パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

俳優の杉浦直樹と拉致被害者の会の横田滋会長が同い年であることとイラン問題について

2006-04-29 17:07:05 | Weblog
 「ときめきに死す」の珍優、いや怪優(同じか)、杉浦直樹が紫綬褒章をもらったそうで、その記事に年齢74と、2とか書いてあった。仰天。とても、そんな年には見えない。
 同じ新聞に、例の北朝鮮拉致被害者の会の横田滋さんの年齢が出ていたが、72だった。杉浦直樹と同世代……信じられない。まあ、横田さんもそれなりに元気そうではあるが、でも、今年の初めに倒れたそうだ。それで、アメリカに行かなかったとか。

 さて、その拉致問題なのだが、マスコミの論調では、被害者の会の必死の訴えにブッシュが遅まきながらやっと腰を上げてくれた、といった感じだが、どこを見ているのかと言いたい。明らかにイラン問題絡みでしょ。
 では、分析。

 まず、イランが核兵器を持つことは絶対に阻止しなければならない。イランの核は、インドや中国が核を持つのとは意味が違う。これからすべてははじまる。
 では、どうしたらよいか。各種報道によると、アメリカは武力を使ってでも阻止すると言っているが、イランは核関連施設を分散させ、かつ地下に作っているので、実際は武力攻撃を仕掛けても壊滅させることは難しいらしい。そして、そのことはアメリカもわかっている。
 だとしたら、武器化を防ぐことが次善の策になる。実際、核爆弾を作ってもそれを武器として使えなければ意味がない。そこで、技術と金のイランへの流出をなんとしてでも阻止せよということになる。
 そこで、ブッシュは、まず、アメリカを訪問した中国の胡にきつく釘を刺した。(実際、ブッシュと胡の会談の大半はイラン問題だったそうだ)
 次に問題なのは、実はアメリカの同盟国である日本だ。日本はイランの大規模油田の権利を獲得してその開発に大金を注ぎ込もうとしている。しかし、頭ごなしに止めさせたら、昔から日本はイラン(ペルシャ)と仲が良いため、日本の国内世論が反発する可能性がある。そこで、浮上してきたのが、日本の抱える「拉致問題」の解決に積極協力するというアイデアだ。おまけに拉致をしたのはイランにミサイルを輸出したりしている、北朝鮮だ。まさに一石二鳥だ。「人権問題」を強調することでアメリカ国内の超党派的支持を得ることもできることも考えれば、一石三鳥だ。(誰だろう、こんなうまいことを考えたのは。ライスだろうか、やっぱり)
 こういった分析は、日本のマスコミだって当然考えていると思う。なんといっても今のアメリカ(ブッシュ)の最重要課題はイラク問題であり、すべてはこの問題の解決のために動いているといっても言い過ぎでない。しかも、現実はまったくのてづまり状態で、ますますイラク問題で頭が一杯のはずだ。だとしたら、そんな時期に、「北朝鮮による拉致問題への積極的関与」を唐突といってもいいようなタイミングで持ち出した本意がイラク問題と無関係ではあり得ないことぐらい、わかっているはずだ。ところが、そういった点に照明をあてた報道をまったくしないのは、一つには、これまでずっと情緒的な報道しかしてこなかったため、アメリカの態度変化についても情緒的に報道せざるを得ないこと、もう一つは、そのために、北朝鮮の出方次第ではもう一方の当事者である日本が覚悟をきめなばならない事態になる可能性があることを認めたくない気持ちを引きずっているということ、この二つだ。
 ……と思うのだがどうだろう。

ピザ屋、爆死!

2006-04-28 14:04:19 | Weblog
 「アンビリーバボー」で、首に時限爆弾をつけられて銀行強盗を強要されたピザ屋の店員の話を見る。
 これは、事件発生当時、テレビで見たのだけれど、たぶん、「この後、彼はどうなったのか!」とナレーションが煽った後CMになったかしたためだと思うが、結局、結末はわからずじまいで気になっていたのだが、結局、「爆死」してしまったそうだ。南無阿弥陀仏。
 犯人は、自分の知性に過剰な自信を抱いている高校教師が、その自分の能力を世間に見せつける目的の殺人ゲームを思いつき、ピザ屋の店員を欺いてゲームにおいて爆死する役割を承諾させたというものらしい。つまり、ピザ屋の店員は、首につけられた爆弾を本物ではないと思っていた可能性があるらしいのだ。「らしい」というのは、その高校教師は自分にかせられた嫌疑を否認したまま、癌で病死してしまったためだ。

