パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ルーティン

2012-09-25 00:39:16 | Weblog
 人にはルーティンというものがあるが,私の場合、前日寝る前か,翌朝起きてからプリントした、活字版「風に吹かれて」の原稿を手に家を出て、駅までの25分の道のりを鉛筆を手にチェックしながら歩き,電車内では座ってより厳密に読み直し、さらに新宿駅についてから牛丼のタツ屋で弁当を注文、その袋に原稿を突っ込み、マルスの事務所までの25分を,同様に鉛筆を手に、ときどき紙袋から原稿を取り出してチェックなどしながらマルスの事務所まで歩く。

 帰り道も,同様の手続きを繰り返し、帰宅してから、赤字をパソコンに打ち込みながら、本格的に書き直すところは書き直し、それがすんだらプリントをして翌日に備える。

 というのが、ルーティンなのだが、帰宅時に、原稿を探したりすることが多いので、タツ矢の袋にプリントを入れたままにしておくのをやめ、カバンに直接入れたままにしておいたところが、いつもとちがうことをしたせいか、帰りの電車の中でプリントを探しても、どうしても見つからない。

 ルーティンが壊れるのは大変にショックなものだが、しょうがないので、テレビでも見ようかと思って電源を入れたが、見たいものは皆無で、しょうがないからニュースでも見るかと思ったら、ニュースのメインはオスプレイの普天間基地飛来アナウンサーが「万が一墜落したら」と深刻な表情をするばかりで、現在進行中の尖閣諸島問題が、そのオスプレイを有するアメリカに頼っていることには一言も触れない。

 前回書いた通り、オスプレイ問題(普天間基地移転問題)がこじれにこじれたとしても、アメリカの世界戦略に変化がない限り、日本の再占領というかたちになっても,アメリカはその意志を貫くだろう。

 しかしそれはそれとして、ニュースが「新しい東京駅舎」に話題が変わるととたんに、「さあ,あなたもご一緒に!」と言わんばかりに顔つきが明るく,声も軽やかになった。

 なんで、アナウンサーごときに、私の感情がリードされねばならないのだ。

 私の父親の会社が,東京駅の真ん前にあったので、私にとってはあの近辺は半世紀以上前から馴染みの場所であり、10年前、20年前に東京に出てきたやつらが「故郷」と呼んだりすると、「百年早い!」と言いたくなる。

 新しい東京駅がこれから百年維持されて、「私はあれをお祖父さんから聞いて知っています」と言えたら、彼らが東京を「故郷です」と言う権利があると認めてもいいが、今の東京は東京人にとって、故郷でもなんでもない。

 いまの東京は、森鴎外が「いつも普請中です」と言った通り、田舎から押し寄せた連中に故郷的性格というか、本質を壊された町だというのは、江戸時代からそうなのだろうが、江戸時代は「3代前から江戸っ子でい!」という江戸人を生んだが、今の東京が今後そうなるかどうかはわからない。

 本当の意味での「地方分権」が為されれば、自然とそうなると思うけれど。

 前回の総選挙では民主党の高速道路無料化に「地方分権」のきっかけを期待したのだが、今回は日本維新の会の「地方分権」に期待を寄せることにするか。

 

 

尖閣問題やらなにやらあれこれ

2012-09-22 22:09:42 | Weblog
 石原都知事が尖閣諸島の地主になるより、我が民主党政府が保有した方がより穏健に事を運びますよと中国政府に言ったのに理解してくれなかったと玄葉外相が発言したとニュースで聞いて、なんと言う脳天気、とあきれたのだったが、朝日新聞の特集記事によると、実際に中国政府筋は、右翼の石原都知事が尖閣諸島を所有することに危機感を持っていて、水面下でそれを阻止するように働きかけがあったと書かれていた。

 記述が曖昧なので、「事実」がどうなっているか記事ではわからないが、石原都知事は右翼的で危険だが,自分たちはよりリベラルであり、したがって、交渉相手としては石原都知事よりも民主党政府が好ましいと中国側が認識していると朝日新聞および民主党政府が思っていたことは確かで、私はその民主党政府と朝日新聞(マスコミ)の「脳天気さ」が腹立たしい。

