パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

コピー人間とクオリア問題

2006-01-30 00:00:39 | Weblog
「映画の研究」とタイトルは決まったものの、なかなか筆が前に進まないのは、「動くものが動いて見えるのはいかなるメカニズムによるのか」という問題に引っ掛かってしまったからだった。それで、一つ、ここらで中間報告を、勉強のまとめとしてかいてみたい。

 1、我々が、肉眼で「動くもの」を見るメカニズムは、映画の「映像」が動いて見えるメカニズムと同じである。

 周知の通り、映画の場合、標準で1秒間あたり24コマの映像が、ストップ&ゴー形式で消えては現れ、現れては消え、消えては現れる、という過程をくり返すことで動きが再現される。これを「間歇運動」というけれど、実は、我々の肉眼もまた、これと同じ、ストップ&ゴーで「動くもの」の動きを見ることができている。もちろん、その精度は映画よりも高いと思われるけれど、1秒間、50コマを越えるようなことはないだろう。(いわゆる「動体視力」の優れた人とは、このコマ数が大きい人のことと思われる)ただし、このことに触れた映画の研究書は、私が見た限りでは皆無だった。ただ、映像のマジックの、いわば「種明かし」として、「間歇運動」が紹介されているだけである。(いまだに「残像現象」で映画のカラクリを説明している本もあるけれど、これはまったくのアナクロな間違いである。たとえば、最新の液晶テレビの広告には、「残像をカットすることで鮮明な動きの再現に成功しました」と書かれているくらいだ)
 唯一、長谷正人という千葉大学(今は早稲田で教えているらしいが)の教授が、ウェブ上の論文で、…あああ、長くなりそうなので、また明日。

 
 ところで、埼玉で一夫多妻家庭(?)を営んでいた男は、若い女性を暗い部屋に誘い、私達(彼、及び彼の妻たち)以外の人間はみんなコピー人間なんだ、とか言って誘い込んだと新聞に書いてあった。全部が全部、この手で誘ったわけでもないだろうが、実は、これが前に書いた「クオリア問題」なんですな。つまり、私以外の人間が、コピー人間、あるいは宇宙人、あるいはロボット(…なんでもいいが)ではないことを証明することは不可能である、ということを利用したわけ。たとえば、その女性を窓際につれていって、外を歩く人たちを指差し、「彼らはみなコピー人間なんだ」と言う。女性は、「まさか」と笑う。男は真剣な顔で、「じゃあ、そうじゃないって、君は証明できる?」と言う。女性は、改めて考えると、それができないことに気づく。も、もしかしたら…と芽生える懸念。女の不安を見て取った男は、すかさず言う。「俺はお前が本当の人間であることを知っている。実は、本当の人間は、ここにいる女たちと、俺だけなんだよ。わかったかい? じゃあ、仲間になりなさい」

 んー(笑)。

ケロロ軍曹、って…

2006-01-28 17:36:27 | Weblog
 …なんだ?と思ってグーグルで調べたら、テレビ東京の(笑)、関係ないです、アフォーダンス理論とは。いや、関係ないでしょう。

 アフォーダンス理論とは、従来、写真や絵画で説明されてきた視覚理論に代わるものです。じゃあ、具体的に説明せよといわれると、極めて難しいので、それを承知でいうと、人間に限らず、犬でもネコでも、馬でも鹿でも、あるいはチョウチョでも、芋虫でも、生きとし生けるものはすべてアフォーダンス環境の中で生きており、その数だけ「世界」がある。それも、「視覚」(芋虫の場合は触覚かなにかになるのでしょうが)が瞬間瞬間に、具体的に言うと、人間の場合1秒間5、6回眼球が動き回っていて、その動いている間には、視覚は機能を停止していると言われています。たとえば、読書していて、行から行に目を移す時、視覚は瞬間的に機能を停止しているのです。これは、専門書になんとか現象とか書いてあったけど(…あ、思い出した。「サッケード現象」だ)、要するに、人間の目は、何を見ていなくても、1秒間に5、6回、断絶的に切り替わっているわけで、ということは、その数だけ「世界」も切り替わっている。「更新」されていると言ってもよいが、つまり、その意味では、アフォーダンス理論は、宇宙物理学でいう、「多世界理論」に似てます。
 もっとも、これは私のオリジナルな考えなので、アフォーダンスの解説書にはそんなこと書いてありませんが、悪しからず。

