パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

どうせバカだと思ってんでしょ

2011-05-30 18:33:18 | Weblog
 今回、新しく「風に吹かれて」のブログをつくったのだが、サーバーにlivedoorを選んだ。

 ライブドアを選んだのは、無料ブログをグーグルで検索した際、一番上に出たFC2の使い方がのっけからわからず、3番目のniftyのブログ――いわゆるココログというやつだが――はあまりに芸能人を重視しているようで敬遠し、2番目に出ていたライブドアにしただけなのだが(ホリエモンが、ベーシックインカムを主張しているのには、共感しているが、ホリエモンは今はライブドアと関係ないんだろうし)、選んで以来、メールニュースが届く。

 「ドアスポ」というのだが、これが、けっこう、タイトルがうまい。

 たとえば、「バカでもできる阪神の犯人探し」。

 なんだろうと思って、メールを開いてみたら、マートンがアウトカウントを間違えて、捕ったボールを客席に投げ込み、類に出ていた走者がホームインしてしまった一件だった。

 「ドアスポ」曰く、どう見てもこれは弁解の余地のない、マートンの凡ミスにはちがいないが、マートンは、大リーグ経験もあり、プレイに関しては大変に真面目に取り組む選手であることは、みんなわかっているし、本人自身が一番反省し、恥ずかしく思っているので、「責任追及」なんてことをやってはならない。

 ところが、阪神のフロントはそれをしようとしている。

 これが、「バカでもできる阪神の犯人探し」というタイトルの意味だった。

 「なるほどね」と思ったのだったが、「ドアスポ」は、さらに、「このようなフロントの体質は、阪神の伝統的な鎖国体質からくるもので、もっと開放的にならなければならない」と主張していた。

 マートンの一件はその後、どうなったのか知らないが、この主張を読んで、ホリエモンが今も関与しているのではないかと思ったのだった。

 それにしても「タイトル=名前」というのは、とても大事なもので、それですべてが決まる、といってもいいくらいだ。

 私が「やられた!」と思ったのは、私がかつて在職していたことのある辰巳出版の雑誌、「SHIBA」だ。

 なんの雑誌かというと、柴犬の専門誌。

 意表をつかれたというだけで、ネーミングとしては大したことはないかもしれないが、見たときは驚いた。

 あと、飯島愛の「どうせバカだと思ってんでしょ」だ。

 見たのはつい最近、前、少し書いた保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」の横に50円で売られていた。

 彼女の名前を見て、懐かしいと思う以前に、「飯島愛の死」が「予言的」だと思ってしまった。

 それは、飯島愛という女性の名前と、「どうせバカだと思ってんでしょ」というタイトル(名前)の相乗効果だと思うが、「どうせバカだと思ってんでしょ」は、つい数日前、見たら、なかった。

 売れたわけだ。

 しかし、「飯島愛の死」は、どこがどう、予言的だったのだろう? あるいは、そう感じたのだろう?

 今気がついたが、「どうせバカだと思ってんでしょ」と、「バカでもできる阪神の犯人探し」は、「バカ」が共通していたのだった。(そういえば、「風に吹かれて」のブログ記事も「バカです」だった)

飯田鉄写真展について

2011-05-28 15:19:25 | Weblog
 ブログのデザインを少し変えたのだが、ついでにプロフィールを載せないように設定した。

 出身地とか、年齢とか、性別の欄に「表示/非表示」とあったので、「非表示」を選択したのだが、画面に「非表示」と出てしまった。

 改めて説明文を見ると、プロフィール写真を載せる場合は、性別とか出身地等のデータを表示しなければならないと説明されていたので、決して嘘をついているわけではないが、「非表示」をクリックすれば、実体も「非表示」になると思うのが普通だろう。

 官僚的な対応だなあ。

 画面に反映するまで、丸一日以上かかる場合があるようなので、もしかしたら、いずれ消えてくれるかもしれないのでこのままにしておくが、感じ悪い!

