パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「猟奇王」健在

2007-03-31 20:42:45 | Weblog
 今、製作中のナンバラ総合サイトの参考のため、川崎ゆきおサイトを覗く。

 小説、マンガ、エッセイ、フリー素材、日記、フォト日記などから成り、マンガは有料でダウンロードでき、集金システムも一丁前についている。
 
 まず、日記を覗くと……

  ■2007/03/12(月)

   今日も寒いが晴れている。なかなか春めかないと思うのは暖冬のせいかもしれない。

 ――そうそう、そうなんだ。全く同感である。今年は記録的な暖冬と言われ、実際にもその通りらしいのだが、それが先入観になってしまって、“暖かいという割には寒い”と、ずっと感じていた。三月に入って、“春の訪れ”が足踏み状態になってから、「そらみろ、やっぱり寒いではないか」とつぶやく始末。ブログに書き込もうと思ったが、そのうち、本当に暖かくなってしまい(今日は寒かったが)、書くチャンスがなくなってしまったのである。

 「エッセイ」は、お手のもののマンガつき。懐かしき、「猟奇王」が「エッセイ」の主人公として街を徘徊しているイラストがついているが、その絵柄が、依然として、全然変わっていない。「変わらない」ということは、10年前に見ても、20年前に見ても、30年、40年前に見ても、全然変わっていないということだ。当たり前だが……あれ、待てよ……頭の中から昔の「猟奇王」を引きずり出してみると、結構、変わっているような気もする。
 城山三郎の「毎日が日曜日」じゃないが、「猟奇王」は、昔から、常時、「懐かしさ」という衣装をまとった、「レトロ」の王様で、その衣装の絵柄は実際は少しずつ変わっているのだが、それが指し示す「懐かしさ」はいつも同じなのだ……と思わず哲学的になってしまうところが、川崎ゆきおの特徴、魅力なのだろう。(実際、「マンガ」として楽しもうと思っても、ちょっと……だし)

 さて、その「マンガ」は有料なので、とりあえず無料の「小説」を覗いてみたら、驚いたことに、ほぼ毎日(!)新作をアップしている。もちろん、ごくごく短いものなのだが、数本読んで、おもしろいと思ったのは、「進路相談」だった。

 進学すべきか、就職すべきか、進路に迷った高校生が、進路相談の教師に、実は、進学も就職もしたくないと本音を言う。教師は、「悩むことはない。こんなことで人生なんか決まりはしないよ。気楽にいけ」と諭し、高校生はいい加減な私立大学に入ることにする。しかし、一つフに落ちないのは、「どこで人生は決まるのか」ということで、教師に、「いつの間にか、自然に決まるんだ」と言われるが、この言葉を理解できたのは、「定年退職後だった」……という落ち。

 おもしろくないか……(笑)。しかし、これを読んで、なんとなく秋山祐徳太子を思い出した。
 秋山祐徳太子はもう70を過ぎようかという歳で独身だが、最新のエッセイ本で、いつか結婚して、奥さんとこんな会話を交わしたいという。

 「あなた、お帰りなさい。お風呂にしますか?」
 「おまかせします」
 「食事は何にしますか?」
 「おまかせします」
 「あなた、人生、どうします?」
 「おまかせします」。

 もちろん、これこそ、「諧謔」という、男のもっとも高貴な精神の現れにちがいないのだが……。え? どこに川崎ゆきおの小説と共通点があるのかって? それは、就職も進学もしたくないという、ニート志望の裏に、実は、とある「高貴な心」が隠れているのであって……。(だから、定年退職後に云々という「オチ」は、実は必要無い。つまり、進路担当教師を「想定外」の質問で絶句させたところで、この短編小説は、完成しているのだ)


 プロ野球開始二日目の土曜日、テレビ中継、録画も含め、一切なし。
 ここまでプロ野球人気は落ちたか、と痛感……なわけはない。前にも書いたとおり、巨人におんぶだっこできたテレビマスコミの根本的戦略ミスなのだ。
 
 イギリス女性殺害犯人いまだ逃亡中。できれば、このまま逃げ切って欲しい。そして、日本警察の無無能力を世界に曝して、大反省のきっかけにしてほしい。(でも、いくら反省したって、今のレベルのままでは、幹部一同揃ってお百度参りくらいのことしか考え付かないような気がするが)

クレイジーキャッツをめぐる大いなる謎、その2

2007-03-29 21:44:11 | Weblog
 今朝、いつも買う産経新聞(100円なので)が売れきれだったので、代りに朝日新聞を買い、それを見ながら、朝マックを食していたら、小林信彦による植木等追悼文が目に入った。
 時間がなかったせいか、「入魂」の一文とはいかず、毎度お馴染み、新宿のジャズ喫茶の人気者だった頃のお話で、そこに、「その時点での人気者は(なんと!)石橋暎太郎だった」とあった。

 そうか、やっぱりそうだったのだ。エータローがリタイヤして、「クレイジーは大丈夫だろうか」と心配したのは私だけでなく、みなそう思っていたのだ。そして、もちろん、クレイジーはエータローがいなくても「大丈夫」だったのだが、その代り、植木等に引きずられるように(本人は決して本意ではなかったらしいが)「無責任」路線に流れてしまい、「これではクレイジーはダメになる」と二度目の心配をファンたちは強いられた、というわけなのだ。

 結論を言うと、ファンたちの心配、懸念は、最後まで遂に払拭されることがなかった。しかし、それでも、「クレイジーは絶対に面白いという信仰」(橋本治)は、ずっと生き続け、教祖(植木)が他界しても、まだ生きている……というわけだ。そして、多分、この「クレイジー教」の第一の信者は谷啓だと思う。今でも、トロンボーンをみながら溜息ばかりついているし。

 説明がたどたどしくて、我ながら歯がゆいのだが、おわかりだろうか?

