パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

メンデレーエフの陰謀

2013-03-30 23:20:21 | Weblog
 昨日の「朝生」は、まあまあ面白かったのではないか。

 というのは、国会の議員数の格差問題で、削減ばかり言っているが、都市部の議員数を増やすという方法だってあるではないか、と田原が言ったことで、このことはずっと前から私も思っていたことで、書き込みもしたような、していないような、いずれにしても、いずれ書き込もうと思っていた。数を増やすのだったら、議員の誰も反対しないだろう。

 「削減」ばかり言ってきたのは、要するに、お金に厳しい世論を気にしてのことで、くだらないったらありゃしない。

 選択肢として、「増やす」という方法もあるが、でもそれは適当ではないので、「削減」にしぼって検討するという話なら、わかるが、まったく検討した形跡がない……うーん、なんだかつい最近書いたような気もするが、ともかく、「朝生」とはいえ、マスコミの口からはじめ「増やす」という選択肢を聞いたことは一つの成果ではある。

 民主党系の出演者だったかと思うが、脱原発の世論を盛り上げるのに際し、「化石系エネルギー」の選択肢を省いてしまったのが失敗だったと愚痴っていた出演者がいたが、これも、選択肢を世論におもねって「再生可能エネルギー」だけにしぼったという意味で、議員定数問題と同じである。

 大体、化石エネルギーはCO2をまき散らして、環境を破壊するという意見は、原子力推進派の陰謀ではないかという話はずっと前からあったわけだし、3、4年前、ということは、原発事故が起きる少し前、イーテレで、化石エネルギーについて、石炭が恐竜時代以来の植物の化石であることは疑いようのない事実だけれど、石油が、動物の死骸ばもとになっているというのは、あくまでも仮説、それもかなり怪しい仮説で、石油がどういうふうにできているのか、実はまったくわかっていないと専門家が解説していた。

 その専門家によると、石油は実は、地球の深部で今も形成され続けている可能性もあると、はっきり言っていた。

 ……というわけで、今さっき、ウィキペディアを見たら、石油の起源は「有機物起源説」と「無機物起源説」の二つがあって、「有機起源説」は、従来通りの定説だけれど、この「有機物」は動物だけでなく、植物も含むらしい。

 問題の「無機物起源説」だが、驚いたことに、例の、元素周期表の考案者で有名なメンデレーエフが1870年頃に提唱したのが最初で、星の形成期にさかのぼって説明されるものらしい。

 そして旧東側諸国では、この「無機物起源説」が当然のように教科書等で教えられていたそうだ。

 一方、西側諸国、要するに資本主義社会では「有機物起源説」が定説で、「無機物起源説」は、その存在すら覆い隠され、東が崩壊した今、「無機物起源説」はまったく日の目を見る機会を失ってしまった。

 しかしこの「無機物起源説」は、メンデレーエフという、たぐいまれな才能を持つ物理学者が主張したということも説得力があるが、枯渇した油田が、後に復活する例が多くあるのだそうで、これは「無機物起源説」でなければ説明がつかない。

 いずれにせよ、ウィキペディアで見る限り、「有機物起源説」より「無機物起源説」のほうがはるかに説得力がある。

 それに、資本主義諸国における「有機物起源説」の根拠なき隆盛と、社会主義諸国の崩壊とともに日の目を見ることなく没落した「無機物起源説」の両者を考え合わせれば、いくらでも陰謀物語が、それも、決して荒唐無稽ではない陰謀物語が想像できてしまうではないか!

 しかし、石油が実質無限にあるのだとしたら、それを隠す必要がどこにあるのだろう?

 ここに陰謀の謎の鍵があるにちがいないが、それはぼちぼち考えるということで。

 

リスクの取り方

2013-03-28 01:18:11 | Weblog
 西武鉄道の秩父線が、アメリカの投資会社の要求で廃止になるとかならないとか。

 マスコミは一斉に「長期的視点を持たないアメリカニズム」と決めつけて猛反発しているが、実際はどうなのか。

 マスコミはまったくそれに触れないまま、所沢市長の、赤字でも公的に必要なら廃止は許さないとか報じているが、じゃあ、赤字を税金で補填するのか?