 昨日、東京四谷の「トーテムポールフォトギャラリー」で明日まで開かれている飯田鉄氏の写真展、ならびに大日方欣一氏を対手とするトークショーを拝聴した。

 飯田氏の写真は随分以前から見ているのだが、私が抱いていた「写真家・飯田鉄」のイメージとだいぶ違っているように思えた。

 飯田鉄の写真は、これから滅びていくであろう都会のモダニズムを、特に建築に見いだし、それを収集するように撮ってきたというイメージなのだが、今回展示されていた写真は、建築物ではなく(それもあったが)、本人は「庭」と言っていたが、ちょっとした茂み(植物)に囲まれた空間が主役になっていた。

 住宅街の路地なんかも、「庭」とは別のモチーフとして撮られたのではないかと思えるほど、質が高く、また数も多かったのだが、それは、「今、考えると」であって、トークショーで何か発言することはなかった。

 大日方氏の発言で、面白いと思ったのは、飯田鉄がフェミニンな資質を持っているのではないかという指摘で、何故か、私も「そうにちがいない」と思った。

 私は、飯田鉄と撮影対象(具体的に言えば「場所」)が重なる場合、が多く、それが写真家・飯田鉄への共感のひとつの理由だったのだが、それだけではなかったかもしれないと、大日方氏が、「フェミニン」という言葉を発した瞬間、大日方氏がどういう理由でそう言ったのかわからなかったにも関わらず、思ったのだった。

 その後、行われた食事会で大日方氏にそういうと、大日方氏は、「そうでしょう!」と言ってくれたが、理由については、聞かなかった。

 私が、私の「共感」を説明できないように、大日方氏から明快な説明が得られるとは思わなかったからだ。

 まあ、飯田鉄氏が、照れずに平気で「おねえポーズ」なんかを披露するという側面がこちらの視線に反映しているという、簡単なことなのかもしれないが。

 いや、そんなことではないな。

 それはともかく、その食事会で私の横に座った、武蔵野美術大学の写真科の学生で、飯田鉄の教え子だという女性に、偶々――本当は「偶々」ではない――もっていた「風に吹かれて」を見せると、「あ、この本知っている」という。

 「え?」

 と聞くと「山崎博先生の机の上にいつも置いてあるので、知っている」という。

 机の上の私物が暴露される、なんて、いかにも「今風」だが、山崎博氏は、日本の実験映画の草分けの一人である。(「実験映画」は、モダニズムを思想としての背景にもつ「前衛映画」とはちょっとちがう……と私は解釈しているのだが) 

 しかし、食事会のメンバーのほとんどは山崎博の名前を知らなかったので、飯田氏、大日方氏らがひとしきり説明した。

 私も、「山崎博」のことは知らないわけではなく、山崎氏の方でも私を知らないわけではない。

 その山崎氏が「風に吹かれて」をどう見ているのか、私としては、大いに興味があったが、彼女たち(武蔵野美術大学の生徒は二人だった)は、「先生の机の上にあった」ことを知っているだけだったので、ともかく、「風を吹かれて」を見てくださいと言うと、熱心に見てくれた。(そのことは、端で見ていてもわかる)

 しかし、残念ながら、「買います!」というところまではいかなかった。

 チッ。

 

「風に吹かれて」が朝日新聞に?

2011-05-26 20:15:47 | Weblog
 ブログ全体のレイアウトを少し変えたのだが、画面にすべて反映するまで、丸一日かかった。

 不思議だが、それはさて、なんでレイアウトを変えたかというと、「風に吹かれて」専用のブログをつくったので、そのブックマークを冒頭近くにもってきたのです。

 ぜひ、クリックしてください。(gooにはこりたので、ライブドアのブログにしたが、こっちも慣れるまで大変ぽい。どこが、一番使いやすいのだろうか?)

 ところで、昨日、京都府の人から「風に吹かれて」の注文をいただいたのだが、その人は、「風に吹かれて」を、朝日新聞で知ったのだそうである。

 え?

