パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『時の滲む朝』を読む

2008-08-27 18:14:39 | Weblog
 話題の芥川賞受賞作、楊逸の「時の滲む朝」を読む。

 といっても、半分だけ。

 天安門事件に集約される中国の若者たちの民主化運動とその挫折までが前半で、後半は、その若者が中国から逃げ出し、日本にやってきて云々という後半はまだ読んでいない。いずれ全部読んだらご報告したいと思うが、前半までについて言うならば、驚くほどレベルが低い。

 小説としてのレベルのことを言っているのではない。思想のレベルが低いのだ。具体的に言うと、民主主義に対する理解のレベルが恐ろしく低いのだ。

 主人公たちは,デモに行くために、自分たちで案出したスロ-ガンをTシャツ屋につくらせるが、そのスローガンは、たとえば、「我愛中国」だったり、「I LOVE YOU」の下に中国の地図を配したりしたものだ。「我愛中国」は平凡だが、主人公の「I LOVE YOU」のTシャツの場合、最初は、デモのリーダー格の女性をちょっと好きになり,その気分を表したものだ。

 それで、主人公の友人が言う。「個人的な気分をスローガンにするなんて、よくない」。

 これに対し,主人公が言う。「中国を愛して、人を愛してはいけないのか?」

 というわけで、その折衷案として、「I LOVE YOU」の下に中国の地図を配したというわけだ。

 正直言って,ここらへんは小説のテーマとして面白いのだが、でも、「時の滲む朝」はそんな上等な小説ではない。

 彼らが語る「民主化」と「愛国」は同じものなのだが、その「民主化」と「愛国」の対象は漢民族だけである。漢民族しか目に入っていない。しかも、そのことを彼らはまったく自覚していない。

 この「無自覚」を、私は,「思想のレベルの低さ」だと言いたいのだ。

 もっとも、小説には「漢」という文字は出てこない。出てこないが、それ故にかえって、「漢民族の民主化」,「漢民族の愛国」しか、作者、および作者が作り出しすべての登場人物の視界にはいっていないことがあからさまにわかってしまう。ここらへんが、小説としてもレベルが低いことの証拠なんだが、重要なことは「思想」だ。(小説としてのレベルの低さは、かえって読む人に強い印象を与える場合もなくはない。正直言って,この「時の滲む朝」を芥川賞に推薦した選考委員は、そういう理由で選んだのだと思う。)

 彼らは,日本にやってきてから、香港の中国返還や北京オリンピック招致の反対運動をしたりしている。日本の印刷工場に就職した主人公は、日本人の上司に、香港返還反対への署名を依頼する。日本人の上司は、「お前は中国人だろう? なんで反対するんだ」と聞く。これに、主人公はなんと答えるか。

 「中国も民主主義になりたい」。それだけだ。

 もちろん、そんなに簡単に答えの出る問題ではないことはわかるけれど、「民主主義」がこの小説のほとんど唯一のテーマと言っていいのに、その台詞はまことにお粗末としか言いようがない。まあ,日本人もあまり偉そうなことは言えないのだが、少なくとも,民主主義というものがなかなか難しいものであることぐらいはわかっている。

 ところが楊逸という作者は、いや、中国人はすべて、それすらわかっていないようだ。

 もっとも、中国人が一度も民主主義を計経験したことがないことを考えればしょうがないのかなとも思うのだけれど,日本や他の「民主主義国」との絶対的ちがいは、彼らの「漢民族中心主義」だ。彼らの目には、最初から「漢民族」しか見えていない。そして,最後まで見ることはないだろう。チベット人や、ウィグル人を含んだ民主主義なんか、まったく想像外のことである……としか、この小説を読んで感じられないところが、思想のレベルの低さ、文学としてのレベルの低さなのだ。

 以上,私が指摘したことはこの小説には書かれていないことであって、「書いていないこと」をもって、作者を批判するのは不適切だと言う人もいるかもしれないが、しかし、「最初から意識のうちにはいっていないから触れていない」ということが明らかなのだ。この、問題があってもそれを見ようとしない奇妙な脳天気さを,私は「レベルが低い」と言うのだ。(作者はインタビューで、「中国人は無神経なところがある」と言っているが…)

 「文芸春秋」には彼女の受賞インタビューが載っているのだが、チベット、ウィグル問題について、受賞作の内容から言って当然聞くべき問題なのに、一言も聞いていないのはまったく理解しがたい。一方で,桜井女史と田久保忠衛に中国人との無用の口喧嘩をけしかけているくせに。

