パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

カエルのツラにションベン

2020-02-26 22:41:01 | Weblog
超高額の薬の保険適用が認められたというニュース。アメリカでつくられた、筋萎縮症にかかった赤ん坊に、一度、投薬すれば、それが一生防げることが確認されているというすごい薬だが、一回分が数億円という超高額薬品。日本の国民皆保険制度は、高額治療にどう対処するかと言うのが大問題であることは、だいぶ前から問題になっていたことだが、厚生省は、一度投薬すればいいということで、保険適用に踏み切ったのだろうが、これが現在の健康保険制度のネックであることは厚生省自身がわかっている。

ところで、この薬を開発したのはアメリカの会社だが、アメリカには公的な健康保険は存在しない。保険会社と契約できるのは金持ちだけで、従って、一億円という薬価は、安いもの。これを民主党の大統領候補、バーニー・サンダースは攻撃しているわけだが、ただアメリカにはメディケア制度というのがあって、貧乏人や、高齢者向けの医療制度もあって、巨大さで知られるアメリカ軍の予算と、ほぼ同額高額の予算が充てられている。だから各種のワクチンも無料で摂取できる。ワクチン接種をしていない子供は小学校に入学できないそうだが、これはただでワクチンをうってもらえるということが前提になっている。少し前に、新聞のコラムで読んだのだが、ニューヨークに住んでいる日本人女性は、臓器移植もメディケアで受けることができるそうだ。

一方、日本ではワクチン一本うつのに、数万円かかるし、現在のコロナウィルス問題でも、検査は有料で、保険でできないのか、と問題になっている。日本の健康保険制度は、江戸時代の「頼母子講」が原点で、要するに、複数の人間がお金を出して、それを積み立てる。もし病気になったら、その積立金から必要額を受け取れるという仕組みで、それを始めた村には、厚生省が記念碑をらてたらしい。しかし、この仕組みも完璧ではないわけで、数年前、このままでは健康保険制度は維持できない、と強い口調で訴える人をテレビで見たことがある。つまり数年前までは、問題点があることがわかっていたのだが、いつの間にか、その議論は立ち消えになった。ウイルス検査の保険適用がなされないことも、エピソード的に語られるだけで、クルーズ船の乗員や乗客を全員下船させて、隔離するという、根本程な対策ができないのも、土地がないからしょーがない、で済まされてしまう。最初、武漢市で、新しい専門病棟を十日間でつくっている光景を見て、日本人のコメンテーターは「スゲーなー、こんなことできるのは独裁国家だけた」と笑っていたが、アメリカのメディアに、やってはいけない見本」と書かれると、アメリカの会社が運営しているのではないか、と見当違いない反論を言う。

かと思えば、自民党議員が、アメリカのように病院船を作れ、なんて言い出す。今回の件では厚生省が非難の矢おもてに立っているが、カエルのツラにションペンなのは、厚生省の役人にとって、今回のウィルス事件は、権限拡大の絶好のチャンスでもあるからだ。折も折、2.26事件の新情報だというドキュメントをNHKのBSでやっていたが、反乱将校を支持する陸軍と、それを事前に知っていた海軍が、ほとんど臨戦状態だったという。陸軍と海軍の対立は、厚生省と他省の対立のような「縦割り問題」とは、また別の問題かもしれないし、同じ問題かもしれないが、敗戦の一年前に、海軍大臣が昭和天皇に、奏上に訪れた際、海軍と陸軍の連携がうまくいっていないことを指摘され、「鋭い質問だ!」と、驚きつつ、「いろいろ問題がありまして」と言って、ごまかした。面白いというと不謹慎だが、この時、奏上に参上した岡という海軍の中将は、「私はこの戦争には勝ち目はないと思っていたが、陛下の顔を見ても、陛下もこの戦争の運命はご存知だな」と思ったと、戦後、語ったそうだ。海軍も海軍なら、天皇も天皇。なんたる無責任!

ガツンとくる音楽

2020-02-26 13:01:29 | Weblog
 今は見る番組がなくて、本当に困っているが、中で面白かったのは、イーテレの坂本龍一がホスト役で、音楽についていろいろやっていた番組。浅田彰が脇でうんちくを語るのだが、それはともかく、昨日は、なんとかという日本人の指揮者が登場した。

 音符なし、何をするのも個人のイマジネーションが優先というかなりユニークな指揮をすることで最近有名になってきたようだが、その彼が登場して、自分の指揮の方法を解説しながら、音楽学校の生徒を指揮する。

 譜面はまったくなし。

 演奏は完全に個人の自由なのだが、指揮者がグーを出したらガツンとした音を出すとか、そういう約束はある。

 そう言う約束の中で、「ガツン」をどう理解し、どう表現するかは演奏者の自由なのだ。

 ウィーンのニューイヤーコンサートで、指揮者が最後のラデツキー行進曲で、会場の拍手を指揮するが、要するにあのような感じで、音をだんだん大きくとか、小さくとか、そのまま続けるとか、いろいろなサインで指揮をする。

 私がもっているテープで言うと、ラウンジリザーズみたいな、要するにフリージャズのようなものだが、 その指揮者が、まったく音楽には全く無縁だったフクシマの被災者たちを集めて指揮して、それがレコードにもなったらしいのだが、これには感動した。

 絶望の中に希望を見いだすとか、そんなわけのわからないことではなく、端的に「自由」と「未来」にあふれていた。

 なぜ、「自由」と「未来」があったのかというと、指揮者の指示で音を出し、周りの音を聞くことに集中することで、フクシマのことを忘れていたからだ。

 だいたい、あの状態で生き残った人は、運が良かったのだ。

 どう考えても。

 「希望」は、それを自覚するところからしか生まれない。

 と、思ったりしていた翌日、これまたNHKで、激しい耳鳴りで、耳が聞こえなくなった作曲家が、その自分の過酷な運命を被災者に重ね、「運命に負けるな!」というストーリーのドキュメントをやっていた。

 この作曲家がどういう人なのか知らないし、また彼が津波で母親を失った女の子のために書いたピアノ曲をどう評価するかも、ご遠慮申し上げたいが、ピアノ曲をプレゼントされた格好になった女の子が、曲の感想を聞かれてどぎまぎしていたのは「過酷な運命に勝て!」というメッセージのわからなさと相関的な態度と言っていいだろう。

 ともかく、勝手につくったストーリーを人に押し付けるなと、NHK、およびマスコミには言いたい。
 ついでにもう一つ、付け加えておくと、北朝鮮の拉致被害者家族が、「○○ちゃんは、今日も、日本に帰りたい、そして私たち家族と一緒に暮らしたいと日々願っているんです」と言っているが、それもマスコミがつくったストーリーにすぎない。

 それは、東北の被災者たちが、毎日真面目に働いていて、家族との絆もしっかりしていたのが、突如の地震と津波でそれが壊れてしまったというストーリーと全く同じである。

 「想像力」は、そんなありふれたストーリーの案出のために使うものではない。

 むしろ、運命は個人のもので、みんなちがうのだ、ということをリアルに受け止めることにこそ、「想像力」は使われるべきなのだ。

 例の「指揮者」が誰なのか、ネットで調べたら大友良英というミュージシャンで、相当有名な人であるらしい。

 ちなみに耳の聞こえない作曲家は佐村河内守。投稿間もなく、耳が聞こえないというのはウソだ、という週刊誌報道でスキャンダルの主人公になった。