 ちなみに、巷に流れているアフォーダンス解説書では、アフォーダンス理論はデザイン理論として紹介されている場合が多いようです。これは、今売れっ子の某日本人デザイナーがアフォーダンス理論に基づいて、マイクロソフトのゲーム器、「Xボックス」をデザインしたとあちこちで喋っていることが影響しているみたいです。それによると、そのデザイナー氏は、解説書などを読まなくても、それを見て、触るだけで自然に機能を理解できるように、アフォーーダンス理論を導入してXボックスをデザインしたというのです。

 ここで、ちょっとデザイン理論としてのアフォーダンス理論に触れておくと、たとえば、椅子なら椅子を例にとると、丸い椅子から、四角い椅子から、アームつきから、アームなしから、長椅子から、なにやらかにやら、いろいろな形態(デザイン)の椅子があるわけですが、人間はそのいずれも、ひと目見ただけで「座る」道具だと見分けることができる。しかし、この事実を、従来の、写真、絵画をもとにした視覚理論は説明できないわけです。では、どんなふうに考えればよいのか、ということで出てきたのがアフォーダンス理論であると。
 で、この「アフォーダンス理論/デザイナー向けバージョン」の場合、ひと目でその機能(たとえば、「椅子」なら「椅子」と)がわかるように、意図的に――理想的には何も考えなくても自然にその機能に到達できるように――工夫されたデザインが、アフォーダンス理論に基づくデザインの理想ということになります。(MacのOSXなんか、典型的アフォーダンス的デザインです)

 なんで、デザインのことに多く触れたかというと、前に書いたように、今現在では、デザイン理論としてアフォーダンス理論を紹介している場合が9割だけれど、いずれ、本来の意味で脚光を浴びる時がくるだろうと思うわけで、その時には、月光読者のみが、「ア~ラ、何言ってんの、私たち、そんなこととっくに知ってたわよ~ん」と自慢してもらいためなんですな。いやー、深謀遠慮。

 毎日新聞のコラムにアラブの言葉が二つ、紹介されていた。

 一。「アッラーは二つのことを軽蔑なさる。その二つの中の、よりましなほうが貪欲である」

 アラブ人は、「ましな方」を選んでいるのかな。ちなみに、「ましでない方」は、明らかにされていないそうだ。

 二。「馬に乗ると神のことは忘れ、馬をおりると馬のことは忘れる」

 人間は忘恩の輩であるてことかな。よくわからないない~。

 結論。アラブ人って、馬が好きで、恩を忘れることがあり、貪欲である、てことかな。

鬱の日には

2006-01-25 21:06:24 | Weblog
 いやー、どうも深刻な問題が持ち上がっちゃいましてね。鬱々とした気分を振り払うべく、牛丼の松屋に出かけ(なんのこっちゃ)、チキンカレーを食していたところ、対面のカウンターで中国人か韓国人風の若い女性が二人、牛丼を食べていた。もれ聞こえてくる会話からは、どうも韓国人らしい。
 そのうちの一人が、はっきり言って、東アジア女性の利点である「美しい肌」の持ち主では無く、色も黒いのだが、それにもかかわらず、いかにも東アジア風の美人というか、パール・バックの『大地』における「利発で、果敢に困難に立ち向かう情熱も持つ農家の嫁」という感じ。
 そんな彼女を見ながら考えた。美人の基準とは何なのか。西欧系(北欧系)、中欧系、東欧系の美人はそれぞれ微妙に異なっても、基準はほとんど同一だろう。中東からインドとなると、かなり「美人」の肌合いはことなってくるが、それでも共通した基準を持っているような感じがする。
 ところが、中国、朝鮮、日本といった東アジアにくると、基準そのものがちがってくるような感じがする。しかしそれでも、たとえば日本人が西欧人の美人・不美人を見分けることができるように、西欧人も、日本、あるいは韓国、中国の美人・不美人を、どこまで深く分け入ることができるかは別として、見分けることができる。これはなぜなんだろう。

