パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

消えた年金は、…

2012-11-29 22:19:00 | Weblog
 自民が単独過半数か?という世論調査が出たそうで、危機感を抱いた古館が、公共事業200兆円、バラ撒いてもいいのかと訴えていた。

 理由は1000兆円も借金があるのにこれ以上バラ撒いていいのかという相変わらずのものだったが、私としては,これ以上,日本の海岸を醜くしないでくれ、と言いたい。

 といっても、ここ10年以上、海を見ていないのだけれど。

 その後,古館は、自民党が総選挙で負けた主原因だった「消えた年金問題」をとりあげていた。

 当時の安倍総理は「最後の一人まで精査する」と訴えたものの参院選挙で負けた後、腹痛で辞任、後を継いだ麻生総理も信任を回復できず、民主党に総選挙で敗北したわけだが、その総選挙でも、鳩山代表は「最後の一人まで調べる」と言っていた。

 私は当時から言ってきたのだけれど、最後の一人まで、なんてできるわけがないし、それまでいったいどれくらいの金がかかるのか。

 私はこれが知りたいとずっと思っていたのだが,テレビ,新聞、雑誌、どこも報じてこなかったが,今回,初めて古館が口にした。

 曰く、これまで4000億円くらい使って、発見された年金の金額は300億円とか言っていた。

 数字はちょっと不正確なのだが、なんという無駄づかい!

 と思うのだが、古館以下、ニュースステーションは、この数字をどう理解するか、全く触れなかった。
 
 87歳のじいさんが、自分の同僚は、結局年金が見つからないまま、84歳で死んでしまったとか言って、涙ぐんでいる様子を流していたが、無理に泣かせるなんて馬鹿な演出はやめて(多分、本来もらえる額より少なかったというだけで、泣く理由なんか全然ないと思う)「最後の一人まで」なんて、無意味なスローガンはさっさと引っ込めて、「使ってしまった4000億円は返せといっても無理だけど、これから最後の一人まで、いったいどれくらいかかるのでしょうか。100億円くらい用意して、それをご老人に支給して、調査は即刻打ち切るべきではないでしょうか」くらい言ったらどうか、古館、と言いたい。

 しかし,不思議なのが、前回の総選挙では、今書いた「消えた年金」が問題になったわけだが、「消えた復興予算」は、「消えた年金問題」よりさらに悪質なのに、全然争点になっていないのはどういうわけなのだろう。

 ビッグイシューを売っていたので,購入。

 前回,日本の週刊誌で今一番面白いのではないかと書いたが、いや面白い。

 今回は,遺伝学の最先端の話で、人間の知性は6000年前くらいにピークを迎えていたという説が話題になっているが、それを裏付けるような話が載っていた。

 分子古生物学という学問があるのだそうだが,その研究者が,直立歩行する人類、サヘラントロプスが地球に現れたのは700万年前だが、その直立歩行する人類が石器を使い始めたが250万年前で、道具を使わずに,直立歩行している期間が450万年もあったというのだ。

 気が遠くなるような話だけれど、これだけの時間をかけて6000年前に迎えた知性のピークが、2500年~2000年前くらいに仏陀、孔子、ソクラテス、モーセ、キリストとして結実し、現在はただその余韻として存在すると考えていいかもしれない。

 言語の構造自体が、昔ほど,精密だというのは事実だし。

 ともかく「ビッグイシュー」だと、半分は困窮している販売員に渡ると思えば、精神的にもよく、おすすめです。

 定価300円。

 …4000億円捨てても何とも思わぬ官僚どもとは桁の違う話だが。

世界の大勢

2012-11-26 22:32:33 | Weblog
 ちょうど一週間ほど前、朝日新聞の論壇時評で、高橋源一郎が元外交官の東郷和彦の論文をとりあげ、「驚くべきことを言っている」と書いていた。

 その東郷論文は現在の竹島帰属を巡る日韓関係の緊張について,最大の要因は慰安婦問題にあるとし,この問題について日本国内で言われている様々な議論、例えば、日本軍による「慰安婦狩り」なんかは都市伝説の類いだといった議論、あるいは、公娼、私娼が公認されていた時代だったから、その「罪」を今問うことに意味があるのか、という日本国内の議論は、「世界の大勢」からすれば、全く無意味だと言うのだ。