 それとも、現状のままでもなんとかやっていけるが、より多くの利益を出せと投資会社が要求しているのか?

 残念ながら、あり得ない話だが、現状は赤字でも、秩父線沿線の住民が増加傾向にあるので、「長期的」に見れば、やっていけると西武鉄道は考えているのか?

 その辺の取材がまったくなされていないままでは、反グローバリズムに合わせた意図的報道としか思えない。

 西武ライオンズを売却しろとも、アメリカの投資会社は言っているみたいだが(フォロー報道では投資会社は、それは要求していないと言っていたが)、日本のプロスポーツの組織形態が、親会社の宣伝係という、ノンプロ的側面がある限り、うさんくさく思われる可能性はある。

 もう10年近く昔だったが、バレーボールを、サッカーの後を追ってプロ化しようという動きがあったが、選手の一部に親会社にオンブだっこのノンブロの方が安心できるという意見が強かったこともあって、結局プロ化は断念、親会社のイメージを無くすために、なんとかイーグルスとか、ヘンテコリンなチーム名にしてじり貧に陥ってしまった。

 ノンプロの方が安心、と思う心理は、ラグビーで日本の新日鉄とかサントリーとかの大会社がもつチームに招かれた南アとかトンガとかニュージーランドとか、強い国の選手が「安心できる」と語っていたので、万国共通のものがあると思うけれど、実態を言えば、エスビー食品のマラソン部が、エスビーが特に経営不振という話は聞いていないのに、突然、「廃部」になったり、本来、安定してはいない。

 もちろん、ラグビーのプロのクラブチーム、バレーのプロのクラブチームになれば「より安定する」というわけではない。

 むしろ、個人の身分としては、成績が悪ければ、アスリートをあきらめるか、他のチームにいくなどのリスクを背負わねばならない分、不安定になるが、でも「自分でリスクを負う社会」というのは、基本的に健康的で、いいことなのだと思う。

 一方、「自分でリスクを負わなくてもいいが、その分、周囲に気を使って生きねばならない社会」は、どう考えてもいやな社会だ。

 「自分でリスクを負う必要はなく、また、周囲に気を使う必要もない社会」があるとしたら、一番いいのかもしれないが、それは「ない」だろう。

 だいたい、安定していると思っていたが、安定していなかったという経験と、不安定だと思っていて、実際に不安定だったという経験では、経験の質が違う。

 前者の経験は、ただ「ショック」でしかないが、後者の経験は次につながる。

 と思う。


人型ロボットのパラドックス

2013-03-22 22:45:34 | Weblog
 見るものがないので、しょうがないのでイーテレにしたら、ここでも、相も変わらず、ロボット教室をやっていた。

 小学生を集めて、ロボットの使用法を自由に考えてもらうという趣旨で、リーダー役の若い男が、「正解はない。正解は君たちがつくるんだ!」みたいなTEDばりの熱弁を振るっていた。

 それはまあいいのだけれど、今、ロボットのことを考えるのだったら、まず第一に考えるべきことは――早稲田時代、日本のロボット開発をリードしていた加藤研究室の隣で「つまらないことやっているなあ」と思っていた私としては――何故、福島原発事故でまったく何の役にも立たなかったのか、その反省からはじめなければだめでしょ、と、言いたい。

 番組のリーダー役は、「人間にはできないこと、ロボットにしかできないことって何かなー」と言っていたが、誰だって真っ先に考えることは、「原発事故の後片付け」だと思うが、子供からその種の発言は一切、聞かれなかった。

 昨日だったか、一昨日だったか、自分とそっくりのロボットを作ったどこかの大学の教授がヨーロッパの学会に出席するため、以前から約束していた講演会に、そのロボットに代わりに「講演」させていたが、もちろん、講演内容は、教授が事前に吹き込んだテープで流し、それにロボットが適当に動きを振りつけるというもので、どこに先端的なアイデアがあるというのか。
 そもそも人型ロボットというものは、人間に近づけば近づくほど、人間との違いが明らかになるというパラドキシカルな機械なのだ……という感性は、しかし、代役ロボットを日本に残し、きざったらしく手を振り、ヨーロッパの学会に飛び立つ当該教授には全然見られなかった。 