廻る廻る

2008-08-24 19:45:24 | Weblog
 なんで、完全に自信を喪失しているGG佐藤を指名打者にして守備の負担をなくさないのかと思っていたら、外野に代りがいなかったんだそうだ。

 GG佐藤は、元来守備は得意のほうなんだそうで、ライトからレフトに回されたとはいえ、文字通りの草野球なみのミスを四回も繰り返す(一回、ファウルフライを落としたらしい)とは想像できなかったかもしれないが、まさか三人で済むと思っていたのだろうか。

 ところが、ショートワンポジションに、四人いたんだそうで……。まったく信じ難いような人選ミスだ。いや、ミス以前。(アメリカでは人選には監督は関わらず、監督は与えられたメンバーでやりくりするのだそうだが、このほうが「情」がからまいので、合理的なのかもしれない。)

 スペアを用意していなかったという点では、女子マラソンの土佐選手の負傷棄権でクロースアップされたが、驚いたことに男子マラソンでも同様に、直前に怪我を告白して棄権、三人出場できるところが二人になってしまった。

 ということは、男子の場合も万が一の場合の予備選手は考えていなかったということのなのだろうか?

 きっとそうなのだろう。なぜなら、もしスペア選手がいれば、もっと早く「今回は無理かもしれない」と申告しておけば、次善の策を考えることができたにちがいないからだ。

 「次善」ではなく、「最悪」を受容せざるを得ないということは、やるべきことを何もやっていなかったということだ。(あまり他人の事は言えないが)

 前回のアテネでは女子マラソンのスペアは千葉真子選手だったんだそうだが、その千葉選手曰く、スペアとして直前まで練習し続けるのは精神的に無理なので、実際には「遊んでていいよ」みたいなことを言われたらしいが、仮にそうであったとしても、それまではハードな練習を重ねてきたわけで、好成績は望めないにしても、出場することはできるだろう。

 それはともかく、土佐選手の場合は、スペア選手はいたのだが、その選手も怪我をしていたとか、よく覚えていないが、何か理由があって、スペアゼロで大会に臨んだとか書かれていたが、今回の男子の場合はどうなのだろう? なんの言い訳もないところをみると、結局、土佐選手の場合も役員・関係者の怠慢だったのではないだろうか。

 競技役員の怠慢ということで言うと、例のスピード社の水着だ。

 以前、このブログに書いたのだが、本番でスピード社の水着を使わないことに決まっているのなら、予選でもスピード社の水着は禁止しなければならないのに、何故か予選では水着自由であったため、選考においてもっとも大事な「公平さ」が毀損されたのだ。

 このことは、まったく誰一人として指摘する人がいなかったが、結局、こういった「怠慢」が本番で噴出したのだと思う。

 しかし、いろいろごたごたしたにしては成績全般はまあまあで、結構、「感動」もあったのだが、これは、日本選手団の目標は、ロサンゼルスだかシドニー大会だかの終了時に、「2008年の北京大会を目指して強化に励む」と言うことで決まっていたのだが、その成果が意外に早くアテネ大会で出てしまったため、本来の目標であった今回はそのアテネ大会の財産で戦った形になってしまった結果だという。

 これはテレビで誰かが言っていたのだが、「なるほどな」と思った。

 ということは、ロンドン大会ではどうなるのかが心配になるが(私もまだ生きているだろう)、そんなことを考えると、東京大会が終った時、次のメキシコ大会を「ずいぶん先の話だなあ」と思っていたことを思い出す。

 今や、そのメキシコ大会は大昔の話となり、今は「目指せ、ロンドン大会」だ。

 ロンドン大会と言えば、日本、ドイツが戦犯国のために参加できなかった、戦後初のオリンピック大会を思い出す。

 なんだか、ニーチェの永劫回帰を目の当たりにする思いだ。

 

おめでとう、史子さん

2008-08-23 17:30:29 | Weblog
 「仙ちゃん」なんて愛称を使って損した。というか、不適切だった。撤回します。

 昨日、帰宅してから日韓戦のビデオ放映を見たが、岩瀬が出てきたところでアナウンサーが、「え? 岩瀬ですか? 大丈夫でしょうか。これまでは通用していないのですが」と不安そうだった。

 そして、一人目の打者にあっさりセンター前ヒットを打たれ、星野が自らマウンドに近づくと、「ピッチャー交代でしょうか」とアナウンサーがほっとした調子で言った。声も心なしか、弾んで聞こえるl。