 東郷氏は、あるアメリカ人が、「建国の頃,アメリカ人は奴隷制を当然のこととして受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制度は当然の制度だという議論は,今のアメリカではまったく受け入れられない。過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならないのだ」と言ったことをひき、その考え方によれば、狭義の「強制」がなくても、国や社会が結果として弱い立場の女性に性的な奉仕を強いたらなら、それは「人道に対する罪」とみなされるのであり、したがって,現在日本の国内で論じられている議論は、世界の舞台に出ればまったく無意味である、というわけだ。

 この東郷氏の言っていることはずっと前から私が言ってきたことだが、記事内容をみると、正直言って、ちょっとニュアンスが違う。

 私としては,例えば、桜井女史らがアメリカの新聞に「事実はちがう」と大々的な意見広告を出しても、まったく見向きもされなかったのは、ニーチェ風に言えば、存在するのは「事実」ではなくて、「事実の解釈」だからだという風に考えたい。

 葵の御紋のように「事実」を示せばみんなひれ伏す時代ではないのだ。

 高橋源一郎は、この問題を「論壇」の話題としてとりあげているけれど、実際には「論壇」の枠を超えて、広く社会の常識となっていると考えるべきだ。

 もちろん,問題は,日本では常識になっていないことだ。

 我々は「見たまま」に理解しようとしても、何一つ理解できない、複雑な世の中で生きていることに気づくべきなのだ。
 
 

11人いる!

2012-11-24 13:29:21 | Weblog
 11人の党首インタビューは,結局、ニュースでほんの一部を見ただけだが、全部見てみたかったと思わせるものだった。

 マスコミ,評論家たちがオブザーバー的に11人に質問をしていたが、慎太郎に対し、日中関係悪化のきっかけを作った人物という前提で質問をしていた。

 しかし,私は、前から何度も書いているように、日本国政府が尖閣諸島を国有化したことが日中関係悪化の原因だと思っている。

 もちろん、ずっと以前から「国有地」だったら、悪化のきっかけなんかにはならない。

 あくまでも、民間人の所有を、武力を有する国の所有に「変えた」ことがトラブルの原因なのだ。

 人間の目には「差異」だけが見えるという、構造主義の原理そのままのことが起きただけだ。

 国有化をするか否かを政府内で議論した際には、外務省の担当者は、都の所有地にしておいた方が得策ではないかと言ったそうだが、残念ながら野田はバカで、「差異」概念なんか全然理解できないため、ナショナリストの石原が保有するより自分のようなリベラル(ぷ)が所有した方が中国も受け入れられるだろうという理由で「国有地」にしてしまった。

 そもそも都が所有するということに、どういう意味があるのか、よくわからないが、尖閣諸島の行政担当が沖縄県から都に変わるということではないだろう。

 東京都尖閣郡なんてことになるのではないだろう。

 ということは、あえて言えば,石原慎太郎個人が買ったってよかったはずだ。

 いや,それが一番よかったかもしれない。

 中国政府、マスコミは石原慎太郎を口をきわめて非難するだろうが、それだけのことで、中国政府に対する「言い訳」はいくらでもできる。

 石原慎太郎は軍隊をもっていないから、何にもできません、何かしたら、国が彼を抑制しますとか。

 その一方、石原はヨットマンとして、尖閣諸島に「船だまり」をつくりたいと言っていたので、そのようにさせ、中国政府が文句を言ってきたら「船だまりは中国の漁民にも解放します」と言って、尖閣諸島周域での中国の漁業権を日本国として認めれば、中国政府がいくら文句を言っても国際世論は、日本国政府を支持するだろう。

 石原個人ではなく,都が所有しても、そんなに大きくは違わないだろう。

 ともかく、石原慎太郎のせいで日中関係が悪化したと決めつけるのは、到底知識人の名に値しない、浅薄な見方というしかない。

 その後、「朝生」を見たが、共産党と社民党がみっともないこと限りない。

 大事な問題がいくらでもあるのに、石原の暴走を止めるのがすべての課題を優先すると言わんばかりの「頭の固さ」であった。

 私に言わせれば、石原の主張そのものがそんなに多くの支持を集めるとは思えない。

 それを石原老人の暴走ばかりに注目してしまうのは、愚かというしかないが、しかし昔から「社共」はそうだったのだ。

 「護憲」さえできれば、あとは関係ないと言わんばかり。

 「社共」は、口では「未来」というが、「未来」とは「可能性」のことを言うので、例えば石原慎太郎が「核のシミュレーションくらいしたらいい」というのは、まさに「可能性」のことを言っているので、その限りでまったく正当な要求だと思う。