当事者は誰か

2013-03-20 16:06:07 | Weblog
 今日、休みだということを知らずに会社に来てしまった。

 することがないので、ブログ、mixiにアップしてから、お昼用に買ったタツヤの牛丼を食べて帰ることにした。

 数ヶ月前は、逆に、休みと勘違いして電話で呼び出されるし、全然、社会人としての自覚がない。

 それはさて、手元に「at」という、太田出版が出している雑誌があり、手持ち無沙汰で、ぱらぱらと見ていたら、上野千鶴子が、インタビューを受けていて、グローバリゼーションについて、次のように言っていた。

 「グローバリゼーションが起きれば、国家間格差として発生していたものが、ローカルな場で階級間格差として現象するだけのことで、格差の発生自体は抑えられないでしょう。これからはもういっぺん、階級(クラス)が主題化される時代になると考えています。マルクス主義とは別の意味でね。その気と、貧民や低階層からどのような思想が生まれるでしょうか。」

 これは正しく、慧眼な見通しだと思うが、問題は、日本に「階級」が、実質的に存在しないことだ。

 上野千鶴子は、インタビューで「ボキャ貧が問題なのだ」と言いつつ、「勝ち組」「負け組」という言葉を使い、「負け組」の「当事者主権」を確立せよ、と言っていたが、「負け」という言葉をかぶせられた瞬間、当事者意識なんか、なくなってしまう。

 インタビュー記事のタイトルは「生き延びるための思想」だったが、「負け組」のレッテルを貼られたまま、「生き延びる」なんてできるか!

 と言うと、上野千鶴子は、「あ~ら、女はできるわよ」と、待ってましたとばかりに呵々大笑するわけだが、そうじゃない。

 「負け組」は「正しさ」、すなわち、「義」という観念を無に帰すような言葉で、それでもそれしかないから、「ボキャ貧」なのだが、それを私は問題にしたいのだ。

 昔、江戸時代の「江戸っ子」は、その日暮らしの貧民階層で、「その日暮らし」だから「宵越しの銭は待たねえ」と啖呵を切り、追いつめられたら、自分たちの長屋に放火して、普請の工事を招き寄せ、この繰り返しで江戸は大きくなった。

 つまり、貧しいこと、無産者であることが「正しく」自覚され、また扱われていたのだ。

 「グローバリゼーションが起きれば、国家間格差として発生していたものが、ローカルな場で階級間格差として現象する」という上野の発言もまた、斯く理解されるべきだと思うのだが、数多いる論者は、さっぱりそこら辺りの「理解」に乏しい。

 上野千鶴子は、「当事者」たちが生活の言語だけでなく、思想の言語を獲得しなければならないという。

 曰く、「私は当事者になれなくても、そういう人たちの同伴者でありたいし、そこに新しい言葉が登場したときに、それが思想的な事件だと驚きをもって迎えることのできる立会人でありたいと思っています」とえらくまたヒロインチックに語っているけれど、実際には上野千鶴子は東大の教授で、抜群の「勝ち組」で、そういう自分の社会的位置を絶対に失いたくない、そういう行動原理で動いているとしか思えない。

 一時期頻発し、今も、夏になると必ず報じられる、駐車場の車に放置された赤ん坊が熱中症で死ぬ事件。

 あの「当事者」は誰か?

 もちろん、一番目は「赤ん坊」だけれど、「当事者意識」を自覚的に持ち得るものは、放置して、パチンコに熱中していた母親ということになる。

 上野千鶴子は「自己責任」という言葉が一番嫌い、大大大大、大っ嫌いと記事中で言っていたが、世間の多くは、この熱中死事件を「母親の自己責任」だとして、駐車場の管理者の責任とは見ていない。

 上野千鶴子は、この事件については何も言っていないように思うけれど、「母親の自己責任」と思うのか。

 魯迅じゃないが、大事なことは「子どもを救え!」であるはず。

 原発事故についても、事故が起きた責任の一端は、反対運動をしていた人たちにある。

 彼らの一部だとは思うのだが、原発事業者が安全対策をしようとすると、「原発が安全でないことを当事者が認めている!」と噛みついていた。

 「なぜ事故が起きてしまったのか。我々の反対運動のやり方がまずかったのではないか」と反省する必要はあるだろう。

 少なくとも、「我々の言った通りじゃないか、ざまあみろ」とは言えないはず。

 上野千鶴子は「ザマーミロ」と、最近しきりに言っているが、いろいろな意味で、当事者の一人である上野千鶴子に責任はないのか?

