パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

万歩クイズ

2009-08-26 20:40:47 | Weblog
 ナンバリングマシーンを郵便局にもっていって重量を量ったら320グラム。送料は390円だった。

 よって収入は390円に減った…というか、まあ使わない切手は他で使うから…。

 今日、池袋から新宿御苑まで歩いた。万歩計で何歩カウントしたでしょう。

 答えは、最後に。

 日本新党の田中康夫のベーシックインカムマニフェストが追い風になったのか、ここにきて、ネットにおけるベーシックインカム論争が熱気を帯びている。

 これをテーマにしたサイトもだいぶ数多くなったようで、私も先ほどメールマガジンを申し込んだ。

 そのめーるまの発行元のサイトに、関曠野という人の講演録が載っていた。

 関さんは,講談社新書の「民族とは何か」を、以前,月光でネタにさせていただいた方だ。

 「民族とは何か」というのは,案外難解な問題で,特に単一民族国家である日本の一員である日本人には非常に分かりにくい。

 社民党の福島瑞穂なんかに言わせれば,「日本は決して単一民族の国ではないんですぅ~」「アイヌの方だっているしぃ~」なんてことになるのだろうが、いや、日本はどう考えても、世界でほとんど唯一の単一民族からなる国家であって、それが強みでもあり,弱みでもある、ということでしょう。

 福島は、核問題でも、中国が先制不使用を宣言していることを誉め、アメリカも先制不使用すべきだと言っていた。

 ということは、すべての核保有国が先制不使用を宣言すれば、めでたしめでたしってわけかな?

 どうもみずほ女史はそう言いたかったみたいだが,不使用宣言をしても、いざとなったら,そんな宣言は反古にされるかもしれないということを、女史は、弁護士のくせに考えていないみたいだ。

 養老先生がうまいことを言っていた。

 「正直者ばかりの社会があったら,その社会は詐欺師の天国になる」と。

 まあ,それはともかく,ベーシックインカムなんだが、そのメールマガジンの発行元のHPに、関氏の講演録が載っていた。

 関氏の話しは相変わらず難しかったが、要するにベーシックインカムの財源としては、政府発行通貨を提唱していた。

 今は、通貨は、国の中央銀行である日銀が発行しているが(これは,世界共通)、日銀は政府機関ではない。

 政府機関でないものがその国の通貨をなんで発行しているかというと、歴史的にイギリスが初めてそうやって通貨を発行管理したので、それを世界が見習ったということであるらしい。

 その辺の話は、一回読んだだけでは到底わからない話で、今はなんとも言えないのだが、その関氏の講演に集まって人を見ると、いかにも「貧乏人」という人が皆無だったのが印象的だった。

 あえて言うならば、なんとなく金融人が多いような感じがした。

 実際、資本主義の根幹である金融の世界は,本当に限界に達している。

 将来の安全を保障する保険も年金も、実際はそんな保障の必要のない、金持ちほど保険とか年金で手厚く保護されるという、現行制度のバカらしさ!

 財産がン億円もある大金持ちは、年金も医療保険も必要ないのだけれど,でも「心理」は、それを否定する。

 関氏は、この心理現象を、結局、「金」が物神化しているからで、この「物神」を解体させるには政府発行紙幣が効果があると言っているみたいだったが、要するにクーポン券のようなものか?

 いずれにせよ、世界は、金融制度を中心に大きく,変わろうとしているのであり、それを自らの危機と思わぬ金融マンはいないはず。

 なんて期待度100パーセントの推測なのだが、何はともあれ、ベーシックインカムが多くの人々の話題にのぼるようになったことはご同慶の限りである。

 さて、クイズの解答です。池袋―新宿御苑間は、8200歩でした。

トホホ

2009-08-25 17:37:22 | Weblog
 すっかりご無沙汰してしまったが、今回はトホホ話。

 ナンバリングマシーン(数字スタンプで,数が一押しごとに変わるやつ)をヤフオクに1円スタートにかけたら、1円で落札されてしまった。

 トホホであるが、郵送料580円は、手持ちの切手で送れるから,実質580円で売れたようなもの…と思うことにしよう。

 トホホ。

片意地娘

2009-08-17 21:31:25 | Weblog
 山城新伍は奥さんと2回結婚し2回離婚、娘は、籍を抜いて出て行ってしまったわけだが、なんでそうなったのか。