 もっとも実際には核保有のシミュレーションは防衛官僚たちはとっくにやっていると思うし、石原慎太郎もそのことはわかっているとは思うのだが、だとしたら、石原の焦りは,知識人としての焦り、不満かもしれない。

 「可能性」を考えないということは、「考えない」ということに等しいのだから、知識人として,到底耐えられないことだ。

 「朝生」における「社共」の醜態は、まさに「考えない人」の醜態であった。

 なんだか、石原を擁護するようなかたちになってしまったが、あくまでも石原を知識人と仮定した上の話である。

関電値上げの論理

2012-11-23 01:00:37 | Weblog
 関西電力が、原発が動かせないので原油を輸入した代金が嵩んだので、電力値上げ申請をしたそうだが、なんか腑に落ちない。

 そもそも電力会社の原価計算方法が変なのだということは漠然と聞いているのだが、会計のことはよくわからないので、「おかしい」ということしかわからないのだが、2chに格好な答えが出ていたので、抜き書きしておく。

 電気料金の設定方法で、総括原価方式ってのが問題。
 この総括原価方式はわかりやすく言うと電気の原価として
 ①燃料費
 ②諸経費(人件費とか光熱費など)
 ③施設維持費(福利厚生施設の維持費や宣伝費、裁判費用など)
 ④最低利益率(企業として最低保証された利益)
 を計上できるということ。
 ちなみに普通の民間企業では①と②をもって原価と言う。
 んで④最低利益率というのは全体の原価に%で積算するので、むしろ燃料費が高いと電力会社は儲かる
 軽く調べればわかるが日本はガスや原油に限らずウラン燃料も世界最高値で購入している。
 実に馬鹿げた話ではある

 「燃料費が高い分,電力会社は儲かる」が、今回はいろいろ事情があるので、その「儲け」の部分を小さくしました、という話でしかないわけだ、今回の関西電力の「値上げ申請」は。

 否否、それは,こちらが好意的に解釈しての話。

 「どうせ経産省から安くしろと言われるだろうから,今日のところは、法的に認められている数字を出しておこう」ということで出した数字なのだろう。 

 と思うと、醜い電力会社の経営者の顔がさらに醜く見える。

 それで、彼らが原発に固執する理由だが、2chの回答は以下の通り。

 総括原価方式だから、コストを膨らました方が利益が増える。
 廃炉費用を積んだら債務超過になるから、経営者は任期中に廃炉を決断できない。

 なるほど。

 昔,ソ連では機械の値段を重さで決めていたため、重い機械ばかり作っていたという話を読んだことがあるが、それと同じことが日本で行われているわけだ。

 ソ連は実質的にチェルノブイリで崩壊したと言われるが、日本の官僚社会主義もフクシマで滅びるだろうし、滅びなければならない。

 そもそも原発をはじめたのは電力会社の意志ではなく、政府が国策として決定したもの。

 電力会社が民間会社として原発を事業展開するのは、日本のような地震国,台風の通り道にある国土では無理な話なので、やりたくなかったが、中曽根や正力松太郎などに命令されてはじめた事業。

  民間会社が自発的にはじめるわけがない過大な事業で、何かあったら国が面倒を見るからと言ってくれたので、はじめたのだろう。

 そういう「負い目」が政府にあるから、あまり強いことを言えないのだろうが、しかし原発の安全運転に失敗したことは、明らかに電力会社の責任なのだから、菅が東電をつぶさなかったことは大いに禍根の残るところだ。

 今になって、東電批判を言ってみたところで,負け犬の遠吠え。

 本当のところは気が小さい男なのだろう。

 その点、嘉田女史は、かなり芯が強く、度胸もありそうなので、政権を取ったら「事故の後片付けは全部国の責任でやるから東電は発電事業から撤退、送電管理会社になってください」くらい言うかもしれない。

 ちなみに上記の2chの「回答」は、関電の値上げ申請に「反原発派が原発を止めるから、燃料代がかさんで値上げになった」と反原発を非難する、電力会社の言い分をそのまま認める頭の弱いネトウヨの群ればかりという状況に、たぶんどこかの院生が釘を刺すために書き込んだものだと思う。

