パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

これは酷い

2011-12-29 14:20:23 | Weblog
 地下鉄新宿御苑駅の上の新宿通りに10人近いキャンペンガールが並び、通行人にジョージアのエメラルドマウンテン(缶コーヒー)を二缶づつ配っていた。

 もらって飲んでみたが、うまい。

 昔の「缶コーヒー」とは全然ちがうものだった。

 インスタントコーヒーも最近は、本物のコーヒーに近くなっている。

 ただ、香りの広がりとか、そういう点では物足りないが、道行くサラリーマンが「コカコーラって儲かっているんだな」と言っていたので、缶を見たら、たしかにコカコーラだった。

 ジョージアって、コカコーラボトリングの商品だったのだ。

 さて、以上は前置きで、野田のこと。

 不退転の決意で財政再建のため増税するんだそうだ。

 もちろん、口では一応「社会保険制度の一体改革のため」と言ってはいるみたいだが、そのニュアンスは日毎に低下している。

 「社会保険制度の改革」を具体的に示せば、その内容次第で国民の理解はある程度は得られると思うのだが、それが全然なし。

 それどころか、年金金額や初診時の負担金の増額を打ち上げている。

 何を考えているのだろうと思うが、テレビマスコミは、全然突っ込まないし、谷垣は谷垣で、面倒な増税をやってもらった後で政権打倒を果たせばいというスタンスが見え見え。

 しかし、「未曾有の財政危機」を煽っているけれど、財政危機に陥っているのは日本国ではなく、日本政府なのだ。

 だとしたら、やるべきことは日本政府の持っている資産を売却する、雇っている公務員の給料を下げるといった方策がまず求められる。

 この点では「増税の前に無駄の削減」を要求している世論の多数意見と一致している。

 マーク・トゥエインの格言によると「多数派は必ずまちがえている」のだが、この問題に関する限り、それはない。

 間違えているのは、日本政府の方だからだ。

 マーク・トゥエインはともかく、「マニフェストを実現するために増税をしたい」だったらわかるし、民主党に投票した人はそれを支持すると思うのだが、財政収入を増やすために増税だなんて、バカとしか言いようがない。

 「財政が危機だというのなら増税もしょうがない」と言っている人だって、増税分、倹約につとめることは間違いない。

 これは「本音」と「建前」の相違なんかではないし、「自己欺瞞」でもない。

 終戦直後、「闇米は食わない」と言って餓死してしまった裁判官が甲府の方にいたそうだが、この裁判官だったら、増税を国民の義務として受け入れ、一生懸命払おうとするだろうが、その分、倹約するにちがいない。

 これはもう、「生活者のロゴス」といってもいいような話。 

 あまりに簡単なことなのでかえってめんどくさい記述になってしまったが、要するにお日様が東から上がるのと同じくらいの確率で間違いなく、増税分は倹約で対処することになるので、確実に景気は下がり、それに伴って税収も下がり、政再建なんて夢のまた夢ということになる。

 というか「財政再建」なんてする必要はないと私は思うのだが、それはともかく、野田だって生活している限り、増税になったら増税分は倹約で対処するだろう。

 かくのごとく「簡単な理屈」なんだからわかってくれと野田に言いたいのだが…。

 サッカーの日本チームの新ユニフォームが披露されたが、「これは酷い」と言わざるを得ない。

 震災後のスローガン「一つになる」をデザイン化したんだそうだが、「一つになるとデザインしたんです」とデザイナーが言ったので、それに反対できなかったということなんだろう。

 ある意味、原発事故を防ぐことができなかったことと同じ心理現象だと言えなくもないだろう。

 いや、まさにそうなんだろう。

 自分の目が信じられないのだ。

 もう、マネジメントは外国人にまかせたほうがいい、とまで思う。

 ……と思ったのだが、リンクしたユニフォームは誰かが悪戯したデザインでした。

 元のデザインではパンツまでは線は入っていないが、それでもスポーツ用のユニフォームとしては「変」なことは確か。

 縦線をずらすとか、工夫すればいいのだろうが、その前に「一つになる」というコンセプト自体が嫌だ。

 もう、「日の丸」というデザインもつくづく嫌だ。

見え過ぎちゃって困るの~

2011-12-24 12:21:01 | Weblog
 数ヶ月前、パソコンのディスプレイが壊れたのを機に、従来使っていた14インチブラウン管テレビをパソコン、テレビ共用の液晶ディスプレイに変えたのだったが、以前のブラウン管テレビの場合は、ハイビジョン対応ではなかった。

