パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

我慢自慢

2011-10-27 01:06:07 | Weblog
 またふざけた「疑惑」が。 

 井川大王製紙前会長が、100円……じゃない、100億円を子会社から上納させてギャンブルに消費した、ということで、すべては明らかなようだが、しかし、会社が前会長を告発というのは首を傾げざるを得ない。

 大王製紙の言い分は、井川家の命令は絶対で、従わざるを得なかったということだが、法的に言えば、「井川家の命令」で被害を蒙った者が「井川家および、井川家に従った奴」を告発すべきではないのか。

 要するに、井川家の命令に従った大王製紙(とその子会社)も、井川家と同罪である。

 2ch風に言えば、「お前が言うな!」と井川前会長は、告発者に言いたいだろうし、実際、この点については、東大法学部卒という井川前会長のほうが事態を正確に把握している。

 4000万円を「被災地の皆さんに」とメモとともに、紙袋に入れて公衆トイレに放置してあったというニュースも、「陰徳」を気取った心理が見え見え。

 こんなことで「徳」の基準を決められてはかなわない。

 「善人」の思い上がりのたちの悪さは、はるか昔、法然、親鸞が指摘したこと。

 親鸞上人は、「よしあしの文字を知らぬものはみなまことの心なりけるを、善悪の字知りがおはおおそらごとのかたちなり」と言ったそうだ。

 これほど透徹した認識に1000年前に到達し、しかもその法然、親鸞を開祖とする宗派が日本最大の宗教勢力でありながら、その教えがまったく浸透していないのは何故か。

 常識人の感覚と異なるからだ。

 ある家の奥さんが、親鸞ではないが、浄土宗の高僧にこう言った。

 「私が言いたいことも言わずに我慢しているので、この家は壊れることなく、丸くおさまっています」。

 この奥さんに高僧は、「じゃあ、お前が家を壊すことになるだろう」と言った。

 びっくりする奥さんに、高僧は、「だってそうだろ。お前の我慢がなければ、家は壊れるのだから」と答えた。

 まったくもって、その通り。

 それが「理の当然」というもの。

 今の日本、「日本を壊さないよう、みんなが我慢して丸くおさめよう」としているわけだが、そんな偽善に支えられた日本はぶっ壊れて当然であり、またぶっ壊れてはじめて再建が可能になるのだ。

オリンパス疑惑

2011-10-26 22:51:05 | Weblog
 4、5年使っていた19インチの液晶モニターがダメになったので、秋葉原で物色。

 15インチだと、1500円なんて店があったが、さすがに小さすぎる。

 最低17インチなければと思ったが、一ヶ月保証付きで4000円弱といったところ。

 これにしようかと思いながら、ふと横を見ると、「マルチメディア対応」とか、そんな名目のシャープの液晶が目に入った。

 見ると、パソコンもテレビもビデオも見れるというもの。

 もちろん、地デジの場合は地デジチューナーが必要だが、チューナーは現在14インチのブラウン管のアナログテレビに接続して使っている。

 そして、その14インチのブラウン管テレビは、映りはいいが、接触が悪く、時々砂嵐になったりする。

 地デジになってからは、比較的安定しているのだが、ブラウン管は何せ、14インチでも「デカイ」ので、いずれ買い替えようと思っていたところだった。

 問題は、画質。

 液晶より、ブラウン管の方がきれいという先入観が抜けなかったのだが、「マルチメディア対応」機器の価格は4800円。

 安い!

 ただし、保障はついていない。(でも、ジャンクというわけではないらしい。)

 う~ん、どうしようかな、と思っていると、隣で真っ黒けの黒人の若者がノートパソコンをわしづかみにしながら、「え? なにこれ、バッテリーないじゃん」と日本語で独り言を言っている。

 昔、といっても3、4年前だが、山手線で、つり革にぶら下がりながら新潮社とおぼしきペーパーバック版の「日本文学全集」を読むふけっている黒人青年を見た時以来の「驚き」だった。

 いや、「独り言」まで日本語なのがね、驚きだったのだが、エグザイルの何とかという、ブラックのメンバーが、「困ること」に、マクドナルドで英語のメニューを出されることと言っていたことを思い出した。

 彼、全然英語ができないんだそうだ。

 ウィンツ栄司も「曜日」を英語で全く話せず、外人に驚かれたらしいが。

 ともかく、そんな光景を横目に、パソコンモニターとテレビ兼用モニターを買うことにした。

 保障がないのはちょっと怖いが、見たところ、状態は良さそうだし。

 というわけで、それを今使っているのだが、調子は上々。

 ただ17インチとはいえ、画面全体がテレビ対応で、「横長」なので、パソコン画面にした場合、両端が黒く塗りつぶされ、実質15インチ弱といった感じで、使っていた19インチの広大さには到底及ばないが、まあ、しょうがない。

 一番いいのは、ピピッと、リモコンでテレビ画面に切り替えることができることだ。(もちろん、逆も可。当たり前)