 こういう有益な書き込みが時々あるので、まだ2chを見ているわけだ。
 

朝日の意見

2012-11-21 22:37:20 | Weblog
 一昨日あたりだったか、沖縄の那覇市の旧市長、翁長氏が朝日新聞でインタビューを受けていた。

 インタビュー記事というのは、半分はインタビューをした方の意向が反映される。

 何故なら、インタビュー記事をまとめるのは、インタビューをした方であって、インタビューされた方は、それをチェックして、自分の意思と反する内容だったら当然、訂正するが、記事に新たに自分の意思を付け加えるということは、ないことはないけれど、基本的に、しない。

 逆に、インタビュアーである朝日新聞の意思と反する意見は、記事にする際にカットできるし,カットしなくても、インタビュアーの意見として「それはちょっと私たちの意見とは違います」というニュアンスを付け加えることができる。

 だから,朝日新聞に載るインタビュー記事は、朝日の意見と思って、まあいいわけだ。

 それで、その翁長氏インタビュー記事に窺える「朝日の意見」というのは、まあ、ネトウヨ風に言えば「反日」なわけだが、元自民党だという翁長氏の「反日」ぶりは、朝日の思惑をはるかに越えている印象があった。

 彼ら、沖縄人が怒っているのは,決して米軍の犯罪ではない。

 彼らが怒っているのは,日本政府であって、「米兵の犯罪」は、その口実に過ぎない。

 それくらいは,当然、現日本政府である民主党もわかっているだろう……と思うのだが、でも、野田や、岡田、そして朝日新聞みたいなナルシストでは、それはないだろう。

 石原慎太郎みたいな右翼が所有するより、穏健で良心的でリベラルな私たちが尖閣諸島を所有したほうが、中国の理解を得ることができるだろうなんて甘っちょろいことを考えるくらいなのだから。

 一地方知事の行動と国の行動は,意味がまるで違うのだが、それを民主党はわかっていなかったようだ。

 それはともかく、そのインタビュー記事で、朝日新聞が、沖縄では「沖縄独立」が叫ばれているようだが、と水を向けたのだ。

 ということは、朝日は「沖縄は独立した方がいい」と言いたいのか?

 だとしたら、珍しくも私と同意見だが、そうでもないようで、よくわからないのだが、翁長氏の反応は、朝日の思惑を越えていたように思う。

 できれば,独立したいですよ、と言っていたか、ちょっと覚えていないのだが、でもそんな印象が紙面からうかがえた。

 もちろん、沖縄が独立して、アメリカ軍が撤退するわけはないけれど、先に書いた通り、沖縄人が不信感を抱いているのは、日本人に対してなので、案外、すんなり基地の存続を容認するような気がする。

 あるいは、独立とまではいかなくても、ある種、外交特権のようなものを与えるとか、逆に米州の一つになるとか。

 そうなったら,私は喜んで沖縄国に移民しちゃうのだけれど(古い知り合いが多く沖縄に半ば移住してしまっているし、沖縄で旧交を温めますか)、まあ、それはともかく、これくらいの可能性を念頭においてことに当たらなければ,この問題は解決しないし、それにそのほうが、話が面白いのではないか。

 一週間くらい前、NHKで、ウルグアイでコシヒカリの普及に精を出している日本人のことを紹介していたが、なんでウルグアイかというと、結局、費用が断然安いからのようだった。

 しかし,その安いコシヒカリを日本に輸出することはできない。

 輸出しても、関税がかかるから、日本のコシヒカリと同じ額になる。

 じゃあ、なんのためにウルグアイでコシヒカリを作るのか。

 日本大使は、「日本の食料安全保障のためにもいい」と言っていたが、意味不明。

 その日本大使館館で開かれた「コシヒカリ試食会」の様子を見ている限り、皆外人さんなので、愛想良く、「おいしいで~す」みたいなことをスペイン語で言っていたが、「試食会」に来たこと自体、「大使のお招きに、来ないわけにはいかないから来ました」といった感じで、コシヒカリの南米普及は到底望み薄だと思った。

 そもそも日本の米が高い(デフレで物価が安くなっているというけれど、日本の物価,特に食料は、卵は安いと思うが、依然,圧倒的に高いと思う)から、海外で安くつくって輸入するという話なら少しわかるのだが、そういうビジョンがなく、日本の市場を解放するには抵抗が大きいが、日本が世界に開かれていなければならないというお題目を引っ込めるわけにもいかないので、国内農家から反発を受ける危険のない、「コシヒカリの生産技術の海外普及」を紹介して、お茶を濁そうという陳腐なコンセプトしか見えなかった。
 