 深夜、バルセロナ対ミランのサッカー、ヨーロッパチャンピオンリーグ準決勝の再放送を見る。基本的に、どっちに勝ってほしいという気持ちがない上、結末を知っているわけだから、プレーそのものの質の高さとか、観客の声援の物凄さとかを見ることになる。実際、アナウンサーも、途中、しきりに10万人の大歓声の物凄さを強調していた。
 もう、20年以上前になると思うけれど、キャンディーズの解散コンサートが後楽園で開かれた時、そのファイナルの日に、後楽園近く……といっても、歩いたらたっぷり20分くらいはかかると思うけれど、神楽坂の坂上にある一軒家を二つの事務所がシェアリングして使っているその一つの事務所で「アラン」の編集をしていた。なんで、そんなところでやっていたかというと、そこにみのり書房にない器材があって、それが必要だったからだ。
 そんなことはどうでもよいのだけれど、せっせと仕事をしている時、「ウォー」という歓声が漏れ聞こえてきた。なんだろうと思って、持ち主に聞くと、「キャンディーズのラストコンサートを後楽園でやってんのよ。風向きで野球の時なんかもよく歓声が聞こえるわよ」とのこと。しかし、その後も何度かその事務所を使わせてもらったが、野球の歓声は聞こえた記憶がないから、やっぱり、あのラストコンサートは凄かったんだろう。

 話がそれたが、結局サッカーは、結末がわかっているので、チャンネルを替えたら、若いジュリーが、髪がまだあった杉浦直樹と向かい合って食事をしている様子を真横からフィックスカメラで撮っている。また「家族ゲーム」の真似かい、いいかげんにしてくれよと思ったら、その「家族ゲーム」の森田芳光監督の「ときめきに死す」という映画だった。いや、つまらん。正真正銘つまらん。森田に限らないが、日本映画にはなぜあんなに食事シーンが多いのだ。日本映画は基本的にホームドラマなので、どうしても食事が頻繁に出てくるのはしょうがないという面もあるが、だったらだったで、きちんと演出しろよと言いたい。ほとんどの場合、役者の演技力不足、または、監督の演出力不足をごまかすために役者にものを食わせているとしか思えない。
 ジュリーは、なんかおちょぼ口でなよなよと食べているので、杉浦と何かあったのか?と勘繰っちゃうし(もしかしたら、そうだったのかも)、本格役者の杉浦も、「ただ食べているだけ」。
 というわけで、改めて思ったのは、「家族ゲーム」の成功は、大部分、伊丹十三に帰するのではないか。あの、目玉焼きをねちょねちょ食べるシーン、あれなんか、森田の指示ではなく、伊丹自身のアイデアだろう。もし、あれが森田の演出だとしたら、「ときめきに死す」でも杉浦に何らかの指示を与えているはずだ。しかし、杉浦はすぐれた役者だけれど、伊丹みたいに自らアイデアを出すようなことはしないタイプなので、結果、「ただ食べるだけ」ということになってしまったと。まあ、推測だけれど。
 さてその後、場面が変わって、どこかの海岸。若い女が二人ビーチチェアに座って、また、無意味に何か食っている! それからも緊張感のない、だらだらとした場面が続く。これが「不条理」だの「森田調」なんだのとは言わせないぞというわけで、早々にスイッチを切ったのだが、先程調べたところでは、ジュリーは、殺し屋で、いざ実行という時に警察に捕まってしまうが、しかし、ジュリーは実は「囮」として雇われていたので、真犯人は別にいて……というラストが待っていたらしい。なんだか、ちょっと「ピザ屋」の事件と似ているような気がした。