 ところがそうではなかった。解説の野村が「いや、そうじゃないです。激励に来たのです。お前に任せた,頑張れ、と言ったのでしょう」

 アナウンサーは、「ここは頑張ってほしいです」と野村に調子を合わせたが、その後も、「腕が振れていない」「球が来ていない」としきりに言っていた。

 さすが、現場で直接選手を見ているだけに,「腕が振れていない」とか、発言も専門的だ。私なんかには全然わからないが。

 結果はご存知の通りだが、なんとも気分が悪い。別に,特に熱烈な野球ファンというわけでもないのだが、400メートルリレーの歴史的銅メダルにおめでたい気分になっても、「星野ジャパン」を思い出すと、一気にしぼんでしまう。こんなに後味の悪い敗戦はちょっとない。

 しかし、今日の3位決定戦にはさすがに勝つだろうと思った。アメリカとはいえ、マイナー選手ばかりだし、それから、さすがに岩瀬がまた出てくることはないだろうからだ。

 でも、勝ってもちっとも嬉しくないだろうなあ、などと思っていたら、あけてびっくり、そのアメリカにも負けてしまった。

 私は3回ぐらいまではテレビで見ていたのだが、事務所についてパソコンを見たら、8対4で負けが決まっていた。

 またしてもGG佐藤がエラーを犯したらしい。

 実は,テレビで見ていた時も、平凡な外野フライを落としていて、それは和田がなんとか押さえてことなきを得たのだったが、またやったのか!

 しかし、ここは佐藤を責めることはできない。韓国戦の失敗を引きずって、とても普通の心理状態ではない。ここは、守備のいい選手に任せて、チームのためにも,佐藤自身のためにも、佐藤は指名打者にすればいいではないか。指名打者制ではないのならいざ知らず、そうじゃないんだから。

 星野は日本に帰ったらいろいろ言われるだろうが、おそらく,全て、「結果論ならどうとも言える」で退けるつもりだろう。それがわかっているだけに、後味が悪いのだ。

 しかし、400メ-トルリレーは、強豪チームが失格したとはいえ、よくやった。これからも、スピードが増すにつれてバトンリレーそのものも難しくなるだろうし、ちょこまかと手渡し技術に優れた日本チームは、これからも有望かも。

 しかし、この結果を一番喜んでいるのは、麻原…おっと、朝原選手の奥さん、旧姓奥野史子さんだろう。

 よっぽどダンナさんのことを愛しているのか、それとも他にも理由があるのかなんなのか、よくわからないが、奥野史子さんてば、普通じゃなく、えらくダンナさんに気を使っている…ように見える。

 まあ,余計なお世話だが、史ちゃんのためにも、リレーの健闘を喜びたい。

仙ちゃんの決断の時

2008-08-22 18:53:22 | Weblog
 ソフトボールで感動したと思ったら……。

 試合の中盤からテレビの音声をラジオで聴いていたのだが、八回から岩瀬が出てきて絶句した。

 もちろん、私なんか野球に関しては素人以下だけれど、予選を通じて、いや、今年のはじめから、もう岩瀬は限界であることがはっきりしたと思うのだが、その岩瀬が出てきた。

 なんだかなんだ言っても、星野監督は「素人」ではないのだからそれなりの根拠があって、岩瀬をマウンドに送りだしたのだろうと思ったら……アナウンサーの悲鳴が聞こえてきた。

 オリンピックの地区予選では、たしかに岩瀬は頑張っていたとは思うけれど、「頑張っている」というイメージ自体が、実は、限界ギリギリでやっていることを暗示しているのではないかなと、決して後知恵ではなく、当時見ていて思ったのだが、シーズンに入って、その予感が適中したか、成績がさっぱり上がらない。

 それでも中日の落合監督は、抜群の実績のある選手なのだからと温情と言えば温情が、かっこうよく言えば、彼の過去の実績を「リスぺクト」して使い続け、岩瀬自身も、そのうちになんとか成績を残すようになった。

 とはいえ、彼の力が落ちていることは明らかで、落合監督の「温情」も、今年のペナントレースは半ば捨てて、来年から岩瀬抜きで再スタートを切るための布石だろうと思った。

 その岩瀬を、星野監督が日本代表に選んだというのは、どういうわけなんだろう。落合監督は、「岩瀬はそろそろ限界だよ」と星野に耳打ちしなかったのだろうか。

 案の定、大会がはじまると、岩瀬はすこんすこんうたれる。

 それでも、岩瀬をマウンドに送り続ける星野監督の采配は、予選で見きわめをつけるためにあえて行っているのかもしれないと思った。

 ところがそうじゃなかった。

 たしかに、よく考えれば、岩瀬一人の調子を見めるために予選を行うような「贅沢」は、この時点で許されるはずがない。

 ……えええ? てことは、星野監督の真意は、つまるところ、「最後はオレの期待に答えてくれるはず」でしかなかったのか? 
  
