完成形」として、読者の目の前に事実として存在しているわけで、この事実は事実なのだ。

 本が存在するという事実と,読者が存在するという、二つの事実が事実として存在しているのであり、それをもとに「話す」ということが、「新鮮」だったのだ。

 想定読者との会話では味わえない、もの。
 
 ですな。


 その由里さん、目の前に出されたケーキを写真に撮っている。

 自分のブログに掲載するためだという。

 あーなるほど、やっぱり、ブログのヒット数を増やすには、「料理写真」が一番なのかもしれない。

 ちなみに私の今夜の食餌は、フライパンに4匹百円で買ったイワシを一匹丸ごと放り込み、簡単にいためたところに大根、人参,長ネギ、生姜、セロリ等の香味野菜、そして小松菜を加えてふたをし、蒸し焼き状にしたところに、軽く煮ておいた「麦飯」を放り込み、でかきまぜ、おじやとチャーハンの中間のようにしたもの。

 味付けは塩こしょう。

 これでも、結構うまいのだ。

 今気がついたが、食事の後、捨てたのはイワシの骨だけなので、「頭」も、いつの間にかぼりぼり食べてしまったのだろう。

 したがって、このおじやとチャーハンの中間は栄養的にもいいはずだが、写真に撮ったら「豚の飯」のように見えるだろうなあ。

無縁社会

2011-02-13 11:33:03 | Weblog
 新宿の蒼穹舎(新宿区新宿1-3-5新進ビル3F)、模索舎に、「風に吹かれて」を、納入。

 よって、こちらでもお求めになれます。 

 しかし、5年近い時間を費やしながら、費やす時間が長ければ結果よしというわけでもなく、分厚ければ、よしというわけでももちろんないという事実を、今、噛み締めている。

 あかんなあ、素人だなあとつくづく思う。

 気分が安定していないのだ。

 逆に言うと、写真が、自分そのものになってしまっている。

 その辺は、プロは違う。

 彼らは、たとえば、富士山を撮る場合、撮るのは「富士山」で、「自分」なんかじゃない。

 私は富士山の写真を撮ったことはないけれど、もし撮ったら、それは私を写したことと同じなのだ。(「私にとっての富士山」でも、なく)

 それは、盲人の撮る写真が、常に「自分(の脳裏の景色)」であることと同じだ。

 実際、盲人の写真を見て、「あれ、私のと似ている」と、思ったことがある。

 要するにプロのカメラマンは、市場における需要の在処を知っていて、写真をそれに合わせることで常に一貫しているけれど、じゃあ、その写真はそれを見る人にとって真に興味あるものか、というと、必ずしもそうじゃない。

 「よく撮れてるねえ」の決まり文句以上のものではなく、それとこれは、別の話、とくやしまぎれに後ろ足で砂をかける。

 それはさて、模索舎に納品した際、「ビッグ・イシュー」なんかは置いてないのですか?と聞いてみた。

 例の、ホームレスが街頭で売っているやつだが、「うちで扱ってもいい雑誌のはずですが、接触は一つもありません」とのこと。

 表紙がなぜかハリウッドスターだったりして、よくわからない雑誌だが、常に「ビッグ・イシュー」一冊だけを頭上にかざして売っているので、買う方としては、雑誌「ビッグ・イシュー」に興味があるのではなく、ホームレス支援のためという単一目的で買うことになる。

 そうではなく、何種類かの雑誌を売れば、買う方も買いやすいのではないかなどと少し話して帰ったが、帰宅後、NHKテレビで「無縁社会」をテーマにした討論番組をやっていて、ひな壇に並んでいた無職だったか、フリーターだったかの40過ぎの女性が、自分は月に2回、「ビッグ・イシュー」を買っていると言い、そのときに売り手のホームレスの人に喜んでもらえるのが、自分にもとても嬉しいことなのだと話していた。

 また、別のフリーター男性は、こう言っていた。

 「日本は縦社会なので、縦の関係が切れると、すぐに孤立してしまう」と。

 ここが肝心要の共通認識として共有されれば、問題は解決に向かう一歩を踏み出せるのだが、NHKは、ツイッターによる討論参加を呼びかる等、「今風」に乗り遅れまいと必死。

 早々に見るのをやめたが、「無縁社会」だなんて、江戸時代じゃあるまいし、あたかも社会が「縁」で成り立っているかのような、「いや~な感じ」で、なおかつ、社会学的にもきわめて不正確、というか、全然認知されすらいない、NHKの勝手な造語。

 繰り返すが、日本の社会が横の連帯を欠いていることが問題なのだ。

 それが、貧乏人を直撃しているのだ。

 以下、コピペによるお知らせです。お目障りでしょうが、しばらく続けさせてください。



 ついについに、構想5年、写真集「風に吹かれて」ができました。

 「写真集」の著者が撮ったにしては汚い写真だけれど、一応アップしておきます。

 総ベージ数、648ページ!

 内、写真論(映画論も含む)に127ページを費やし、その総文字数20万!

 分厚ければいいというものではないけれど、重量、1.5キロ!