 もちろん、そんなことはわからない。

 というか、それをおもしろおかしく解説するのが「芸能リポーター」の仕事なんだろうが、彼、あるいは彼女らの曰く、「いろいろ事情が積もり積もったんでしょう」。

 そりゃそうだろう。

 しかし、あえて疑問を呈するのだが、奥さんの花園ひろみはともかく、娘の行動だ。

 山城新伍は、娘が旧に復してくれることを熱望し、彼女の誕生日には花束を彼女の家の玄関に置いていったそうだが、芸能リポーターの言う限り、その父親の熱望を娘はまったく歯牙にもかけなかったようだ。

 そこまで娘を頑にさせたものは何か?

 女性にとって大変な大問題である結婚・離婚に対する父親のふざけ半分の態度を許せなかったのではないかという芸能リポーターの解説だった。

 なるほど、とも思うが、だとしたらそれは、山城新伍という人の性格というか人となり(その娘だというのに)に対する理解があまりにもなさすぎなのではないか?

 いや、正確に言うと、その「理解」があまりにも一方的であることに対し,本人にまったく自覚がない。

 それが問題だ。

 ところで、芸能リポーターの解説を聞いていて、ふと思い出した。

 それは、桂三枝が衆院選挙に立候補すると言って、娘が猛反対し、もし政治家になるのだったら縁を切るとまで言放った事件(?)だ。

 私はこのすったもんだをスポーツ新聞で見て、なんでこんなに父親が政治家になるのを娘は反対しているのだろうと思った。

 たぶん、落語家が政治家になることに対して、ものすごい偏見が彼女にあったのだろう。

 あるいは、政治家そのものに対し偏見があったのかもしれない。

 その結果、桂三枝は、泣く泣く(?)立候補を断念したのだったが、正直言って、その後数年、桂三枝はまったく芸の切れを失い、TVで見ても、いつも上の空で、まったくのデクノボウでしかなかった。

 なんとか自分の調子を取り戻したのは、私の見るところ、大阪に新しい芸能劇場が開場したのがきっかけになったように思う。

 関西落語のドンとして、先頭に立って張り切っていた。

 やはり、桂三枝は「政治家」じみたことが好きなのだ。

 私は桂三枝という人が非常に権力欲の強い人で、しかも実際に力を持っているので、関西芸人の多くが恐れているらしいことを雰囲気から感じ取り、あまりいい感じはしなかったのだけれど、一方で「それぐらいでなくちゃー」という感じもあり、芸人としては面白いと思っていた。

 その桂三枝が政治家を目指すということは、吉本興行時代に輪をかけて権力欲にまみれることになるかもしれない。

 「私の父が政治家を目指したら、とんでもないファシストになりますから私は身体を張って反対します」、娘はそう言いたかったのかもしれない。

 ……いやそんなことはない。

 どう考えても、「政治家」に対する極めて浅い偏見(マスコミにあわせたような)しか、そこに見ることはできなかった。

 この桂三枝の政治家転身をめぐる娘との確執に、山城新伍の「娘との確執」が重なって見えてしまうのだ。

 ところで、関西芸人と政治家というと、ロンドンブーツの敦が「総理大臣を目指している」とラジオ番組で明言したらしい。

 彼はまだ独身だが、仮に「総理大臣」を目指して一歩を踏み出すとき、彼に娘がいてその娘が大反対しても、そんなものは,あの顔で、鼻で笑って一蹴してしまうだろう。(桂三枝は、それができなかったところに、限界があったのかもしれない。)