 で、今、テレビに切り替えたのだが、古館が「オリンパス疑惑」を報じている。

 「ぜひ、内視鏡で明らかにしてほしいと思うわけです」と、極端に軽いのりでしめくくって、いったいどういうつもりで報道しているんだと思った。

 「オリンパス疑惑」については、一週間くらい前からウェブで話題しきり。

 何しろ、年商数億円のイギリスの企業3社を2000億円で買収し、その仲介にあたった会社に謝礼を700億円も払ったというんだから。

 700億円で買収したんじゃない、仲介の謝礼が700億円だ。

 その仲介を担った会社はカリブ海に浮かぶ島にある会社で、700億円支払った後、解散したんだそうで、アメリカのFBIが捜査に乗り出していて、欧米のメディアでは連日トップネタなんだそうだが、古館が報じていたのは、オリンパスの株価が暴落し、社長が交代という話題で、記者会見では「700億円の謝礼は高すぎないか」という質問に「そうは思いません」と答えていた。

 ところで、私が「オリンパス疑惑」を知ったのは、これまたお恥ずかしいながら、2ch経由。

 巨額の買収を就任直前にオリンパスが行ったことを雑誌の記事で知ったオリンパスのイギリス人の社長が、その金額に仰天し、調査会社に依頼したところ、「法的には問題ないが、かなり裏がありそう」との報告を得たため、旧経営者を問い質そうとしたところ、就任わずか半年で取締役会議で社長の座を追われ、「そういう態度ならこっちもやる!」と全面対決となった挙げ句のFBI捜査、というのが2ch、および2chに紹介されたブログ、あるいはネットニュースで知ったストーリー。

 要するに、バブル期に蒙った「損」を企業買収で生じた「損」で隠蔽したということらしく、それ自体は「よくある話」らしいのだが、仲介者に700億円近いお金を払うというのはさすがに珍しく、ヤクザがからんでいるのではないかということで、欧米メディアでは「エンロン事件」の再来と大騒ぎになっている。

 このこと自体はオリンパスの白黒とは別に、「事実」。

 だったら、「欧米では大騒ぎになっていますが、我が局ではヤクザが絡んでいるという確証は得ていません」と断った上で、「オリンパスが疑惑の対象になっています」と「事実報道」すればいいのだ。

もし仮に700億円(正確には670億円だとか)を支払った相手がヤクザだとしたら、さすがにイギリス人を社長に据えようなどとはしないと思うので――「企業ヤクザ」というのは実に巧妙だそうだから、何とも言えないが――「ヤクザ疑惑」の線は薄いような気がする。

 オリンパスとしては懸案の「損切り」を行った上で、イギリス人をトップに迎え、「国際化」を諸外国にアピールしたかったのだろうが、欧米人は「嘘をつく」という「文化」を持っていないことを見逃してしまったのだ。

 このことは、イギリス人社長を追い出したオリンパスの経営陣が「文化の違い」と説明したことで推測できるのだが、この説明は、「我々日本人は嘘をつく文化をもっています」と告白したに等しく、とんでもなく迷惑な発言。

 「文化」を盾にするのは、これまで何度も言ってきたが、最悪だ。

 せめて、《日本人自身だって「嘘をつく」ことをよいことだとは思っていない》くらいのことは言ってほしいと思うのだが、でも、この際、そんな日本の近代に特有の「企業文化」を、FBIに根底から一掃してもらいたいというのが、私の「本音」だ。

恐竜を正しく理解するには

2011-10-23 22:29:16 | Weblog
 「レナウンのシンプルライフブランドの中国本土展開」が今回のNHKスペシャルのテーマだったが、中国と日本(レナウン)の意見の食い違いの第一は、レナウン側が、北京の一等地から出発しここで成功したら地方都市へという戦略に対し、中国側は「地方都市からはじめたい」というのだ。

 困惑するレナウンの担当者が、NHKのカメラに向かって「信じられない! 首都北京の超一等地からはじめるのが当たり前でしょ」と苦笑いしながら言っていたが、「????……」と思った。

 「地方都市」からはじめて、うまくいかなければ、そこで止めればいいし、損失も最小限ですむが、「首都の一等地」からはじめたら、そうはいかない。

 失敗したら大きく報道されるだろうし、いいところなんかないと思うのだが?

 そもそもヨドバシ電気は、当時、必ずしも一等地とは言えなかった新宿のヨドバシ地区からはじめたのではなかったか?

 ヤマダ電機は?