 改めて調べたら、岩瀬の成績は、準決勝の対韓国戦も含めれば日本チームの全失点の半分を占め、4敗中の3敗を献上しているんだそうだ。この岩瀬に、「きっと最後はやってくれるだろう」なんて期待をかけることがあまりにも無謀であることは素人にだってわかる……と思うのは、きっと素人だからで、プロにはプロにしかわからない何かがあるんだろう……などとごちゃごちゃ言っているが、つまるところ、星野監督は「最悪」以下の最悪な状況に追い込まれたわけだ。これだけは間違いない。

 では、どうしたらよいか?

 どの掲示板でも、銅メダルなんかいらないよ、試合放棄しちゃえよといったレスで溢れている。

 その気持ちはよくわかるが、オリンピックでそういうわけにもいかないのだ。勝って3位になるにせよ、負けて4位になるにせよ、恥ずかしくない試合を行わなければならない。

 しかし、選手たちにその気力が残っているだろうか? あるいは、星野監督に選手たちを叱咤激励する力が残っているだろうか。星野監督はたしかに雄弁だが、弁説でこの苦境を乗り越えられるとは思えない。

 じゃあ、どうしたらよいか。

 ずばり、今夜中に不成績の責任をとって監督を辞任し、明日の3位決定戦は大野コーチに任せるのだ。(田淵、山本の仲良しコンビは完全に一蓮托生の境遇だから、星野に代って采配をとることはできないだろう)

 これっきゃない。

 とかいって、明日も星野監督は、いつものように偉そうにペンチの前で仁王立ちしているのだろうと予想するが、いったい、誰が投げるのだろう。和田? ダルビッシュ? どちらにしろ、星野監督はどのつら下げて、決勝のために温存した「絶対エース」に消化試合の先発を命令できるだろう。

 やっぱり、辞任しかない。星野監督、あなたは「チェックメイト」なのだ。そして、それを見極め、辞任を決断できれば、星野神話は、これからも健在であり続けるかもしれない。

 仙ちゃん! 決断の時いたれりだ。

○○ちゃん、見てるー?

2008-08-20 20:55:03 | Weblog
 部屋が狭いのは最初からわかっていたことなのだが、間仕切りの壁が薄いらしく、ラジカセでジャズを聴いていたら、管理人がやってきて、「あのーすいませんが、お隣さんがちょっとボリュームを下げてださいとおっしゃられるので」と言ってきた。

 お隣さんは、70をだいぶ過ぎたお婆さんで、私が借りている部屋の大家さんでもある。

 まあ、アート・ブレーキーだったからなあ。うるさいことはうるさい。(この「うるさい」は文字通りの「うるさい」だ)

 しかし、本当に一番「うるさい」のはクラシックオーケストラだ。

 しかし、名曲も聴きたくない時に聴くと騒音でしかない。これはしょうがない。しかし、間仕切りの壁が思いのほか薄いのは、大家さんの責任でもある……と言いたいところだが、あきらめて音を絞るか、ヘッドホンの性能のいいやつを買うしかないと思って、電器屋を覗いたが結構高い。もっとも安くて5000円もする。

 あきらめて、本屋でショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を購入。

 最初、岩波文庫にはいっているだろうと思ったら、びっくりしたことに4冊もショーペンハウアーの著書を揃えながら、肝心の「意志と表象として……」がはいっていない。

 なんてアホなことをと思いながら他を探したが、結局、中央公論社の中公クラシックスとかいう新書シリーズで出ていて、なんと、新書のくせに定価が1780円。

 泣く泣く買ったけれど、製作原価なんか、2000冊刷ったとして、おそらく一冊150円くらいだろう。要するに、30万円。これに翻訳者への謝礼が五%とすると、定価×刷り部数×0.05で17万8000円。大体20万弱。合わせて50万円。

 一方、収入のほうは、2000冊全部売れたとして、250万円くらい。(七がけで計算)