 この発言は,非常な意外感をもって受け取られたらしいが,私はそうでもない。

 デビュー当時から、森田健作とは異なる「純粋まっすぐ君」的側面をちらちら見せていた。

 しかし,その後、彼に「それらしい」様子は、あまり見られない。(もっとも、そう見ようと思えばみえなくもないような感じはあるのだが…って、曖昧~。)

働き者

2009-08-14 21:50:24 | Weblog
 インクジェットのプリンターの調子が悪く、ノズルチェックとクリーニングを頻繁に行なったらあっという間にインクがなくなってしまった。

 クリーニングにはインクを大量に使うのだそうだ。

 エプソンもキャノンもインクで食っているようなものだ。

 山城新伍が亡くなった。

 「オレは白馬童子」とか言っていたが、白馬童子を見た人はいるのだろうか?

 糖尿病だったそうで、予定通りと言えば予定通りなのだが…南無阿弥陀仏。

 猪瀬が「文芸春秋」に高速無料は役人を喜ばせるだけと書いていたが、同じ「文芸春秋」に官僚の覆面座談会が載っていて、そこでその官僚が高速無料政策を散々けなしていたぞ。

 しかし、民主党の高速無料化案は、今、選挙対策として出てきたわけではない。

 数年前から提案しているわけで、道路公団民営化の元締めとしては当然知っていたはずであり、なんで今ごろ反論するのか?

 反論するなら、提案されたときすぐに、反論していなければならないはずだが、論破されるのが目に見えているので、ずっとシカトし、詳しく論議している暇のない「選挙直前」に言い出したというわけか?

 他の深夜番組があまりにもつまらないので、「ムーンパニック」とかいう、ヨーロッパ製のテレビ用映画を見てしまった。

 ちゃらんぽらんだが、それなりに才能のある科学者が、恋人に不実をなじられ、それを肝に銘じて、地球の危機に応じて、月に行き、使命を果たして自分は死ぬというサイドストーリーが用意されているのだが、この恋人が、清水美紀(後藤田という代議士と結婚した清水なんとかではない人。「ガメラ2」に出てた女優)と伊東美咲を足して2で割ったような美人で、もっぱら彼女を鑑賞した。

 その後ずるずる見ていたら、ゴルフの全米プロに出場の石川遼君が出てきた。

 まだ17歳なんだそうだが、よく働くなーという感じ。

 もちろん、スポーツマンシップをもって、楽しんでいるのだろうし、とてつもない才能を持っていることはわかるが、でもなんか、見ていると、「若者が一生懸命働いている(稼いでいる)」という感じを受けてしまう。

 別にけなしているわけではない。さわやかさだし、きちんと喋るし、非の打ち所がないのだが…真央ちゃんのフィギュアスケートに比べ、ゴルフはシーズンが長く、ずっと出ずっぱりなため、「学生が勉強せずに稼いでいる」という印象を持ってしまうのかもしれない。

 でも、頑張れ、遼くん。

食わず嫌い

2009-08-13 12:45:19 | Weblog
 近所のディスカウントショップ,ワンダフルで、大玉西瓜の四分の一カット158円に驚き,買う。

 甘みはさすがに若干薄い感じがするが、でもまあまあである。

 昔は、西瓜というとあたりはずれが大きくて、本当においしい西瓜には一夏に一個ぐらいしかお目にかかれなかったような気がするが、今はそういうことはない。

 西瓜に限らず、高い金を出せば、(たぶん)確実に美味しいし、安くても、「どーしよーもない」ようなものはない。

 しかし、なんで「西瓜」を食すと、「懐かしい」気分になるのだろう?