 朝日新聞に載ったの?

 川口市の図書館で、ここ10日間くらいの朝日新聞の朝夕刊を調べたが、該当する記事は残念ながら、見つけられなかった。

 京都府の地方版に載ったのだろうか?

 ご存知の方、いらしたら、お教えください。

 ホッケみたいな魚と、人参と、ブロッコリーと、タマネギと、椎茸と、もやしをアルミホイールに包んで10分ほど蒸し焼きし、ポン酢をかけて食したら案外うまかった。

小バエ(の発生)に思う

2011-05-25 15:42:11 | Weblog
 「あんたんとこで買ったバナナの皮に小バエがたかってるんだけど!」と、おばちゃんが抗議の電話をかけるテレビコマーシャルは、多分、川崎徹だろうが、久しぶりにおもしろい。

 例年、この頃に登場する虫除け薬のウナコーワのCMを楽しみにしているのだが、今年のは、例年とちょっと趣向が違っていておもしろい。

 「バナナの皮に小バエが……」のCMも、おばちゃんタレントの無茶苦茶な台詞が面白いと思っていたのだが、実際は、背景に隠された、「わかる人にはわかる」といったさりげない風情の「季節感」が面白いのだ、きっと。

 今日はえらくさわやかなようで、小バエの発生も比較的少ないが、これから大量に発生することを考えると、憂鬱になってくるなあ、と小バエを見ながら考えた。

 この有象無象のやから、すなわち、「生物」は、生まれては死に、死んでは生まれてくるのだが、もし、この宇宙が、小バエどころか、たった一個の細菌、バクテリアも存在しなかったとしたら、宇宙をなんと呼んだらよいのだろう、と。

 「死の世界」?

 いやいや、「死の世界」は、「生の世界」から見た世界であって、その「生の世界」がないのだから、なんとも呼びようがない。

 というか、「存在しない存在」と言った方がいいのかもしれない。

 アインシュタインが一般相対論を発表した後、記者会見で一人の記者が「宇宙に星が存在しなかったとしたら…」と質問した。

 アインシュタインは、得たりや応と、「宇宙から星を取り去ったら、宇宙も消えます」と答えたという。

 じゃあ、宇宙が消えたとしたら、その後に何が残るのか?

 それは、まさに「真の無」――なんて言うと、それはまさに、人間のレトリックに過ぎない。

 アインシュタインに言わせると、存在(物質)は、それ自体エネルギーなのだが、物理学者のディラックは、これを「海の波」にたとえ、次のように言った。

 「海の波がなくても、海は存在する」

 これは、「存在しない存在が存在する」と言っていることになるが、ディラックは、それが、通常、我々が言っている「無」だと言ったのだった。

 この「存在しない存在=無」から、何かの拍子で「存在=宇宙」が生まれ、我々はその一部だと考えれば、我々の「生」は、丁か半かの「丁半賭博」の結果というより、宇宙そのものの歴史に起因しているのかもしれない。

 これが、宇宙が、かくして存在しているのは、人間の存在に関係があるとする、いわゆる「人間原理」だ。

 なんてことを、暇なもんだから、乱舞する小バエを見ながら考えたのだった。

訂正

2011-05-23 10:37:11 | Weblog
 前回、長門裕之の死に際し、津川雅彦がマスコミに出て来ないと書いたのは、まちがいでした。

 たまたま私が見た複数の番組に出ていなかっただけで、他の番組では普通に出ていたし、弟の映画にも出ていたみたい。

 削除すればいいのだが、それもなんかみっともないので、「訂正」とします。

 訂正ついでに、一言。

 長門裕之は、昔はあんまり好きな役者ではなかったけれど、ここ数年の長門裕之は、気に入ってました。

 「過剰な自然さ」というか、「自然さを演じている」というか、「オレがオレが」という感じがなくなっているというか、そんな感じが。

 役者としては津川雅彦の方が、オーバー演技ながら、嫌味が少なくて、気に入っていたのだが、そっちのほうに近づいていたという感じかも。

肝心要

2011-05-22 22:32:00 | Weblog
 NHKスペシャルで、太地町の漁師VS反捕鯨団体の争いを扱っていたが、見ていて、NHKはジャーナリズムとして報道すべき肝心要を見逃していると思った。