 「田舎」が開業地の会社なんて、いくらでもあるだろうに。

 あと、ロゴの書体が違っていたとか(正式ロゴはゴシック体なのに、中国側は明朝体で用意した)、本物のレンガを使うように指定したのに、中国側はレンガを印刷した壁紙を使ったとか……中国側の肩を持つわけではないが、あんまり「本質」とは思えないところにレナウンはこだわっているな、と思ってしまった。

 そもそも、本物のレンガでないと致命的に毀損されるくらい、すごい上級ブランドなのか?「シンプルライフ」というブランドは。

 私なんかには、「まだあったのか!」と思ったくらい、随分懐かしい名前で、レナウンのこだわりそのものが、奇異に思えたのだった。

 それはさて、Eテレで恐竜CGアニメをまた見た。

 前見た時から気になっていた、恐竜の仕草がどこか哺乳動物的なのは、要するに、CGアニメの制作者が「恐竜」に感情移入しちゃっているのだ。

 もちろん、私は、生きた「恐竜」を見たことはないけれど、CGアニメに描かれた恐竜が「事実」とかけ離れているであろうことは、「わかる」。

 端的に言うと、「恐竜」は、我々が生きる世界、すなわち「論理空間」への「異物」として理解するしかないし、そうすべきなのだ。

 具体的には、ワニとか、カメとか、鳥等、哺乳類とは異なる、恐竜と類似する動物をじっくり眺めることで、恐竜に対する「感覚」を「類似的」に推測し、それを身につけた上で制作すべきなのだが、ただ、そうすると「お話」が成り立たない。(爬虫類が「主人公」のおとぎ話なんて聞いたことがないが、それには理由があるのだ。)

 痛し痒しというわけだが、CG技術が向上するにつれ、微妙な感情移入が可能になり、しかりしこうして「事実」からかけ離れた「表現」が可能になってしまう。

 要するに、科学技術が向上すれば真実に近づけるわけではなく、むしろ、科学技術は我々を真実から遠ざける。

 ――とウィトゲンシュタインは言っているのだね。

貧しい私の、望むもの

2011-10-21 01:06:06 | Weblog
 毎度毎度でいささかなんなのだけど、またNHK。

 「みんなで日本GO!」という番組。

 「日本語」をテーマにした番組で、ちょっと前、といっても去年になるが、船越英一郎が司会をやっている頃はかなり好きな番組だったのだが、今年に入ってゴールデンタイムに移ってから、特に、例の大津波後は、すっかり「日本頑張れ!」、嵩じて「日本万歳!」番組になってしまった。

 「うんざり」と言うのも、うんざりするが、今日も「日本企業は、今でも外国企業にとって《学びの対象》となっている」という趣旨だった。

 要するに、日本には、企業であれ、個人であれ、外国人の目から見て素晴らしい要素が多々あるのだから、それを自ら見つめ直し、自信をもって、勇気をもって頑張れば、この難局を乗り越えることができるというわけだ。

 しかし、「学習」というのは、基本的に「他人」から学ぶもの。

 「みんなで日本GO!」で、外国人が「日本企業を学びたい」と、瞳を輝かせて言っていたが、それも、まさに、日本企業が外国人にとってなじみがないからこそ、ぶっちゃけて言えば、外国人にとって、日本人が「他者」だからこそ、「学びの対象」となっているのだ。

 「学び」は、自らにないものを「外」に探すのであって、「自分のいいところを、自ら自覚的に認識し、再学習する」なんて、できるわけがない。

 もちろん、日本人には、たぶん、いい面が少なからずあるだろうが、そういうのは、日本人であろうが、韓国人であろうが、アメリカ人であろうが、イギリス人であろうが、パプアニューギニア人であろうが、《自分》にはわからないものなのだ。

 人間って、そういうものなんだ……ということくらい、NHKもわかるだろうに。

 それとも、「日本人のいいところ」がすっかり失われている今こそ、失われたものを「再度、学ぶ」ことができる――という認識なのか?
 
 しかし、番組にそういう高度なセンスは感じられなかった。

 「みんなで日本GO!」を見る少し前の日曜日の朝のNHKニュースでは、結構いいことを放送していたのだが。

 それは、騒音とかホコリにうるさい日本社会を反映した日本独自の「大型ビル破壊技術」で、簡単に言うと、最上階の一階を一種の帽子をみなし、帽子をかぶったまま、少しずつ壊していくらしい。

 他に、「だるま落とし」的工法とかあるらしいが、いずれもダイナマイトで破壊する方法に比べ、危険性も、騒音も、ホコリも大幅減少というか、実質的にほとんどないばかりか、工期も大幅に短縮できるらという。

 一度にドカンと爆破すると、破壊は瞬間に終わっても、後片付けが大変らしい。

 たしかに、ダイナマイト爆破は絵的には派手で面白いのだが、「大雑把だなあ、少しは工夫したらどう?」とは思っていた。

 というわけで、その「大雑把」な外国から大いに注目されている技術なんだそうだ。

 ん、これは、いい技術だ。

 あと、リチウム電池に使うレアーメタル、リチウムを石油から精製する方法をどこかの大学の研究室で開発したとか。

 本当なら、すごいと思う。

 あと、二本脚ならぬ四本脚で、なおかつエネルギーを使わぬロボットとかも紹介されていた。

 エネルギー不要の四本脚ロボットというのは、エネルギー不要というのではなく、「人力で動くロボット」で、後ろで人間がちょっと「押す」だけで、四本の脚がバタバタ動いて、前進するというもの。