 新しいシャープの「マルチメディアなんとか」は、今はみんなそうなのだろうが、ハイビジョン対応である。

 しかし、特にびっくりすることはまったくなかった。

 というか、ハイビジョンになったということに気づかなかった。

 ところが三、四ヶ月を経た今日この頃、環境の変化に気づいた。

 普通は「環境の変化」は、変化した時、即時に気づき、その後「慣れ」ることで変化を受け入れるというプロセスを経るのだが、「ハイビジョン」については、そうではないようなのだ。

 昔、「見え過ぎちゃって困るの~」という日本アンテナのコマーシャルがあったけれど、ハイビジョン映像については、それに慣れることで、「見え過ぎちゃって困るの~」状態になってしまった、と言えるかもしれない。

 これも昔の話だが、ハイパーリアリズムという現代美術の流派があった。

 まるで写真かと見紛うような細密な描写を行うのだが、じゃあ、写真でいいじゃないかと思うと、さにあらず。

 どうしても「絵」でなければならないのだ。

 この辺のハイパーリアリズムの理論はどうなっているのか、よく知らないのだけれど、ハイビジョンは、世界をハイパーリアリズム的世界に変えてしまったような気がする。

 それは、「リアル」が「ファンタジー」に入れ替わったような奇妙な世界である。

 だとしたら、ハイパーリアリズムとは、実はファンタズムだったのだ!

 と、今にして思うのは、ハイビジョンのつくる世界が、のっぴきならぬものとして私に迫っているからなのだ。

 今、欧米では、コマーシャル等で映像の修整がはなはだしいため、「虚偽広告」として取り締まる方向にあるらしいのだが、それをNHKのビジスポとやらでとりあげ、「しわを隠し、出っ張ったおなかを凹ませて理想の外見に近づけたいと思うのは自然なことで、取り締まるのは行き過ぎではないか」とか言っていたが、まったく鈍いな~と思わざるを得ない。

 映像の修整が必要なのは、修整が必要な映像をハイビジョンがつくり出したからだ。

 鈍いと思うのは、それがまず一つ。

 しかも、そのハイビジョンは、NHKが先鞭を付けたのだった。まったく要らんことをと思う。大蔵のNHKの研究所で盛んに研究開発を行っていたときから、そんなに精彩な画像をつくって何をしようとしているのだろうと思っていたが、アホらしいことに、そんなビジョンは何にもなかったのだ。ただ細かなものをつくりたかっただけなのだ。

 もう一つは、ハイビジョンそのものが本質的にそうなのだが、ハイビジョンがつくる世界が、金正日の北朝鮮がそうであったような「ファンタジー」になってしまうことだ。

 というか、もう現実に「ファンタジー」になっているわけで、それに気づかないのは、鈍いな~と思わざるを得ないのだ。

トゥエインの格言から

2011-12-23 14:33:35 | Weblog
 格言というか箴言というか、そういうのが結構好きなのだが、一番おもしろいのはなんといってもマーク・トゥエインだ。

 ・我々が皆同じ考え方をしたからといって、それが一番いいということにはならない。競馬だって、意見の違いがあるからこそ成り立つのだ。

・多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ。

 通学児童の列に突っ込んで6人を死なせた、癲癇持ちのタンクローリーの運転手が懲役7年の判決を受け、この量刑が低すぎると死んだ児童の父親がテレビカメラに向かって話していた。

 マスコミもこの「不満」に同情的な様子が見て取れたが、この「多数派」の感性はおかしい。

 まさに一息入れて反省すべきではないだろうか。

 たしか、この運転手は、毎日仕事に出かける前は癲癇薬を飲んでから出かけるのだが、事故の日は飲み忘れてしまい、自宅から車で出かけてすぐに発作を起こしてしまったのだったと記憶しているが、たぶん、薬を飲まなかったら必ず発作を起こすというわけでもないので、それで、飲み忘れても今日一日くらいは大丈夫と思ったのだろう。