 ……ますます分かりにくくなったかも。

 昨日は、期待(要するに、音楽ギャグの披露)になかなか応えてくれないクレイジーに業を煮やしてドリフファンになった、といったようなことを書いたが、実は、これにもちょっと説明が必要で、クレイジーに代るバンドとして、私は(多分小林信彦もそうだと思うが)、まず小野ヤスシの「ドンキーカルテット」に期待した。何故なら、芸風がクレイジーに似ていたからだが、残念ながら実力不足で大成はしなかった。
 このような二重の「がっかり」(というほどドンキーに期待していたわけでもないのだが……)にうちひしがれている時、ふと目を上げてみると、そこにドリフターズがいた、というわけなのだ。(もっともドリフターズの芸風は、クレイジーとは全然ちがうのだが)

 実現しなかったことを書いてもしょうがないので、実際の話を書くと、小林信彦は、こうして「時代」に流され流されて行き着いた末、植木等の代名詞となった「無責任男」という看板について、「個人の幸福に関して何の責任も持たない体制(=自民党政府)に対しては無責任な態度で居直るしかないというメッセージ」――すなわち“無責任思想”という思想的メッセージが大衆に受け入れられた結果だと書いている。(『日本の喜劇人』)
 
 これに対し、「え? 日本政府が無責任だから国民も無責任でよいなんて“思想”が、あり得るの?」というのが、月光三号原稿における私の主題だったのだが、昨日も書いたが、読み返して全然その意が伝わっていないので、ここで再度整理してみたい。

 小林信彦は、大略、次のように書いている。

 「事実を言うならば、『ニッポン無責任時代』(無責任シリーズ第一作)のヒットは明らかにフロックであった。クレイジー映画はこのフロックを乗り越える力のないままシリーズ化され、その結果、本来“バンドメン”であった彼らは音楽を捨てざるを得なくなり、残るは“悪のり”あるのみとなった。その“悪のり”を“体制に対する居直り”として一般世間が拍手喝采して迎えたのが一連の無責任ソングのヒットであり、無責任映画シリーズの大ヒットであり、こうしてクレイジーは音楽を捨てざるを得なくなった……」

 さて、だとしたら、小林信彦は、クレイジーの「悪のり」を助長し、彼らを音楽から遠ざけた「個人の幸福に関して何の責任も持たない体制に対しては無責任な態度で居直るしかないという“無責任思想”」には、批判的でしかありえないと思うのだが、そこが今いち、はっきりしない。いや、かえって、「是」としているようである。
 しかし、あらためて、“無責任ソング”、たとえば『スーダラ節』などをよく読むと、その真意は「ベンチでごろ寝」をすすめているわけではなく、「わかっているなら、やめなさいよ」とやんわりと戒めているのである。つまり、全然「無責任」なんかではない。これは「日本語」の解釈としてはっきりしている。(これは、主に金田一春彦の説を参照したもの、浄土宗の僧侶で、社会運動家でもあった植木等の父親は、息子の“無責任ソング”を、「親鸞の思想に通じる」と言って肯定したそうだが、それはつまるところ、金田一風の解釈と通底している)

 だとしたら、一連の無責任ソングのヒットは、「権力に対する居直りの思想(=無責任思想)が受け入れられた結果」というより、「大衆の守るべき生活規範の逆説的メッセージが、“真面目かと思えば不真面目、不真面目かと思えば真面目”に聞こえる植木等の不思議な二面性を持つ声とあいまって、人々に広く、かつ、たやすく受け入れられたもの」と考えられる。

 ということで、いずれ音楽を捨てざるを得なかったことの怨みについては、それはそれとして残るのだけれど、問題は、「無責任思想」なんて思想は――「悪人正機説」の親鸞思想に照らしても――そもそもありえないということだ。これだけは、やっぱり、はっきり言っておきたいと思うのだ。

 と思っていたら、朝日新聞はやはり言ってくれた。同日の「天声人語」に植木等の訃報に触れて、こう書いてある。

 「“無責任男”として有名になったが、根は誠実で、思慮深い人だったという。いわば、世の中の“無責任感”を一身に背負うという“責任感”があの笑顔を支えていたのではないか。」

 何を言いたいのだろう? 植木をキリストにたとえたかったのだろうか?

 多分、人語子は、「“無責任感”を背負う“責任感”だなんて、俺って頭いいなあ、いくらでも書けちゃうぞ」と思っているのだろう。しかし、「無責任」は、おそらく、肯定しようのないものなのだ。人語子は、このことに思い及ばず、「無責任思想」を説明し得たぞと舞い上がって、思わずキリストに喩えちゃったりしたのだ。
 つまり、今日の植木追悼天声人語は、「無責任思想」という「思想」があるとしたら、「詭弁」でしかあり得ず、詭弁だからこそ、植木=キリスト説でも、釈迦説でも、なんでもどのようにでも書けちゃうのだという格好の見本としか言い様がないのである。

 「クレイジーに対するこだわり」は、もう大分前にほぼなくなっていたのだが、訃報に触れて書き出したら思い出してしまった。長くてメンゴ。

クレイジーをめぐる大いなる謎

2007-03-28 22:59:15 | Weblog
 植木等が亡くなった。加藤茶だったかが、「死ぬような人ではないと思っていたので、ショックだ」と話していたが、同感。
 去年、青島幸男の御葬式に鼻に管を入れて現れたので、体調が悪いのかなと思っていたのだが、最近、街でよくボンベか何かを引きずりながら歩いている老人を見かけるので、心配する程のことではないのかも、とも思っていた。やっぱり「死ぬことのない人」と考えていたのだろう。