 番組では4、50キロはあると思われる荷物をヒョイヒョイ運んでいる映像が流れた。

 梃子の原理を利用しているらしいが、要するにリアカーの二つのタイヤの働きを四本の脚が代わりにやっているような感じ。

 リアカーでは動けないような場所でも動けるのが利点らしい。

 あと、もう一つ紹介されていたのは、産業技術ではなく、フランスに設置されている標準度量衡のうち「質量」の基準値を決める装置で、従来は厳密にはかった一キログラム分の「重り」で、一キログラム分の質量を決めていたのだが、それを「原子の数」で測るようにした装置で、来年早々くらいに納品されるのだそうだ。

 そもそも、「重さ」には、たとえば飛んできたKONISHIKIを受けとめるときに「重い!」と感じる慣性質量と、KONISHIKI自体の「重さ」である重力質量の2種類ある。

 月面上では、KONISHIKIの体重は六分の一になるが、それは慣性質量。

 万有引力との関係で決まるために、重さが変わるのだが、「それ自体の重さ」である重力質量は不変である。

 つまり、重力は、当然、不変の重力質量を提示しなければならないが、従来の度量衡原基では、実質的に慣性質量で重力質量を代置させていたことになる。

 それを「日本の技術」で、重力質量そのものを原基にすることになった、というわけらしい。

 そもそも慣性質量と重力質量は、概念的にまったく別物だが、両質量が99.9999999…パーセントの確率で比例しているため、実質、同一のものとみなしてよい(であるが故に、度量衡原器でも金属の固まりを代置的に「基準」にしているわけだ。今現在、少数点20桁近くまで「同一」であることが実験的に確かめられているとか)のは、まったくの偶然である、とか、そんなことを以前、読んだことがあって、今ひとつよくわからなかったのだが、今後は、「原子の重さ」で永遠不変の「重力質量」を確定すると聞いて、少しわかった感じ。

 いずれにせよ、大変に意味深い技術だと思ったし、ああいうのをプッシュすればいいのに、NHKときたら、人型ロボットとか、新幹線とかの「輸出」ばかりにご執心で。

 人型ロボットは、なんで2本脚という不安定なかたちにするのか意味が分からない。

 断然四本脚ロボットのほうがセンスがいいし、輸出も大いにあり得ると思う。

 それはともかく、多くの日本人が期待する「新幹線の輸出」も、私は望み薄だと思う。

 なんでかというと、安全かつ時刻表通りにぴたりと運行するのはすごいと思うが、普通運賃の2倍の料金がかかるというのでは、ある特定の地域、たとえば観光地とか、ドーバー海峡のような特別の路線を除き、需要はないだろう。

 日本だって、新幹線が地方にも張り巡らされて以降、地方がどうなったか。

 奇麗で早くて快適な新幹線なんか、くそくらえ。

 新幹線は中流以上、貧困層は高速道路の無料化に基づく格安のバス移動が定番、とか、そんな「格差社会」になることを貧困層の私は望んでいる。


「専門家」の罪科

2011-10-15 20:23:14 | Weblog
 花の土曜日で、なおかつプロ野球ペナントレースも大詰めだというのに、まったく何の中継もない。

 こういう時はETV(教育テレビ)を緊急避難的に見ることにしているのだが、ETVでは恐竜のCG番組をやっていた。

 しかし、見ているうち、CG映像をあたかもそれが「事実」であるかのごとく思って見なければならないことに、いい加減鼻白んできたというか、嫌になった。

 恐竜が、恐ろしげな表情で、あ~んなとや、こ~んなことをやるなんて、「嘘だ~」と思っても、現に私の前で展開している映像が否応無しに流し込む「何か」を、私は否定することができない。

 「嘘だ~」と思いながらも、それを見たまま受け入れなければならない、私の知覚の不条理。

 その後、YMOの細野さんがナレーターをつとめる「大実験シリーズ」がはじまった。

 「やってみなきゃわからない」が、本シリーズにおける細野さんの定番台詞で、それは確かに「科学精神」の根幹にある考えなのだろうが、「やってみなきゃわからない」ことを実際にやってみて、それで「わかった」ということになるというストーリーは、「何がわかったのか」がわからないので、なんだか「変」だ。

 ウィトゲンシュタインによると、「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもりになってしまうのが科学精神であり、これに対し「わからないことにはわからない」と言うのが哲学精神なのだ。

 これが、有名な「語りえないことには、口を噤まねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉の意味だ。

 それはさて、私は別にプロ野球ファンではないけれど、地上波放送におけるプロ野球中継を是非復活して欲しいと思う。

 なんて言うと、プロ野球の人気が落ちてしまったから中継をしなくなったのだ、という反論が寄せられる。

 しかし、本当に人気がなかったら、駅売りのスポーツ新聞があんなに大きいスペースをプロ野球のために使うわけがない。

 人気がなくなったのは、あくまでも「テレビの中継」だということをテレビ局は当事者、すなわちテレビの専門家として深く反省すべきではないのか。

 というと、見たい奴は専門テレビで見ればよいという意見が出るだろう。

 しかし、専門テレビを見ると人間は、プロ野球観戦の、いわば「専門家」なのだ。

 「私は別にプロ野球ファンではない」と書いたように、私はプロ野球観戦の専門家(具体的に言うと、ジャイアンツ・ファン、タイガース・ファン、オリックス・ファン等々)ではないので、専門テレビと契約してでも見たいとは思わないのだ。