 それがあまりにも重大すぎる結果を生んでしまった。

 でも、事故というものは、大概、こういう経過を経て起こるものだ。

 飲酒事故にしても、もちろん、重大自己が起こる確率は通常運転時に比べて格段に大きいだろうが、飲酒したら必ず事故が起こるわけではない。

 もちろん、だからといって飲酒運転の取り締まりが「行き過ぎ」などと言うつもりはないけれど、「癲癇」は「飲酒」とは別だろう。

 何を言いたいのかというと、要するに「7年」の懲役という数字は事件の性格から言って概ね妥当であって、遺族としては、もし不満があったとしても受け入れるべきだと思うのだ。

 癲癇持ちだったら他の仕事を選ぶべきだったとか、いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、運転手の仕事をしている人は、やっぱりその仕事が自分にあっていると思っているのだと思う。

 実際、癲癇にしろなんにしろ、持病を隠して仕事をしている人は無数いるだろうし、また仕事をしなければ食っていけないわけだから、「犯人」には、同情されてしかるべき要素が多々あり、そして――ここが肝心なのだが――同情してあげることができるのは、皮肉なことに(いや、「必然的に」ということかもしれないが)事故被害者の「遺族」しかいないのだ。

 だとしたら、事故被害者の遺族としては、判決の結果を「受け入れる」ことが人間としての義務、すなわち倫理の実践ではないかと思うのだ。

 はっきり言って、20年の懲役刑という、当該事件の最高刑を望むとテレビカメラに向かって発言していた遺族(父親)の顔を見て、私は「多数者」をバックにした傲慢さを感じ、嫌な気持ちになったのだ。

 堀文子とかいう、つまらない絵(日本画)を描く画家が、つい今しがたNHKで戸井十月のインタビューに答えて、言っていた。

 「バブル時代につくづく日本人が下品に見えて、日本を脱出して日本の良さを発見、日本画に転向したのです」みたいなことを言っていたが、彼女は外交官の奥さんだったそうで、バブル期にはたしかにそんな人が多かったのだろう。

 でもそういう人はあくまでも少数。

 大多数は、下品だとか、強欲だとか、怨嗟の声をあげていた。

 はっきり言って、貧乏人はバブルの恩恵を受けていたのだが、それは「怨嗟」に覆い隠されて気づかず、ただ怨嗟だけを自覚する「多数世論」に乗っかってバブル退治をした結果が今日まで続いているのだ。

 そして、堀文子さんはお金持ちだったので国外脱出して「日本再発見」したのだが、大多数はそのまま日本に居残り、デフレ日本が自分たちの怨嗟の結果なのだということに気づかぬまま、神戸地震、オウム事件等の大事件を経てついに今回の大津波+原発破砕というカタストロフに至り、「日本再発見」に希望をつなごうとしているのだ。

 ちょっとごちゃごちゃしてしまったが、私の現状分析である。

 ちなみに、トゥエインの格言をもう一つ。

 ・アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴが食べたかったからではない。ただそれが禁じられていたから、というだけのことだ。

 なるほど。

 では私の格言。

 交通機関が止まったため生じた「帰宅困難者」が、なにがなんでも自宅に帰ろうとしたのは、自宅にどうしても帰りたかったからではない。ただ、交通機関が止まっていたから、というだけのことだ。

また忘れもの

2011-12-21 20:07:05 | Weblog
 グラフィケーションの70年代のバックナンバーを見ていたら、尾辻克彦(赤瀬川原平)が、テレビが故障したのを期にテレビを見なくなり、それで全然構わなくなったのだが(尾辻曰く、煙草をやめたのとまったく同じだったと、その理屈が書いてあって、「なるほど」と思ったが、その理屈の中身は忘れた)、母親と同居するようになってから、母親がテレビを持ち込んだので、それをも拒否するわけにもいかないので再び見るようになったが、イヤホンにしてもらうことにしたという。

 音がなければ、テレビはただの照明で、それでオーケーだというわけだ。

 私も、今のテレビは、特に年末にかけてあまりにも見るものがないので、消音モードにしたが、何故か、今のデジタル仕様だと(前にも書いたが)、出演者の音声が字幕で入るのだ。