 あんまりたいした問題ではないが、「鬱々とした気分」を振り払うにはこんなことを考えるのがちょうどよい。

 しかし、たいした問題ではないと言ったけれど、「見分ける」ということは、いろいろな意味で大問題だ。たとえば濃い色のサングラスをかけても、赤色はちゃんと赤色に、青色は青色に認識されるのは、どういうメカニズムを通してなのだろう。さらに、私が見ている「赤色」と、あなたが見ている「赤色」は同じものだろうか、ということになると、「クオリア(質感)問題」といって、科学では判断が不可能ということになっている。つまり、たとえば私が今見ているパソコンのデスクトップはブルーグレイで、ファイルにも「ブルーグレイ」と書いてあるのだけれど、でも、私が今見ているデスクトップを別の人が見て、「なるほどブルーグレイですね」と言ったとしても、その「ブルーグレイ」が、その人の目にどう映っているかとなると、まったくわからない。
 うーん、どうでもいいことのような…気もする(笑)。

 しかし、色の問題は、今書いた、それが主観的にどのように受容されているかという問題(クオリア問題)を除けばよくわかっている。つまり、色とは、光の波長が視神経に与える刺激の問題であって、本質的には、触覚と同じ、「直接知覚」として扱える。
 問題は、直接触れていないのに、対象の状態を把握できる「間接知覚」すなわち、「空間知覚」であって、ギリシャ時代から哲学者が論じてきたが、近世以来、眼球をカメラに例えることで説明されてきた。しかし、カメラ仮説で空間知覚は、実際のところ、ほとんど説明できない。

 となると、まず、「空間知覚」とは何かということを説明しなければならないが、写真や絵画の比喩で語られるような、ただ単に「モノが距離を隔てて存在していることが見える」、ということではなく、その、「モノ」で充満している空間を、人間(いや、地球に生息しているあらゆる動生物を含む)が適確、かつ自由に動き回ることを可能にしている知覚が「空間知覚」であって、では、それを可能にしているメカニズムは何かというと、それが、従来は「カメラ仮説」で説明されてきたわけだが、実際にはそれは、ただ「モノが距離を隔てて存在しているところが見える」と言っているだけで、「動物が空間を適確、かつ、自由に動き回れるのは何故か」という、視覚が主に担っている問題を「カメラ仮説」で解決することは不可能である、ということで出てきたのが、視覚も実は対象を直接に把握することができるんだという、ちょっと前から書いているアフォーダンスざんす。(あ…)

 と、しばし鬱を忘れるべく努力してみましたが、実を言うと、鬱というより、むしろアドレナリンが出まくっちゃうような事態でもある。
 ま、このことは機会があったら書きます。

 では、1月25日はこのへんで。

富久町は小さい

2006-01-23 20:33:08 | Weblog
 住友不動産でトラックバックがついてしまった(笑)。
 まあ、住友に限らず、「不動産屋」というと、「悪徳」という冠言葉がついてしまう。自分で担保価値を設定しておきながら、担保割れすると、そのリスクを相手に負わせようなんて連中だから、そう言われるのもやむを得ないところがあるのだけれど、そこはやはり、ちゃんと理詰めで追求すべきであって、ヒステリックにただ「悪徳」となじったところで事態が好転するわけではない。狂牛病問題にしろ、建築強度偽装問題にせよ、ライブドア問題にせよ、あっという間にヒステリー症状に陥ってしまうところが、日本人の最大の欠点だろう。

 それはともかく、今日、その住友不動産のバイトに出かけた。予定は一昨日だったのだが、雪で今日に変更したのだが、150軒も配ったら元に戻ってしまった。前回は280軒だから、あわせて430軒。富久町は小さいし、しかも学校が三つか四つもあるので、戸建住宅はせいぜいこんなものかもしれない。てことは、バイト代、2150円? そりゃねーべよ。住友不動産の岡田似の担当に電話で言おうと思ったら、岡田は外出中とかで、別の社員が、では地域拡大ということになるかもしれませんが、後で岡田に…じゃない、担当はK野というのだが、担当に言って下さい、と言われた。

 しかし、富久町、中には面白い場所もあった。幅、1メートルもないような細いくねくねした、雪の残る路地をぐいぐい入り込むと、三味線の音が聞こえてきそうなこじゃれたちっちゃな家があったり、崖の上に建っている家があって、「これは無理」と思って回避したら、配って歩いているうちにその崖の上の家にたどりつき、下を見たら墓場だったり。「運動不足解消」というより、方向感覚、距離感覚を研ぎすますことで、むしろ「脳の活性化」につながるのではないか、と思った。