 じゃあお前は、いったいいかなる資格で「地上波テレビで放送しろ」と主張するのかと言うと、日本国の一市民として――ぶっちゃけて言うと、一素人として、斯く主張するのだ。

 もし私が、たとえばヨーロッパのプレミアリーグのプロバー(専門的)ファンであるとしたら、私は、専門チャンネルと契約するだろう。

 でも、その場合でも、たとえばワールドカップの決勝、あるいは準決勝については、専門チャンネルで見るよりも、地上波テレビで、それまで特に興味があったわけでもなく、一線を画していた「素人ファン」たちと一緒に(といっても別に一部屋に集まってということではない。あくまで「雰囲気」として「一緒に」という意味だ)見て、一緒に盛り上がりたいと願うだろう。

 そして、現状においてそうした「素人ファン」を恒常的に――いわば「潜在的ファン」として――擁するスポーツ競技は、やはりプロ野球がまず第一に数えられるだろうと思うのだ。

 それ故に、地上波テレビでのプロ野球中継の復活を望むと言うのだ。

 ここでウィトゲンシュタインの話に戻ると、《「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもり》になってしまうのが現代的知の「専門家」、すなわち科学者であり、その「わかったつもり」で為してしまった罪科として、今、原発災害の責を問われているのだが、その罪を問う資格のあるものは、彼ら(専門家)の対極にある人、すなわち「一素人としての市民」である。

 とまあ、そんなふうに考えているのだ。

帰れないから帰りたい

2011-10-14 00:43:46 | Weblog
 3.11に起きた「帰宅難民」を改めて検証するという趣旨のNHKスペシャルの再放送を見る。
 例によって例のごとくだが、疑問を二つ。
 疑問、その1。
 地震当日、JRを中心にほとんどすべての公共交通機関がストップしてしまったのだが、その判断は妥当だったのかどうか。
 地震直後、電車を止めるのはしょうがないにしても、電車が脱線転覆したわけではないし、余震が激しくてどうしようもなかったということもない。
 そんな状況で丸一日以上、止めてしまう必要があったのかどうか。
 もし「ある」のだったら、その根拠はなにか。
 変電所がダメになったという報道をちらりと見たことがあるような記憶はあるけれど、たしか西武鉄道の一カ所だけだった。
 要するに「帰宅難民」が生じたのは交通機関が止まったのが原因であって、「検証をする」というなら、止めた判断が妥当だったか否か、このことをまず検証すべきではないか。
 しかし番組では、というか、全マスコミ、このことに触れた形跡なし。
 驚いたのは、バスまで全部止まったこと。
 自家用車、トラックは走っているのに。
 番組では、自家用車で帰宅する人が増えたために未曾有の交通渋滞を引き起こしたと言って、今後同様なことが起きたら車で無理に帰宅しないようにと言っていたが、将来のことはともかく、3.11に自家用車が走れてバスが走れない理由は何だたのか?
 私の経験した限りでは、「バスの運行を制御しているセンターと電話連絡が取れないので走らせることができませ~ん」とバス会社の係員が集まった人に説明していたが、番組では、交通機関が止まった場合は、「人々はその場に止まること」と政府が決めていたという。
 実際、午後五時頃、枝野前官房長官が「会社等にいる人はその場に止まるように」とテレビで発表している様子を番組で流していたので、JRをはじめとする全交通機関は政府の命令でいっせいに止まった可能性が高いが、NHKはそのことには一切触れていなかったので、真相はわからず。
 もしかしたら、「この際、大規模訓練のつもりでやってみるか」ということでやっったのかもしれないが、菅前首相の振る舞い等から想像して、少なくとも菅自身は全然知らされていない可能性が高い。
 翌々日辺りから実施された「計画停電」を発表するの際の菅の、「やらなければならない理由はよくわからないが、ともかくやる!」的発言、表情を考え併せると、「大規模訓練をこの際やってみよう」という高級官僚の間で決められた判断に、菅が何も知らされぬまま従っていた可能性は高いように思う。(だとすると、原発も……ということになるが、その問題はとりあえず割愛)