 それとも、「ザマーミロ」で済ませるつもりか。

 

お金(銭や、銭!)の話

2013-03-16 15:54:45 | Weblog
 「グラフィケーション」誌における、ドイツ文学の研究者で翻訳家のI氏とエッセイストのO氏の対談の写真担当として同席。

 I先生が、最近の小説は全く読んでいないし、読む気も起こらないと言っていたが、対談のテーマが「お金」なので「苦役列車」なんかはお読みになったことありますか?と脇から聞いた。

 本人が「読んでない」というのだから、返事はわかりきったものだが、一応念のためと思ったのだが、じゃあ、私が「苦役列車」を読んだことがあるかというと、実は「ない」。

 そんな立場で、「読んだ感想を聞く」なんて、インチキでありました。

 反省。

 ただ、「苦役列車」というタイトルがちょっとかっこよくて、好きだったので。

 で、そのときのI先生の言っていたことで、印象的に覚えていることは、というか、それしか言わなかったとも言えるのだが、貨幣(金)の威力に歴史上初めて気づいたのは、日本人。日本人は、ひたすらお金が第一という観念を持っている。私はずいぶん各国の本を沢山訳しているが、お金が第一というテーマの小説、論文は見たことがない。桃太郎も、花咲か爺いも、お金をぶんどってくる話だ。もちろん、外国の昔話、たとえばグリム童話にも、そういう、最後にお金持ちになって幸福になりましたメデタシメデタシという話は沢山あるけれど、一方でお金も名誉も何もかも捨て去って、ああ気持ちいい!という話もある。日本には、そういう思考に基づいた話はない。「金色夜叉」の間貫一もお宮を高利貸しに奪われて、時分も高利貸しになっちゃうし、最高の文学、たとえば樋口一葉の「おおつごもり」なども〈お金が第一〉という世間に抗して貧乏人がどう生きたかを描いたもので、金銭を「原理的」に考察した結果ではない。(これは私の解釈だが)

 大阪の堂島で、米の先物取り引きが行われたのは、欧米より200年早いが、それも日本人の「お金」に対する伝統的感性から考えれば、当然の話だが、一方、貧乏人が貧乏人として生きていく手だても様々にあった。

 しかしそれは戦後20年間くらいまでで、今は、どういうわけか、貧乏人が貧乏人として生きてく手だてはほとんどなくなってしまった、これはよくない!という話だった。

 もっとも最後の「原理的云々」は端で聞いていた私の解釈だけれど、私は「日本人のようにお金を肯定する民族は珍しい」というI氏の話には、「なるほど」と思った。

 私が思うに、日本の最大の問題点は、無原理である故に、自己批判の契機をスタビライザーのように、内蔵していないところにあると思う。

 さらに言えば、そういう状態、つまり、「お金が第一」という自然主義的態度において、「お金」をどう批判することができるか、という問題。

 日本人はアメリカが「格差社会だ」と言い、富のすべてを金持ちに奪われていると批判するが、日本が新幹線をアメリカに売り込みにいったとき、アメリカの地方政治家は、「運賃が高すぎる」と言って、導入を否定した。

 私は、これを聞いて、新幹線システムの根本的欠点に気づいたのだったが、アメリカ、というか諸外国は、格差社会であればこそ、貧乏人をケアする姿勢が為政者にスタビライザーのように内在しているのだが、日本は格差社会では、本質的に「ない」ため、そういう構造を内在化していない。

 TPP交渉参加について、日本医師会が全面ページ広告を各紙に載せていたみたいだが、それに「日本は高額医療でも貧乏人が受けることができるが、アメリカは高額治療を受けることができるのは、高額の民間保険に入っている金持ちだけだ」と書いてあった。

