パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

混乱

2012-12-31 01:29:07 | Weblog
 昨日、nhkの解説委員が雁首を並べて議論するという趣向の討論番組を見ていて、中に一人、赤い蝶ネクタイをつけた。「剥げた三木のり平のような、はっきり言って、風采のはなはだ上がらない解説委員が、一人、やる気のなさそうな、眠そうな顔でいるので、「なんだろう、こいつは」と思っていたら、原発をどうするか、という話題で突如手を上げて、「電力を自由化すれば、原発問題はおのずと解決される」と言い出した。

 お、なかなかいいことを言う、と思って、その後の論議の発展を期待したが、誰も話をフォローせず、自由化問題は議論に上らなかった。

 要するに問題は、先進国にキャッチアップできたら、その後は、社会体制を先進国型に変えなければならないのだが、この20年の停滞は、日本がそれに失敗した、ということで、原発事故は、その必然的な結果だということだ。

 安部首相は、福島原発を視察した際、福島の第2や、女川原発が無事だったことを指して、安全体制がしっかりしていれば大丈夫であることの証明だ、と言ったみたいだが、条件によっては、福島が安全で、女川がやられた可能性だってあるだろう。

 原発是か非かではなく、安全管理にどのような問題があったのか、それは克服されうるのか、ということを徹底的に調べるべきだろう。

 そして、いまのところ、もれ伝わる情報では、今の電力会社には、その能力、準備が、依然としてできていないといわざるを得ない。

 竹森俊平が、原発の安全をすべて管理しているはずの斑目安全委員長が「われわれは原子力のことをよく知らない。よく知っている人を教育して、安全委員にしなければならない」とニュースで話していて、「仰天した」と書いているが、国会できちんと議論すれば、その答え方で、電力会社に安全運転の能力があるか否かはすぐに判定できるだろう。

 今のままだったら、先進国型の社会体制への転換は現状を見る限り、韓国、そして中国のほうが先に進む可能性が高いように思う。


願望

2012-12-21 17:36:57 | Weblog
 経済学者の竹森俊平は、福島原発事故を、アメリカのリーマンショックを誘発した低所得者向けの住宅ローン、サブプライムローンと似た構造をもっているという。

 サブプライムローンは、ずいぶん前から危ない、続くはずがないと言われながら続いていたのは、アメリカ政府による「暗黙の支持」があったからだという。

 アメリカは、政府による低所得者向け住宅政策がほとんどないという特異な国で(実は日本はそれに増して「ない国」なのだが、ひとまずそれは措くことにする)、それでフレディマックとかメイといった「政府系」の金融会社にそれを担わせたことを、市場は知っていたので、万が一の事態が起きても政府が面倒を見るだろうと思って、事業は「続いていた」というのだ。

 それが2007年についに破綻したわけだが、ただアメリカの住宅ローンはノンリコースローンなので、ローンを払えなくなった貧乏人は、文無しで追い出されるが、ローンの残額を支払う義務はない。

 金融会社は、半額か半額以下になった住宅を処分して差額の損失は金融会社が担う。

 これがノンリコースローンだが、日本はリコースローンなので、家を失ってなお、高額の借金を背負うことになる。

 全く驚いたシステムであるが、ノンリコースローンが導入される気配はない。

 アメリカに低所得者向け住宅政策が「ない」ということは、アメリカ映画には、たとえばイタリア映画の『鉄道員』の舞台になったような貧困者向けアパートをあまり見かけないことでも知れるが、しかし低所得者向け住宅がないわけではないだろう。

 というのは、誰だったか忘れたが、有名な理論物理学者が若い頃、アメリカに留学したときの話として、日本のように住む家の心配をしないですんだのが精神的に大変に助かったと書いてあった。