 嘉田滋賀県知事の「旗揚げ」で、けっこう面白くなりそうだが、マスコミは相変わらず、小沢攻撃。

 本当に変わらなければいけないのはマスコミだということをマスコミに知らしめるにはどうしたらよいのか,思案中だ。

 

ブラック企業対策

2012-11-19 21:43:07 | Weblog
  「ブラック企業」(文春新書)を購入。

 ブラック企業とは,要するに新卒を大量に雇い入れ、営業成績が芳しくない社員を、いじめたり、難癖つけたりして早期に辞めさせるという企業で、IT企業とか、外食産業に多いらしい。

 著者の今野晴貴は、労使一体の関係のなかでの生涯雇用を理想とする日本の雇用習慣を悪用したものだと解説している。

 私の親父は一応保険会社の重役だったのだが、その父親に「労働者ってどんな存在なのだ」と聞いたことがある。

 父親曰く「わからない」。

 父親は、一応,慶応の経済出身なのだが……自分も雇われ重役として「労働」している、それも平社員より働いているという自覚はあったろうから、労働者と経営者の明確な違いがわかりにくいということは、私もわかる。

 「ブラック企業」に入った若者が過酷な試練に耐えてしまい、場合によっては過労死に追い込まれてしまうのも、自分が労働者だという自覚に乏しく、企業経営に参画し、運命共同体の一員を担っているという気持ちがあるので,お前は会社のお荷物だみたいないじめに必死に耐えてしまうのだと思う。

 実際、「ブラック企業」の著者も、ブラック企業でいじめにあったりしたら、「労組」に駆け込むのが一番の対策だと書いているのだが、日本の労組は企業単位で、会社と一体になっているので、実際はなかなかむずかしいし、そもそも本人に労働者の自覚がないので、自分が労働者になると、自分のアイデンティティが失われるような気持ちになってしまうのだと思う。

 ではいったい「労働者」とはいかなる存在なのか。

 私が思うに,労働者とは、元来、奴隷なのだと思う。

 だから、自分の生存を第一義的に考える。

 指導者階級のように「聖なる義務」なんかに縛られない。

 「聖なる義務」なんて、くだらない!というわけではないけれど、最終的には,ヘーゲルも言っているように、使用者は奴隷に依存するのだ。

 何を言いたいかというと,要するに、格差社会にどう対処したらいいかというと、前から言っていることだが、「労働者階級」をつくるのが一番だ。

 「労働者よ、団結せよ」じゃない。

 日本には労働者がいないのだから、自ら労働者になるべきなのだ。(もっとも私は怠け者なので,「なれ」とけしかけるだけで,自分はなれないけれど。)

 日本の官僚は、これを絶対に阻止しようとしているのだ。

 日本には労働者階級がいないという伝統を断固として守ろうとしているから、どこの国でも為政者の義務としてやっている「低所得者向け住宅」が(戦争直後の一時期を除き)ないのだ。

 嘉田滋賀県知事が新党結成、小沢参謀とかで、これでけっこう面白いことになりそうだ。

 ともかく、「敵」は中央官僚なのだから。

プロとアマ

2012-11-18 21:21:17 | Weblog
 前にも触れたが、今、「アート・オブ・ガマン」という展覧会が上野で開かれている。

 前の戦争中、日系アメリカ人、数万人が収容所に入れられたが、そのときに身の回りの品々で作った日用品や嗜好品を展示した展覧会を日本にもってきたもので、「尊厳の芸術」と訳されているが、本質は「アート・オブ・ガマン」、「我慢の芸術」こそ言い得て妙であると、前回強調したのだが、今回、脚本家の倉本聡がコメンテーターか何かで出ていて、面白いことを言っていた。

 曰く「自分はプロの脚本家だけれど,彼らの仕事を見ると、プロとは何か,アマとは何かと考えてしまう」と。

 もちろん、彼ら、収容所に入れられた人々は,プロの指物師ではないし,画家でも、彫刻家でもないから、アマということになる。

 しかし直感的に思ったことは、そう見えるのは外見だけで,実際は、彼らこそプロの指物師であり,画家であり、彫刻家なのだ。

 しかしそれは、必ずしもいい意味ばかりではない。

 彼らは「我慢のプロ」、すなわち「奴隷の末裔」という意味で,プロなのだ。

 なんでこんなへそ曲がりなことを考えたのかというと、「アート・オブ・ガマン」は、Eテレの「日曜美術館」で見たのだが,その後、ローレン・マゼール指揮の、ワーグナー「ニーベルンゲンの騎士」が流れ、ニーチェのことを連想してしまったのだ。