 いずれにせよ、帰宅難民総数1200万人という数字は、政府・官僚の、まさに想定外の事態だったと思われ、この次にはそんなことにないようにとNHKが必死にキャンペーンを張っているわけだが、そもそも、なんでそんなにみんな、必死に帰ろうと思ったのか?
 NHKでは、「家族の安否が心配だったから」と説明していたが、これが疑問の2だ。
 帰宅難民者は総数1200万人だったそうだが、必死になって家に戻ろうとしていた無数の人の多くは、戻った家に誰も待っていない独身者のはず。
 では、なんで「独身者」が、帰っても誰も待っていない家に帰ろうとするのか?
 このことは、独り者だった坂口安吾が「不思議なこと」として書いているが、かつて妻のいたことのある、現・独身者として言うけれど、帰れば帰ったで不機嫌な顔をされ、帰らなければ「怒り狂う」のが妻であって、その妻の待つ家に帰るというのは、正直言って「気が重い」ときが多々あるもの。
 地震で交通機関が全面ストップのニュースを聞いて「帰らなくても怒られない」とホッとした妻子持ちは少なからずいたはず。(その後で東北の惨状を知って、ちょっと罪悪感を感じたりとかして)
 でも、そういう不埒な夫も、必死に帰ろうとした。
 何故か?
 私が思うに、交通機関が全面ストップし、回復の目処も立たないと知って、それでなんとしてでも帰ろうと思ったのだ。
 帰れないとわかって、どうしても帰りたいと思ったのだ。
 逆に言うと、いつでも帰れる、少なくとも、「今必死に復旧作業をしていますので、復旧次第、終電にとらわれず、深夜3時4時でも走らせます」とアナウンスしていれば、「無理して帰るのは止めよう」と判断した人は多いはず。(で、会社の若い女の子と浮気したりして。実際、帰宅難民時、それに近そうなカップルがいたぞ)
 ここら辺は、まあ、パラドクスというか、心理劇として考えなければいけないのだが、官僚とか、NHKの特番で「大衆心理行動の専門家」とおだてあげられていた学者もどきどもには理解できないことだろう。(本物の学者ならそれくらいの「想像力」はあるはずだ。)
 そんな奴らが「危機管理の専門家」だなんて、ちゃんちゃらおかしい、とNHK特番の再放送を見て思ったのだった。

 KONISHIKIのハワイアンソングのCDを100円で購入。(すみません、KONISHIKIさん)
 素晴らしく甘いハイトーンで、すてきすてき。

我がハロウィン体験

2011-10-12 23:55:24 | Weblog
 新宿のディスカウントストアーの店頭に黄色の大きなカボチャが、まあまあの値段で売られていた。

 私はここ数ヶ月間、「カボチャなし」の食生活は考えられないほどカボチャにはまっているが、これまで外が黄色のカボチャは食べたことがない。

 あと、生産地が北海道で、「一茎一個」と書かれていた。

 カボチャがなすとかキュウリとかトマトみたいに一茎にいくつも生るものではないものなのかどか、知らないが、ともかく、味を確かめてみたいと思い、2キロ以上ありそう(「風に吹かれて」が一冊1.5キロだから、2冊分はありそう)で、なおかつ、非常に持ちにくい形態に手こずりながら店を出た瞬間、ハロウィン装飾を施したスナックが目に入った。

 あー、これで、いつもは見ないカボチャを売っていたのだ。

 何も焦って買うことはなかったのだと悔やんだが後の祭り。

 なんとか我が家にたどり着いたら、切らしていたと思っていたカボチャがまだあった。

 くやしいから、中をくりぬいて、ろうそく立ててハロウィンごっこをやってみるか。

 なんてことはしない。

 食べる!

新宿、文学めぐり

2011-10-09 00:17:37 | Weblog
  さっき、NHKで、土曜ドラマとやらをやっていたが、それが松下電器創業者、松下幸之助の「立身出世」物語だった。

 日本にだって、スティーブ・ジョブスに負けない創業者がいたんだ、がんばれニッポン!

 と言いたいのだろうが、「成功神話にとらわれてはいけない」、とオタクの解説者が言ってはいなかったか?

 「頑張れニッポン」とか言っている限り日本の復興はないというのは、こういうことなんだ。

 なんで、こんな簡単なことに気づかないのだろう?

 とつくづく思う。

 それとも、みんなわかっているのだけれど、世間の雰囲気には、したがうしかないという判断でそうしているのだろうか?

 もし、そうだとしても事態が少し好転するというわけではない。

 むしろ、わかっていて黙っているほうが、より悪質だとも言える。

 戦前、日本のすべてを罵倒し続けた永井荷風への共感が日々募る。

 荷風の小説は有名なところは大体読んだ。

 こんなことは、夏目漱石以外ない。

 なんで、荷風を……と、その理由がわからないのが、不思議なのだが、つまるところ、日本人に対する嫌悪がその原因かも。

 日記「断腸亭日乗」、の「断腸亭」とは、新宿の余丁町の永井荷風の旧宅の一隅にもうけた家に荷風が名づけた名前なんだそうだが、その余丁町の旧宅の近辺を数年前、チラシ配りのバイトで歩き回った。

 新宿7丁目周辺は旧文人に縁の地が多い。

 一つは三島が小学生のときに書いて、両親を茫然とさせたという小説「スカンポ」の舞台と思われるところも見つけた。

 それは、新宿にあったと言う刑務所の跡地だ。

 小説は、死刑囚と、小学生の少年との交情を描いたもので、確かに、近所を子供の三島と一緒に散歩した記憶のある母親を、「あのとき、あの子はこんなことを考えていたのか」と茫然とさせたのだった。