「マトリックス」再考

2006-04-27 14:14:51 | Weblog
 最近、テレビ朝日だとおもうが、草なぎとユースケサンタマリアが、ゲストと一緒に他愛のないゲームに打ち興じる番組が気に入っている。夜、11時すぎだ。
 どこがいいというかというと、民放にもかかわらず、番組の流れがCMで分断されない! たとえば、売れっ子ナレーター氏(彼も好きだ)が、「このあと、クサナギがまたとんでもないボケをかますぅ!」とか大袈裟に言うと、たいがいの番組ではこの後CMが入ってしまうが、これにはそれがない。「ああ……またCMかな、チクショー」というイライラがいい意味で裏切られ、もう、感激で泣きそうです。
 ともかく、今のテレビはCMが多すぎるというか、入れ方が余りにもあざとい。

 ……といったことを簡単に書いて、とりあえず、お茶を濁そうと思ったのだが、「マトリックス」がなんで面白くないのかという、疑問が呈せられたので、私がそう思う、その理由を。

 実は今、フッサールの現象学と、ギブソンのアフォーダンス理論をつきあわせながら、「視覚」について研究(!)しているのだが、これまでのその研究の結果を言うと、まず、「視覚」が特に研究する必要あり、と考えたのは古代ギリシャ人だった。なぜならば、通常、「知覚」というものは、対象に接触することによって得られる。味覚、嗅覚、触覚、そして聴覚だって空気の振動を直接キャッチすることで生じる。しかるに、「視覚」は、対象と隔たっていながら、その対象の情報を得ることができる。いったい、何故か?というわけだけれど、その古代ギリシャの研究の結果をイスラム学者の手を経て、ケプラーが「眼=カメラオブスキュラ」説としてまとめた。つまり、網膜に映った像が「視覚」の原因だというわけだ。では、その網膜に映った像はどうやって、「視知覚」として認識することができるのか?
 これが難題で、ケプラーは、脳の中に小人(ホムンクルス)がいるのだと説明した。……もちろん実際にそんなのが住んでいるわけはなくて、ケプラーは比喩的にそう言ったのだが、そう表現する他なかったということでもある。
 このケプラーの説に対して、デカルトが反論した。一つは、小人が網膜の像をモニターしているのなら、その小人の網膜に映った像をモニターしているもう一人の小人が必要になり、きりがなくなること、もう一つは、網膜に映った像が、上下反転していたり、歪んでいたりと外界の姿と必ずしも一致しているわけではないということである。
 そこでデカルトは、網膜の像を認識しているのは、小人ではなく、人の「心」、つまりぶっちゃけて言えば「脳」が行っているのだ、と修正し、これがその後、ずっと、今にいたるまで「視覚研究」のメジャー理論となっている。これを、一般的にシミュレーション仮説と呼ぶ。つまり、我々は、外界のシミュレーションを見ているのであり、その主役は「脳」であるというわけだ。まさに、「マトリックス」の世界だ。
 ところで、外界のシミュレーションを担う「脳」は、いわばコンピュータであり、実際にそうでもある。では、そのコンピュータが驚異的な発展を遂げることで、シミュレーション仮説はますます強固になったかと言うと、そうではない。なぜなら、コンピュータの「飛躍的発展」は、実際は、コンピュータの理論的限界を現実の灯りのもとに明らかにすることでもあるからだ。
 ちょっと乱暴だけれど、「マトリックス」は、このコンピュータの理論的限界を無視した上で、その「世界」が作られているが故に、面白くない……というのは、ちょっと言い過ぎで、「映画」なんだから、あれはあれでいいとも言えるわけで、実際、全然面白くなかったわけではないのだけれど、嫌なのは、インチキ東洋思想、特に中国思想を持ち出しているところが嫌なのだ。中国の思想には「哲学」がない。(思想と哲学が違うということは、今思い付いたのだけれど、たぶん、ちがうと思うw)。要するに、中国思想は結局、表は科挙に合格するための「詭弁術」、裏は落第した連中の「言い訳処世術」なのだが、白人連中はそれがわからない。日本人もわかっていないが。