疲れた一日

2006-01-19 23:07:33 | Weblog
 昨日のことだけれど、午後4時半から歯医者で抜歯の予定を忘れて、S不動産のチラシ配付のバイトに出かけた。すぐ御近所の富久町の「戸建て住居」のポストに、「あなたの不動産買います」というチラシを放り込むというもので、一戸あたり、わずか五円。でも、がんばって沢山まけば、まあ、月に三、四万にはなるのではないかと思っていたが、二千枚以上播く必要はないと、説明にあたったS不動産(隠すこともない。住友不動産だ)の岡田前民主党代表によく似た社員から言われた。「え? じゃあ、一万円以上稼ぐことはできないのですか?」と聞くと、その岡田似の男は、生真面目な顔で、「そうです」と言った。にこりともしない。こんなところまで岡田前代表に似ている。
 岡田が任期なかったのも無理はないと思いつつ、これじゃあ、断るしかないなと考えたが、まあ、どうせ暇だし(す、すみません……)、幾らになるのか聞かなかったが、買い上げ契約が成立したらボーナスがでるそうでもあるし、どんなものかやってみるのも面白かろうと、なんとかかんとか280枚配って、クタクタ。
 大体、新宿区富久町は、バブル最末期に開発対象地域となって、全域虫食い状態になってしまった町で、マスコミに頻繁に取り上げられた場所だ。残存している「戸建て」住宅そのものが何軒残っているか、と思ったが、いざ行ってみたら結構ある。ただし、二千軒は、多分、ないだろう。せいぜい千~千五百軒くらいではないか…だとしたら、どんなに頑張っても五千円~七千円じゃないか!などと思いつつ、狭い路地を歩き回っているうちに、疲労も重なって、目がぐるぐるしてきた。
 そんなわけで、出発が二時、戻ってきたのが四時半。やれやれとお茶を飲みながら、「バイト募集のチラシには《運動不足の解消に》とか書いてあったけれど、ただ疲れただけで、あんまりよい運動になったような感じはしないなあ」などと初日の感想に思いを致している時、ハッと気がついた。歯医者に行かなければ! それも抜歯だ。明日にするか? でも、やなことは、少々疲れていても、今日やってしまいたいと思い、歯医者の門をくぐった。(ちっちゃな歯医者で門なんてないけど)
 前にも書いた通り、抜歯箇所はずっとブリッジでごまかしていた奥歯数本である。ブリッジは無理すかねえ、と、土壇場で再度哀願してみたが、「無理無理無理! 入れ歯しかないよ」と言下に却下された。入れ歯かあ……でも、ブリッジも、実のところ「固定式入れ歯」なんだそうだ。じゃあ、「入れ歯」なんて爺臭い言葉じゃなく、もっとかっこいい言葉考えてよと言いたい。

 ともかく、バリバリと音をたてて抜歯完了。時間はほんの数分だったが、疲れていたせいもあり、その後なんとなく気分がすぐれず、こういう時は睡眠をとるのが一番と、早々と毛布にくるまった。しかし、元来、寝つきの悪い質なので、ただ目を瞑っているだけの時間が多く、そのうち退屈して起き出して深夜の大相撲ダイジェストなんかを見たり、栄養をつけようとチーズをかじったりしているうち、結局「朝ズバ」まで見てしまった。みのもんた復帰。確かに勢いのある番組ではあるのだが、復帰したみのの顔を見るなり、入院治療中の映像まで流させた挙げ句の果ての、得意満面の笑顔に、いったい何様のお帰りだ、という嫌悪感がむらむらと沸き起こって(もしかしたら、私は寝ぼけたままみのの「声」を聞いただけで、まだ復帰はしていないのかも知れないけど…どうなんだろう)、即、チャンネルを変えた。もちろん、視聴率にまで影響をおよぼすことはないだろうが、あたかも「凱旋将軍」のような「みの」を見て改めて辟易した私のような人間は少なくないのではないだろうか。

今日は特異日?