 これまでの医師会の「アメリカ批判」とは若干ニュアンスが異なっている。

 実際、アメリカでは、各種のワクチンを接種していない児童は小学校の授業に出られないという。もちろん、ワクチン接種がすべて無料だということから、こういう対応ができるわけだが、日本では麻疹のワクチン単体ですら4、5万円かかる。

 アメリカみたいに数多くのワクチンを接種したら、おそらく20万円はかかるだろう。

 それで医師会は、日本はワクチン接種の基準に先進国から20年、世界基準で10年遅れていると言っているわけで、そういうこともあって、「低額で高額治療を受けることができる」という表現にしたのだと思われるが、「低額で高額治療を受けることができる」メリットと「無料でワクチン接種を受けることができる」メリットが二者択一であるとしたらどちらを選ぶか。

 「高額治療は金持ちの特権」と割り切るリアリズムと、「貧乏でも高額治療は受けたい」というエゴイズムの相剋というか、ジェラシーとの戦いというか。

 「まくら」のつもりで書き始めたのが、長くなってしまったので、本題の「パソコン苦役列車」の話(まだ続くのだ)は、また後で。

 と思ったが、一つだけ困っていることがあるので、対処方法を教えてください。

 それは、ブックマークの「お気に入り」が全然反応しなくなってしまったのだ。

 どこをどうすればいいのか、わかる人がいたらお教えを。

ローンは続く~よ、ど~こまでも「苦役列車ローン編」

2013-03-13 22:23:34 | Weblog
 というわけで、「パソコン」問題はとりあえず解決。

 それで、3.11の2周年なのだが、なんだろうねえ、あの「一本松」は。

 私は以前から、どう見ても、あれは「希望の象徴」ではなく、「絶望の象徴だろう」と思うといい続けてきたのだが、あの「ミイラ化作業」に熱を上げているところは、金正日のミイラに大金をかけて拝んでいる北朝鮮人民を笑うわけにはいかないと思う。

 しかし、なんでもミイラにした古代エジプトも、猫や鳥のミイラは作ったらしいが、さすがに植物のミイラはつくっていないはず。

 本当にあきれてものも言えないが、金額は数億円かかっていると、ニュースで取り上げられ、「首をかしげている人」の表情を映してていたが、結果的には完全に番組のアリバイ作りで、「多くの人は支持しているし、あれを希望の象徴と思えない人は、主観の違いだから、しょうがない」で済ましている。

 でも、これが問題なのだ。

 ドラマというか、記号というかは、それを見る人に「単一な視点」を要求するのではなく、すべての人が、夫々、別の視点で見るところに「可能性」が、すなわち人間による「創造」が可能になる。

 それを無視して、単一の視点で見るように要求するのが日本のドラマで、黒澤の映画なんかも基本はそれなので、時々見ていてイヤになるのだが、でも、黒澤生来の「創造力」みたいなものがあるので、それにもかかわらず、「多様な視点」をもたらすので「名画」と言われているのだと思う。

 問題はそれが方法として確立していないことで、だから、相米の「台風クラブ」をデニーロが絶賛しても、相米の映画の方法論は「相米映画」で終始してしまう。

 まあ、相米の場合は、それでもかなり「方法化」してはいると思うけど(「長まわし」とか、かなり表面的だけれど)。

 なんだか、話がまたそれてしまったが、何を言いたかったかというと、月曜日の「テレビタックル」で、被災地の二重ローン問題をとりあげていたので、それについて。

 二重ローンとは、津波に遭遇し、家はないのに、ローンだけ払っているという状態のことを言う。

 ローンを組むということは、家を担保として提供しているということで、その担保物件がなくなってしまったので、ローンだけ残ってしまった。

 ……という風に理解している人がいるとしたら、そうではない。

 番組では、どう理解していたのかわからないが、顔を真っ赤にして怒っていた大竹まことは、「ない家に金を払うとはどういうことだ!」と怒っていたようなので、多分、そう理解していたのだろうが、そうではない。

 これは、リコースローンと言って、日本の住宅ローンのすべてがそうなのだが、ローンを払えなくなった場合、担保の家を処分してもなお残債が残っている場合、それもはらわなければならない、とはじめから決まっているのだ。