 ところで、ギブソンのアフォーダンス理論は、この「シミュレーション仮説」を徹底的に批判する。簡単に言うと、どんなに精緻に脳の働きを研究したところで、人間の(いや、実際は生物全般の、ということだが)視覚機能を充分に説明することはできないということだ。「ある程度」できればよい、ということではない。もちろん、その「ある程度」の研究から視覚機能全体を理解することができるならば、「ある程度」でよいのだが、そんな見通しはまったく立っていない。
 例えば、人間(生物)は、見ただけで、その対象との「距離」をほぼ正しく測ることができる。少なくとも、遠くにあるものを近くに、近くにあるものを遠くにあると取り違えたりはしない。
 この視覚能力が、ギリシャ時代から「謎」だったのだが、シミュレーション仮説では、なんらかの方法で、脳がそれを算出しているのだと考える。これに対し、ギブソンは、視覚の「見え」そのものに、距離が含まれていると言う。遠くのものが小さく、近くのものが大きく見えることもその一つだ。あるいは、遠くのものが「上」に、近くのものが「下」に見える。何故なら、人間は地上を見下ろすように見ているからだ。
 つまり、シミュレーション仮説は、このような「現実」を失念し、対象との距離を概念的に捉えたために、「距離は見えない」と思い込み、四苦八苦してしまったのだ。

 てなことを調べて時間を無駄に食っているのだが……。

真っ黒い夢

2006-04-22 19:19:02 | Weblog
 某日、まだちゃんと就寝できていない時、どこかでパチっという音がしたかと思うと、まわりが真っ暗になってしまった。まさに「真の闇」という感じで、普通だったら、目を見開いて凝視すれば、少しは見えるはずだが、まったく見えない。手をばたばたさせ、何かを掴もうと思ったが、何も掴めない。この異常な事態に、もしかしたら、このまま「黄泉」の世界とやらへ落ちて行くのではないかという恐怖にかられ、「これは何だ、いまだかつてない暗闇だ!」と叫んだ。実際に声に出すことはしなかったと思うが、「じたばた」は少しくらいしたかも知れない。端から見たら、歌舞伎の「だんまり」みたいに見えただろう。「どうした、どうした、これはやばいぞ。どうすれば、明るい世界に戻れるのか」と、何故か、やたら芝居がかって叫びながら(内心で)、どうしようもない事態に焦りが募った。
 と、ふと目を開けたら、なんてことはない。もとの通り、薄明かりに照らされた寝床の中にいた。「暗いはずだよ、目を閉じていた♪」って感じだが、でも、多分、「夢」だったんだと思う。
 あー、怖かった。
 おそらく、「マトリックス・リローデッド」をテレビで見た晩のことだと思うのだが、何かの影響があったのだろうか。
 「マトリックス・リローデッド」自体はそんなに面白いと思わなかった。凝りに凝ったというか、東洋哲学じみた怪し気な世界観に基づくストーリーにつきあう積もりはさらさらなく、ただ、超現実的なアクションを眺めていただけで、結局、最後まで見ることもせず、「気持ち悪い」という気持ちだけ残った。中国人の鍵作りが一人、儲け役という感じ。

富久町の家2

2006-04-20 23:56:28 | Weblog


 富久町の家、というより狭い路地。幅1メートルたらず。10メートル程歩いて行き止まったところがいきなり庭になっていて、そこに2軒の家が寄り添うように建っている。その家も撮ろうと思ったが、庭に入り込んでカメラを構えたりしたらきっと怪しまれるだろうと思ってやめた。
 中央に竹の垣根と太い桜の樹が見える写真は、その路地を引き返した時の眺め。桜の樹は、元お茶のお師匠さんのわび住いといった感じの小さな家の裏手に植わっていて、表の庭には小さな、可愛らしい桃の花の木が植わっている。裏に巨木、表にちっちゃな可愛らしい木、という感覚は、さすがワビ・サビを重んじるお茶のお師匠さん(かどうか知らないけど)。
 最初にこの一角を訪れたのは、雪の降った翌日で、なかなか風情がありました。

富久町の家

2006-04-19 20:19:41 | Weblog


 写真は、幅が2メートルにも満たない小さな家が二軒並んでいるところ。このように、極端に間口の狭い、いったいどうなっちゃってるのという家は、富久町には非常に多い。身体の大きな外人さんが見たら、小人の家ではないかと思うだろう。でも、チャーミングだと思う。玄関の柱の上に草花が飾ってある