 いずれ小林信彦が、入魂の追悼文を書いてくれるだろうが、植木というか、クレイジーキャッツについて、映画『日本一の無責任男』ばかりが引き合いに出され、今回も同じなのだが、どうも違和感がある。本当に面白いのか?あれ。クレイジーキャッツは、どう考えたって、テレビの人で、「シャボン玉ホリデー」にとどめを指すだろう。

 問題は、「シャボン玉ホリデー」が終わってしまったことはしょうがないことで、その後なのだが、あまりにも人気が出過ぎたせいか、露出が減ってしまった……ということはないはずだが、頻繁にくり返される「露出」が単発的で、出て来た時は確実に大爆笑させてもったのだが、「クレイジーキャッツ」としてのまとまった印象がない。私にとっては、なんといっても、「クレイジーキャッツの植木等」だったのだ。

 ところで、「クレイジーキャッツ」については、月光復活第三号でちょっと書いたので、ざっと読み直してみたが……小林御大に刃向かったりしているものの、説得力がない、恥ずかしい文章だ。しかし、書いておいて良かったと思う。
 というのは……冒頭に書いたこととは、大分違うのだ。

 要するに、こういうことである。

 私の世代……つまり、「団塊」を中心とする世代にとって「クレイジーキャッツ」は、「つまらなくなることがないんだ」と、「ほとんど信仰」の対象のように信じていたと、橋本治がどこかで書いていて、それにまったく同感なのだが、いったい、いつ、この「信仰」が芽生えたのか、私自身、考え出すとよくわからなくなるのである。

 つまり、私にとって「クレイジーキャッツ」は、信仰の対象であるほどに、その「面白さ」を信じていたが、一方、非常に屈託のある、というか、要するに「不満」を否定することの出来ない対象であった、ということが月光三号を読み返して分かったのだ。
 具体的に書くと、以下のようになる。

 クレイジーキャッツに石橋エータローという女形を得意とするメンバーがいたが、身体を壊してメンバーから外れていた時期があった。その時、私は、はっきり覚えているのだが、「エータローがいなくなって、クレイジーキャッツは大丈夫だろうか」と心配したのである。

 もっとも、今はそんなことは覚えていない。だから、冒頭に「クレイジーと言えばシャボン玉」なんて、書いてしまったわけだが、それはともかく、月光三号ったって、ン十年も昔のことじゃない。多分、原稿を書いているうちに思い出したのだろう。あるいは、それで原稿にしちゃったので、「クレイジーに関する屈折した思い」を忘れてしまったのかも知れないが……あ、今、思い出した。「エータローがいなくなって、クレイジーキャッツは大丈夫だろうか」と、特にエータローのファンでもないのに、先回りして心配していたことを……(笑)。

 ところが、先に、「クレイジーと言えばシャボン玉」と書いたのに、エータローが倒れたのは、年表で調べると、シャボン玉ホリデーが始まる1年以上前なのだ。(と月光三号にある)ということは、「エータローがいなくなって、クレイジーキャッツは大丈夫だろうか」と子供の私が心配した「クレイジーキャッツ」は、「シャボン玉」以前の「クレイジーキャッツ」なのだ。これはまちがいない。

 もちろん、「シャボン玉」以前にも彼らはテレビに出ているし、そこそこ人気もあったのだが、その「クレイジーキャッツ」は、エータローがいなくなって「おもしろくなくなるのではないか」と心配した「クレイジーキャッツ」ではない。これは、実感としてはっきりしている。(第一、その頃は「脱線トリオ」の全盛時代で、クレイジーははるかその後方にいた)

 だとしたら、私はどこで「クレイジーキャッツ」を見て、夢中になったのだろう?

 これが、「クレイジーキャッツ」をめぐる私の大いなる謎なのだが、年表を繰って調べた限り、答えは一つしかない。

 私が小学生の頃、かの有名な、日劇のウェスタンジャンボリーという、ロカビリーの祭典があった。このウェスタンジャンボリーの最後の回にタイガースたち、GSが出て来るわけだが、そのウェスタンジャンボリー第1回、「これがロカビリーだ」がテレビで中継放映された。そして、小林信彦の『日本の喜劇人』によると、これにクレイジーキャッツが出ていて、これが彼らのはじめてのテレビ出演だったのだ。昭和33年の春である。
 そうか……時期もぴったりだ。春休みで暇だった小学生の私は、普段は見ることもない、夕方、彼らをテレビで見て、そのギャグ演奏の面白さの虜になってしまったのだ。

 つまり、「クレイジーと言えばシャボン玉」と冒頭に書いたのだけれど、考えてみると、「シャボン玉」におけるクレージーはギャグ演奏はほとんど行わず、コントばかりやらされていて、それも充分に面白かったのだが、私は、その間もずっと、私のクレイジー体験のオリジナルである、ギャグ演奏を渇望し続けていたのだ。

 ギャグ演奏を真骨頂とする彼らが「スーダラ節」を歌った時、「これでクレイジーも終わりだな」と小林信彦は思ったと言い、橋本治も同じようなことを書いていて、確かに私もそう思ったのである。多分、多くの人がそう思ったはずだ。しかし、ン十年の間に、それも忘れかけていたのだが、小林、橋本が、そのことを忘れていなかったのは、彼らが文章を書き、それを印刷にして残しておくような商売をしていたからだ。そして、僭越ながら、私も……というわけである。

 というわけで、私的な「謎」は、とりあえず解けたのだが、ドリフターズの場合は、そのような「謎」は基本的にない。これは、一つにはメンバーの才能がクレイジーに及ばなかったため、いかりや長さんが、絶対的リーダーシップを振るったことによって、かえって持続的な活動が可能だったからだと思う。つまり、私の「ドリフ好き」は、クレイジーに対する不満がそう言わせているのだ。

 そのようなわけで、たとえば、月光復活三号のまつざき先生を含む蜂巣君との座談会で、蜂巣君から「南原さんはドリフターズが好きなんですよね」と聞かれて、私は、「……うん」と、いかにもはっきりしない返事をしているわけだが、それは、「クレイジーキャッツこそ、絶対的に面白いのだ」という「信仰」をずっと抱き続けながら、それが遂に実現することのなかったことに対する逡巡が、思わず、口籠らせたのだった、と今わかった。

 いやー、こんなに長く書くことになるとは!