 それは、太地町の漁師たちの生活が、捕鯨で保たれているとは到底思えないことだ。

 じゃあ、どのような方法で彼らは、彼らのけっこう豊かそうな生活を維持しているのか?――ジャーナリストは、こう考えがちだが、実際のところ、そんなことは問題ではない。

 捕鯨からほんのわずかの収入しか得られないのに、なんで、捕鯨を続けるのか?

 これが、太地町報道、否、捕鯨報道において決して報道されない、「肝心要」なのだ。

 私は、前から言っているが、「伝統文化」だからという理由で捕鯨をやっているのなら、そんなのはやめてしまえばいいと思う。

 そして、「かつての漁師たちは勇敢だった」と賞賛すればよいのだ。

 実際、NHKの番組では、江戸時代の漁民の絵をインサートカットし、「かつての漁師たちは勇敢だった」と賞賛していたが、このような「感情」は、「過去」に対して抱くものだ。

 かつて、捕鯨オリンピックというのがあって、日本は圧倒的に強かったのだぞ、と、過去を偲んだ報道をすればいいのだ。

 長門裕之が亡くなったが、マスコミはどこも、弟・津川雅彦のコメントを求めない。

 これも、太地町の漁民が、豊かそうな生活をどのような手段で維持しているのかを報じないのと同様な理由によるのだろう。

 自分たちが「あえて」遠慮している事実が、玉突き状に暴露されることを恐れているのだ。

 

衣干すてふ 天香具山

2011-05-21 22:17:32 | Weblog
 田園都市線の用賀駅から世田谷美術館に向かっていると、途中で、美術館への道筋が提示されていた。

 いわく、「木陰の小道」とかなんとか、小癪な命名だったが、地図を見るとまっすぐ環状八号線に出た方が早いように思い、そのまま歩いたが、さらにその途中で、そんな私を「木陰の小道」へ、是が非でもいざなうような看板があったので、小癪な道を歩いてみようかと思い直し、右折すると、ものすごい豪華な住宅が四方に並ぶ角に出た。

 その角を左折すると、「木陰の小道」だ。

 「ふ~ん」と思いながら歩いていると、歩道の敷石に、「瀬をはやみ…割れてぞ末に合わんとぞ思う」とか、「春過ぎて…衣干すてふ天の香具山」とか、そんな風な、いにしえの雅びな歌がいくつも刻まれている。

 税金で金持ちをおだてる必要はあるまい、とますます、「木陰の小道」とかなんとかを小癪で嫌みな小道だと思うと同時に、鈴木大拙の、「日本人は万葉集の大昔から感情ばかりに動かされてきた」という批判を思い出し、「こういうことを大拙は批判したのだな」と合点しながら、会場につくと、何故か、小倉百人一首のセットが置かれていて、箱を開くと、真っ先に「衣干すてふ天の香具山」の持統天皇の句が目に入った。

 私は、何たる偶然かと驚くと同時に、先刻の感情を吐露してしまい、「何を言い出すかと思ったら」と皆をずっこけさせてしまった。

 すいません。

 ただ私は、金持ちの感情生活を税金でおだてる必要はあるまいと思っただけで。

 そもそも、「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山」の持統天皇の句はそんなに悪くない。(ってえらそうに)

 問題は、それを「感情」でのみ解釈してしまう我々の方にあるのだ。

 しかし、考えてみると、百人一首の好きな一句を自ら自宅の塀に刻み込んだりしたら、どんな金持ちであれ、世間の顰蹙を買うことは必定であり、「公」という制度の独自の「効果」を思うと同時に、その基礎となっている「百人一首」の日本人への浸透度の高さに改めて驚愕したのだった。

