柳沢大臣の「女性は子供を生む機械」発言に対して、作家(エッセイスト?)の室井祐月が、「許せないのは、機械という言葉を使ったということより、少子化の責任を女性に押し付けているところだ。私たちは子供を生みたいのだが、社会の環境がそれを許さない。夫だって、育児休暇をとると上司に皮肉られたりする世の中だ。政治家は、少子化の原因がどこにあるのか、本当のことを全然わかっていない」と怒ってみせていたが、どうしてこう、安易に政治家のせいにするかなあ。
「少子化」は、ほとんど例外なしに、近代化に成功し、生活が安定し、豊かになるとどの社会でも起こる現象であることは、明々白々な事実ではないか。ヨーロッパ(西欧)各国は、まさにこの問題でずーっと悩んでいるし、韓国なんか、急激な近代化で日本より出生率は低いはず。アメリカのみ、例外的に人口が増え続けているけれど、これも増えているのは貧困層(ヒスパニック系とか)で、白人の上流階級は、少なくとも比率としては急激に低下しつつある。
つまり、少子化の原因が「生活が豊か」になったところにあるとすれば、政治が成功したから少子化が進んだとも言えるわけで、たとえば、堺屋太一あたりは、人口が減っても、やりかた次第で生活を良くすることができるとか言っているが、たしかに、少子化の淵源が政治の成功にあるのだとしたら、その社会は、すでに能力的に実績があることを証明しているのだから、少子化にも対応できると考えることもできないではないかもしれない。
しかし、この堺屋理論は、「良いデフレ」論みたいで、私としてはいまいち信用できない。実際のところは、社会主義による計画経済のみが公害を解決できると信じられていたのに、実際は、大失敗してしまったように、机上の空論に終わる危険性が大きいのではないか。何故なら、人類は、誕生して以来ずっと、「生産性」を右肩上がりで向上させることで生き残ってきたのだから。
おっと、また大風呂敷を広げてしまった。
田山花袋の『田舎教師』を読みはじめる。田山花袋とか島崎藤村のような「自然主義」は大嫌いなのだが、文章は好き。『破戒』の、「蓮華寺では下宿を兼ねた。」の出だしは余りにも有名だが、実際、かっこいい。『田舎教師』の冒頭は、「四里の道は長かった。」だ。これも、かっちょいい。
しかし、四里というと、約16キロだ。これは、長い!
主人公の清三は、学生(中学校)時代、毎日、行田から熊谷まで三里の道を歩いて通ったと回想している。行田と熊谷がどれくらい離れているのか、私は両方とも知らない町なので、実感としてわからないが、わかる例で言えば、大体秋葉原から新中野あたりまでだろう。それを、毎日歩いたって?!
「信じられなーい!」だ。
実は、昨日、秋葉原から西川口まで自転車で帰ったのだが、この間、約18キロ。もちろん、スポーツ車だが、それでも、へとへとになってしまった。
昔の人はよく歩いたものだが、これは、「健脚」とか、「頑健」とかいうよりも(もちろん、それもあるだろうが)、むしろ、時間感覚の現代人との違いが大きいのではないだろうか。
我々は、自動車や電車に乗り馴れていて、その時間で生きている。たとえば、秋葉原から新宿まで15分も電車に揺られていればついてしまう。これを歩いたとしたら、1時間半は優にかかるのではないかと思うが、我々は、体力的に不可能という前に、都内の目的地まで「1時間半」かけて移動するということをしない。そもそも意識にない。この違いが大きいのではないか。
てなことを考えた。
「少子化」は、ほとんど例外なしに、近代化に成功し、生活が安定し、豊かになるとどの社会でも起こる現象であることは、明々白々な事実ではないか。ヨーロッパ(西欧)各国は、まさにこの問題でずーっと悩んでいるし、韓国なんか、急激な近代化で日本より出生率は低いはず。アメリカのみ、例外的に人口が増え続けているけれど、これも増えているのは貧困層(ヒスパニック系とか)で、白人の上流階級は、少なくとも比率としては急激に低下しつつある。
つまり、少子化の原因が「生活が豊か」になったところにあるとすれば、政治が成功したから少子化が進んだとも言えるわけで、たとえば、堺屋太一あたりは、人口が減っても、やりかた次第で生活を良くすることができるとか言っているが、たしかに、少子化の淵源が政治の成功にあるのだとしたら、その社会は、すでに能力的に実績があることを証明しているのだから、少子化にも対応できると考えることもできないではないかもしれない。
しかし、この堺屋理論は、「良いデフレ」論みたいで、私としてはいまいち信用できない。実際のところは、社会主義による計画経済のみが公害を解決できると信じられていたのに、実際は、大失敗してしまったように、机上の空論に終わる危険性が大きいのではないか。何故なら、人類は、誕生して以来ずっと、「生産性」を右肩上がりで向上させることで生き残ってきたのだから。
おっと、また大風呂敷を広げてしまった。
田山花袋の『田舎教師』を読みはじめる。田山花袋とか島崎藤村のような「自然主義」は大嫌いなのだが、文章は好き。『破戒』の、「蓮華寺では下宿を兼ねた。」の出だしは余りにも有名だが、実際、かっこいい。『田舎教師』の冒頭は、「四里の道は長かった。」だ。これも、かっちょいい。
しかし、四里というと、約16キロだ。これは、長い!
主人公の清三は、学生(中学校)時代、毎日、行田から熊谷まで三里の道を歩いて通ったと回想している。行田と熊谷がどれくらい離れているのか、私は両方とも知らない町なので、実感としてわからないが、わかる例で言えば、大体秋葉原から新中野あたりまでだろう。それを、毎日歩いたって?!
「信じられなーい!」だ。
実は、昨日、秋葉原から西川口まで自転車で帰ったのだが、この間、約18キロ。もちろん、スポーツ車だが、それでも、へとへとになってしまった。
昔の人はよく歩いたものだが、これは、「健脚」とか、「頑健」とかいうよりも(もちろん、それもあるだろうが)、むしろ、時間感覚の現代人との違いが大きいのではないだろうか。
我々は、自動車や電車に乗り馴れていて、その時間で生きている。たとえば、秋葉原から新宿まで15分も電車に揺られていればついてしまう。これを歩いたとしたら、1時間半は優にかかるのではないかと思うが、我々は、体力的に不可能という前に、都内の目的地まで「1時間半」かけて移動するということをしない。そもそも意識にない。この違いが大きいのではないか。
てなことを考えた。