2006-01-17 14:54:49 | Weblog
 なんか、ちょっとお叱りのレスがついちゃいましたが、昨日の文章の「レジのおばちゃん」は、実は、ちょっとした前振りで、本当に書きたかったことは、ミッシェル・ウィーのパッティングに対する「感覚で打て」という批判のことで、もうちょっと詳しく言うと、《人間(一般的にいうなら、「動物」)の距離感覚というものは、環境に直接結びついているもので、論理的に計算されて得られるものではない》というアフォーダンス理論の主張を、「そのみちのプロ」である手嶋、岡本綾子のご両人はわかっていた、ということを言いたかった。…けど、まあ、途中で割愛しちゃったわけ。

 今日、宮崎勤、最高裁判決。まだ出ていないみたいだけど、あそこまでボロボロになっちゃうと(って、本当のところは知らないわけだが)、今さら死刑にしても意味がないような気もするが、ただ、彼の取り調べにあたった元刑事がテレビで「自分で覚悟はしているような気がする」と淡々と話していたのが印象的だった。つまり、はっきり言って、もうほとんど死んじゃっているのだろう。しかし、それにしても、あれからもう18年なのか~。

 マンション強度偽装事件に関連して、国会で証人喚問。どうでもいいことだが、「姉歯」の名前を活字で見ると、つい「菌」をつけ加えて「姉歯菌」と読んでしまうのは私だけか。

 ライブドアー、未明の大捜索。ルール違反の疑いは濃厚のようだが、ネットでは、昨夜から今日未明にかけてのライブドアー大捜索と宮崎勤最終判決がマンション強度偽装事件の国会喚問と重なったことは、偶然ではなく、マンション強度偽装事件が大疑獄化することを防ぐためではないかという意見、多し。しかし、そんなことはないだろう。どう考えても。「大事件」が集中する「特異日」が存在することは、ずっと昔から知られているわけだし。

 それにしても大袈裟な検察庁のパフォーマンスだが、「ポスト小泉の政争がらみ」という見方あり。これは、はっきり言って、あり得そうだ。小泉から「調子はずれ」と言われ、みずほ銀行だったかの投資部門の「誤発注」につけこんだ大儲けを、「美しくない」と批判した与謝野馨が金融庁長官だし。もちろん、与謝野が中心人物というわけはないが(そんな根性がありそうには思えない…)、「黙認」くらいはしたかも。


よくある話……

2006-01-15 12:47:44 | Weblog
 近所のスーパーのレジの、新参のおばちゃんが、いかにも「私って気さくで、しかも有能でしょ」とでもいいたげな風に仕事をしている。テキパキ、テキパキ、と音が聞こえるくらいだ。でも、実際にはそれほどではない。まあ、「並」といったところだろう。
 それで、いちいち話し掛けてくるので、なるべく避けていたのだが、昨日、このおばちゃんのレジに並んでしまった。おばちゃん、型通りになにか話しながら、私の手のひらにおつりを落としたが、それがポロっと転がり落ちた。おばちゃんは、「あ~ら、ごめんなさ~い」と言った。これも実によくあることでどってこともないのだが、こういう場合は、通常、お客の方が受け損なっていることが多い。それでも、従業員の方が、「すみません」と謝ることになっているわけだが、今回は、私の手のひらの位置をちゃんと確認せず、いい加減に放り込んだレジのおばちゃんの渡し方が明らかに悪かったのだが、その謝罪の言葉に全然心がこもっていない。つまるところ、この、「型通りにやるだけで、心のこもっていない」仕事のやり方が、つり銭の渡し損ないというミスを生んだわけなのだが、本人、このプロセスには全然気がついていない。私が文句を言ったところで、「だから、あ~ら、ごめんなさ~いと謝ったのよ」と答えることだろう。
 