 ところで、デジカメをつかっていて、奇妙なことに気がついた。
 それは、液晶画面の「見え」のことで、対象が、広い公園か何かの「全体」を写そうと思っている時はなんでもないが、その公園の中に人を立たせ、その人を撮ろうとすると、画面の位置調整に苦労するのだ。
 たとえば、その人が、液晶画面の右隅に映ったとする。そこで、その人を中央において撮ろうとした場合、当然、カメラを「さらに右」に振らなければならないが、右隅にいる人を中央に置きたいのだから、頭の中では、その人を「左」に動かせばよいと考えてしまう。三脚などでカメラを固定した場合、写そうとしている相手が右に寄っていたら、「右すぎるぞ、もっと左に寄って!」などと声をかけるが、それと同じ心理が働いて、つい、カメラを左に振ってしまう。というか、「自分の《左に寄って》という言葉につられて」というか。すると、液晶画面上の人は、右隅からさらに右に動くことになって、画面から消えてしまうのだ。わかるかな~、わっかんね~だろ~な~。でも、デジカメを持っている人なら、実際にやってみればすぐわかる。
 しかし、本当に奇妙なことは、この現象が、何か「特定のもの」を選んで写そうとした場合に起こり、そうでなければ――たとえば、公園の全体であるとか、展望台から見た風景といった、「ある全体」を写そうとするときには起こらないということだ。ところが、全体の中のある「部分」に注目して、それを写そうとすると、撮影対象(客観)と、撮影している人(主観)との関係が「相対的」な関係となって、右が左に、左が右に……。わかるかな~、ますますわっかんね~だろ~な~。私も、よくわかっているわけではない。
 ところが、普通のカメラのファインダーの場合は、そんなことは起こらない。これが「不思議」の二つめだが、理由は、要するに、カメラと人間が一体化しているためだ。だから、私は普通の光学ファインダーのついた中古機種を買ったのだ。もっとも買った時はそんな理屈は考えず、ただ、ファインダーの方がなんとなく撮りやすいと思っただけだが。

 今のコンパクトデジカメはほとんど、液晶画面だけしか装備していない。光学ファインダーをつけるとコストが嵩むからだろうが、しかし、どちらを選ぶかとしたら、光学ファインダーのほうがいいと思うが……あ、そうじゃないんだ。液晶画面は、撮影後に確認するためなんだ。

お買い物2

2006-04-18 20:00:24 | Weblog

 お久しぶりです。すいません。私事でいろいろ忙しくて。これから、また「月光」に精を出さねけばならないしで、しばらく、デジカメ映像アップで行こうかと。その1発目は、お買い物2。明治公園のフリマで見つけたカシオのフリップトップカリキュレーターという電卓付き時計。上下2層式になっていて、上の時計画面をカパっと開けると、下が電卓になっている。デザイン、色使いもなかなかいいでしょ。かなり気に入っている。箱の中に山積みされたいた中から見つけた。800円。山積みになっているようなものは、普通、300円くらいなんだけど、800円でもいいと思って買った。すぐ近くで店を開いていた中国人のところで、電卓の電池を入れてもらったが、その中国人が、「珍しいね、見たことないアルよ」と言っていた。珍品かも。えっへん。


お買い物

2006-04-10 15:25:23 | Weblog
 「お気に入り」の削除は、結局、新規フォルダーを作り、そこに不要の「お気に入り」をドラッグして集めた上、一括して削除(ただし、フォルダーそれ自体は選択した時点で開いてしまうので、中のファイルを削除するという形)という、かなり強引なやり方で整理しました。こんなんでいいのでしょうか。もっとスマートなやり方があるような気がするのだけれど……まあ、目的は達したみたいなので、どうも、でした。