 幼い頃の、汗を拭き拭き西瓜にかぶりついたあの思い出が……と言いつつ、実は、西瓜を、私はずっと大嫌いだったのだ。

 西瓜のどこが嫌いだったのかというと、完全な「食わず嫌い」で、理由はない。

 おやつの西瓜を、食べずに縁の下に放り捨てた思い出がある。

 たぶん、小学生の2、3年生の頃だったと思う。

 その西瓜を、中学生か、もしかしたら高校生になってからかもしれないが、はじめて「まとも」に食して、「こりゃ、うめー」と思い、以来、西瓜と言えば夏の大好物(でも「水っ腹」になりそうで、そんなに食べない)となり、食べるたびに、先に書いた通り、幼い頃を思い出して感傷的になるのだが、実は、その幼い頃、私はまさに「一切れ」も食べたことがないのである。

 古橋広之進の全盛時を知らずに、下り坂の古橋のレースを見て悔しがったのと同じだ。

 ちがうかな? いや、同じだろう。

 

屁理屈

2009-08-10 14:21:19 | Weblog
 忘れていた。

 古橋広之進が死んだんだった。

 享年80で、世界水泳選手権にメダルのプレゼンターとして(それだけじゃないのだろうけど)出席し、そこで客死したわけだから、目一杯仕事をして死んだわけで、うらやましいくらいのものだ。

 ただし、本人、死ぬ少し前には、「疲れた」とこぼしていたらしい。

 自分から「疲れた」と訴えるような人ではなさそうだから、それが実際に口に出して言ったのだとしたら、やっぱり相当疲れていたんだろう。

 若ければどってことなくても、80歳だと致命的になるということか。

 私はさすがに古橋の全盛期は知らない。

 アルゼンチン遠征で、アメーバ性赤痢を患い、これをきっかけに選手生命が絶たれたようだが、私が記憶しているのは、そうなってからの古橋で、非常に残念に思ったことを覚えているが、よく考えると、全盛期の古橋を知っていないと「残念」と思えないはずだが…。

 いやまあ、屁理屈である。さすがに。

 洗ったタオルを広げて干したが、二日たっても乾かない。

 今、梅雨進行中なのか、今後、梅雨明け宣言はあるのか?

 なんだか、ぐちゃぐちゃである。

私は大原麗子を見たか?

2009-08-09 16:06:04 | Weblog
 先週起きたことで大原麗子の訃報が抜けていた。

 大原麗子は一度か二度見たことがある。

 一度はお茶の水の聖橋のたもとで映画かなにかの撮影をしていて、その休憩中に木陰で小さくなって休んでいるところだった。

 後ろ姿しか見えなかったが、通行人が「大原麗子よ」とかなんとか囁いているのが聞こえたので、ああ、そうかと思ったのだった。

 非常に「小さい人」という印象があった。

 白いハンカチか手拭を日よけにして、通行人に背を向け、うずくまっていた。

 子猫みたいだった。

 もう一回は、定かでないのだけれど、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の試写会である。

 私は、『さらば~』のファン倶楽部の機関誌の編集をアルバイトで行なっていたので、誰か有名人を見かけたら写真に撮っておいてくれ、と言われていたのだが、その一人が大原麗子だった。

 そう教えてくれたのは、ファン倶楽部のスタッフの女の子で、「ほら、あそこにいる! 早く撮って」と言われたのだが、どれが大原麗子だか、全然わからない。

 「え? わからないよ~」

 と答えると、「ほら、そこそこ…すぐそこよ、ほら目の前…あ~いっちゃった」

 というわけで、私は彼女を見つけることができなかったのだった。

 そういうわけで、「一度か二度」と書いたのだったが、ともかく、彼女の実物は極めて普通に見える人ではなかったかと思う。

 でも、そういう人が映画や舞台に出ると、俄然、オーラを発揮するのだけれど。

 テレビで見る彼女の住んでいた家は相当立派で、売り払うなりなんなりすれば、ホスピス施設に入って至れり尽くせりの世話を受けることができたはず。

 大原麗子はそれが嫌だったのだろう。

 だから、彼女の死を「悲劇」扱いするのはよくないと思う。

 田中康夫が、「新党日本」の選挙マニフェストとして、「ベーシックインカム制度」の導入を宣言していた。

 話が少し飛ぶけれど、イギリスなどで、「就労支援制度」として、だいたい若者が中心なのだが、失業中の人間に就職に必要な職業訓練を施し、それを受けている間、生活費を国が援助するような試みを行なっているようで、NHKはこの政策が好きらしく、なんども、若者が洗濯機を修理しているところなどを放映していた。

 しかし、私に言わせればこれはまったくナンセンスだと思う。

 そもそも技術を習得したからといって、じゃあ、すぐに就職できるのか?