 で、そこは貧しい官舎のある一角にある小さな公園で、そこを通りかかったとき、記念碑があるので見てみたら、そこは昔刑務所があり、記念碑のあるところは、死刑台のあった場所だと書かれていたので、「あ、これが」と思ったのだった。

 それから小泉八雲の旧宅もあった。小泉八雲の旧宅というと、今、公園になっている新大久保が有名なのだが、その以前だか直後だかに、余丁町に住んでいて、その跡地にある、かなり立派なお屋敷を見て「あ、これが小泉八雲の……」と思ったことを覚えている。

 しかし、荷風の旧宅については、「ある」ことは知っていたがどこにあるのかわからなかったのだが、この記事を書くためにネットで少し調べたら、なんと、余丁町に郵便局員のための官舎があって、いつもその中庭を突っ切っていた、その官舎が荷風の旧宅、断腸亭なのだった。

 これはびっくりである。

 その官舎というのは、4階建ての団地サイズのビルが四つほど建っているのだ。

 つまり、荷風の旧宅は、「新宿御苑」とまではさすがに言わないが、啄木が、「「荷風氏の非愛国思想なるものは、じつは欧米心酔思想なり。・・・ 宰へて言へば、田舎の小都会の金持の放蕩息子が、一二年東京に出て新橋柳橋の芸者にチヤホヤされ、帰り来りて土地の女の土臭きを逢ふ人ごとに罵倒する。その厭味たつぶりの口吻そのままに御座候。しかして荷風氏自身は実に名うての富豪の長男にして、朝から晩まで何の用もなき閑人たるなり」(ネットからコピペ)と難じたのも、さもありなんと思わせる広大な敷地だ。

 あと、「つゆの後先」だったかと思うが、クラブの女給をしている女主人公が、ある雨の夜、タクシーを呼び止め乗車すると、その運転手が以前関係があった男で、急坂の下でタクシーから放り出されるシーンがあるのだが、その「急な坂」も新宿の余丁町の近くだ。

 なんか、こんなことを書くつもりは毛頭なかったのだが、「新宿文学めぐり」でした。

ジョブスを怒らせた「醜悪なもの」

2011-10-08 01:16:28 | Weblog
 スティーブ・ジョブスがあの世に……。

 私はずっと以前からMacなので、当然ジョブスファンかというと、そういうわけでもない。

 私がMacを使ってきたのは、雑誌をつくるため、そのソフトがほぼMac専門だったから。

 実はMac以前は、キャノンのDTP専門ワープロを使っていた。

 キャノンの専門ワープロは、機能的には大変に優れていて、使い勝手も良かったし、パソコン通信かなにかを使えば、今、やっているように電話回線でデータを送ることもできると宣伝していたが、実際には、まったく使い物にならなかったみたいだ。

 あと、使っている書体が、主観的な好みの問題とはいえ、あまりいいとは思えなかったが、しかし、機能がよかったので、不満はなかった。

 ただ、売り方に頭が来たことがあった。

 それは解説書が、厚さ5、60センチになりそうなくらいあって(全部で5、6冊あったと思う)、それに値段がついていて、八万円というのだ。

 「しかし、この八万円はサービスいたします」と営業が言うのだが、解説書がなければどうしようもないのだから、値段をつけるのがおかしい。

 それに値段を付けて、恩着せがましく「サービスします」とは何事だと内心、腹を立てていたのだが、Macを使ったDTPシステムの場合、パソコン本体を買った上、ソフト(クォークエクスプレス)を購入する必要がある。

 たしか、当時で百万円をはるか超える額が必要だったと思う。

 対するキャノンのDTPシステムは、正確には覚えていないが、それよりはるかに安かったことと、「パソコンを買うと、編集の他にもいろいろなことができるのは確かですが、覚えるのが大変ですよ。編集作業を中心にされるなら、専門ワープロにしたほうがいいです」という営業の言葉に説得されたのだった。

 このキャノンのDTP専門ワープロはたぶん7、8年は使ったと思うが、その後、急激にパソコンの値段が下がったこと、またDTPソフトも、秋葉原の裏道で格安で売っていたり、すでにもっている人からコピーさせてもらったりという「裏技」が蔓延、それに乗じて私もMacに切り替えたのだった。

 しかし、アメリカ製のDTPソフト、クォークエクスプレスは、アルファベットが基本なので、漢字、ひらがな、カタカナを混合使用する日本文の編集にはあまり向いていない。

 むしろ、キャノンの「専門ワープロ」に入っていたソフトの方がそこらへんはきちんとしていると、今でも思っているのだが、キャノンのDTPシステムは、Macシステムに敗れ、市場から完全撤退すると同時に、収められていた日本語の編集ソフトは、たしか住友に売却され、今「エディカラー」という名前で売られているはずだ。