 今、HPを「南原四郎総合サイト」に改良中です。近日アップップ! 乞う御期待。

不機嫌な女

2007-03-26 22:17:12 | Weblog
 先週の土曜日、昨日日曜日は、スポーツ中継づくめの二日間だった。
 みなさんは、どれがお気に召したでしょうか。
 私は、なんといっても、ありきたりだけど、女子フィギュアですね。マオとミキがキムヨナ(だっけ?)を大逆転してすっきり。
 中継等では、キム(“きむ”で入力すると、“金”に変換される。じゃあ、“ぱく”は、というと、変換されない。気を使ってるんだろうが、ちょっと中途半端……というか、その必要はないだろうと思う。どうせ、本人たちは漢字まったく書けないんだし)を16歳にはとても思えぬ妖艶さとか言ってほめたたえているけれど、私には、どうも、いつも“不服”そうな顔をしているように見えるのが気にかかる。(でも、表彰台ではそんな雰囲気はなく、くったくのない笑顔を見せていたので、気の回し過ぎだったのかも知れない。)

 しかし、中野も五位だものなあ、トップ5のうち、3人日本人。しかも、個性が、三者三様で、見ていて飽きない。(誰がどのようにとは、具体的には申しません)
 今日から、水泳の世界選手権も競泳部門がはじまるし、いやはや。

 先日ちょっと触れた、青山七重の芥川賞受賞作『ひとり日和』の書評が日経新聞に載っていたので読む。(3月25日付け朝刊)
 最後の部分をちょっと引用すると……

 『日々を暮らすということの、本来のまっとうさについて考えさせられる。最後に「わたし」はOLになって自立する。「ちゃんと」した大人になる。それと引き換えに、彼女が失った東京の片隅での豊かな時間が読後に身に沁みる。』

 評者は、清水良典。名前だけ知っているが、結構メジャーな文芸評論家だと思うが、なんじゃ、こりゃー!である。

 OLになった「わたし」が何をしたかと言うと、少なくとも作品においては、「上司との不倫」しかしてないのだが、それで、どこが「自立」なのか。
 最後、「わたし」は不倫デートの待ち合い場所まで電車で向かうが、その窓から、かつての恋人が駅で働いているところを見て、感慨にふける(どんな風にふけるのかは、今、手元に本がないので正確ではないが、それほど大したものではなかったと思う)が、「わたし」は、その恋人のジーパンからタバコを盗んで、「俺のタバコ、知らない?」と聞かれて知らんぷりしたり、同居している老女のコレクションを盗んで、「欲しかったら、あげたのに」と言われて「欲しくない」と答え、あまつさえ、上京して来た母親に、「唇の端を上げなさい!」と怒られるような、はっきり言って、「無気味な女」で、だから振られちゃうのだが、そんな、哀しいというか、「ヘン」なエピソードしか書かれていない、「わたし」の都会の片隅での生活のどこが「豊か」なんだろう。

 もっとも、私は、ある意味、面白い小説だとは思うが、それは、外見は一見まともなのだが、その「まとも」さ故に、内心は鬱々としたまま、自虐的行為(盗み、後、これも確かめないと正確ではないがリストカットもしていたと思う)をくり返し、最後に、「不倫」に身を委ねてしまうという、一種の「転落小説」として読めばだ。だから、意識的にそう書いていたとしたら、凄い小説と認めるにやぶさかでないのだが、でも、そんな風には全然見られない。インタビューしてみたいなー、あの「盗癖」は貴方自身の体験ですかとか……単行本を出したばっかりだし、ちょっと、まだ聞けないか。

『テキサス・チェーンソー』と『悪魔のいけにえ』

2007-03-23 17:06:02 | Weblog
 長らく足踏みしていた《春》も、ようやく姿を表したようで……ブログデザインも変えました。

 さて、昨夜、映画『テキサス・チェーンソーを、テレビでだが、見た。テレビ東京の深夜3時頃からで、珍しく、最初のタイトルから見たのだが、あまりに遅いので、あきらめようかと思いつつ、『テキサス・チェーンソー』(=『悪魔のいけにえ』と、この時点では思っていた)は今まで、ちゃんと見たことがなかったので、なんとかがんばって最後まで見ようと決意して見始めたのだが、オープニングタイトルは見逃したため、監督トビー・フーバーの名前は確認できず、その後、いくら経っても、フーバーの『悪魔のいけにえ』とは画面の雰囲気がちがうままなので、あれれ、リメイクものかな?と思いつつ、こちらはこちらで面白そうなので結局、最後まで見てしまった。終わったら朝の4時半過ぎ。眠~。まあ、いつも不眠症気味でなんやかやで4時近くまで起きている場合が大半なのだが。