 明治公園のフリマで、中国人からファックスを千円で購入。今あるファックス電話器は「留守電」がついていないので、ついているのを探していたのだが、「ファックス」って、使い勝手がいいのか、リサイクル屋なんかでも結構いい値段なので、安いのを探していたのだ。「大丈夫?」と聞いたら、「大丈夫よ」というので買った。まあ、千円だし。それに、中国人の商人は案外信用できる。中国研究の権威、宮崎市定が書いていたが、中国人の商人は買ってくれそうなお客には値引きで対応してくれるが、日本人の商人は、足下を見て、絶対に値引きしないというのだ。で、この点は日本の商人は中国人の商人を見習って欲しいと。
 ファックスがちゃんと動くかどうかという問題とは別だが、ともかく買った。
 しかし、自転車でいったため、でかくてどうしようかと思ったが、すぐ隣りで超ビッグなバッグをこれまた千円で売っていたので、800円に値切って、買い、空色のビニールのバッグを肩から下げていたので、それとファックスを一緒にバッグに詰めた。
 そのまま帰ろうかと思ったが、蛍光灯の照明、濾過ポンプつきの熱帯魚用水槽が1500円で売られていた。今、ギャラリーにおいてある水槽は、空気ポンプはついているが、濾過ポンプがなく、水の汚れが早いし、照明もついていない。それで買おうか買うまいか、迷っていたら、1000円でいいというので、これも買った。しかし、小型水槽とはいえ、40リットルくらいの体積はある。どうしたらよいかと思ったが、バッグを整理したら、入ってしまった。もともともっていたビニールのバッグ+ファックス+水槽だ。これを肩から下げて自転車に乗る。かなり厳しい。が、しょうがない。
 なんとか事務所に辿り着いて、まずファックスをセットして調べた。まあまあ、大丈夫だ。留守電も使える。1000円ならグッドだ。水槽もまあまあだが、もしかしたら、一部、ちょっと部品が不足しているのではないかと思えるようなところもある。どうせいずれフィルターを買い替える必要が生じるだろうから、その時、新大久保の円満屋で聞いてみよう。
 アップしたのは、その水槽の写真。部屋の照明が暗いので、ほとんど水槽の蛍光灯のみで撮影した格好になり、結果、「こんなん」になってしまった。画面、向かって左側の水草のようなものは、空気ポンプによる水の泡で、螺旋上に回転しながら、水面に向かっているところ。(何故回転しているかと言うと、地球が自転しているからだね)




 小沢一郎は「自分を変える」と言っているが、「変える」としたら、「(議員の)数がすべて」という田中角栄流のやり方、考え方を変えるべきだと思うが、それはしないだろう。

教えて!

2006-04-09 13:26:59 | Weblog
 久し振りに「サンデープロジェクト」の最初の方を見る。ゲストは小沢一郎と北側国土建設大臣。
 小沢については田原が、「代表選挙をやったおかげでマスコミの注目が民主党に集まり、メール問題なんかどっかにいっちゃった」とか言っていたが、メール問題が「どっかにいっちゃった」かどうはともかく、テレビ朝日は代表選挙なんかやったら党が分裂し、小泉自民党に対抗できなくなるから、話し合いでやれと主張していたのではないのか? 少なくとも、古館の報道ステーションでは、古館がまさに、血涙をふるうように、「選挙はダメ」と主張していて、これを古館の持論とみるのはちょっと不自然で、テレビ朝日を含む朝日メディアの主張のように思っていたのだが。
 まあ、そんなことはどうでもいいとして、北側大臣は当然姉歯問題で出演したわけだが、そこで、建築基準法で認められた強度計算ソフトには、その精度にいくつも種類があって、低性能のソフトは値段は安いが、計算が雑だが、それを補うために、安全度を高く見積もっている。一方、高性能になる程、計算は細かく、正確になる。つまり、安全度を基準法ぎりぎりにまで絞り込むことができるが、その分、値段も高い。
 で、姉歯氏は、この「安いソフト」を使ったわけだが(姉歯だけでなく、多くの構造計算の専門家も「安いソフト」を使っているらしいが)、「より安全度を高く設定している」ために、従来、基準法に達していないと思われていた姉歯物件の中に、より高価なソフトで計算したら、基準法をクリアしているものもあったという。
 ということは、要するに、姉歯氏は、「安全値が高めに設定されている安いソフト」を使って、なおかつぎりぎりで基準法をパスしようとして、水増しした数値を入力した、ということなのだろう。「安物買いの銭失い」とはこのことだ。いや、妻すら死なせてしまった。もちろん、姉歯だけの責任ではないけれど、姉歯の性格的なものもあったのだろう。