 それはさて、池上彰がニュース解説番組で、アメリカが、尖閣諸島の日中いずれに属するかについては曖昧に口を濁しているのに、日米安保の範囲内であると明言する、見方によっては「矛盾」とも思える態度をとっていることについて、「日本がしっかり管理していれば、いざ中国海軍が攻め寄せるような事態になったら,即、日米安保を発動させますよ、という意味だと思われます」と解説していたが、これまた脳天気。

 そもそも日米安保は日本を守るための条約なんかではない。

 日米安全保障条約とは、もちろんその対象に日本国も含まれるけれど、実際には,それより遥かに広い地域、極東アジアから南アジア、さらには中近東にいたる地域の「安全保障」のために日本におけるアメリカ軍の基地を利用する権利について日本政府と結んだ条約で、それが七〇年の安保改定だったのだ(改訂時に「中近東」は入っていなかったかもしれないが)。

 私は若い頃、七〇年安保改定反対のデモにわけがわからないまま参加した一人だけれど,もし、上記のような改定内容を知っていたら、はっきり言って賛成しただろうと思う。(私はエゴイズムが嫌いなのだ)

 それはさておき、尖閣諸島が日中いずれの帰属になるとしてもアメリカ政府は関わらないが、日米安保の対象であるというのは、尖閣諸島がどの国に帰属するにせよ、結果としてアメリカの安全保障を脅かすような事態に立ち至った場合には日米安保を発動させるという意思表示なのだ。

 この問題を巡って国連総会でもやりとりがあって、日本代表は「中国の言い分は論理的でない」と批判したが、これに「反論権」を行使した中国代表は「敗戦国が、戦争で失った権利を回復させようとしている」と日本を非難したが、この非難のバックグラウンドには日本の大陸侵略という厳然とした事実がある。

 この問題が、戦後60年以上経っているのに依然として解決されていないことが、中国そして韓国の今後の切り札になってくるであろうことを思うと、小泉が総理大臣を辞める一年ほど前、インドネシアのバンドンで行われた国際会議と,その前後にニューヨークでブッシュ大統領と面会した際に、前次大戦における日本の戦争責任問題に触れた発言を思い出す。

 これは誰一人触れていないのだけれど、ブッシュと小泉は、「日本を含む,当時の先進諸国すべてが負うべき責任」と言ったのだ。

 要するに、第二次大戦の数千万人に及ぶ死者の責任は、敗戦国だけでなく、戦勝国を含めてあるという趣旨だ。

 実際、戦争で死んだ死者の責任がすべて敗戦国にあるなんて、変な話で、戦勝国にだってその責任の一端はあるのだ。

 そこまでブッシュが踏み込んで発言していたかどうか、それはよく覚えていないのだが、ともかく「戦争の責任は近代の責任」のようなニュアンスの発言であったと記憶している。

 それで私は「あ、この方法があったのだ」と驚き、バンドン会議でも似た発言を小泉がしたので、当時勢いを増していた保守層に、「戦争責任は総じて言えば近代の責任」とする見方が浸透、定着することを期待したのだが、実際にはその1、2ヶ月後、櫻井良子を中心に「慰安婦問題は事実誤認」という意見広告がニューヨークタイムスに掲載され、私の期待的予想は見事に裏切られたのだった。

 もうあれから、7、8年経っていると思うが、一昨日だったか、テレビにで出てきた櫻井良子は相変わらず、吉田清治という元軍人が済州島で慰安婦狩りをしたと証言したがそれは嘘だと判明してる云々と「事実誤認」ばかり言っていた。

 殺人事件が起こると「オレがやった」という自称犯人が多数現れることは普通のことだし、そんなことより、「じゃあ、事実だったら謝るのか、そのときはどんな条件を考えているのか」と、多分考えていないだろうが,櫻井良子には聞いてみたい。