 というわけで、翌日(ということは、今日)、グーグルで『テキサス・チェーンソー』を調べたら、やっぱり『悪魔のいけにえ』のリメークで、2003年の作品であることがわかった。ずいぶん新しいのにちょっとびっくり。『悪魔のいけにえ』の原題は『テキサス・チェーンソー・マッサクル』と「マッサクル(殺戮)」がつくのだった。あと、エド・ゲインという大量殺人鬼の実話が元になっていること、ただし、「チェーンソー」を殺戮の道具にしたのは、フーバー監督のアイデアであること、エド・ゲインは、ヒッチコックの『サイコ』や『羊たちの沈黙』の元ネタでもあること、などがわかった(これは、知らなかった私が無知と言うべきだろうな)。

 さて、オリジナルの『悪魔のいけにえ』は、先に書いたように、ちゃんと見ていないので偉そうなことは言えないが、『テキサス・チェーンソー』は、リメイクものには珍しく、成功しているといってよさそうだ。その成功の原因は、『悪魔のいけにえ』との共通点は、電動鋸を振り回すところぐらいで、雰囲気的には、『悪魔のいけにえ』より、『サイコ』のほうにより似ているといってもいいような、「世界の設定」にあるのかもしれない。

 ともかく、私は好きなのだが、その理由を考えると、映画の外見は、『ウィッチブレアー……』を思わせるドキュメンタリータッチながら、「お話」の構造は《昔話》を思わせるところが気に入った。

 たとえば、殺される若者たちは、冒頭、ワゴン車の中で、「数時間前に会ったばかり」の女の子とセックスをしながら、具体的な台詞は覚えていないのだが、《ほんの少し前まで赤の他人であった女性とセックスしていること》を、神の恩寵でもあるかのように誇っている。その「天国」が、数時間後には、「地獄」に暗転するのだ。
 この「災難」は、冒頭の若者の涜神的言動が自ら招き寄せたものとも理解できないだろうかと、――とちょっと強引すぎるかもしれないが――私は思う。何故なら、若者たちの「享楽」も、「災難」も、いずれも「赤の他人」との遭遇によっているからである。(一方、『悪魔のいけにえ』の場合、「無軌道な若者グループ」が襲われるという点では同じで、このパターンは『13日の金曜日』シリーズなどに受け継がれ、ホラー映画の定型となるが、そのいずれの場合にも、後に殺戮の犠牲者となる若者たちが、自らの「無軌道」を神に誇るような台詞は言っていないと思う)

 その他、『テキサス・チェーンソー』の場合、危うく車でひきそうになって、車に乗せた女の子が、車を発進させると、「元に戻ってはダメ」と叫んで、隠し持った拳銃で自殺したことが事件の発端となるが、この女の子を車に乗せた女性は、後、その女の子と同様に殺人鬼に追われ、まったく同じ台詞をトラックの運転手に言う羽目になる。
 このような、「円環構造」はいかにも昔話風だし、車椅子の老人が、「息子よ、出てこい」と言って、杖か何かを床に「ドン!」と突くと、それを合図に、電動鋸を手にした息子が風のように現れるところなんか、いかにも「昔話風」だ。

 しかし、それにしてもまあ、この膝から下のない(このことも、後でググってわかったことで、見ている間は画面がが小さ過ぎたせいか、わからなかった)老人の怖いこと。その他、和泉元弥の母みたいな、太った初老女といい、筋が通っているんだかいないんだかわからない(ということは、本物か偽者かわからない)老保安官といい、年寄り連中が不気味で怖い。(一般的に、頑固でかたくなになった老人ほど強いものはない。誰も、あえて彼等を排除しようとはしないからだ。これは、要するに「因習の力」なんだろうか。ちなみに、あまり指摘されることがないが、「ホラーもの」における恐怖の源泉には、「因習」があると思う)
 まったく彼等に比べれば、「息子」のほうが、「反撃が有効」という意味で、すっきりさわやか君ですらある。実際、彼がチェーンソーを振り回して犠牲者を追いかける場面にいたって、はじめてほっと安心して見ていられたりする。(もしかしたら、これが、この作品の欠点かも)

 この『テキサス・チェーンソー』の続編もあるらしいが、リメイクの「続編」というのも珍しいのではないか。
 一方、『悪魔のいけにえ』のほうは、監督のフーバーが、2、3、4と続編を作ったり、『悪魔の沼』とやらの類似作品やらを作っているが、これらは「リメイク」とは呼ばれず、「リメイク」と言ったら、『テキサス・チェーンソー』を指す……ということなのだろうか?
 いずれにせよ、日本では版権その他の関係で、本家『悪魔のいけにえ』のビデオは希少品で、数万円の値がついているそうだが、それも最近解決して、もうじき、DVDも手頃価格で発売になるそうで、それを記念してなのかどうか知らないが、近日劇場における再上映も行われるとか。これは、注目かも。

 追伸 渋谷のなんとか劇場で、3月17日から一ヶ月間、『悪魔の沼』と併映公開中とのこと。なんとか劇場は検索してちょ。


『あじさい日記』by渡辺淳一

2007-03-19 18:50:55 | Weblog
 産経新聞の日曜版に、渡辺淳一の小説、『愛の流刑地』のドラマ版の《解説》が載っていた。

 ヒット作に恵まれない元ベストセラー作家の村尾(岸谷五郎)は、すごい恋愛をして新たな作品のヒントにしょうと、女遊びを続けている。ある時村尾は編集者の祥子(杉田かおる)から、後輩の冬香(高岡早紀)を紹介され、二人はたちまち激しい恋に落ちた。だが冬香は人妻で、不倫を重ねるうちに思わぬ運命が……。