 周知の通り,ニーチェは若い頃は熱狂的なワーグナーファンだったが、その後、ワ-グナー批判に転じた。

 その解釈、理由については様々だと思うけれど、私は,ニーチェはワーグナーの芸術を「アート・オブ・ガマン」の極致と見たのではないかと思う。

 じゃあ、アマチュアとは何かというと、どうしても古代ギリシャの、生活は奴隷にまかせ、自分は政治や芸術や学問に没頭した「自由市民」たちをイメージしてしまうが、「アート・オブ・ガマン」の両面性を常に意識して,その上に立つこと、ぐらいしかわからない。

 倉本聡は、「彼ら(収容された日系人)には時間が無限にあったから」みたいなことを言っていて、そのとき、なんか「ひらめいた」ような気がしたのだが,竜頭蛇尾でした。

 プーシキンの「スペードの女王」,読了。

 といっても、ごくごく短編なのだが、ものすごく面白い。

 ゲルマンという賭博好きの将校が主人公で、90近い老いた伯爵夫人がカード賭博に勝利する秘密の数字を知っていることを聞き、その居間に忍び込んで、ピストルで脅して、その数字を教えろと迫る。

 貴婦人は,びっくりして死んでしまう。

 その数日後、葬儀の後、ゲルマンが自室で、良心に脅かされつつ,苦悶していると、その伯爵夫人が現れ、「自分の意志で来たのではないが、尊い人に言われてきた」と言って,秘密の数字「3,7、1」を教わる。

 ゲルマンは勇んで賭博場に赴き、カード賭博で、二日連続で大金を稼ぐ。

 教えた数字は一回しか使えないという、その最後の日、ゲルマンはスペードの1を引き当て、「やった!」と叫ぶと、賭博場の棟梁、チャカリンスキーが「いや、女王の負けと存じますが」と冷静に言った。

 ゲルマンが見ると、「1」をひいたと思った自分の手から「スペードの女王」が目をすぼめて微笑んだ。

 「あいつだ!」とゲルマンは絶叫し、そのまま気が狂って精神病院に入った。

 という小説。

 この作品が発表された1834年以来、欧州の賭博場では「3、7、1」ばかり張られていたそうだ。

 さもありなん。

 伊右衛門のノイローゼともとれる、南北の「四谷怪談」同様、「スペードの女王」も、超自然とも、ゲルマンの妄想ともとれる「両面性」が、やはりすごいのだろう。


貧乏人が暮らせない街、東京

2012-11-17 01:33:42 | Weblog
 もちろん全部ではなくて,一部なのだろうが,多摩ニュータウンが高層マンションに建て替え工事中で、まだ工事中だが,一部公開したというニュースをやっていた。

 それによると、建て替え工事費用は全額、開発者の都市再開発機構だったかが負担すると、いかにも「異例」のような調子(あくまでも口頭の印象だが)言っていたが、そんなのは当たり前だろう。

 仮に私がすんでいるアパートの大家が、高層に建て替えますと言ったら、それは大家が金を出すに決まっているではないか。

 問題はその後、家賃がどうなるかだが、ニュースはまったく触れていなかった。

 これでニュースと言えるのか!

 私の知り合いのMさんは、横浜市営住宅に住んでいたが、高層マンションに建て替えられ、家賃が払えなくなってホームレスになってしまった。

 「ビッグイシュー」の前号では神戸大学の平山洋介という教授が、これまでの日本の基本住宅政策は中間層に家を買ってもらうことで、高度成長時代はそれでよかったかもしれないが、その結果、公営住宅が全住宅の4%に過ぎない。これは先進諸国ではきわめて特異な状態で(オランダは全住宅の35%,イギリスは20%、フランス18%だそうだ)、なおかつリーマンショック後、公的住宅の建設を再開したし、韓国も低所得者向け住宅の建設をはじめている。ずっと持ち家重視政策だった中国も、住宅バブルで若い人が家を買えなくなったので、公的住宅の建設をはじめた。