 話がそれるが,昨日「朝生」で、また原発問題をやっていて、そこで池田信夫先生がまたまた、「事実=数字」を強調していた。

 この「事実」に対するこだわりは、本来悪いことではないのだけれど,いつも通り、釈然とせずに聞いていると、吉岡斉氏が、「私はもともと理科系の人間で、学生時代から数字を扱っているので、数字が嘘をつくことをよくわかっています」と言った。

 さーて、池田信夫先生はどう反応するかと思っていたら、吉岡氏の発言が理解できなかったのか、はたまた聞いていなかったのかわからないが、ますますヒステリックに「数字が大事なんですよ。数字が示すところに従うべきで,それ以外は感情論」とヒートアップしていた。

 その数日前、NHKのEテレで、チェルノブイリの近くで、いったん避難して他所に引っ越したものの,なじめず、故郷に戻って生活を再開した老夫婦が紹介されていたが、「覚悟を決めた」というか、心理的にすっかり落ち着き、チェルノブイリ事故を経ることで「幸福」を得た、という感じだった。

 ロシアの片田舎の地主夫婦の晩年を描いた、素晴らしいゴーゴリの小説があるけれど、それを想起した。

 もちろん、チェルノブイリの事故はあった方がよかったなんて言っているのではない。

 「数字」を問題にしても、必ず水掛け論になるので、問題は、どうすれば幸福に生きることができるかで,そのためには、フクシマの被災者に一切の医療を無料で提供する特別保険証のような特権を与えればいいのだと思う。

 やろうと思えばすぐにできるはず。

 そういうことはたくさんある。

 先週、立命館大学の小泉義之教授にインタビューしてきたのだが,小泉教授は、公団住宅を開放すれば、すぐにでも貧乏人が貧乏のまま幸せに暮らせる状況がつくれるのに、つくろうとしないのは、貧乏人が集まると不穏になると思っているからだと話していたが、そういうことだと思う。


考える量

2012-09-15 22:44:37 | Weblog
 尖閣問題がきなくさいが、問題の発端になった3年前の中国漁船体当たり事件の時からずっと書いているのだが、あの事件での菅内閣の処理は「結果的に」とはいえ、評価するに足るものだった。

 そもそもこの問題が表面化したのは、自民党政権時代、アメリカのモンデール大使が、「尖閣諸島周辺は日米安保の対象外」という発言をして、アメリカで問題化し、大使更迭ということになったのだった。

 その少し前に、石原都知事がワシントンでモンデール発言に噛み付いたのだが、オバマはそれで更迭(辞任)したわけではなく、あくまでも戦略的判断として問題があると判断して更迭したのだと思う。

 そんな中、中国の漁船が海上保安庁の監視船に体当たりをするという事件が起きた。

 これは、中国のスパイ船だとかいう人もいたけれど、単に振る舞いが乱暴だっただけだと思う。

 これに対し、海上保安庁は船長を逮捕した。

 それ以前、小泉時代は、「逮捕」せずに、「強制排除」をしていたが、振る舞いが乱暴だったことと、民主党が事態に不慣れだったこともあって「逮捕」に踏み切ったのだった(と解説されていたが、多分そうなのだろう)。

 当然、中国政府から猛抗議が寄せられ、民主党内閣はアメリカと協議した上、船長を釈放したのだが、そのとき、クリントン国務長官は、「尖閣諸島海域が日米安保の対象区域である」ことをはっきり明言した。

 私はこれを聞いて、「誰がシナリオを書いたのか知らないが、見事だなあ」と思ったのだが、菅直人をはじめ、民主党政権はそのことに誰も気づかず、体当たりのビデオをひたすら隠す等、マスコミ、自民党の攻撃を自ら招き入れるがごとき、自信のない言動に終始したのだった。

 もしこのとき「私たちは正しいことをした。その証拠にアメリカは尖閣諸島海域が安保の対象となることを、この事件で明言したし」と言って自信を持って突っぱねれば、内心では「失敗した」と臍をかんでいた中国政府を牽制し、今回のような事態にも立ち至らなかっただろう。