 読んで、え?と思った。「こんな《お話=恋愛小説》ってあるの?」と。

 本当かどうか知らないけれど、小説家とか役者などには、自分の「芸」のためにエゴイスティックな恋愛を重ねる人がいるそうで、そのことそれ自体をネタにした作品があったっていいとは思うけれど、だとしたらその場合、村尾は、冬香との恋愛において、それまでの、「女遊び」を否定せざるを得なくなるはずであり、ひいては、再度ベストセラーを出したいという希望も、自ら否定しなければならなくなる……と、そんなふうに物語は展開するはずである。それが、恋に「落ちる」と、「落ちる」という言葉を使う由縁だと思うのだが、この《解説》の書き手がそうなのか、あるいは渡辺淳一そのものがそうなのか、なんとも「頭の悪い文章」で、本当に、《解説そのまんま》のドラマかもしれないと思った。

 そこで、ちょうど、その渡辺淳一が、同じ産経新聞に『あじさい日記』という連載小説を書いていることを思い出して、読んでみた。

 主人公は妻子もちの裕福な医師で、愛人にマンションを買い与え、そこで頻繁に会っているが、妻と別れるつもりはない。一方、妻は、夫の行状を知っているのか知らないのか判らないが(あ、私が読んだ二回分では、わからなかったというだけです、はい)、誰かに「心ときめいている」ようである。
 主人公は、そのことを妻の日記を盗み読みすることで気づくのだが、その日記帳の表紙に「紫陽花」があしらわれていのである。

 さて、主人公の夫は、三月の半ばの日曜日(私が読んだのは、3月18日、日曜付けの第209回で、著者は、小説の掲載日と小説の進行をシンクロさせているらしい)、妻が外出した隙を狙って、妻の寝室に忍び込み、ベッドパッドの下に隠された日記を「よく待っていてくれた」と、うきうきしながら手に取る。(「よく待っていてくれた」ねえ……ま、いっか)
 ところが、その表紙の紫陽花が今までと違っている。よく見ると、花の下に、「冬紫陽花」と書いてある。
 夫は、「冬紫陽花」の存在を知らず、なんだろうと思う。紫陽花といったら、梅雨どきの花と思っていたからである。そんなこともあり、夫はこの妻の日記帳の「変化」を、ちょっと不安に思いながら読みはじめる――。
 
 《二月十九日
 今日から日記帳を更新する。とくに理由があるわけではないが、強いて言うと、前の日記帳は大分書き続けて余白が減ったのと、少し飽きてきたからである。 
 そんなとき、たまたま冬紫陽花の花模様の日記帳を見つけた。その花を見ているうちに、いままでのとはまったく違って新鮮に見えた。
 そう、この日記帳は、私の再生の日記にしよう。……》

 なんじゃ、こりゃー!である。夫の疑問に、妻が直接答えてしまっている。こんなので、「小説」と言い得るのだろうか?「とくに理由があるわけではないが」とか、「そんなとき、たまたま」とか、普通、日記には不要と思われる「弁解」じみた説明文もいかにも、「頭が悪い」が、「なんで日記帳を変えたのだろう」という主人公の疑問に対し、その日記帳のはじめに、「変えたわけ」が書かれているだなんて、あまりにも頭が悪い、悪過ぎる構成だぞ、と思うのだが、これは、渡辺淳一がここまで頭が悪いというより、読み手の読書体験に合わせたということなのだろうか。それとも、やっぱり、渡辺淳一の頭が悪いのだろうか。

 いずれにせよ、編集者が、このような小説を「是」としていること、あるいは、「是」とせざるを得ないのが今の現実だとしたら、一応、私も編集者のはしくれなんで、大大大問題と言わざるを得ない。
 しかし、「言わざるを得ない」ったって、現実に売れてるんだものなあ……。

欲望の三角形

2007-03-17 23:29:52 | Weblog
やっぱり、うまくアマゾンにリンクできていない。ちゃんとアソシエイションの許可はアマゾンからとっているのだが……。

 それはさておき、 そのまんま東知事が外国人特派員協会に招かれて講演と質疑応答を行ったことの次第は、マスコミで面白おかしく伝えられたが、そこで「従軍慰安婦問題」についての質問もあったらしい。

 ところが、日本のマスコミは、私の記憶している限りでは、一つだけ(どのメディアだったか忘れた)、「歴史的事実としての検証が不十分なので……(答えることが出来ない)」と答えたと報道しただけで、それに東国原知事がどう答えたか、「まったく」と言ってよいほど、シカとを決め込んでいる。

 ところが、実際には、そのまんま知事は、「日本が慰安婦と言う性的奴隷を使った歴史的な証拠は無い」、 「1910年~1945の間は双方の同意の上で朝鮮半島は日本に併合さえており、 当時売春は合法であったので、日本へ朝鮮半島から出稼ぎ売春婦が来るのは何の問題も無かった。」「論議の食い違いは勝者と敗者の違いに帰する」等、相当踏み込んだ発言を行っていたのだ。

 ……といっても、以上のソースは2chなのだが、でも、そのもとの記事はジャパンタイムスで、ネットで読むことができる。私の持っているブラウザーが古いせいか、記事の半分くらいしか読めなかったが、読んだ限りでは、簡単な英語で、ほぼ2chにアップされていた通りだった。

 なぜ日本のマスコミは、この「過激発言」を報じないのだろう。しかも、一方で、若い女性が東知事のマンションに泊まったとかなんとか、知事追い落としのセックススキャンダルを鵜の目鷹の目で探している。知事の「過激発言」を報道、追求したら大々的な論議が沸き起こることは必至なので、それを避けたのだろうが、核問題もそうだが、論議自体は大いに行ったらいいのだ。