 これに対し、アメリカは「持ち家政策」の元祖のような国だが、その住宅ローンはノンリコースローンといって、ローンの担保となっている家を明け渡せば、その時点でローンは終了する。

 つまり、家は失うが、ローンは残らない。

 以前、「月光」でこの問題を調べたとき、ある銀行員のやっているブログで質問してみたら、「個人的にはリコースローンはおかしいと思うが、現実には、日本には中古住宅市場がほとんどないので、ノンリコースローンが普及するのは難しい」という返事をもたった。

 それは、今から7,8年前だったが、その後、時々リコ-ス、ノンリコースという言葉はよく耳にするようになったが、「テレビタックル」でまったく触れられていなかったことからすれば、まだまだ認識はないのだと思った。

 一部では、ノンリコースにすると、モラルハザードを起こすとか言う人もいるが、「家」という施設は何ものにも換え難いもので、ローンを払うのがイヤになったからとか、そんな理由で「家」を失うなんてリスクを犯すはずがない。

 実際、住宅ローンの返済率は、97パーセントとか聞いたことがあるが、きわめて高く、「モラルハザード」の心配はないと言っていいだろう。

 それはともかく、「担保」という言葉の概念からして、担保を接収してなお、リコース、つまり遡及がゆるされるなんて、変な話だし、融資する側としては、それくらいのリスクは取れよ、と言いたいが、せめてノンリコースとリコースの二つの選択肢を提供し、「リコースは利息は低いが、失業とか、いざというときは不安なら、ノンリコースは少し利率が高くなりますが、安心です。どっちにしますか」くらいのことは言ったらどうか。

 しかし、もっと言いたいことは、マスコミはこれくらいのことは勉強しておけよ、と言いたい。さもなければ「問題」がどこにあるか、それがわからなければ、問題は解決なんかしないのだ。

「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか

2013-03-02 03:13:42 | Weblog
 本屋で、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』という幻灯舎新書を立ち読み。

 「踊る大捜査線」は、初日、徹夜で並ぶ人が出るほどの「事件」とすら言われた大ヒットだそうで、それが後の、つまり現在の日本映画の好調さにつながっているらしい。

 私は『踊る大捜査線』についてはテレビも映画も見ていないし、「好調な日本映画」というのも、見たのは『海猿』と『3丁目の夕陽』のさわりをほんの少しだけテレビで見たことがあるだけ。

 2、3日前にも『3丁目の夕陽』をやっていたが、「じっくり見てやろう」という気分は全く起こらず、すぐにチャンネルを変えた。

 10数年前、「11宮」で日本映画特集をやったときは、相米慎二を筆頭に優れた才能が多数いることに驚いたのだったが(相米を例に出すのは、私のあまりの無知をさらけ出すようで恥ずかしいが、ロバート・デ・ニーロが「『台風クラブ』を見たか」といっているくらいなので書いておきます)、今回の「日本映画の復活」にはどうも興味が持てないでいる。

 さて、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』は、監督、プロデューサー、シナリオライター、宣伝、テレビ局などの関係者に対するインタビューが中心で、編著は「日本映画専門チャンネル」となっていた。

 この編集スタイルはなかなかいいと思うが、中にシナリオライターの荒井晴彦がいた。

 しかし、荒井は『踊る大捜査線』の批判者として登場している。

 荒井は、実際には『踊る大捜査線』というより、それ以後の日本映画を総じて批判しているわけだが、どう批判しているかというと、要するに、「なんであんなのが面白いのだ?」につきていた。

 曰く、ともかく見ていてつまらないと自分は思うのだが、一緒に見に行った女性に「どこが面白いのか」と聞いたら「面白いと思う人もいるのよ」と言われ、黙ってしまったが、彼女自身は、それなりに楽しんだらしかった、云々と。

 それで、荒井晴彦ではない、別の誰かだったと思うが、小津安二郎の戦前のサラリーマンものを例に引き、小津映画のサラリーマンは、自分のサラリーマン生活を批判し、嫌っているというのがドラマの基本になっているが、制作者である小津監督自身は、サラリーマン生活を経験しているわけではないのに対し、『踊る大捜査線』以後の日本映画では(『踊る大捜査線』の場合は「仕事場」としての湾岸警察署ということになるが)公的、私的ともども、自分の生活を一切批判せず、受け入れているのが特徴的だと言う。