 NHKの動物番組だったのだが、そこに「うわ~、キリンさん優しいね~(久本)なんて字幕がデカデカと目に入ってしまうのだ。

 コレは敵わん、ということでテレビをあきらめ、パソコンにして、こうして書き込んでいるわけだ。

 尾辻克彦の場合、見るのはスポーツ中継(巨人ファンらしい)と、ニュースの他は「太陽に吠えろ」とか、「ドリフの全員集合」あたりだとか。

 いや~「贅沢」と言う他ない。

 私が「やむを得ず」見ているのは、上田司会のスポーツニュースなんかだ。

 はっきり言って、江川司会で全然オッケーだったのだが…。

 この半年、昼食は自家製のサンドウィッチ(いためた野菜と肉をチーズで挟んだだけだが)だったが、すっかり飽きてしまったこと、「風に吹かれて」の原稿の書き直しで夜更かしが続いたこと等で、近所の格安のお弁当(塩カルビ弁当で250円! 新宿の街頭でサラリーマン相手に売っている500円弁当より量がある!)にしていたのだが、今日は久しぶりにサンドウィッチを作った。

 つくっておきながら、これまで三度も忘れてしまったので、今回は「絶対忘れないぞ」の意気込みで、部屋を出てから鞄の中をのぞいて、「ある!」と思ったのだが、会社についたら「ない!」

 まさか、と思った。

 確かに、ショルダーバッグを開けて確認したはずなのに…。

 あり得ることとしては、中身を確認しようと思った、その「中身」がサンドウィッチの他に、もう一つあった。

 それは、電車の中でチェックしようと思って鞄に入れた、前夜、書き上げて、今朝プリントアウトした「風に吹かれて」の活字原稿だった。

 それはA四用紙で五枚ほどで、昼食のサンドウィッチを入れた紙袋とは似ても似つかないものだけれど、出かける間際に気になっていたのは、どちらかというとこの原稿の方だったので、それがバッグの中にあることを視認したことで、サンドウィッチも「ある」と思ってしまったのだろう。

 いや、そうにちがいない。

 ウィトゲンシュタインも、外見は全く似ていなくても、記号的に「同一だ」と認識されたら、同じものとして見られる、みたいなことを言っているし。

 要するに、「○○がある」の主語である「○○」が、「ある」という述語に吸収されてしまったのだ。

 いったい何が言いたいのかというと、「アルツハイマーじゃない!」だ。

絶望の一本松

2011-12-17 15:57:30 | Weblog
  今回の消費税増税論議については、10%にさっさと上げた上で、それを貧困者対策に回せばよい、と私はずっと前から言ってきた。

 そもそも、日本政府は、貧困者が日本にいるとは思っていない、なんて言うと言い過ぎだが、要するに、貧困者は日本では例外存在に過ぎない、と言い得る程度の数字に貧困者の数を抑えることが、日本の行政府の目的だった。

 より具体的に言えば、貧困者の数字を生活保護で対応できる数字に抑えること、それが行政の目的なのだ。

 曰く、「救貧政策ではなく、防貧政策を」が、日本の高級官僚(キャリア)の合い言葉で、すぐ下の、いわゆるノンキャリアたちは、すっかりこの言葉を信じている。

 というのは、「救貧政策ではなく、防貧政策を」という言葉を目にしたのは大蔵省のノンキャリアのトップが書いた本で読んだのだ。

 野田もまた、この高級官僚の言い分にすっかり丸め込まれているのだ。

 そもそも、生活保護の対象が日本では極端に少ない。

 ちょっと前、百万世帯を越えたとか、ニュースになったが、いろいろ制度の違いはあるだろうが、生活保護を受けている人は、先進諸国では日本より桁違いに多い。

 イギリスあたりでは、国民の10%くらいが生活保護を受けているはずだし、アメリカではフリードマン考案の「負の所得税」政策が25年前くらいから実施されているから、アメリカ人の相当数が所得税を払うのではなく、逆に給付を受けている。

 そんなこんなで「救貧政策ではなく、防貧政策を」のスローガンが怪しくなってきている現状を踏まえ、官僚(たしか通産省だったと思う)は「負の所得税」政策の具体的検討に入ってきている、と新聞のベタ記事で読んだのが、一昨年の春。

 マスコミのバカは、どこもフォローしなかったが、世の中の流れとしてはこの方向に進むんじゃないかと思う。

 野田のバカは、消費税増税を財政悪化に対処するためと言い、マスコミ、とくにテレビのバカどもは、それを鵜呑みにしているが、いくらなんでも、社会保障の改善どころか、年金の削減から手を付けようというのだから、支持率がつるべ落としに落ちるのも必定。