 これで大ざっぱに計算すると、大体400冊売れればトントンの計算になる。

 ということは、ショーペンハウアーでも400売れれば上々という感じなのだろう。しょうがないのか……。

 しかし、ショーペンハウアーは、世界に名だたる厭世家のくせに書くものはえらく面白い。厭世家だが、サービス精神は旺盛なのだろう。


 ところで、もう一昨々日のことになるが、今のうちに書いておこう。

 体操男子個人のメダル中国独占は、「なんじゃありゃー」である。

 私が見たのは平行棒をほんの一部と鉄棒だったが、平行棒で頭を傾げ、鉄棒で確信した。

 あまりに酷い。日本、アメリカ、イタリアの各選手が意欲的で大胆果敢な演技を見せながら、最後の着地でちょっと乱れたことにつけこみ、中国選手が優勝してしまった。私が見たところ、ダントツで最下位だと思ったがなあ……。

 というわけで、ことごとく中国が金メダルをとってしまうため、獲得金メダル数ではアメリカの二倍もとり、一方、総数ではアメリカのほうが多いということになった。言い換えれば、中国の金メダルの獲得率が高すぎるのだ。

 とはいえ、男子飛び込みの何選手とやらの金メダルは文句なしだ。性格も良さそうで、各国選手、役員から抱き締められていたが、体操は駄目だ。あんなんで金をとって恥ずかしくないのか。

 団体総合で優勝した記者会見では、なんと、中国のマスコミから、最後の演技種目になった鉄棒について、「なんで安易な演技をしたのか」と質問が飛び、コーチが、「鉄棒が不得意なことはわかっている。勝つためにはレベルを下げるのは当然」と答えた。

 これを報告した小倉智昭いわく、「そりゃーコーチの言う通りでしょう。不得意なんだから、安全を期すのが当たり前」と言っていたが、中国の記者の質問の趣旨は、「それはわかるが、それにしても、なんであんなに下手なのか」だろう。

 これに限らず、意外なことに、小倉は中国をかばい過ぎである。

 それはともかく、自国マスコミに突っ込まれて「我々が鉄棒が不得意なことはみんなが御存じ」と告白しながら、その鉄棒個人で優勝だもんなあ。

 誰か、ひとつ、強烈な皮肉をかまして欲しいものだ。別に大した工夫はいらない。

 「不得意と言われていた種目でも、得意とするドイツ、アメリカ、日本の選手をはるかに引き離す、見事な、完璧な演技でした!」

 と言うだけで皮肉になってしまう。

 でもあのチャンピオンには、カエルのつらになんとかだろうなあ。何しろ、チャンピオンになったインタビューで、「○○ちゃん見てるー? 早く結婚したいよ」なんて言ったそうだ。これは、演技の話に持ち込まれたくないための煙幕か、と思ってしまう。

おれ、ちょっとうるさいよ。

2008-08-19 22:47:19 | Weblog
 大田農水大臣が、「消費者がうるさいから云々」と言った件について、麻生太郎幹事長が、「関西以西では、《うるさい》とか《やかましい》といったら、《騒々しい》という意味よりも、《よく知っている》という意味だ。《あいつは選挙に関してはやかましいよ》と言ったら、《選挙にくわしいからねー》という意味になるのだ。大田大臣の発言も同じだ」と言った由。

 やるじゃん、麻生幹事長。まあ、三百代言といえば三百代言なのだが、でもこれくらいの頓知は政治家として「可」だろう。(もっとも「消費者はよく知っている」といっても、何を知っているのかというと、マスコミの報道を「知っている」にすぎないとは思うけれど。)

 部屋を整理し、スチール本棚一個分のスペース確保に成功。20センチ×90センチくらいのスペースにすぎないのだが、もとが狭いので「大成功」に感じる。でも明日になったら「普通の成功」になり、明後日には「成功」がとれて、「普通」、明々後日には、すっかり元に戻って、「狭いー」となってしまうのだろうなあ。

ラオコーンに萌えー

2008-08-18 21:44:07 | Weblog
 学燈社の『國文學』は毎号論文を公募しているが、今回11月号分の論題は「『萌え』の正体」だ。400字詰め20枚分、添付して送ればよろしい。さあオタク・ロリコン評論家志望の諸君、どしどし応募しよう。

…と小谷野敦先生のブログに書かれていたので、皆さんも,応募してみてください。

 私的には、最近もっとも「萌え」たのは、オリンピックのフェンシング。知らなかったが、背中を刺しても得点なんだそうで、相手の背中を狙ったり,あるいは敵の尖先をさけるために、身体が思い切り捩じれる。あの捩じれ具合に、「萌え」た。