 アメリカには公的医療保険制度は存在しないが、その代わり、貧困者、高齢者向けの政府の医療費負担は膨大で、全予算の三分の一が医療費だったはず。

 ただし、「高額な医療」は受けられない。

 つまり、貧困者向の医療けでしかないが、臓器移植は貧困者向けの「メディケイド」で受けることができると、日本人の女性が新聞のコラムで書いていた。

 ただ、貧困者向けは、資格認定が大変らしいが、ともかく(州ではなく、国の)税金の医療費負担が国防予算とほぼ同額だったはず。

 残りの三分の一は、年金等の社会保険費用だったように思うが、ともかく、アメリカでは伝染病のワクチンは無料だ。

 多分、どこだって無料だと思うが、日本では、「世界に冠たる保険制度」がありながら、ワクチン接種は一万円から数万円かかる。

 ワクチン接種が有料なのは、日本の国家予算の医療費は、公的医療保険の赤字分の補填に使われていて、直接の医療費としてはほとんど使われていないからではないだろうか。

 実際、日本の予算に占める「医療費」の割合は、ほんの数%だ。

 その分、我々は頼母子講形式でやってますから、というわけだ

 それはともかく、要は、「問題の所在をどこに見いだすか」、だ。

 だとすれば、今回の原発事故の「問題」は、「発展途上国から先進国への進化に伴って行われるシステムの転換の失敗」にあるという問題指摘は、まさに原発に限らず、すべてについて言い得ることで、「国益を守ることができれば」とか、何を言っているのかと言いたい。

 今の日本は「大枠」で言えば、諸外国に比べてうまくいっているのだけれど、それが、かえって先進国型の社会への転換を妨げているのだ。

 住宅政策で言うと、リーマンショック後、EUでも韓国でも中国でも低所得者向けの住宅建設をはじめているが、日本だけがまったく動いていない。

 みんな持ち家で、貧困者のいない国、それが本当の先進国だと日本の為政者は思っているのだろうか。

 それこそ、発展途上国の願望だと思うのだが。

「社会党、かく戦えり」と、「国策民営の罠」2

2012-12-21 03:28:24 | Weblog
 前回の書き直しです。

 竹森俊平の「国策民営の罠」を読む。

 面白いことは面白いのだが、結局何を言いたいのだ、という感想が否定できない。

 前の「経済論戦が甦る」のときも感じたのだが、私はこの本で「構造改革」という美名の正体に気づき、旧社会党の江田三郎をはじめとする「構造改革派」とその後継者からなる現民主党の没落も当然と思ったのだが(仙石由人は、東大時代、まさに構造改革派全学連の指導者の一人だった)、竹森俊平自身は必ずしも「反構造改革」の論陣を張ったわけではない。

 どうもそこら辺が、はっきりしないのだ。

 それはさて、今回の総選挙では、社民党(旧右派社会党)が消滅一歩前というか、ついに実質消滅した選挙として記憶されるべき選挙かもしれない。

 「社会党かく戦えり」というか。

 昔「日本、かく戦えり」という記録映画があって、これではじめてサイパンとかガダルカナルの島々における悲惨な状況が,米軍のフィルムだけれど、日本国民の前に明らかになったのだった。

 内容的には,その悲惨さに驚いたが、一方、あんなのは当たり前だろうし、当時の兵隊さん、つまり親父の世代も思っているのだろうとも思っていた。

 しかし、当時の兵隊さんたちと同じ世代の人たちは、あんなにボロ負けしているとは知らされていなかったので、我々、つまり当時の子供たちが思うように、「当たり前」ですませることではなかったのだ。

 親父が、興味深そうな顔でテレビを見ていたことを覚えている。親父は、幸いにも戦争に駆り出されなかったので、私を同じ目線で「日本、かく戦えり」を見ていたのだ。

 大体、日本本土は爆撃は受けたが,直接戦場になったところは,沖縄以外にはないわけで、「日本、かく戦えり」を総括しようとしても、結局「お題目=イデオロギー」で終わりかねない。

 社会党,そして社民党は、このお題目で戦後ずっとやってきた政党で(対立的パートナーだった自民も似たようなものかもしれないが)、そのイデオロギーの根幹は,結局「構造改革」だったのかもしれない。

 ともかく「社会党、かく戦えり」を総括すれば、「構造改革」という言葉、概念が、イデオロギーになってしまったこと、イデオロギーであってはならないものをイデオロギーに、言い換えれば「自明なもの」としてしまったことが、原因だと思う。

 一方、共産党が消滅していないのは、最初からイデオロギーを名乗っているから、頑固に消滅しないだけで。

 それはさて、「経済論戦は甦る」は七、八年前の本で、ネットではけっこう話題になり、それで私も購入したのだが、竹森氏は、当時の小泉首相の「構造改革」を阻止すべく立ち上がったわけではなく、時々散見したマスコミでの発言も、悪く言えば「右顧左眄」の印象があった。

 「経済論戦」というのは、まさに、学者同士の神学論争ではなく、経済学者が政策をめぐって政治家に働きかける、その働きかけをめぐる駆け引きのことを言うのだけれど,竹森自身は、全然「論戦」を仕掛けなかったのだ。