 ところが、かつてモンデールに噛み付いた石原慎太郎もまた、そのことに気づかず、かつて噛みついたときに抱いた私怨を晴らすことを優先してしまった。

 それも、アメリカに対するというより、日本に対する不満がもろもろに積み重なった私怨なのだ。

 石原は、もちろん、「私怨なんかじゃない、国を思ってのことだ」と言うだろうが、私に言わせれば「私怨」だ。

 神風特攻隊だって、本人は「愛国の至上に駆られて」と言うだろうが、実際の心理は「私怨」にできるだけ近いところに気持ちをもってきて、それで納得する。

 神風第一号の関中尉も、新婚間もなかった「愛妻○○子のため」と書き残してアメリカの空母に突っ込んだのだが、空母に突っ込むことがなんで愛妻のためになるのか。

 「愛妻」と「空母」は、何の関係もないけれど、関係があるかのように思わないと行動には移れないということなのだ。

 なぜなら、行動は、あくまでも「私」が為すものだからだ。

 そしてそこまで突き詰めて考え、説明すれば、もう、国籍・文化は関係なく、「なるほど」とわかりあえるのだ。

 なぜなら、日本人も、中国人も、朝鮮人も、アメリカ人も、行動と心理の関係は、同じ人間である限り、同じだからだ。、

 石原はそこまで突き詰めて考えているか、というと、考えていないと思う。

 ただ自分勝手な理屈で納得して、しかもそれで理解してもらえるはずだと、淡白にというか、単純に考えてしまうのが日本人で、日本人同士だったらそれでもいいのかもしれないが(私は嫌だけれど)、外国人からは理解されず、嫌われるのだ。

 「理解なんかしてもらわなくてもいい」と言って突っ込んだのが、前の戦争だったのだが、今になって考えると、「考える量」がぜんぜん足りなかったのだと思う。

 三島由紀夫も、死ぬ一年ほど前、東大の全共闘との対話集会で「考えるのが面倒くさくなった、それに比べ行動は簡単でいい」と言って切腹してしまったのだった。

 作家としてスランプに陥っていたともいえるだろうが、やはり「考える量」が足らなかったのだと、今にして思う。

 考える量が足りなかったために、考える量が足りないことがわからなかった、というか。

 こりゃ切りがないな。

いじめ再考

2012-09-06 01:10:29 | Weblog
 「いじめ」問題がまた再燃している。

 「いじめ」は、世界中どこでも、大昔からあることで、撲滅はできないし、撲滅したらしたで、みんな善意だらけの世の中は、「いじめ」が蔓延している世の中より、もっと嫌なものだ、というのは天邪鬼な私だけか。

 しかし、いじめを原因とする自殺は問題が別だ、という人もいるだろう。

 自殺だけはなんとか防がねばならないと。

 それは賛成なのだけれど、いじめを受けて自殺するのが子供、若者の場合、ちょっと事情が異なる。

 自殺そのものがそうなのだけれど、若者の自殺と大人の自殺は、まったく異なる。

 大人の自殺は、たとえば借金や健康問題が大半で、自殺をすれば問題は、ある意味「解決」する。

 それは、自殺者の死体を見れば明らかなんだそうで、大人の自殺死体は「ためらい傷」がほとんどないという。

 失敗したらまた借金取りに追いかけられるのだから、ためらい傷はない。

 もちろんためらった跡が全然ないということはないだろうけど、若者の自殺死体に比べると、明らかに少ないと、自殺の研究の本に書いてあった。

 では、若者の場合はどうなのか?

 子供、若者の場合、自分の意思を世間に訴えるという意味合いが強くなる。

 世間への不満、自分への不満が根底にあって、自分を抹殺するという気持ちはない。

 いじめを受けた子供の自殺はなおさらで、その目的は、いじめた相手に仕返しするために自殺するのだ。

 実際、いじめに「自殺」で反撃するというのは結構有効で、今回の滋賀県のケースでも、加害者は相当なダメージを受けているはずだ。(いじめの代償として、しょうがないという意見もあるだろうが、それはあまりまじめな意見とは思わない。)