 古代ギリシャの、海蛇にからまれて苦しむラオコーンとその子供たちの彫像のようだ。

 で、ラオコーンでよかったかなと思ってウィキペディアで調べたら、もちろんラオコーンでよかったのだけれど,ほかに意外なことがわかった。

 ラオコーンとは、トロイ戦争でギリシャ軍が置き去りにして逃げた例の「木馬」を、トロイの市民たちが分捕り品だと喜んで市内に持ち込もうとした時、「危ない」と警告したトロイに住む賢者で、これを知ったギリシャ側の軍神アテナイが怒り、海から怪物(海蛇)をしかけて子供ともども殺してしまったのである。

 「人間めが余計なことをするな!」というわけだが、これじゃあ、トロイが負けるわけだ。

 それはともかく、だとしたら、この海蛇にからまれて苦悶の表情を浮かべるラオコーンは,ギリシャ側にしてみれば、「敵」であり、その敵が苦しんで死ぬ彫像を造ったのは,「ざまあみろ」というわけで造ったのか? 

 そんなわけはない。おそらく、ギリシャの芸術家は、苦しむラオコーンに「萌え」たのだ。

 いや、これは真面目な話。

 というのは、18世紀の半ば頃、このラオコーン像の評価を巡って「ラオコーン論争」と呼ばれる論議が起きた。

 ラオコーン像は16世紀に発見され、ルネッサンス期の人々を感嘆させたが,その後、ヴィンケルマンという著述家が、これを、「偉大なる単純と静謐」とたたえる本を出版した際、レッシングという人物が、ラオコーン像の偉大さはその物語にあるのではなく、「彫像そのもの」として評価すべきであると主張した。

 それまでは、ラオコーン像なら、ラオコーンという人物の運命、すなわち、ラオコーンという神(アテナイ神)に抗した人間の偉大さ(ギリシャにしてみれば、敵なのだが…ここがギリシャ文明の偉大さなのだろう)が求められたのだ。スローガン風に言うと、「絵は詩のように」「詩は絵のように」つくられるべきであったのだ。

 この「ラオコーン論争」は、どちらが正しいかという問題ではないけれど,「彫像そのものとして理解すべき」とするレッシングの主張は、折からの時代の精神,すなわちブルジョワ市民階級の勃興を反映したものであって、実際にその後、彫刻や絵画は、文学,詩とは別のものであり、その別の基準で鑑賞されるべきものとなった。
 だそうである。なるほどね。近現代の美術のつまらなさというものは、ここからきているのか。(だとしたら、これからは、また、「絵は詩のように」「詩は絵のように」つくられるようになるのだろうか)


 それはさておき、言い出しっぺは誰だか知らないが,福田政権内部から北島康介に国民栄誉賞の話が持ち上がっているんだそうだが、いや、赤塚不二夫にあげろよという声あり。

 賛成の反対の反対の賛成なのだ。(賛成なのだ。)

 一週間ほど前、NHKで、赤塚が倒れた直後に放映されたらしい赤塚に関する番組を再放送していたが、そこに、全盛期のフジオプロを支えた人物として、長谷邦夫、とりいかずよし(「トイレット博士」のとりいもフジオプロだったんだ。知らなかった)、北見ケンイチ、古谷三敏らが紹介され、古谷を除く全員が、饒舌に赤塚不二夫の思い出を語りながら、古谷だけが、一切、現れず、当然コメントもなかった。「写真を出したいのなら出してもいいが,それ以外はお断り」だったのだろう。

 なぜなんだろう。番組では一切説明なし。古谷と赤塚の関係に触れることは、「タブー」なのだろうか? 

 謎は深まるばかり。

シャー!

2008-08-12 22:31:55 | Weblog
 女子バドミントン競技でオグシオペアが対中国ペア戦で、観客から執拗な罵声を浴びせられたがそれが、「シャー!(殺せ!)」だったことについて、いろいろ書いたのが、アップ時にいきなりパスワードを求められ、またかと思いながら、パスワードを記入してアップしたところ、アップは失敗し、書いた内容も全部失われてしまった。(後で確認したら、パスワードはまちがっていなかった…)

 まったく、私も「シャー!」と言いたい、というか、言う。OCN、「シャー!」



 ……ふーん、アップを失敗し、その後のアップでは何も求められず、普通にアップして、今度は成功。

 なんのこっちゃである。

 私は、さっきの失敗で認証を拒否されたはずなのに、そのまんまで今度は成功だなんて、「認証」の意味があるのか? 本当にわけわからん。

カエル+チョウチョ+イルカで何になるのだ?