 日本だけ、「公的住宅の役割は終わった」、「住宅も市場重視が当たり前」の姿勢が変わっていない。

 しかも,市場重視と言いつつ、生活保護費の住宅扶助費の上限53700円にあわせて、以前は3~4万円くらいだった都内の老朽化した木賃アパートの家賃が5万円以上になり、年金暮らしの高齢者、ワーキングプアの若者たちが家を借りることができなくなってしまった。東京は貧乏人が暮らせない町になっている云々。

 私の住んでいる西川口は、駅からのんびり歩くとたっぷり30分かかる遠隔地のアパートなので3万5000円と格安で風呂付き。(今年から3万7000円になってしまったが)都内では、風呂付きだったらたしかに6万円近くかかるだろう。

 立命館大学の哲学の先生で,小泉義之という人がいるが,この小泉先生にインタビューしたら、小泉先生曰く、「老朽化した公団アパートはそのまま開放すればいい。そうすれば貧しい人々がそこに住みつき、スラムになるかもしれないが、マニラのスラム、リオのスラム、みんなちゃんと暮らしている。先進国はスラムに学ぶべきだ。私は貧しい人を信頼している」と言っていた。

 そうなのだ。「貧乏は正しい」と、前から言っているように。

 日本の官僚は、貧乏はよくない、悪の根源だから、追放しなければならないと思い込んでいる。

 だから、貧乏人向けの住宅を作ろうとしないのだ。

 そんなのを作ると,貧乏人を呼び集め、革命が起きるかもしれないと思っているのだ。

 しかし、社民党も共産党も、日本の住宅政策の不在を全然指摘しようとしない。

 共産党は貧乏人をかき集め,革命思想を吹き込みたいと思わないのか?

 原発と憲法しか頭にないのでは、それもやむを得ない。

 ドナルド・キーン先生が、復興予算の横流しをテレビで怒っていたが、キーン先生に住宅政策の不在も、ぜひ怒ってほしいと思った。

 

私利私欲に走れ!

2012-11-15 01:18:50 | Weblog
 いつもの新宿2丁目のはずれの古本屋で、大岡昇平の日記、「成城だより」3巻とプーシキンの「スペードの女王」の4冊を200円で買う。

 大岡昇平の「成城だより」は名前だけ知っていたので、どんなものなのだろうと思ってパラパラと開いてみたら、現代数学について書いてあったのと、他の箇所も意外な話題が多く書かれているようで、三冊全部買おうと思ったが、3冊以下では一冊100円、計300円となるので、もう一冊,以前からちょっと気にかかっていたプーシキンの本をあわせて4冊買うことにしたのだ。

 その「成城だより」だが、まだ少ししか読んでいないが、驚いたのは、数学者、竹内外史の「数学的世界観」を買って,今、勉強しているという。

 竹内外史の「数学的世界観」は私ももっていて、今回の活字版「風に吹かれて」(サブタイトルを「写真私史」とすることにしたので,以下「写真私史」とする)の主要ネタ本の一つなのだ。

 大岡昇平の日記には日付がないのだが、柄谷行人などがゲーデルの不完全性定理などをしきりにとりあげていた1980年頃と思われる。それで現代数学、それも基礎論に興味をもったのだろうが、それにしても70を越えて現代数学に挑戦しようという、大岡昇平の知的好奇心に驚くとともに、その竹内外史の「数学的世界観」を何の知識もなく、たまたま紀伊国屋の本棚で見て、面白そうだと思って買った私の「眼」もなかなかではないかと自画自賛。

 大岡昇平なんて,辛気くさい純文学者かと思っていたが、「窓際のトットちゃん」なんかもとりあげていて、それも学校教育に対する根本的批判で、「辛気くさい」ところなんて皆無。

 また「トットちゃん」が、一部の公立図書館で「禁書」になっていたことも知った。

 大岡の推理では、学校におけるトットちゃんは学校教育に批判的と思われたのだろうと書いてあったが,学校教育、とりわけ「義務教育」なんてものは、結局「奴隷教育」なのだ、とまでは書いてなかったが、大岡昇平が、それに近い「自由思想」の持ち主であることがわかった。