 ともかく、いじめの自殺は「報復」としての自殺であって、だからこそいじめ自殺は防がねばならないのだが、だとしたら、あまり派手に報道しないようにというコンセンサスが富士見中学事件で、ある程度できたと思っていたのだが、それはまったく忘れ去られたようだ。

 「尾木ママ」が何を言っているのか、知らないが、あの人は結構影響力がありそうだな野で、いじめの自殺は、いじめに耐えられなくて自殺したのではなく、報復の自殺なのだということをぜひ言ってほしい。

 これは、富士見中学事件の結論であったはずだ。

 それに関連して、都内のどこかの教育委員会が、「最後の最後の最後の手段」として、いじめ加害者の出席停止をためらわあない言ったそうで、NHKが大々的に報道していたが、「出席停止」は最後の手段、伝家の宝刀なんかではないだろう。

 むしろ「出席停止」は、いじめの実態が明らかになったら、まず第一にやるべきことだと思う。

 最近、糖尿病などの治療で、従来、最終手段を思われていたインスリン注射を治療の最初に使うことが有効であることがわかったのだそうだが、それと同じだ。

 大体、「最後の最後の最後の手段」、「伝家の宝刀」というけれど、「伝家の宝刀」を抜いて、問題は解決するのか?

 まったく解決なんかしない。

 そんなことは、想像力を働かせればすぐわかるはずだ。

 インスリンを治療のはじめに使う方法を考えたのは外国の研究者で、日本はずっと遅れて、遅れた分、普及もしていない。

 こんなことばっかりだ。

 シャープがピンチだそうで、ニュースを見ていたら、コピー機製造から撤退すると言っていて、「えええ?」と思った。

 シャープって、コピー機をまだつくっていたんだ!

 じゃあ、なんでまだつくっていたのか?

 それをぜんぜんどこも分析していないが、これは私の想像だが、シャープ社内のコピー機製造部門を維持するためだったのではないかと思う。

 すべてそうだ。

 従業員のために会社をがあるというコンセンサスがあるので、致命傷になるまで身動きがとれない、というかとらない。

 しかし、会社=生産者より、消費者のことをまず考えるべきだ。

 というのは、私が消費者だからだが、生産者だって消費者のはず。

 では、どっちが根本かというと、生産者が職を失っても、生きていかねばならないのだから、消費が根本であるはず。

 それで、農産業品のように内外価格差がある場合、多くの国では、安い外国製品に対処するのに、関税で消費価格を上げるのではなく、関税ゼロで消費価格を安くし、国内の農家(生産者)には、税金で所得保障するというのが普通の方法になっている。

 もちろん、このやり方は矛盾を抱えているが、大事なのは生活(消費)であって、それを継続的に維持するためにいろいろ工夫がなされるに違いない。

 生産者保護、従業員保護では、そのようなモチベーションが働く余地はなく、まったく事態は変わらないだろう。

 ギリシャやスペインのことをなんのかんの言うけれど、またそういう目線で報道しているので、実態は日本に伝わっていないが、どっちが幸福かと言ったら、ギリシャ、スペインだと思う。

 最近、新宿にも川口にも外国人が依然多く、一月ほど前には、落とした鉛筆を黒い顔の人が拾って渡してくれたが、だからというわけではないが、彼らのほうが、生きる根本を心得ているような気がしてならない。(一万円貸して、と言って、そのまま消えた奴もいたが。)

 最後、話が飛んでしまったが、森有三という哲学者が、日本に来た外国人の多くが「日本人には何か根本的なものが欠けている」と言ったと書いているのだそうだが、「根本的なもの」とは第三者のことだと森は言っている。

 つまり日本人は、私と関係ない第三者を、「私とあなた」の2項関係に還元しようとするがので、町の中で会う見知らぬ人は見知らぬ人のままの関係でしかない。

これでは「仲間からなる共同体」はできても、「第3者同士からなる社会」はできない。

 それが「社会の根本が欠けている」あという評言になるわけだ。

 去年から言われている「絆」は、私には、第三者を第三者としてつなごうというのではなく、第三者を第三者ならぬ仲間としてつなごうとしているように思えてならないのだが、この問題はまた後で。