 これは『踊る大捜査線』を批判しているのではなく、むしろ擁護しているので、多分荒井晴彦の発言ではないと思うのだが、もし荒井の発言だったら、「あまり批判ばかりなのもなんなので」と、本の意図に合わせて、小津の例を出したのかもしれない。

 それはともかく、この発言で、「なるほど! 少し見えてきたぞ」と思ったのだった。

 というのは、少し前に触れたことだけれど、江戸時代の文化、特に「悪場所」の研究で有名だった広末保という人が、10年以上前、「グラフィケーション」で、当時、江戸文化が注目されつつあったことに、広末氏は、かつて石川淳などが江戸を題材に小説を書いたのは、今、自分たちが生きている社会に対する不満、批判を江戸の風俗描写に託していた。

 ところが昨今の江戸ブームは、そのような「現実」に肉薄した動機はなく、ただ江戸が好きだからというだけでしかない、と言うのだ。

 はるか200年前の江戸時代に対する興味も、今、自分たちが経験している「現実」に根拠をもたない限り、単なるオタク的趣味でしかないというわけだ。

 この広末氏の「論理」は、『踊る大捜査線』に代表される現在の日本映画の「人気」につながる。

 小津がサラリーマン生活をしたことがなくても、サラリーマンの生活に対する批判を作品に反映させることはできる。

 そもそも自分たちのサラリーマン生活をそのままコピーしても、表現として説得力を持つはずがない。

 それでもなお、現今の観客たちが『踊る大捜査線』以後の日本映画を支持しているのは、つまるところ、広末氏の言うような「媒介された表現」を経ずして、ダイレクトに社会の現状に対する不満、批判をぶちまけるだけの日本映画に対する不満が不信に変わって、「批判なし、現状容認」のダイレクトな表現に喝采を送っているのかもしれない。

 というのは、ちょっとひねり過ぎかもしれないけれど、「一つになれ」のスローガンで実際に「一つになれる」と思っている人が、『踊る大捜査線』に大喜びし、『海猿』に感動し、『三丁目の夕陽』に涙していると見るのは、決して「ひねり過ぎ」の意見ではないと思う。

 荒井晴彦は、子供のときに見た『シェーン』を最近久しぶりに見たら、実はあれは三角関係の物語であったことに気づいて、名作というのは、見る人が同じでも、時間とともに見方が変わるし、見るの数だけ「解釈」が存在する――そのような作品が名作なので、『踊る大捜査線』はそのような可能性を少しも感じさせない、とも言っていた。

 私はついひと月ほど前に『シェーン』を改めて見たばかりだったので、荒井晴彦の言葉はよく理解できる。

 私も、子供のときに見た『シェーン』とは全然違うことに驚いたのだった。

 そして、2、3日前にテレビで『3丁目の夕陽』をちらりと見たとき、「新しい発見」がありそうに思えなかったので、見るのをやめたのだったが、言い換えると『3丁目の夕陽』は(『踊る大捜査線』も)、「一つの見方」しか存在しない作品なのだ。

 『踊る大捜査線』を一緒に見に行った女性が、「どこが面白いんだ?」と言った荒井に、女性は「面白いと思って見ている人を否定はできない」といったような意味の返事を返したのだったが、それも、『踊る大捜査線』が「一つの見方」しかない映画で、それが受け入れられない人はそのことを受け入れるしかない、と言ったのだった。

 しかし、荒井にしてみれば(私も含むが)、そういう作品こそ「よくない作品」「見る価値のない」作品なのだ。

 今、大人気ドラマだという『相棒』をテレビでやっているが、これもまた「一つの見方」、「一つの楽しみ方」しかない映画であることは、一瞬見ただけですぐにわかるので、すぐに消した。