 財務副大臣だか、政務官だかは、将来的には17%必要と言ったらしいが、そもそも「消費税」と言いつつ、実際には「消費」の前の仕入れ段階でもとっていて、それを年末調整か何かで戻していること、輸出企業の場合、輸出先の政府に消費税を払うわけだが、その分が、なんと戻ってくる。

 それを改めれば、それだけで数兆円増収になるのではないか。

 いずれにせよ、野田の頭の中は「財政赤字解消」で一杯で、他のことが考えられないようだが、世の流れはそれとは別に動いている。

 と思いたいが、地震以来、「普通の生活人」が「普通の生活」を営むことを最上のこと、絶対に得難いことともて囃す。

 こんな「普通の生活」なんてイヤだ、まっぴらだと思う人は少なからずいるし、そういう「普通」からはみ出した少数意見こそ、貴重なんだが、そういう人にとっては本当に生きにくい世の中だ。

 石巻の浜辺に一本だけ津波に耐えた松が「希望」のシンボルだと。

 「普通」に考えれば、あれは、どう見ても、津波の強大な威力のシンボルでしかないのだが、「普通の生活」を至上のものと仰ぐ、平凡な感性の持ち主にはそれすらわからないらしい。

 それどころか、松ぼっくりから種をとって、それを「跡継ぎに」だと。

 そんなことのために、金を使い、時間を使い、才能を使い……。

 そんなこともわからぬ連中がどんなに雁首そろえたって、これからNHKで、やるらしいが……何も有効な手段は見つからないに決まっている。

 まずは、あの一本松が「希望の松」どころか「絶望の松」であることををまず認めなければならないのだ。

 保坂和志氏のインタビューは、「科学は夢を見ない」がテーマだった。

 科学は、自然をそのまま、精密、正確に見ようという、ただそれだけのものであって、でもそれだけだと社会との「絆」がないので、せこい奴が「夢」や「希望」をくっつけてしまったので、原爆なんて、とんでもないものが生まれてしまった。

 これは、「戦争に勝つ」という「夢」「希望」を実現するためだった。

 ちがうかい? NHKさん。
 
 NHKの番組、今も続いているが、ドイツで年金支給年齢を引き上げたことをNHKは、しきりに強調、「後に続け」と言わんばかり。

 これはヒドい。

 と思っていたら、遥よう子だったか、年金支給開始年齢を引き上げたドイツの政治家の発言に猛烈に噛み付いていた。

 いや、まったく正論である。

 古川が、所得による負担に制度を変えなければならないと言っているが、問題は、野田がどう考えているか、全然明言していないことだ。

 「税と社会保障の一体改革」と言っても、中身には触れずに、国民に納得してもらおうなんて、甘すぎる。

 ともかく、まともなのが、「遥よう子」というのが、ちょっとびっくりだった。

格差社会を歓迎する

2011-12-09 21:32:44 | Weblog
 つい今しがた、消費税増税に関するNHKのニュースで、街の若い女の子が街頭インタビューで「食料品は税率を低くしてほしい」と言っていた。

 消費税に関するニュースは、もう20年近く聞き、目にしているわけだが、「食料品を別にしろ」という、ものすごく当たり前の意見は、本当にはじめて聞いた。

 ところがニュースキャスターの東大卒をなんとなく誇らしく思っているらしい男と、経済部らしき解説男性は、「税率を商品によって変えるのは、いろいろ手間がかかり業者が反対するので実現する可能性はありません」と切って捨てた。

 なんだって!

 世界で食料品を無税にしているところはいくらだってある。

 というか、全商品一律という国は、日本以外どこにもない。

 それをわかっての発言か?

 イギリスでは消費税率は20%だが、食品はゼロ。

 ただし、レストラン等では20%とられる。

 そうすれば、みんな家で食事をとるようになるし、健康にも、家庭団らんにもいいではないか。

 全商品一律課税は日本だけと書いたけど、それだけではない。

 商品流通の前段階で消費税がかかるのも日本だけだ。

 つまり、仕入れる際にも消費税を払っているわけだが、この分は、申告すれば戻ってくる。

 しかし、すべての会社がそうしているわけではないし、手続きもいろいろ面倒なので、請求しない会社が少なくない。

 その分、財務省が儲かることになる。

 もう一つ問題なのが、たとえばトヨタ自動車がアメリカで車を売った場合、消費税をアメリカ政府に払うわけだが、その外国政府に払った分を還付請求できることで、一時、国会で問題になったのだが、マスコミは全然興味を示さず、与謝野大臣が「これはよくない」と明言したにも関わらず、その後、沙汰止みに。