 ところで、「論議」といえば、アメリカのシーファー大使が、「私は元慰安婦のアメリカ議会における証言を信じる」と言ったそうだが、私は、正直言って、彼女たちの証言を信じることは出来ない。
 というのは、ちょっと話はそれるが、ジラールというポストモダンの思想家がいる。そのジラールに、「欲望の三角形」という有名な理論がある――といって、実は、つい最近知ったのだが、人の欲望は、実は、他者のそれを模倣したものだ、というのだ。

 たとえば、Aという人がBを欲したとすると、その欲望は、Aその人に先立ち、Cという人がBを欲していたからだ、という。これが、「欲望の三角形」である。
 要するに、他の人が欲しいと思うものを自分も欲しいと思う心理で、誰もが経験することだが、ジラールは、これこそが、実は「欲望の本質」であると言っているのだ。

 この「他人の欲望が、自分の欲望」という原理は、当然、すべての人間に共通のものだが、朝鮮人の場合、もっとも強烈に発揮されるに違いない。(その結果、「すべての朝鮮人が両班の子孫」ということになる)

 「いや、それはおかしい。従軍慰安婦としての陵辱的な体験を、わざわざなんで模倣し、あまつさえ欲望する必要があるか」と思われるかもしれないが、彼らには、有名な「恨」の心理がある。「恨むこと」は、それを「晴らす」時の「さわやかさ」を考えれば、彼らにとって好ましいことなのだ。(もちろん、実際には、「恨みを晴らす」ことはできないで終わることが多いのだが、それでも、いつかそれを達成することを心に秘め、「恨」を抱えて生きることは、「人間的」であるとして、彼らにとって望ましいことなのだ。)

 というわけで、アメリカの議会で証言した「元慰安婦」はちょうど三人らしいが、その三人が、お互いに、お互いの「恨」を欲望して、競いあっている、というのが真相ではないか。(もちろん、彼女らの証言がまったく根も葉もないものとは思わない。それに近い、というか、「核(タネ)」となるような経験があったのだとは思う)

 とはいえ、「欲望の三角形」は、昨日買ったナツメ社の図解雑学シリーズ――『ポスト構造主義』で知ったばかりなので、見当違いのところもあるかもしれないが、「欲望」が実は「他者の欲望」だというのは、実におもしろい発見ではないかと思い、紹介した次第。

 ちなみに、図解雑学シリーズには書かれていなかったが、「他人の欲望が自分の欲望になる」メカニズムは、「脳細胞のミラーニューロンの発火現象」として、確認されている。月光24号「映画の研究」に少し書いてあります。(映画を見て面白いと思うことを、このミラーニューロン現象で説明している人もいるが、検討の余地はあると思うが、今のところ、ちょっと違うのではないかと考えている。)

寒いよ~

2007-03-16 14:02:00 | Weblog
 映画『スーパーフライ』のサウンドトラックCDが25年ぶりに再発されたそうで、昨日深夜というか、ほとんど「今朝」になるが、そのプロモーションビデオを見た。

 私は、『スーパーフライ』を見たことがあるし、大好きな映画なのだが、サウンドトラックにこんなのが流れていたことには気づかなかった。すごい!の一言。カーティス・メイフィールドというアーティスト名もかっこいい。

 と、以上、半ば、アマゾンのアソシエイションプランに加入して当ブログを賑やかにしようという魂胆なんだが、うまくアマゾンとリンクされているだろうか。テストということでアップしてみる。

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=dotti5-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0000089AO&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0">

 しかし、なんちゅーか、寒~い!

ただいま読書中――『革命的な あまりに革命的な』編

2007-03-14 23:00:57 | Weblog
 京浜東北線で見かけた韓国人女性の件について、若干のつけたしを。

 私が見聞したのは、上司らしき日本人初老男性二人と、その部下らしき韓国人女性の会話で、日本人男性が、「あなたがたは、歴史問題では我々を相当怨んでいるのでしょう? 日の丸焼いたりしてるし」と言ったのに対し、韓国人女性が「あれはテレビ向けです」と答えたのだが、では、この韓国女性が日本を怨んでいないかというと、そういうことでもない。

 ここで、話がわからなくなるのだが、要するに、こういうことだ。

 もし、この韓国女性がテレビカメラの前に立ったらどうなるかと言うと、百%、日本人の蛮行を非難して、狂ったように日の丸を焼いてみせるはずである。「あれはテレビ向けです」というのは、「自分がテレビの前に立たされたら、同じようにします」、という意味だ。

 したがって、日本人男性がテレビで目撃した日の丸を焼いた男に、日本人が聞けば、「いやあ、あれはテレビ向けニダ」と答えるに違いないのだ。


 すが秀実の『革命的な、あまりに革命的な』を購入、読書中。

 すがの執筆動機は、はばかりながら、私が月光の14号で連合赤軍を取り上げた動機と同じはずであって、その興味から、遅ればせながら買ったのだったが、すが秀実はマルクス主義者であって、そのことに居直ったかのごとく、啓蒙的配慮一切無しに、平然と、自ら信じるところにのっとって、書きすすめる。

 対する私は、マルクス主義者なんかでは全然ない。第一、マルクスの本なんか、読んだことがない……いや、『経哲草稿』のトビラは読んだ。「精神は物質に憑かれている」という文句が書かれている。うん、かっこいいね確かに。でも、バークリーは「物質は精神に憑かれている」と言ったわけだが。ともかく、そんなわけで、わかりにくいったらない。