 「ターミネーター2」を見る。2度目だが、1度目は、良いターミネーター(シュワルツェネッガー)が、子供と「人は殺さない」という約束をした上で、包囲した警察官を蹴散らす場面から見たのだった。そこでは、画面に「死傷者ゼロ」とか出たりして、なんか、いい子ちゃんぶった映画だなあと思ったのだが、今回は、最初から見たので、そんな印象はなく、むしろ、最後、「良いターミネーター」が、自ら溶鉱炉に身を沈める場面なんか、ちょっと感動的だった。(以前は、「いい子」ぶるのもいいかげんにせえ、とか思ったりした)
 しかし、まあ、全体的に、これこそ「勃興期のハリウッド」を思わせるような映画だったと思う。(もっとも、「勃興期のハリウッド映画」なんてほとんど見たことないが)たとえば、大衆性を全面に押し出し(彼らは、下品で無能かも知れないが、否定はしていない)、バロック的とも言える派手なアクションで観客をひきつけ、なおかつ「倫理」の大枠をかぶせ、といったところに「初期ハリウッド的印象」を抱いたということだ。モノクロのサイレントでも「可」のような内容だし。(実際、ちょっとややこしい設定の説明に、女主人公の独白を使っていたし)
 ちなみに、「大衆」の重視ということで言えば、良いターミネーターが、酒場にたむろする極右風のおやじの革ジャンを奪ってそれを着込み、そのまま最後に溶鉱炉に身を投げるまで、それを着たまま、といったところなんかにも現れているように思った(シュワルツェネッガーの「思想」かもしれない)。ちょっと勘ぐり過ぎかも知れないが、ともかく、面白かった。(中途で、悪いターミネーターが姿を消している間、ちょっと間延びしていたが)

 えー、ところで、私、今、本体はMacで、ブラウザーはインターネットエクスプローラーのバージョン5を使っているのですが、「お気に入り」の削除がうまくいきません。どうしたらよいのでしょう。ヘルプで調べたけれどウィンドウズ向けの説明しかないようで。

信じようと信じまいと(2ch情報)

2006-04-06 17:26:43 | Weblog
 「ボーイズラブもの」の出版社、ビブロス倒産。負債20億だそうで、ビブロスという会社の実態はよく、というか、全然知らないから一概には言えないが、事業の内容に比べて、かなり大きい印象。この業界、「おたく」にしろ「萌え~」にしろ、需要側の要求に合わせさえしておけば、「入れ喰い」状態が保証されるがごとき錯覚が供給側にあるのではないか。そして、その結果、負債額が通常より大きくなったのではないか、と思いたいような気がする。(曖昧~)

 中国の甘粛省の省都のゴミ捨て場で、「調理された跡のある子供の腕と骨が見つかった」そうだ。子供の年齢は八歳前後で、生別は不明。生姜と唐辛子も一緒に捨てられていて、その「調理」とは、「生姜と唐辛子和え」らしい。
 これは、中国に悪意をもつ外国の通信社が中国国内に流通する都市伝説的噂話をそれらしくフレームアップしたというのではなく、歴とした中国国内報道で、「当局は、全力を上げて、これを捨てた犯人(料理人、それとも料理屋?)を追跡調査中」と締めくくられている。
 つまり、犯人を追跡中ということは、一応、人肉食は犯罪となっているのだろうが、でも、「外国人」としてはそんなことで安心できない。それが、子供の肉であることを知りながら、注文して食べたい人間がいるのだという「事実」が、頭にこびりついて離れない。中国人は今井さんみたいなのが普通なのか……それとも、それとも……それ以外考えられないのが怖い(ヒ-)。
 何しろ、中国の大聖人である孔子が人肉の塩辛が大好きだったというのだから。しかも、好きで好きで、終生絶対に食卓から欠かすことがなかったとか言うなら、それはそれでわかるが、自分の一番弟子が、仕官した先のトラブルに巻き込まれて「塩辛」にされてしまってから、人肉を食べるのを止めたというのがわからない。いったい、「人肉食」はいいことなのか、悪いことなのか……

 たとえば、好奇心からイラクの国境を越えようとする外国人に、イラク人が「危ないから止めた方がよい」と忠告しながら、自分は、その「危ない」イラクに住み、時としてテロに巻き込まれて死んだりするわけだが、中国の「人肉食」も、そういうことなのか。
 なんかわかりにくい例え話になってしまった。

 しかし、「こんなところでオリンピックを開催するのかよ」という書き込みには笑いながら、同感。