Kobe1995

2011-05-19 15:53:02 | Weblog
 「廃墟写真」で著名な、宮本隆司さんから1995年の神戸大震災を写した写真集、「Kobe1995」を送っていただいた。

 実は、宮本氏には「風に吹かれて」を贈呈してあったので、その返礼ということだったのだが、同封された手紙に「私はあなたとお会いしたはないと思うが、分厚い写真集を長い時間をかけて見。読んでいるうちに、出身地、学歴等でずいぶん重なるところがあり、写真についても、「懐かしいというのとはまったく違う、共感とも異なる、ああそうだな、そうだったのだな、という感慨がひしひしと沸き上がってくる」と書かれてあった。

 実は、と、「実は」が重なってしまうが、私の方で宮本氏について「よく知っている」つもりでいて、そのため、宮本氏の方でも私のことを知っていると決め込んで、「風に吹かれて」をお送りしたのだったが、そうじゃなかったということで、そのギャップが新鮮というか、貴重なご意見をうかがわせてもらった、という気持ちになった。

 そもそも、「Kobe1995」を開いてみた時、僭越しごくな言い方になるが、「わたしの写真とそっくりだ!」と思ったのだった。

 私の場合は、崩れていないだけ。

 「崩れている」と「崩れていない」では、全然違うはずだが、どうも、そんな感じがしないのだ。

 多木浩二氏が、次のような「テキスト」を「Kobe1995」に寄せている。

 《最初、宮本隆司さんを論じてきた多くの人と同じく、私も多少とも夢想的な廃墟論を書こうと思った。瓦礫の山が喚起するイメージである。しかし、宮本さんの写真を眺めるにつれ、それが間違いであることがすぐわかった。かねて廃虚論は、私にとってはピラネージのローマの廃虚や、ソーンの博物館の考古学的断片の累積などを頭の隅に置きつつ、生と死を比喩的に交錯させるロマン主義的夢想だった。…(略)…。この瓦礫にそそがれるまなざしはそうではなかった。彼の「神戸」は、倒れかかった大きなビル、…(略)…路地に倒れ込んだ家屋といった様々な破壊の様相を繰り広げていくのだが、その写真からは美的夢想が消え去っているのだ。なんども見返すうちに、瞬間的に走り抜けた巨大な破壊力が見えてきた。だがそれだけではない。我々の想像力に働きかける何かがある。》

 まったく同感であるが、最後のワンフレーズ、「我々の想像力に働きかける何か」とは、何か?

 それが問題なのだが、多木氏は、まず「対象を脱意味化する写真の直接性」をあげている。

 その「写真の直接性」が「ひとつの都市が一瞬にして破壊したという出来事に我々を巻き込む」というのだが、私としては、その後、多木氏が書いていることに興味を持った。

 多木氏は、実は神戸出身で、少年時代を神戸で過ごしたのだが、神戸とはその後、すっかり疎遠となってしまった。

 その神戸を、大震災が襲う2年ほど前に久しぶりに訪れたが、その時、都市・神戸の変貌についていけず、「故郷」を訪れたのに、むしろ不安な気持ちで「故郷」を去ることになったという。