 消さない限り、目に入ってしまうから、「受け入れられない」人はそうするしかないのだ。 

 長くなってしまったが、とても大事なことだと思うので。

 最後に、幻灯舎新書については、他のも少し読んでみたのだが、全般的に面白くなかった。

 特に「宇宙論」については、全くダメである。

 村山斉という売れっ子が宇宙論を書いていて、新書版ランキング一位!とポップが貼ってあったように記憶しているが、ともかく腹が立つほど要領の悪い文章で全く面白くなかった。

 同じ村山斉のブルーバックス『宇宙は本当に一つなのか』は、面白かったので、多分、幻灯舎の編集が、今の宇宙マニアが何に興味をもっているのか知らないため、また現代物理の奇想天外さに対する理解がないため、当たり障りのない、つまらない文章になってしまったのだろう。

 幻灯舎という名前で20万部売ったのだとしたら、腹立たしい限りである。


経済学と物理学

2013-03-01 02:55:59 | Weblog
 すっかり間隔が空いてしまった。

 言い訳は後回しにして、昨日(27日)の朝日新聞朝刊のインタビュー記事について。

 日本有数のマクロ経済学者という斉藤誠東大教授が、「物理学なら重力でリンゴが落ちると証明されていますし、医学ならこの病気にこの薬が効くという専門家の合意があります。しかし経済学にはあいまいな点が多すぎます」という朝日の記者のバカな質問に、次のように答えていた。

 「物理現象は、分析する人間がどんな思惑を持っていてもリンゴの落ち方は変わりません。でも社会現象はその分析者も含めてプレーヤーたちの行動の集積のなかで起きます。おおむねこうなるだろうという知見はたくさんあっても、自然科学でいうような客観性はありません。だから経済学者には医者や物理学者のように明確な指針を出して貢献することはいつまでたってもできない」

 これは、いかにも誰もが納得するような言葉だけれど、リンゴが上から下に落ちるのは、日常生活において全生物が生きるために前提している条件で、物理学の原理ではない――ということを物理学は、量子という微小世界の研究を通じて確認している。

 量子力学の創始者の一人、ボーアは「物理学の仕事が自然がどんなものかを明らかにすることだと考えることは間違っている。物理学が関係するのは自然について我々が言えることだけだ」と言っている。

 「自然がどんなものかを明らかにする」ということは、明らかにされるべき真実の姿を自然は隠し持っていると前提しているのだけれど、ボーアは、物理学は量子の研究を通じて、自然はそのような姿を有していないことを明らかにしたと言っているのだ。

 う~ん、なかなか説明がうまくいかないが、斎藤誠という東大の経済学の教授が現代物理学の知識がないからよくないと言っているのではない。

 斉藤教授は、「物理学に正解はあるが、経済学に正解はない」と、経済学に「正解がない」ことを「正解がある」物理学を例に出して正当化しているが、実際には、物理学にも「正解はない」のだ。

 では物理学はどう対応しているのか?

 物理学は「正解がない」ことを前提に、正解があり得るとしたらどのようにあるのかと問題をたてる。

 じゃないかと思うのだが、それはそれとして、斉藤教授のように、経済学に「正解がない」ことを正当化してしまったら、「物理学とはちがうから明快な指針を出すことはできない」と居直るしかなく、そのあげくは、「アベノミクスを支持する学者は、支持することで私的利益が得られるので支持しているのだろう」といかにもマクロ経済学者らしい皮肉なレトリックを吐くにいたる。

 このインタビュー発言は、ブログ、ツイッターでかなり叩かれているが、物理学が現在、どの段階まで踏み込んでいるかに関する基礎知識があれば、「経済学は物理学のようなわけにはいかない」なんて言葉は簡単には出てこないはずで、その根幹にはやはり「無知」があるのだと思う。

 記事を調べたら、斉藤教授は「自分たち経済学者は、長期のことはかなり明確に言えるけれど、短期のことは、象牙の塔の人間は善し悪しを言いにくい。ところが経済学者の中には、短期のさじかげんにまで口を出す人がいるが、そういう人たちはスポンサーがいて、その以降で議論を展開しているのでしょう」と言っていたのだった。

 「長期のことは明確に言える」だなんて、この大学院の教授は言うが、ケインズは、「長期のことでわかっていることは、我々はみんな死んでいる、ということだけ」と言ったのではなかったっけ?