 手に技術を持っていても就職できない、それで問題になっているのではないのか?

 この政策で確実に潤うのは、そこで「技術」を教える先生、そして、その段取りを整える官僚だ。(「先生」も多分、官僚がなるのだろう)

 この政策は、人間を「労働力」とみなし、その「労働」の多寡、質によって給料が払われ、それで生きていくという、近代特有の価値観,倫理観を前提にしている。

 つまり、貧困問題を、雇用問題として考え、雇用を増やすことで解決しようとしているわけだが、ベーシックインカムは、このような構図に根本的に異議を唱えているわけだ。

 要するに、ベーシックインカム制度の元では、「労働」は、「より豊かに生活したい人」か、労働そのものに「生き甲斐」を求める人が行なうことになる。

 それ以外の人、ベーシックインカムが保証する生活レベルで充分である、そして、自分の「生き甲斐」(あるいは、人間自身の生産性)は、「労働」ではなく、たとえば、詩を書いたり、絵を描いたり、あるいはボランティア活動に求めようという人は、あえて働かなくてもいいことになる。

 このことをどのように説得性を持って主張できるか。

 また、ベーシックインカムという制度は、健康保険から、年金まで、従来の福祉政策をすべて、国が支給する「基礎的収入」に一本化しようという制度でもある。

 つまり、今の福祉制度では、そこに投入する金の2,3割は役人の懐に納まってしまうので、ベーシックインカム制度は、それを劇的に減らすことができる。

 ということを田中康夫は強調するといいと思うのだが…そこまでズバッと言えるかどうかだな、問題は。

激動の一週間

2009-08-08 22:26:11 | Weblog
 いろいろあった一週間…という印象はみんなが持つだろう。

 それも、ひとつひとつが結構ユニーク。

 押尾学が合成麻薬使用の疑いで逮捕というのも、普通だったらどうっていうことのない芸能ネタだろうが、全裸で死んだ女性がからんでいる。

 ノリピー逮捕というのも、最初は夫の逮捕に絶望して失踪かと思われたのが、実は、本人も覚せい剤をやっていて、それで現場から逃げたのが真相とは、ちょっとした推理小説並みの意外な展開にびっくりである。

 しかし、押尾もノリピーも、一応法律で禁止されていることをしたのだろうから、捕まるのはやむを得ないにしても、別に誰に迷惑をかけているわけでもない。

 そういう意味でいうと、趣味の問題でもある。

 もちろん、この「趣味」が習慣性をもち、暴力団の資金源になっているという側面もあるけれど、しかし、罰するというより、むしろ「救い」の対象なんではないのか。

 押尾学もノリピーも、今後の芸能界復帰はまずないだろう。

 これからは、普通の人のように額に汗して働けばいいのだ、と言っても、特にノリピーなんかは、芸能界で生きるべく、生まれてきたような人のような気がするのだ。

 本当に、今の日本は「東アジア特有」の警察国家になってしまっていて、しかも誰もそのことを指摘しない。

 私は煙草をやめちゃったけれど、先日、前を歩いている若いカップルがくわえ煙草で歩いていた。

 いいねいいね、じゃんじゃんやってくれ。

 いい加減、ここ数年の偽善者ぶった清潔な社会に対する反発が起きてもいい頃だ。

 そういう意味で言うと、今週起きた出来事のうち、社会的にもっとも重要な改革である、裁判員制度に期待をかけたい。

 まあ、「市民感覚」が、「路上のくわえ煙草」をどう判断するかは微妙なところではあるけれど。

 

戦争の「思想「と「現実」

2009-08-06 12:09:53 | Weblog
 NHKだが、一昨日はビルマ戦線、昨日は特攻潜水艇「回天」のドキュメンと、及び、同作戦を生き残ったおじいさんが(当然みな90歳前後だ)インタビューを受けて喋っていた。

 たぶん、その前にも、ナントカ作戦がとりあげられていたのだろうが、なんで続けて?