 「国策民営の罠」も、同じ印象で、本来だったら、事件の一年後あたりに、NHKのEテレで放映した、1980年頃の原子力行政の当事者たちの膨大な会議録、インタビューテープを材料にとりあげれば,もう少し「深い」考察ができたのではないかと思った。(言い換えると、あのEテレは、ちょっとすごい内容を含んでいたのだと改めて気づかされたのだった。)

 「国策民営の罠」で「なるほど」と思ったところをあげれば、日本の電力会社が「国策」で原発を経営していたため、普通の民営企業だったら敏感に反応したはずのスリーマイル島、チェルノブイリの両原発の重大事故に、欧米の電力会社が原発の新設をためらったのに、日本の電力会社は、むしろ積極的に原発開発を進めてしまったという指摘だ。

 そういわれてみると、まさにその通り。

 「日本ではあんな事故は起こるはずがない」と言って、電力自由化で起きたアメリカの混乱(カリフォルニアの停電とか)を、日本が、電力自由化すべきでないことを示す、「反面教師」とすら言ったのだった。

 竹森は、今回の原発事故は、「新興国から先進国へと進化する際に必要なシステムの転換に失敗したこと」が主原因だという。

 新興国とは「人口構成が若く、所得水準は低いが、成長率は高い」国で、先進国とは「人口が高齢化し、所得水準は高いが、成長率は低くなる」国で、日本は既に先進国に進化したのに、社会システムが新興国のままなのだ。

 例えば新興国の場合、重大事故が起きても、そのリスクは経済成長で吸収されるが、それのない先進国の場合は「極めて高くつく」ので、高度な安全管理能力が求められる。

 しかし日本は、先進国になったのに、あたかも、後進国のように、動いている。

 その最初の事態が「バブルの崩壊」で、この危機に対応できなかった。

 バブルが発生したことが問題ではなく、それをどう終息させるかだったのに、それに失敗し、あまつさえ、バブルで反省すべきはバブルを起こしたことだと今も思っている。

 次いで、阪神大震災が起き、少し前に起きたアメリカの地震で橋が崩落したりして、日本の高速道路は大丈夫かという声に「まったく問題ない」と言っていたのに、見事、崩落した。

 次にリーマンショック、そして年金の膨大な記載漏れが発覚したのに、先進国なら常識的制度であ社会保障番号を導入すれば、避けられた失敗なのに、今もまだ手もつけられていない。

 同じ頃、東海村でバケツで臨界事故を起こして、二人が悲惨な死を遂げた。

 それでも安全管理を見直すことはなく、ついに福島原発が崩壊した。

 これは、日本は、安全管理がきわめて重要な先進国のシステムへの転換をはからねばならない時期に来ているのに、その転換に失敗してしまったの結果なのだと竹森氏は言う。

 原発の「国策民営」は、まさに先進国へのキャッチアップの最終段階として目論まれた政策で、内心、津波を乗り切ってくれさえすれば何も問題はなかったのに、と担当官僚(通産省)はほぞを噛んでいるだろうが、失敗は偶然ではなく、必然だとすると、全然そんなことは言えなくなる。

 ともかく、原発是か非かで水掛け論に終始してしまうより、事故の検証を徹底的に行うことが先だろう。

右と左

2012-12-13 22:34:23 | Weblog
 元日経記者の田勢康弘が猛烈に安倍を嫌っていた理由ははっきりしないけれど、今のマスコミが安倍を嫌っている理由は明らかである。

 「右寄り」というイメージも嫌いな理由の一つだろうが、朝日新聞の紙面を読む限り、アベノミックスこと、安倍の経済政策に対する反感がきわめて強いようだ。

 毎日もほぼ同じで、読売も日経も似たようなものだろうが、なんでそんな危機感を抱くのだろう。

 そもそも安倍が最初に総理大臣になったときは、小泉の指名人事のようなものだったが、小泉の経済政策は、「構造改革」でデフレ不況を脱しようというものだった。

 しかし、まったく効果はなく、竹中が、りそな銀行への「公的資金投入」を決断して、以後、状況は激変したのだった。

 私は、その前、竹森俊平という慶応の先生が書いた「経済論戦はよみがえる」という本を読んで、小泉、竹中の構造改革路線が、デフレという過酷な状況が、経済構造を効率的なものに変えるという理論で、「米百俵精神」がその典型であるが、これは、オーストリアの経済学者、シュンペーターの「創造的破壊」理論によるものであることを知った。