 大岡昇平というと、語感からつい安岡章太郎と混同してしまうのだが、『レイテ戦記』も読んでみようかと思った。

 さて、選挙なのだけれど、マスコミではしきりに「選挙で勝つことだけを目的にしてはいけない」と私利私欲を牽制している。

 しかし、選挙に限らず、日本人はもっと「私利私欲」に走るべきだと思う。

 その「私利私欲」を調整するのが政治だと思うのだが、はじめからみんな「私利私欲」を抑制してしまう結果、現状維持が続き、結局、不満だけが残る。

 そもそも、デフレとは、既得権益の所有者、とりわけ、公務員がもっとも得をする体制なので、官僚はみんな心の底では、今の状態が続いてほしいと思っているはずだ。

 しかし,復興予算を復興以外に使っていることがわかったら、普通の国なら完全に暴動が起きている。

 ところが日本では暴動が起きないどころか、政府に金がないという、官僚の宣伝を、依然として信じている。

 小学生でもわかる簡単な「算数」の問題なのだが……。

 否,算数の問題ではない。

 信義の問題なのだ。

 「信義の問題」を問題にしないこと自体、信義にもとることなのだと思い知るべきだ。

安倍効果

2012-11-14 00:33:03 | Weblog
 お久しぶりですが、さぼっていたわけではなくて、いや,まあ,さぼっていたと言えば言えるけれど、例の活字本をともかく仕上げてしまおうと思って、完全に仕上がったわけではないけれど、難題だと思っていた「思想家としての中平卓馬」が、だいぶはちゃめちゃに突っ走ってしまったけれど、なんとかかたちになった。

 しかし,そう思ったのが一週間前で、今もまだあれこれいじってはいるけれど、それはあくまでも、じぶんのいいたいことが、読む人にできるだけ正確に伝わるようにするために手を入れているので、事実上「完成」と言ってもいいと思う。

 それで、中平とは古くからの知り合いで、「日本で一番よく知っている」と豪語するYに読んでもらったのだけれど,そのテーマの中心が,中平は理系思考の持ち主だというところにあるので、その点を聞いてみたら、「中平は直感の人だから理系思考ではないだろう」と言う。

 いや,私自身が落第生とはいえ,理系だからわかるのだが,理系思考とは、まさに「直感」の世界なのだ。

 ただ中平は,自分の直感をよくわかっていなかったということがあるのだけれど。

 しかしさぼっている間に、国会解散が決まった。

 で,野田は、TPPを一つの争点にしたいらしいが、ニュースを見ていたら,東大の教授が猛反対していた。

 言っていることは相変わらずで,日本の農業は死滅するという。

 その理由は、たとえば米なら、米の生産価格がアメリカと日本では20倍くらいちがうから、関税ゼロにしたら壊滅だというわけだ。

 司会者が、農家の所得保障で対処できないかというと、教授は、4兆円かかるから、非現実的と言っていた。

 しかし、4兆円かかっても、米の価格が圧倒的に安くなるし、米以外の食料品全般に価格の下落が及べば、消費者のエンゲル係数が下がるから,他の消費に回るだろう。多分、3兆円くらいは市場に出てくるのではないか。

 少なくとも、4兆円の所得保障がまるまる農民の懐に死蔵されるということはないだろう。

 東大の教授を名乗るのだったら、これくらいの「目配り」というか、客観的な考え方を披露してくれなければ困る。

 安倍が、国際の日銀引き受けを断固やらせる発言で、株価が上がり、円安になった。

 もちろんこれだけでは判断できないだろうが、少なくとも、20年前…は無理でも、せめて10年前に、この議論を徹底的にやるべきだった。

 ところが日本のマスコミは、財務省の洗脳か、不勉強か、どちらか知らないが、「議論」を完全にネグレクトしてきた。

 私は、安倍の「建設国債」というところにひっかかるが、方針としては,安倍に賛成である。

 もし、それが正しい答えでなくても、やってみて、それがだめなら,別の政策をとればいいし、安倍とは反対の意見を採用して,それがだめなら,安倍の政策を採用すればいい。どっちもだめなら、また別の方法を探ればいい。

 ところがマスコミは、「日銀引き受け」という政策を「問題外」として、まったく相手にしてこなかった。

 問題は、その結果、試行錯誤が行われなかったことだ。

 「失われた20年」というけれど、何が失われたのかというと「試行錯誤」の機会が失われたのであり、その責任は、挙げてマスコミにある。

 道ばたで売っている「ビッグイシュー」を買った。

 意外に面白い。

 3,4年前に買ったことがあるが,格段に誌面が充実している。

 今の週刊誌類の中では一番いいかもしれない。