 しかし、それでも、一応、「なるほど」と思ったところはあって、それは宇野弘蔵というマルクス経済学者に関する箇所で、すが秀実は次のように解説している。

 宇野は、ヘーゲル/マルクスの史的唯物論の「革命は歴史の必然として訪れる」というマルクス主義の要諦を、思いきりよく退け、革命は「必然ではない」と言い切った。(その代りに起こるのが、「恐慌」ということらしい)
 「革命が必然ではない」のなら、どうするか。マルクス主義者でない者にとっては、そんなのはどうってことないのだが、宇野はマルクス主義者である。もちろん、すが秀実も。つまり、「どってことない」ですまされない。では、どうしたらよいか。
 一つの方法は、革命を永遠の未来に先送りする待機主義、もうひとつはブランキズム(一揆主義、プチブル急進主義)への盲目的突進となってしまう。

 これが宇野理論の欠点であったが、これに対し、宇野の弟子であった岩田弘という経済学者が、「革命は必然ではない」という宇野理論を、「革命が必然でないからこそ、主体的実践が要請されるのだ」と読み替えた。

 これが、1968年を中心に燃え上がった新左翼を支えた根本理論となった。

 ……ということらしい。

 つまり、マルクス主義者であり続けるためにはどうしたらよいか、というのが、マルクス主義者にとってもっとも重要なことである。というわけで、したがって、マルクス主義者でないものにとっては、「関係ない話」なのだが、「1968年的現象」を総括的に、かつ正しく理解するには「関係ない」と言ってすますわけにはいかないと、すが秀実は主張している……と思うのだが……それはそれでわからないでもないのだが、正直言って、「マルクス主義者であり続けるためにはどうしたらよいかが、マルクス主義者にとってもっとも重要なこと」というのは、猛烈にくだらないと思う。(まあ、これは私の誤解かもしれないが、)

革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論

作品社

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花田清輝について

2007-03-12 22:16:07 | Weblog
 実は、私は今、花田清輝に少々はまっている。
 そのきっかけは、「映画の研究」の執筆(というと大袈裟だが、事実には違いない)資料として、大分以前に買ったまま本棚に放り込んであった河出書房新社のアンソロジー誌、「人生読本」の「映画」編をそぞろ読んでいる時だ。かの、『太陽がいっぱい』のホモ構造を暴露したことで有名な、淀川長治と吉行淳之介の「恐怖対談」も採録されていて、これがまた抜群におもしろいわけだが、花田の「チャップリン」という原稿もまた、「恐怖対談」に負けずに、抜群におもしろい。それも、「思想」つきだ。(「恐怖対談」に、「思想」が皆無とは言わないが……)

 たとえば、次の文章。

 『(大衆の)無告の代弁者であり続けるということ――これがチャップリンのおのれ自身に課した、終生の課題であった。それでは、いったい、彼の思想の独自性とはいかなるものであろうか。しかし、その問題にはいるに先立って、わたしは、ちょっとあなたに、思想というものの所在について質問してみたいような気がする。たとえば、あなたの思想だが、あなたの思想は、そもそもどこにあるのであろうか。どうか自信ありげに、指をあげて、軽く額をたたいたりしないでいただきたい。周知のように、近ごろでは、ヴァイオリンケースの中に、かならずしもヴァイオリンが入っているとはかぎらないのである。しかもあなたの頭の格好は、あなた以外の人間のそれと、かくべつ代り映えもつかまつらない。したがって、同じケースに注目するくらいなら、わたしは、あなたの頭よりも、あなたの頭の上にのっかっているあなたの帽子に注目したいと思う。少なくともあなたの帽子には、あなたの頭よりも、あなたの思想の片鱗らしいもののひらめきが認められるのではなかろうか』

 もちろん、この「あなたの頭の上の帽子」は、チャップリンの山高帽のことだ。

 『かれは、かれのくたぶれた山高帽子を脱いで袖で丁寧にほこりをはらう。それから、からっぽの帽子の中に種も仕掛もないということを、ちゃんとあなたがたに検討してもらったあとで、ゆうゆうと、そのなかから、コンミュニズムや、ヒューマニズムやアナーキズムや――その他もろもろの思想を取り出してみせるのである』

 もちろん、花田はチャップリンが“コンミュニストで、ヒューマニストでアナーキスト”であると言いたいわけではない(そうかもしれないが)。花田の見る、チャップリンの思想とは、シジフォス的な「再出発」の思想、あるいはそれに依拠した「抵抗」の思想である。
 たとえば、シジフォスは、山のふもとから山の天辺に岩を持ち上げ、天辺につくと、決まって岩はふもとに向かって転がり落ちる。チャップリン映画の主人公(=チャップリン)は、このような「失敗」をくり返すが、そのことの本質は、実は「失敗」にはなく、「再出発」にあるのだというわけである。ところが、世の多くの人々は、シジフォスの失敗に、シジフォスの「運命」を見てしまい、ペシミスティックな陶酔感に浸ってしまう。

 このような、「再出発」の思想を持って花田は、1950年代の後半から台頭してきたナルシスティックな終末観に心の随まで冒された若者たちを牽制し続けたが、その若者たちに熱烈に支持されていた吉本隆明との論争に、吉本のそれよりも理論的にまっとうでありながら、ナルシスティックな時代状況を「誤認」していたことで、その意が通らず、全面的敗北に終わる。(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』など)

 いや、必ずしもそうではなく、花田は時代の趨勢からいって勝ち目のないことを自ら悟って、自ら身を引く形で論争を終えたと見る人もいる。私としては、こちらのほうが話がおもしろくなるので、好みである。
 「好み」というのもなんだが、その私が期待する「話」とは、「誰某さんが今生きていたらどんな風に言うだろう」とよく言うが、花田清輝は、その「誰某」候補の、ナンバーワンじゃないかと、花田を知った今、私は思うのだ(申しおくれたが、花田は、1974年に亡くなっている)。だとしたら、その花田が、「生前からこの事態は全部見えていたよ」、と言ってくれたほうがおもしろいではないか、とまあ、そんなことなのだが……。