 ともかくそういうわけで、雑誌編集のためにずっとMacを使ってきたのであり、そういう人は出版業界では大変に多いはず。

 そしてそういう人の多くは、ジョブスにはあまり好感を持っていないはずだ。

 というのは、一時、アップルを追い出されたジョブスが復帰してから進めた路線は、それまで使っていた雑誌編集システムとしての機能を切り捨てるものだったからだ。

 だから、つい一週間ほど前に秋葉原の中古パソコン店で調べたのだが、「OS9が使えます」が売り文句の古いMacの値段はあまり下がっていない。

 いや、ものによっては1、2年前より上がっていたように感じた。

 もちろん、これは私の「印象」に過ぎないけれど、「OS9が使える」の売り文句の、その心は「昔の編集ソフトが使えます」なのは確かだ。

 とはいえ、そのOS9のもと、Macの業績が悪化していたことはもまた確かなのだが。

 それはともかく、そのジョブスが新製品の発売日本にやってきたとき、イベント会場に、人間国宝級と言われる生花の大家がアレンジした大きな「生花」が壇上の中央に据えられていた。

 それを見たジョブス、怒り狂って通訳を呼び、「こんな犬の糞のように醜悪なものはつくったやつは誰だ! すぐに片付けさせろ、オレの言っていることを正確に訳すんだぞ」と言い、件の「生花の大家」は青筋立てて帰ったそうだ。

 ジョブス、よく言った!

 アップル製品の発表の場に生花が似合わない……というか、スピーチに命をかけているジョブスにとって、その自分の横に据えられ、聴衆の視線を奪ってしまうであろう「生け花」が邪魔っけなのは当たり前。

 とはいえ、「ジョブス、よく言った!」と快哉を叫ぶのは、ニュース等でセレモニーのために壇上に飾られている「生け花」を見るたび、これほど嫌味なものはないと、ずっと前から思っていたのだ。

 主役が「セレモニー」にあるのだったら、そのセレモニーが何のために行われるのか念頭に置くことは必要不可欠であるが、そんな配慮は皆無で、ただ「人の目を奪うためだけ」に飾られているものを「醜悪」と言うのは、実に当然な表現だ。

 とはいえ、この話は本当なのだろうか?

 ソースは?

 というと、ソースは「ほぼ日刊糸井新聞」で糸井のインタビューに日本マイクロソフトの古川会長が応えたもので、古川会長とジョブスは、マイクロソフトのビル・ゲイツほどの親交はなく「聞いた話」であるようだったが、ありそうだなと思ったのだった。

 それにしても、ジョブスが、いわゆる「技術」に関するセンスは全然もたず、パートナーだったウォルズマックにすべてやらせていたことなど、古川さんの話はすごく面白かった。(ちなみに、当該する「ほぼ日刊……」は、もうだいぶ前のものだった)

刺身に胡麻だれ

2011-10-05 10:23:34 | Weblog
 昔,「庖丁人味平」で、日本料理が停滞しているのは、あまりにも醤油が便利なためだ、という記述があって、なるほど、そんなものかなあと思ったことがあった。

 そんな「思い」が頭の頭にあったせいか、私は元来「お刺身」が、大好きなのだが、段々食しないようになっていた。

 金原亭馬生(志ん朝の兄)が、刺身と酒しか食せず、あっさり早死したことも、影響していたかもしれない。

 ともかく、お刺身は、「飲み会」かなにかで口に入れる以外で、食べることは数年、絶えてなかった。

 でも、やっぱり食べたい。

 ということで、先日、カツオの刺身用の切り身が半額セールされていたので、それを購入、たっぷりの大根おろしと、人参とタマネギのスライス、それにこれまたたっぷり以上のショウガを、中華ごまのドレッシングで食した。

 中華ごまの瓶には、サラダの他、冷やし中華,餃子のたれ,焼き肉、冷や奴等幅広いメニューにお使えいただきますと書いてあったが、刺身は推薦されていなかった。

 でも、カツオだったらいいだろう。

 なんか,そんな感じがしたのだが、食べてびっくり、うまい!

 一応、納豆用のたれを一部、つけてもみたのだが、「中華ごま」のほうが断然うまい。

 まあ、大根おろしをはじめ、半ば「お刺身サラダ」という感じではあったのだが、ちょっと話がそれる、というか、本当はこっちの方が言いたかったのだが、なんでもかんでも「日本万歳」の風潮は、本当にいい加減にしてくれと言いたい。

 昨日は昨日で、日本の和服の「着流し」や「浴衣」を世界に広めたいとか言っているやつがいて、あきれた。

 どんなセンスをしているのだろう。

 「着流し」も「浴衣」もアンチフォーマルな装いであって、着ていい場所は基本的に限られている。

 そんなことも知らずに、「がんばれ日本」とか、「絆」とか言っている限り、日本の復興はないんだよ、と言いたい。

 そんな台詞が聞かれなくなったとき、はじめて復興したと言えるはず。