 しかし「創造的破壊」理論は、かつて成功したことがないまま、シュンペーターのライバル、ケインズに敗北し、失意にあったシュンペーターを大歓迎して迎えたのが日本の若手官僚たちであることを知った。

 竹森俊平の本にはシュンペーターの理論をこんな風に解説している。

 「構造改革を本気で進めようとするならば,金融を引き締め,非効率な企業の淘汰をはかり、その結果市場に解放された経済資源や人材を新しい分野に投入することこそ、真の構造改革なのだ。もちろん,その過程ではさまざまな摩擦が生じるが,しかしそれこそが,《改革に伴う痛み》である。金融を緩和して市場に金を提供すると、その痛みがなくなり,構造改革も挫折する。」

 また当時の速水優日銀総裁は、金融緩和である一時期、景気が好転したことを受け、ある講演でこう言っている。

 「現在のように,景気が回復に向かうと一種の安心感から構造改革への取り組みがおろそかになることも十分あり得ます。」

 実際、速水は、こう言って、金融引き締めに転じ、日本をデフレに逆戻りさせたのだった。

 今、速水のようなバカな発言をする関係者はいない。

 でも多くの関係者が、心の奥底では、「厳しい試練を経てこそ真の構造改革が成し遂げられる」という信念を否定することができず、その結果、金融緩和で事態に対処しようというインフレターゲット的政策はどうしても受け入れられない心理が醸成されているであろうことは充分に想像できる。

 その典型が今のマスコミだ。

 「口舌の徒」であるマスコミは、「口舌の徒」であるが故に、どうしても「構造改革」という言葉に、一昔前の言葉なので口に出していうことはなくても、心底では心にひっかかっていて、逆らえないのだ。

 特に「左寄り」だと「改革」という言葉を否定することができない。

 しかし大事なことは、何かを、例えば構造改革を信じることではなく、構造改革を信じている自分の現実をしっかり知ることだ。

 安倍ちゃんは、総理大臣時代に「あなたは右寄りと見られているが、左と右をどのように考えているか」という質問に、「私は自分が右だとは必ずしも考えていないけれど、左翼の人たちを見て思うことは、左翼であることをいいことだと思っているようですね」と答えていた。

 これはなかなか、成蹊出身とも思えぬ,理性的で、現実をしっかり観察した答えだ。

 自分は,右に比べたら左でリベラルだから、きっと中国にも石原慎太郎より信用されているにちがいないと思って、尖閣諸島を国有化にした野田なんか、まさにその典型だ。

 「私は右ですが、右である私が必ず正しいとは思っていません」と答えてくれたら、なをいいんだけれどねえ。

政治記者という人々

2012-12-10 21:50:15 | Weblog
 昔は,総選挙の実況中継というのは、徹夜で面白く見たものだが、最近は投票が終了した八時丁度に結果が出てしまう。

 投票が始まったからずっと「出口調査」を実施しているので、実質的に「調査の結果」は投票が終わる前にわかっていて、でも投票が最後の一人が終わるまではそれを言えないということなのだろう。

 でも、なんか「つまらない」。

 「結果」はもう決まっているのに、それがわかるまでの間に時間的ズレがあるので、人は,それが「無駄」と知りつつ、あれこれ想像する。

 これを,心理学では「なんとか現象」と言うのだそうで、無駄な努力と言えば言えるけれど、人間の創造力の源なんだろうと思う。

 しかし,超速報のおかげで,チェルシー対コリンチャンスの決勝戦をじゅうぶんに楽しむことができたのだった。

 さて,選挙だけれど、投票率が、衆院選挙としては、戦後最低だったそうで、特に若い人の投票率が低いことをマスコミは問題にしているが、これは世界的にどうしてもそうなる。

 何故かというと、たとえ今仕事がなくて、その日暮らしの生活でも、なんといっても「若さ」で、乗り越えてしまうから、将来のことを心配しても、あまり切実ではないから、行動にはなかなかいたらないし、また行動に移すと、ものすごく過激になったりする。

 だから、若者の多い国ほど政治が混乱する、というのは事実なわけで、ともかく、若者の投票率が低いのは世界的に共通していることなので、それを前提に物事を考えればいいだけの話ではないか。