 NHKのキャスターは、消費税アップの目的の第一が「財政赤字解消」であることを是認し、ギリシャ、イタリアの次に日本批判が起こるかもしれないと言っていたが、実際には日本国債は、今、世界で一番市場から信頼されて国債だ。

 「だからといって、甘えてはいけません」とか野田ドジョウはのたまい、NHKをはじめとする全マスコミもそれを支持するのだろうが、まったく冗談じゃない。

 私は、前にも言ったけれど「格差社会歓迎」なのだ。

 貧乏人でも、それなりの生活ができればいいのだ。

 新幹線は金持ちが使い、高速バスは(『真夜中のカウボーイ』が使ったように)貧乏人が使う。

 そのために、高速道路は無料にしろ。

 フードスタンプで生活をするというのは、やはりいかにもみじめなのだろうなあ、できればお世話になりたくないなあ、と想像するが、でもマスコミがだいぶ以前から言っている「セイフティーネット」というのはこういうものなのだ。

 金持ちと貧乏人は、この「セイフティーネット」的存在にリアリティ(金持ちはそれを提供する者として、貧乏人はそれを享受する者として)を感ずることにおいて、同士的関係を持つことができるような気が、何となくだが、するのだ。

 「中流」が多いと社会は安定するそうだが、そんな社会はまっぴらご免だ。

 みんながかつかつの生活をし、そのことによって「現実」と密着した生活を送ること、「貧乏は正しい」というのはそういうことなのだ。


保坂和志と山崎春美

2011-12-06 22:43:16 | Weblog
 更新がだいぶ遅れてしまったけれど、その理由は、実は、小説家・保坂和志先生にグラフィケーション編集部としてインタビューしまして、その原稿をまとめるのに時間がかかっちゃったのです。

 くわしくは、また後で、と思いますが、会った印象としては、誰かに似ているな~としきりに思ったのだけれど、誰だがよくわからない。

 でも、テープを何度も聴き直しているうちに、その「話し方」ではたと思い当たった。

 ラリった山崎春美だ!

 年齢的にも、たぶん、山崎春美と同じくらいか、少し下だろうと思うが、山崎春美みたいに、ラリっちゃってどうしようもない、ということはない。

 若い頃は、西武のカルチャーセンターの企画者として講師を頼んだりしていたのだそうだから、薬をやってたら、とても仕事にならないだろう。

 でも、発言がぶっ飛んでいることでは、山崎春美におさおさ劣らない。

 具体的には、原稿をチェックしてもらっているところなので、また後で。

 で、話は山崎春美なのだが、山崎春美が最後に残した記念碑的レコード、「タコ」をディスクユニオンで復刻するのだそうで、そこに、月光17号に掲載した、21歳で早死にした山崎春美の元妻、ロリータ順子の追悼文を載せたいという連絡がディスクユニオンからあった。

 え?

 山崎春美とロリータ順子こと篠崎順子には、かなり苦労させられたので、追悼文でつい鬱憤ばらしみたいに言いたいことを書いてしまったので、「まさか、いいんですか、あんなので」と言うと、山崎春美が全文を載せたいと言っているというのだ。

 そう言ってくれるのだったら、こちらも異存はない。

 ということで、ロリータ順子が亡くなって半年後、彼女が私の夢枕に立った話を書き、できたら一緒に掲載してくれと言って、メールで送った。

 「夢枕」と書いたけど、あれは絶対に夢ではない。 

 NHKで、BBCだかが制作した「サードマン現象」を扱ったドキュメント番組が流れたが、そこで「サードマン」を見た人は、絶対に夢ではないと強調していたが、ちょうどあんな感じなのだ。

 眠ってから「見た」のなら、少し目をこするとか、そんなことをするはずだが、全然そうではない。

 と言っても、私が寝ていたことは、間違いなく寝ていたのだが、その閉じた瞼の裏に、すばらしく美しい、鮮やかなロリータ順子の映像が映った、とそんな感じ。

 彼女の「夢枕」現象が、そのまま「タコ」の復刻版に資料として掲載されるかどうかは、できてみないとわからないが、発売は来年早々らしいので、興味がおありでしたら、お買い求めください。