 と思ったら、今日は原爆記念日(というのか?)だった。

 この調子で8月15日まで「忘れてはならない」とか言って、続けるのだろうが、なんか釈然としない。

 そもそも、戦争というのは、それに参加した一兵卒にしてみれば、同僚たちを相手に行なう一種のサバイバルゲームだ。

 かくれんぼ、鬼ごっことと同じ。

 鬼に見つかった奴、捕まった奴が脱落し、最後まで見つからなかった奴が「勝者」だ。

 ということは、NHKの番組で喋っているもと一兵卒のおじいさんたちは、実は「勝者」なのだ。

 そんな人に「戦争」の本質を聞いてなんになるか。

 ビルマ戦線は、まさに「生き地獄」だったという。

 でも、その「生き地獄」を耐え抜けば、戦争に勝てるぞ!

 指導者はそう思った。

 もちろん、「思った」だけで、それが実現する可能性は極めて低かった。

 しかし、ゼロじゃない。

 指導者はそう思ったのだ。

 それが「戦争」の思想だが、一兵卒にとってみれば、戦争は「思想」ではない。「現実」だ。

 その「現実」を運良く生き抜いたものが、最終的に勝者となる、そういうゲームだ。

 そういう観点から考えると、「特攻隊」は若干異なる。

 なぜなら、「生き残り」が許されないのだから。

 こりゃ、たまらん。

 もっとも「現実」には、機械が故障したり、天候が悪化したりなどのいろいろな要素がからんで、特攻隊の「生き残り」も存在するのだけれど。

 特攻隊の生き残りには、「やくざ」になって連中がすくなくないというが、それも当然かもしれない。

 要するに、戦争の現実である「生き地獄」の局面を多く抱えた国が、大概の場合は敗者となるのだけれど、しかし、本質的な意味では、「生き地獄」の多寡は戦争の勝敗とは関係がない。

 たとえば、ナポレオン,ヒトラーの侵略を打ち破ったロシア、まさに「生き地獄」の中で勝利を得たのだ。

 もちろん中国もそうだ。

 と、そんな風なコメントを松平アナあたりのナレーションで、最後に1つ入れると、恒例の「終戦ドキュメント」も、従来とは随分ちがって面白く話題を呼ぶだろう、と、そんなことを考えた。

私が捨てた女…じゃない、本

2009-08-05 14:49:18 | Weblog
 事務所のスペースをすこしでも広くしようと、本を全部西川口に持っていこうと思ったものの、いざとなると、本が手元にないのはなんとも落ち着かない。

 それでなんとかスペースを見つけて、できるだけ手もとに置くことにしたのだが、いくつかの本は、ゴミ、ないし古本屋にもってゆくことにした。

 まず、スガ秀実の評論集。まるでわけがわからない。読んでいくうちにいずれわかるようになるかという見通しも立たない。

 リオタールの「現象学」。クセジュ文庫で、解説者が「リオタールという人は知らないが」、と書いているくらいに昔の本なのだが、これも読んでもさっぱり分からず。

 現象学の入門書は、実は日本のがよいのかもしれない。

 浅田彰の「逃走論」。

 書下ろし論文がおさめられているのかと思いきや、ほぼ、どっかの雑誌の対談集。ふざけんなである。

 あ、浅田彰さんは昔アランを読んでいただいていたのだった。

 雑誌「GS」。

 「遊」は一応とっとくけど…。