 むしろ、地域別の投票率と選出議員の相関関係なんかを調べると面白いのではないだろうか。

 それはさて、総選挙特番でちょっとびっくりしたのは、テレ東の特番で、マスコミの政治記者たちに、現役の政治家で、誰が一番総理大臣としてふさわしいと思うかというアンケート調査をしたところ、ダントツの第一位が,野田現役総理だったことだ。

 その理由は,真面目で正直ということが一つ。

 今回の突然の解散も、政治記者たちには「三党合意時の約束を守った」ということで高く評価している人が多いということだ。

 しかし、この突然の解散の政治的意味についての評価はさて措いて、なにはともあれ「正直でグッド」では、到底政治記者とは言えないのではないか。

 野田の高評価の二つ目の理由は、「消費税を造成して、財政再建のメドを立てたこと」を挙げていた。

 これにも驚いた。

 私は,前からずっと書いているが、消費税のアップには(日用品,特に食料については何らかの対策が必要だとは思うが)反対でないし、デフレ不況下の消費税上げについてだって、それが貧困対策に使われるというちゃんとした約束があれば,上げてもいいと思っている。

 ただ、「財政再建のための増税」は断じてダメだ。

 増税で財政を再建しようなんて、古今東西、どこも成功していない。

 税金は、必要最低限の額は自ずから決まっているが、それを増やしたり(増税)、減らしたり(減税)するのは、「景気対策」のために行うのだ。

 つまり、景気が過熱(インフレ気味)していると判断したなら、増税して民間から金を吸収し、景気が減速している(デフレ気味)と判断したなら、減税する。

 それができないときは、金融政策で対処する。

 これがインフレターゲット政策なわけだが、政治記者でも、インタゲくらいは、知っていなければダメだろう。

 というのは、そのテレ東の総選挙特番に田勢という元日経新聞の政治記者が出ていて,彼もまた、「政治記者アンケート」の結果と同意見だと言っていた。

 そういえば,彼の基本は「政局の解説」なのだが、それには野田を支持している雰囲気が色濃く感じられたし、その背景には,野田の「財政再建至上主義」を支持する姿勢が垣間見えていた。

 特に、野田がインフレターゲット政策に「不審」を抱いていることに対し,田勢が、「私も同意する」と言っている雰囲気は明瞭に感じられたのだが,そういえば、安倍が総理大臣になったとき、この田勢が非常に安倍のことを嫌っていて、やることなすこと、すべて感情的といってもいいような態度で安倍のことを批難していた。

 私は,安倍が総理のとき、特に塩崎官房長官の態度が気にくわなくて、大嫌いだったのだが、安倍の基本政策には基本的に賛成していたので、田勢の罵詈雑言の意図がわからず、首を傾げたのだったが、今回の総選挙特番で、腑に落ちた。

 要するに田勢は、政治記者としての、政治家に対する感覚的な判断(好き嫌い)を優先していたのだ。

 田勢の「政局判断」は、いつも常にほぼ正しく言い当てているので,私はそれに限って信頼はしているのだが、経済政策、外交政策等に対する具体的献策はほとんどなく、不思議に思っていたが、結局「政策」にはあまり関心のない人なのだ。

 そしてそれは、政治記者に共通した「性格」のようなものなのだろう。

 彼がホストをつとめるテレビ東京の番組では、番組の最後に,彼の趣味であるらしい、短歌,俳句から現代詩にいたる詩人の作品を紹介して終わるのだが、なるほど、彼の「政治解説」も、つまるところ、短歌,俳句の類の「感覚」を柱としているのだ。

 私はそれを見て、政治記者には珍しい趣味の持ち主だと思っていたが、実際のところは,政治家には、彼の郷里の詩人の一言を暗誦すれば、肝胆相照らす仲になれるというか,何か通じるものを持参し、提示するという意味で、短歌,俳句に通じるということは、政治記者として、一つの武器になり得るものなのかもしれない。

 ところで、私はTPPに賛成で,それで総選挙では「みんなの党」に一票を入れたのだが、なんでTPPに賛成なのかというと、そうすれば外国の肉とか魚、野菜などの食料品が圧倒的に安くなるからだ。

 日本の農家には、市場に安く出荷する分、直接、所得保障すればいい。

 ところが、安倍のブレーンの一人とも言われる三橋とか言う経済学者は「デフレなのに、TPPで物価を安くするなんて、とんでもない」と言っていた。

 何を言っているのか。

 デフレ脱却のためのインフレターゲット政策は、「値上げ政策」なんかではない。

 「物価に目標値をつける」というのは、あくまでもデフレの度合いをはかるための「目安」であって、物価を上げることが,即、デフレ対策というわけではない。

 アメリカの日銀、連邦準備会のバーナンキ議長が、インフレターゲット(物価上昇率の目標値)の他に、「失業率」を目標値として持ち出したのも、現在のデフレ状況は、物価だけでは実態がわからないので、失業率を、「物価」の他にも、目標にすると言ったのだ。