 話が変わるが、最近話題になっている若年スポーツマンの一人に、アメリカの女子プロゴルファー、ミッシェル・ウィーがいる。その彼女のプレイについて、岡本綾子と、あともうひとり、手嶋なんとかという元プロゴルファーが「心がこもっていない」と批判したらしい。「心がこもっていない」というと、なんか精神主義に聞こえるかもしれないが、具体的に言うと、彼女はパットが苦手なんだそうで、それについて、「機械的に打ち過ぎている。もっと感覚で打たなければならない」というのが、岡本、手嶋の批判であった。
 なるほどね、ミッシェル・ウィーは、近所のレジのおばちゃんと同じだったのだ。「型通り」にやってうまく行かないと、さらに「型通り」に固執する。要するに、反省のきっかけというものを、少なくとも、今のままでは、持たない、というか、持つことができない。
 まあ、いずれにせよ、ミッシェル・ウィーは、近所のレジのおばちゃんが人気がない(本人は、人気があると思っているらしいが)のと同じく、あんまり人気は出ないかも。(今は、マスコミ先行でちやほやされているが)

 屋根の雪下ろしで死者続出しているが、若い頃、ひと冬だけバイトをした山小屋のおやじさんが、屋根の雪がいかに危険かをしきりに強調していて、屋根から雪が落下する音を聞き付けると、「大丈夫か! 誰も下にはいないか!」と言いながら、ドドドドドッと音をたてて二階から駆けおりてくる。たしかに、山小屋の主人としては、もしお客さんが自分の小屋の屋根から落ちてきた雪の下敷きで死んだりしたら、経営上、死活問題になってくるから、大騒ぎするのもわかるが、なんとなく、大袈裟、というか、自分がいかに安全性に気をつかっているかをアピールしているような感じもした。実際、奥さんは、「もっと静かに降りれないの!」と、この時の主人の対応に批判的だった。
 その後、二人は離婚し、奥さんが、元旦那さんの小屋の隣に新しく小屋を建てたものだから、昔からのお客さんは、どちらに泊まったらいいか迷った挙げ句、十日間の宿泊予定だったら、はじめの五日間は旦那さんの小屋、残りの五日間は、奥さんの小屋と「泊まり分け」ていた。

 それはともかく、「階段を大きな足音をたてて降りる癖の人」って案外多いのではないか。ほとんど男だろうが、私は、もう一人だけ知っている。それは製版屋のおやじで、別に何があるわけでもない時でも、凄まじい音をたてて階段を降りてくる。その度に、これも奥さんがひどく嫌がっていた。「何かと思って、寿命が縮まるわよ」と。わかるね、同感。

私の好きなもの

2006-01-12 21:32:58 | Weblog
と、唐突に書きますが、私の好きなもの、それは、アイスクリーム用の平べったいスプーン。あれがなぜか好き。もちろん、そのスプーンでアイスクリームを食べるのが一番好きなのだが、ただ、口にくわえて、ぺろぺろなめているのも好き。

 昔、(前にも一度書いたことがあるが)うちの近くに「つんぼさん」という短髪で白髪のおじいさんの「便利屋」さんがいた。垣根の修繕とか、屋根の雨漏りをなおしたりとか、ゴミの穴を掘ってくれたりとか、ともかく力仕事なら何でもやるおじいさんだった。「つんぼさん」というのは、少々耳が遠かったからで、子供達は、「つんぼさん」(本名は中村)を遠くから見つけると、思いきり大声で「つ・ん・ぼ・さ~ん」と叫んだものだった。
 さて、ある日、そのつんぼさんにゴミの穴を掘ってもらおうと思ったら、生憎、不在だったので、自分達で掘ることにした。といっても、私は小学校の低学年だったので、あんまり役には立たないのだが、ともかく、うちには穴を掘ろうにも、草花用の小さな、おもちゃみいなものしかない。そこで、まず、ちゃんとしたシャベルを買おう、いずれ必要になるだろうし、ということで、私は、近所のお兄ちゃんと一緒に、近くの荒物屋に行った。そして、並んでいるシャベルの中に、四角くて平べったいものを見つけ、「これにしよう」と言った。すると荒物屋の主人は、私に向かって、「これは、セメントをかき混ぜるためのシャベルなので、穴掘りには向いていませんよ」と言った。
 そう、私は、アイスクリームのスプーンと形が似ているというだけで、セメント用のシャベルがほしくなったのであった。

 もう……、なんか、「ひらべったい」という言葉も好きだ。でも、おしなべて「ひらべったい」状態が好きというわけでは必ずしもない。
 鈴木翁二だったかのマンガに、「私は尻のひらべったい女が好きで云々」という台詞があったように記憶しているが、こんなことを覚えているのも、「ひらべったいスプーン」を連想したからなのだが、でも、女のおケツはやっぱり丸いほうがいい。