 ところが、「Kobe1995」を見ているうち、故郷・神戸を懐かしく思う気持ちが甦ったというのだ。

 その理由を、多木氏は、「神戸を離れていた間に駆け抜けていった時間が、大震災で、一瞬、止まってしまったため、記憶が甦る隙間ができたのかもしれない」と書いている。

 要するに、「Kobe1995」では、時間が止まっている、というのだが、わたしの写真も、「時間が止まっている」とよく言われるのだ。

 それで、「Kobe1995」を見て、「わたしの写真と似ている!」と思ったのだったが、わたしのことはともかく、なんで宮本氏はあんな写真を撮ったのだろう。

 よく、大災害が起こると、ニュース等では、時間が止まった時計が時計が象徴的に写し出されたりするが、そんな軽薄な動機とは、「Kobe1995」は無関係である。

 では、どんな動機が宮本氏を動かしたのか。

 それは、説明できない。

 というか、説明すると、循環論法に陥るのだ、と思う。

タコシエ

2011-05-19 00:25:48 | Weblog
 中野ブロードウェイの「タコシエ」に、「風に吹かれて」を納入した。

 事前に電話して、「あの~、以前、お世話になっていた、南原企画の南原ですが」と言うと、「あ~ら、お久しぶりです」と、覚えていたくださった。

 5年以上、ひきこもり、すっかりご無礼していたのに、うれしかった。

 「ひきこもり」という表現は、自分としては「謙譲」のつもりもなくもないのだが、自ら「ひきこもり」を強調すべきではないと反省した。

 そもそも、誰も、「ひきこもり」を「謙譲の辞」とは思わないだろうし。

 「風に吹かれて」だって、自分の川口市の部屋に置いてあるだけでは、まさにそれ自体「ひきこもり」で、何事も生み出し得ず、最後はメルトダウン。

 メルトダウンって、つくづくやな言葉だ。

 川口市といえば、前回、「川口市」というテーマで写真を撮れと言われても、「川口市」なんて概念自体、存在しない、とわけのわからないことを書いてしまったが、要は、こういうことである。

 「川口市」とは、行政区で言うところの川口市に存在する、有限個の――すなわち、川口市のそこかしこに存在する住宅だの、商店だの、公園だの、河川敷だのの集合体であるけれど、その有限個の対象を「川口市」と定義する際、実は「川口市(という概念)」を拠り所として、定義したのである。

 これは「循環論法」である…というわけだが、ちょっと生煮えだったか。

 ともかく、「タコシエ」をよろしく。

絞り柄のTシャツ

2011-05-17 22:13:13 | Weblog
 世田谷美術館、第13回「写真の地層」展に納入。

 最初、前回とは違うものを、と考えていたが、結局同じもの、というか、その一部をレイアウトを若干変えて展示することにした。

 環境を変えれば、一度みた人でも、ちがう印象を持つだろうと。

 ちなみに、下の写真は小松浩子さん、上の写真は、桑原敏郎氏の作品の一部。

 「写真の地層」展は、毎回、いわゆる「概念写真」的な傾向を持つが、わたしの写真は、見ての通り、「概念写真」ではない。

 しかし、写真とは、写真という概念を写すもの、あるいは、関わりのあるものという気持ちは強くあり、たとえば、「川口市の現在を写す写真展」に誘われたとしたら、「川口市の現在」なんて「概念」はないはずで、参加するとしたら、やはりこっちになるのだろう。

 そして、おもうに、その「概念」は、かつては「動物園」、今は、「日常」ということになるのだろう。

 ところで、一般的に「日常」というと、イコール「私の日常」なのだけれど、「概念としての日常」は、そうではない。

 「your village――故郷+〈故郷〉」の柳本尚規風に言えば、「あなたの日常でもあれば、私の日常でもある〈日常〉」ということになるだろう。

 5・18日(水曜日)~22日(日曜日)までやっているので、よろしかったらおいで下さい。

 会場に、70年代風の「絞り柄のTシャツ」を着ていったら、谷口雅、金村修両氏に「年寄りの冷や水」と冷やかされた。

 年寄りでなくても、今日の天候では、Tシャツ一枚では、寒い。

 幸いにも、傘は持っていたが、傘を用意するくらいなら、ちゃんと上着を着てくるべきだった。

 震えながら、山手線に乗ると、中学生の男子から席を譲られ、ショックを受ける。

 ありがとう、中学生君。
 
 なんだかんだ言いながら、以前より、「お互いに他者を気遣う」ようになったという点で、日本はよい方向に向かっている、と思うこともあるのだ。

 もちろん、そういう「気遣い」は、「日本は一つ」だからではなく、逆に、日本にはいろいろな人(民族)が暮らしているという現実からきている、と考えたいし、そうでなければならないと思う。