2008-08-11 23:22:11 | Weblog
 北島康介、世界新記録で二連覇達成……なんて、やっぱり超気持ちいい話ではある。

 しかし、韓国のパクとかいう選手が400メートルの自由形で優勝して、インタビューに答えて、「アジアの選手でもこの種目で世界に勝てることを証明した」とか言っていたが、たしかに、日本の山中選手がローマ大会でオーストラリアのローズに惜敗していらい、自由形でアジアの選手が目立った活躍ができなかったことは事実であり、あまりにそれが長いので「はじめて」と思われてもしようがないかもしれないが、しかし、その少し前にはフジヤマの飛び魚、古橋がいたし、戦前の水泳の世界地図においてまとまった勢力を維持した地域は日本とアメリカだけで、それ以外は散発的にあらわれては消える、「弱小勢力」でしかなかったことを無視した言い方はいかがなものか。

 戦後だって、世界的に活躍したのは例の古橋選手だけではなくて、私が小学生の頃までは、日米対抗水泳大会が開かれて、日本がアメリカを圧倒……とまではいかなかったかもしれないが、主要種目では日本が勝っていたし、その後、中学生になる頃からオーストラリアが第三勢力として台頭してきたが、それ以外の国の選手なんて、まるで問題にならないくらいに弱かった。

 といっても、小学生の目ではあんまりアテにはならないが……と思っていたが、その頃、長沢二郎というバタフライの選手がいた。そして、その選手が「ドルフィンキック」というのを考案して、立続けに世界記録を更新した。

 それは、今で言う、少年マガジンみたいな少年雑誌のグラビアで見て、「すげーなー」と思ったのだが、残念ながらオリンピックにはピークをあわせ損ねたらしくて、あまり活躍できなかったため、古橋ほどには(古橋だってオリンピックでは勝てなかったのだが)有名ではない。

 それでなんとなく忘れていたのだが、もし、ドルフィンキックの考案者が長沢選手だったら、今のバタフライ競技の実質的創始者じゃないか。

 それで、ウィキなどを調べてみたら、まさに長沢選手がバタフライを「発明」したことがわかった。

 歴史的に言うと、バタフライは平泳ぎの変型フォームとして登場した。下半身はカエル泳ぎ、上半身は水の上に身を乗り出し、チョウチョのように水を掻く。

 想像するに珍妙だが、でも平泳ぎよりは早く、戦後間もない頃には平泳ぎというとみんなこの上半身がバタフライ、下半身がカエルスタイルになってしまい、じゃあ、いっそのこと、この変型平泳ぎをバタフライと名づけて新しい競技にしたほうがよいということで分離したが、その後間もなく、たまたま膝を怪我していた長沢選手が、窮余の一策で、カエルのように足で水を挟むのではなく、イルカのように足を揃えてくねらせて水を蹴る、後にドルフィンキックと呼ばれる泳法を考案した。

 そうしたら、早い早い。あっという間に、16回も世界記録を更新してしまい、他の選手も競ってこのドルフィンキック泳法を採用し、バタフライ種目が確固とした人気種目となった。

 ということらしい。

 しかし、どの記事にも、「長沢選手が実質的創始者だと言われている」とか、「であると考えられている」といった、奥歯にものの挟まったような書き方をしているのだが、その後、長沢氏が、世界の水泳競技の発展に貢献した名スイマーを讃えるためにつくられた「世界殿堂」入りに推薦された時、同じくバタフライ種目のチャンピオンとして殿堂入りした女子選手が、長沢氏に対し、「あなたがいなかったら私はここにいない」と、バタフライの確立者としての長沢氏を讃えるスピーチをしたとも書かれているので、何も「歯に挟まった」ような言い方をする必要なんかない。長沢二郎は、レッキとしたバタフライ競技の発明者なのだ。

 世の中に「発明」は多いけれど、本当に尊敬に値する発明なんかそうあるものではない。「バタフライ」の発明は、その一つだろう。(なんか、考案者とか創始者というより「発明者」といったほうがいいような気がするのだ。これでいいのだ)

 と、ちょっと寄り道をしてしまったが、韓国のパク選手は、きっとこの長沢選手の事なんか知らないだろう。古橋のことも知らないだろう。戦前のアムステルダム、ロサンゼルス、ベルリン大会等で、日本選手が自由形の主要種目を軒並み征したことも知らないのだろう。