上野千鶴子って「いい人」らしい

2006-01-12 04:06:45 | Weblog
 前に、アフォーダンス理論について少し書いたけれど、えらく難しい。本当に理解している人は世界に数人かもしれない、てくらい難しい。(アインシュタインの相対性理論を理解している人は数人、なんて話があったけれど、そんなことは全然ない。少なくとも特殊相対論は中高校生でも理解できる。もちろん、「完全なる理解」となると難しい。アインシュタインは間違っているという人が今も多いのはそのせいだ)それで、あちこちのウェブで記事を探して読んでいるところだけれど、大半は、「デザイン」理論として紹介している。そんな中で、「読書好きの医者」という人のHPが、なかなか面白く、それで、この人の前後のページをのぞいたら、上野千鶴子について書いてあって、いやー、上野千鶴子はもう終わってますな。(彼女は社会学より、文芸評論のほうがいいと思う)「女は、自分が弱者であることに居座るべし」が、自分のフェミニズム論の原点だと、最近の著書に彼女は書いているそうだが、「女性が男性に比較し、(社会的)弱者であることから抜け出ようと言うのがフェミニズムだと思っていた」と「読書好きの医者」に皮肉られていたが、まったく返す言葉もないだろう。「意外にいい人らしい」とおだてられた後「でも、私は悪い人の方が好き」とバッサリ切り捨てられたり、いや、痛快。

 ところで、上野千鶴子は私の知り合いの女性カメラマンの友達で、その写真展に来る、というので、その会場にいた私は、一つ聞きたいことがあるから絶好のチャンスだ、待ち構えたものの、結局あらわれなかったことがある。
 で、何を聞きたいと思ったのかというと、ちょうどその頃、パチンコに熱中した母親が、駐車場の車に置き去りにした赤ん坊を熱射病で死なせる事件が相次ぎ、バカ母親とバッシングされていたので、もちろん、赤ん坊を自分のミスで死なせてしまったことは弁護の余地がないが、私の理解では、上野千鶴子あたりがこの母親を弁護しないで、誰が弁護するのだと思っていた。ところが、うんともすんとも発言しないので、どう考えているのか聞いてみたかったのだ。
 この問題については、下川コーシさんに、「パチンコ屋が責任をもって駐車場を見張るべし」と主張して、「とんでもない、母親にパチンコをすすめるのか」と反論され、半ば喧嘩になってしまった苦い記憶がある。それ以来なのだな、下川さんの原稿が消えたのは。実際は、その後にさらにちょっといざこざがあったのだが、火種はこの時に醸成されていたのだ。たぶん。
 もっとも、一方的に怒鳴られた後、間に奥さん(じゃないんだけど、事実上の奥さん。えー名前は…小説家の稲葉真弓さんだ)が仲介してくれて、「17歳の犯罪」のテーマで一本原稿をもらった。正直いって、これは下川さんのあらゆる原稿の中で(「月光」だけじゃなく)、もっともよかったと思うが、その後も結局気まずくて、また、しばらくして事務所も引っ越してしまったので連絡がつかなくなってしまった。
 それはともかく、その時の私の提案は、駐車場の車の中に赤ん坊が放置されていたら、その親に連絡してパチンコを中止させるようにせよ、というものだったのだけど、下川さん、結構、短気なんで、私の言ったことなど耳に入らず、「パチンコ屋に責任がある」と私が言ったと解釈して、「何をバカなことを言うか!」と怒りまくったのだ。デザイナーのKさんも同じなんだよな。世界一の短気ものといっていいくらい短気で、人の言うことを2、3秒聞いただけで、「アホとちゃうか!」だもんなー。(2、3秒はオーバーじゃない。ほんとのことを言うと「瞬間」!)
 なんか、変な話になってしまった。

 追伸 駐車場云々の話は、別に法律を作るまでもなく、パチンコ業界が申し合わせて、駐車場に係員を常駐させるようにすれば、それですむ。もちろん、このアイデアでなければならないということはないけれど、ともかく、「バカ母親」に責任を擦り付けたまま、業界としてなんの対策もたてなかったことが今のじり貧状態を招いているのではないか。プロ野球のジャイアンツと同じだ。