 インフレターゲットというと、物価が上がりすぎたらどうするのだという人がいるが、デフレ対策としてのインフレターゲット政策は、「物価」をデフレの度合いをはかる数値として採用しているだけのことである。

 現在の日本において食料品の物価は諸外国よりはるかに高いので、それが下がるということは、デフレとは関係なく、基本的にいいことなのだ。

 安倍は、経済諮問会議を再開させると言っているが、民主党の失敗はちゃんとした学者を、特に経済分野で閉め出してしまったところにあるので、ぜひ、まともな経済学者を選んでほしい。

 まともな経済学者なら、その学問的立場はちがっていようとも、やるべき「最低限」のことは自ずと「一つ」になるはずなのだ。

いろいろアレコレ

2012-12-03 23:35:01 | Weblog
 いつも天の邪鬼なことばかり言っているのも、なんなのだけれど、どうしても言っておきたいことがある。

 それは、「絆」とか「仲間」とか言っているが、諸悪の根源中の根源、「原子力村」ってのは、まさに「仲間」でしょう。

 もちろん、「だから仲間意識なんかくだらないのだ,もつべきではないのだ」などと言うつもりはないが、「絆」とか「仲間」という言葉はそういうマイナス面を含むのだということをわかっていないまま、「絆」とか「仲間」を言い募るのは、特に日本のような「同一言語同一民族国家」では大事を誤らせかねない、なんとも無責任な態度であると思う。

 シャープがピンチになっている最大の原因は、「亀山モデル」とやらに過大に期待しすぎたことは明らかだと思うが、この期待を「モノづくり大国のシンボル」扱いして、煽ったのも、まさにマスコミではないか。

 もっともそんな浅薄な報道論調にシャープが乗せられていたとしたら、それだけでシャープの今日の窮状も知れるわけだが、しかし数日前のニュースで、シャープの掃除機の宣伝が「過大広告」で注意処分を受けたと言っていて、シャープがいまだに掃除機をつくっていることを知ってびっくりした。

 とか言って,今テレビとパソコンの両方の受像機として使っているのはシャープ製で、性能は大変にいいです、とフォロー。

 小沢昭一死亡。

 20年以上前の今頃、四谷三丁目の交差点の自動販売機の前で、やや長髪気味のロングコートを着た初老の男性が、背を丸くしながらワンカップ大関を買っているのが目に入り、「このおっさん、なんかかっこいいなあ」と思ってよく見たら小沢昭一だった。

 小沢昭一の仕事では、役者以外に、日本の芸能の聞き書きの仕事を評価している人が多いが、私も,読もうと思って買ったことがある。

 しかし、熱意は伝わってくるのだが、その熱意に辟易して,10ページくらい読んでやめてしまった。

 要するに,面白くなかった。

 小林信彦がこの小沢昭一のことを、喜劇人は普通「上昇志向」が強いが,小沢昭一は「下降志向」が強く、そこが「面白くない」と言っていたが、そういうことだと思う。

 でも、かっこよかったことは事実。

 ああいう,かっこよさが、映画でも発揮されていると断然ファンになるのだが、今村昌平の第一作が印象に残っているくらいで、他はどうも。

 ラジオの「小沢昭一的こころ」も、わたくし的には今イチなのだな。

 それにしても、勘三郎も死ぬし。

 勘三郎は、もしかしたら勘九郎時代かもしれないが、テレビで「髪結しんざ」を見て、観客を自由自在に操る芸はまさに日本一だと思った。

 舞台役者は、あれくらいはするものなのかもしれないが。

 でも、昨日のNHKの追悼番組で、その「髪結しんざ」をやっていて、やっぱり評判のいい芝居だったんだと思ったが、あれは、河竹黙阿弥の芝居がすべてそうであるように、「台詞を聴く芝居」なのだな、と改めて思った。

 詐欺師の詐欺師っぷりを楽しむ芝居で、今だったら「オレオレ詐欺(振り込め詐欺)」の詐欺師っぷりを楽しむ芝居、映画があって当然だと思うが、それが全然ないのが、今の日本の異常なところだと思う。