パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「狂」について

2006-12-18 14:42:01 | Weblog
 小野紳様、そうなんですよ、lunatiqueを大々的に表紙に謳うことは、狂気を全面に出すようなものだから、良くないと終始反対したのが、Mさんで、そのくせ、出してきた表紙プランを見たら、lunatiqueそのものがタイトルみたいになっている。そこらへんがMさんのちょっと面白いところなんですが、それはともかく、私自身も、多分、一年前くらいだったら、lunatiqueを全面に押し出すことについてはためらいがあったと思うのだけれど、その「ためらい」みたいなものが、半年くらい前から急速に薄れていった。何故なのだろう?

 そもそも、何故、lunatiqueに、ためらい、抵抗があったのかというと、やはり、「狂気」というものに偏見があった。それにくわえて、旧月光では、結構、わけのわからないものに対する興味のようなものをストレートに打ち出していて、そういったこと(興味本位)に対する反省のようなものもあった。
 ところが、今回、草森紳一さんからもらった原稿のタイトルが「狂気三昧」というもので、「今や、死語となった狂気なるものを、花輪和一の漫画『浮草鏡』を通じて考える」、という内容で、最初のうちは、正直言って、なんとなく読み流していた感があったのだけれど、そのうち、ふと草森さんの真意のようなものが気になり出して、そのアイデアの一つの元となっている白川静の「狂」の字源の考察を調べたら、「狂」とは、元来、王の霊異を受けて常ならぬ状態になることだそうで、本来悪い意味ではなく、孔子も「論語」で、こう言っている。

 中庸(正しく、過不足のない人)の人が見つからなければ、次は狂狷の人がよい。何故なら、「狂」とは志が高く、世間一般の意見にとらわれず、「狷」は、心が狭いが悪いことはしないからである……。

 なるほどねえ……孔子はさすがに深い。バカとはさみはつかいようってのは、これだったのか(ちと違うか)。

 ともかく、ということで、lunatiqueに対する否定的こだわりがなくなっていったわけです。

 ところで、画家の息子をスイスのイベントで採用した石原都知事に対し、マスコミは、「李下で冠を正さず」じゃないかとかなんとか。
 何を言っているんだ。「李下で冠を正した」だけで、李(すもも)を盗んだわけではないとわかったら、それでいいではないか。それがわかった上で、なんで、「冠を正すべきではなかった」と言い募るのか。こういう輩は、「狷の人」とは言わないだろう。単なる「屁理屈屋」だ。

 滑稽なまでに無邪気な平和反戦の手紙ばかりの、朝日新聞の「声」欄の「語り継ぐ戦争」という毎週月曜日の連載特集に意外な投稿が。

 それは、50過ぎの主婦の小学生の時の思い出で、母親が父親と夫婦喧嘩をした時、母親が「戦争で人に鉄砲を向けるくらいの人だから、家族がどんなに困っても可哀想とは思わないんだね」とまくしたて、父親は絶句してしまったというのだ。投稿者は、子供心に、これは他人には絶対言ってはいけない話だと思ったこと、大きくなってからは、「母の言葉は夫婦喧嘩のルールを逸脱していたと確信したと」いうのだ。
 投稿者は、最後に、「(戦争は)戦後生まれの私にも、こんな形で心に痛みを残している」と朝日風に締めくくっているが、その他にも、「あの戦争は間違っていたとは思うが、自分なりに一生懸命戦ったので、後悔も恨みも感じない」という、元海軍少年兵の投稿が載っていたり、朝日新聞路線転換模索中と思わせた。
 とはいえ、「戦争で人に鉄砲を向けるくらいの人だから、家族がどんなに困っても可哀想とは思わないんだね」という母親の台詞は、朝日新聞が、戦後60年、旧日本軍や自衛隊に対して「まくしたてていた」いや、今も、以前程ではないとは言え、時にまくしたてている台詞ではないのか。なんでもかんでも、「戦争がいけない」でまとめる思考停止状態をいつ脱却できるか、それが問題だ。
 追伸 月光HPに、24号の画像、目次等をアップしておきました。このブログとリンクさせてあります。HTML辞書で作ったので、ごく簡単なものですが、今後、追加していきますので、よろしく。