 いや、わからないけど、伝え聞く韓国、朝鮮の現状では、教えられていない可能性が高い。

 しかし、仮に、どんなに日本が宗主国として横暴であったとしても、リスペクトすべきところはリスぺクトすべきなのだ。

 いや、私は決して是々非々主義を言っているのではない。

 たとえば、黒岩涙香の「鉄仮面」の冒頭で、ルイ14世に関し、「時のフランス王、ルイ14世は内を虐げ、外を圧する、威名カクカクたる名君で」といった風に書かれている。つまり、民衆を虐げ、内外の貴族を震撼させる「独裁者」に対して、リスぺクトを払った書き方をしているのだ。(実際、このルイ14世は、最後には必ずしも「暴君」だけではない素顔を見せるのだが)

 仮に当時の寺内朝鮮総監がどんなに暴虐な施政を敷いたとしても……いやそうじゃない。きっと、寺内総監は、たぶん、非常な、でも頓珍漢な恩情主義で朝鮮の民衆を遇したのだ。そして、それ故に、民衆のリスぺクトを得られなかったのだ。

 まあ、対して珍しい見方でもないが、パク選手の、「自分はアジアではじめて」みたいな言い方にちょっとカチンときたもので。

私も追悼するのだ

2008-08-09 19:53:00 | Weblog
 北京オリンピックの開会式は、4兆円かけたんだそうだ。これは、鳥の巣とかいうスタジアムの建設費も込みの金額かもしれないが、万里の長城、阿房宮なんかをつくった国だし、聖火台で燃えている炎なんかも、従来の数倍の勢いで燃えているように見えるし(ちょっと見ていて怖くなったほど)で、あり得ない数字ではないのかもしれない。

 しかし、つい一月前のG8で、討議された地球温暖化問題なんかどこ吹く風だ。

 もちろん、開会式だろうがなんだろうが、「もったいない」精神で簡素に行えば地球の危機を救うことができるとは思わないが。(グルジアで「戦争」が勃発したようだが、「もったいない」では止めさせられないだろう)

 それはさておき、赤塚不二夫が死んだ。

 ずっと植物人間状態だったのだから…と思っていたが,必ずしもそうではなかったらしい。しかし、到底、漫画家として現役に復帰することはあり得なかった…というか、赤塚の漫画家としての絶頂期は1970年を挟んだ10年程度だという。

 改めて考えると,たしかにそうかもしれない。

 1964年(昭和39年)「おそ松くん」で小学館漫画賞受賞
 1967年「天才バカボン」連載開始

 「バカボン」の後、「モーレツあ太郎」と続き…って、本当だ。私としては,「おそ松くん」と「天才バカボン」につきると思っていたが、別に、「私としては」じゃなくて、実際にそうだったんだ。

 もちろん、「モーレツあ太郎」もそれなりに人気はあったんだろうが、正直言って、途中から読むのをやめ、古谷三敏の「ダメおやじ」と、少年チャンピオンの「トイレット博士」に鞍替えしたのだ。(その後、「がきデカ」が登場、当初はハマるものの、途中で離脱、「マカロニほうれんそう」で決定的にギャグ漫画を見ることはなくなった)

 この古谷と赤塚の関係というのが,私にはよくわからないのだが、漫画家としての才能は古谷のほうがはるかに上だろう。そう考えると,「ダメおやじ」という漫画の本当の作者は誰だろうという話になるが、実際の話、私の心の中では「ダメおやじ」は赤塚漫画なのだ。

 しかし、ダメおやじ以降の古谷が、すっかりサラリーマン向けのうんちく漫画(なんで、うんちく漫画って、「サラリーマン向け」なんだろう?…いやまあ、そんな風に私には感じられるというだけだが)に転向してしまったことを考えると,「おそ松くん」のチビ太とイヤミ、「天才バカボン」のバカボンのパパを生み得た赤塚の方がやっぱり上だったということになる。

 とはいえ、ギャグ漫画として本当に心の底からくったくなく笑ったのは、赤塚漫画ではなくて、つのだじろうの「ブラック団」だったりするのだが、まあ、これはたまたまハマってしまったということかもしれない。(ウィキで調べたら、ブラック団は、赤塚が「おそ松くん」で漫画賞をとった時に少年サンデーで連載されていた。)

 というわけで、じゃあ、赤塚漫画の魅力は何かということになるが、たぶん、「知と情」なんだろうと思う。

 バカボンほどクールで知的な人物が他にいるだろうか、チビ太、イヤミのようにすべてに熱く,本気で向かうことのできる人がいるだろうか?

 …なんちて