パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「狂」について

2006-12-18 14:42:01 | Weblog
 小野紳様、そうなんですよ、lunatiqueを大々的に表紙に謳うことは、狂気を全面に出すようなものだから、良くないと終始反対したのが、Mさんで、そのくせ、出してきた表紙プランを見たら、lunatiqueそのものがタイトルみたいになっている。そこらへんがMさんのちょっと面白いところなんですが、それはともかく、私自身も、多分、一年前くらいだったら、lunatiqueを全面に押し出すことについてはためらいがあったと思うのだけれど、その「ためらい」みたいなものが、半年くらい前から急速に薄れていった。何故なのだろう?

 そもそも、何故、lunatiqueに、ためらい、抵抗があったのかというと、やはり、「狂気」というものに偏見があった。それにくわえて、旧月光では、結構、わけのわからないものに対する興味のようなものをストレートに打ち出していて、そういったこと(興味本位)に対する反省のようなものもあった。
 ところが、今回、草森紳一さんからもらった原稿のタイトルが「狂気三昧」というもので、「今や、死語となった狂気なるものを、花輪和一の漫画『浮草鏡』を通じて考える」、という内容で、最初のうちは、正直言って、なんとなく読み流していた感があったのだけれど、そのうち、ふと草森さんの真意のようなものが気になり出して、そのアイデアの一つの元となっている白川静の「狂」の字源の考察を調べたら、「狂」とは、元来、王の霊異を受けて常ならぬ状態になることだそうで、本来悪い意味ではなく、孔子も「論語」で、こう言っている。

 中庸(正しく、過不足のない人)の人が見つからなければ、次は狂狷の人がよい。何故なら、「狂」とは志が高く、世間一般の意見にとらわれず、「狷」は、心が狭いが悪いことはしないからである……。

 なるほどねえ……孔子はさすがに深い。バカとはさみはつかいようってのは、これだったのか(ちと違うか)。

 ともかく、ということで、lunatiqueに対する否定的こだわりがなくなっていったわけです。

 ところで、画家の息子をスイスのイベントで採用した石原都知事に対し、マスコミは、「李下で冠を正さず」じゃないかとかなんとか。
 何を言っているんだ。「李下で冠を正した」だけで、李(すもも)を盗んだわけではないとわかったら、それでいいではないか。それがわかった上で、なんで、「冠を正すべきではなかった」と言い募るのか。こういう輩は、「狷の人」とは言わないだろう。単なる「屁理屈屋」だ。

 滑稽なまでに無邪気な平和反戦の手紙ばかりの、朝日新聞の「声」欄の「語り継ぐ戦争」という毎週月曜日の連載特集に意外な投稿が。

 それは、50過ぎの主婦の小学生の時の思い出で、母親が父親と夫婦喧嘩をした時、母親が「戦争で人に鉄砲を向けるくらいの人だから、家族がどんなに困っても可哀想とは思わないんだね」とまくしたて、父親は絶句してしまったというのだ。投稿者は、子供心に、これは他人には絶対言ってはいけない話だと思ったこと、大きくなってからは、「母の言葉は夫婦喧嘩のルールを逸脱していたと確信したと」いうのだ。
 投稿者は、最後に、「(戦争は)戦後生まれの私にも、こんな形で心に痛みを残している」と朝日風に締めくくっているが、その他にも、「あの戦争は間違っていたとは思うが、自分なりに一生懸命戦ったので、後悔も恨みも感じない」という、元海軍少年兵の投稿が載っていたり、朝日新聞路線転換模索中と思わせた。
 とはいえ、「戦争で人に鉄砲を向けるくらいの人だから、家族がどんなに困っても可哀想とは思わないんだね」という母親の台詞は、朝日新聞が、戦後60年、旧日本軍や自衛隊に対して「まくしたてていた」いや、今も、以前程ではないとは言え、時にまくしたてている台詞ではないのか。なんでもかんでも、「戦争がいけない」でまとめる思考停止状態をいつ脱却できるか、それが問題だ。
 追伸 月光HPに、24号の画像、目次等をアップしておきました。このブログとリンクさせてあります。HTML辞書で作ったので、ごく簡単なものですが、今後、追加していきますので、よろしく。

借金時計……まだやってるのか

2006-12-14 18:59:34 | Weblog


 上の写真は、24号の表紙です。カラーです。「映画の研究」の書き手が「潮田文」とありますが、私の本名です。ウシオダブンと読みます。最近、バドミントンで有名な潮田玲子さんは、私の従姉妹です、というのはうそです。潮田玲子さんは、「シオタレイコ」とよむそうで、御先祖も別でしょう。

 ところで、昨日、はじめて日本テレビの深夜ニュース、「ゼロなんとか」を見たら、「日本の借金時計」とやらを前に、キャスターが危機感を煽っていた。その額、800兆円。猪瀬の『日本国の研究』には、日本の借金は400兆円で、これ以上増えたら確実に日本は破綻すると書いてあった。当時、活字メディアも、テレビメディアも、そして役人も、こぞって、そう言い募っていたが、今やその倍! で、破綻したか? していない。別にどこかでインチキをやっているわけでもないのなら、「400兆円が限界」というのは、まちがっていたわけだ。

 以前から、何度も、「国の借金」と「個人の借金」はまるで性質が異なると言ってきたのだが……。あまり、というか、全然詳しくはないのだけれど、「国の借金」は、個人の住宅ローンのように、どこか(たとえば、銀行)から借りているわけではない。、むしろ、逆。というのは、たとえば、一億円分の国債を発行するということは、その一億円分に相当する価値を国が「創造」し、それを国が保証する。つまり、一種の「信用の創造」を国が行っているのだ……ということは、今、ひらめいたことなんで、あまり信用できない話だが、でも、国債の本質の説明として、当たらずとも遠からじだと思う。

 ともかく、「国債の発行」とは、一種の「信用の創造」であることは間違いないので、したがって、「実感」で語ることはできない。「借金時計」のような「実感」させることが目的の比喩など、とんでもないことなのだが、どうも日本人は「実感」から離れられない。

 それで、そのことに対する警鐘の意味で、これまでケインズとか、相対性理論とか量子力学なんかをやってきたのだ。ケインズも相対性理論も量子力学も「実感」ではまったく歯の立たない理論だが、しかし、素人にはわからないという話ではない。特にアインシュタインの特殊相対性理論なんかは、小学生5、6年生なら簡単に理解できるものなので、ついこの間も、小学生の理科離れを防ぐためにとかいって、「新しく面白く工夫された梃子の実験」なんかをテレビでやっていたが、あんなのよりも特殊相対性理論を教えた方がいい。きっと喜ぶと思う。(ブルーバックスなんかには、「中学生なら簡単に理解できる」と書いてあるが、実際のところ、小学生でも高学年なら理解できる。ただし、一般相対性理論は無理だけど……私にもわからん……当たり前)

 一年程前だが、自民党に復党した堀内なんとか(光雄だったかな)という「経済通」で知られる政治家が、「経済政策とは、ベッドのサイズに合わせて足を切るようなことではいけない」とか言っていたが、ケインズに言わせると、経済政策とはまさに、ベッドのサイズに合わせて足を切ったり伸ばしたりすることなんだが……。実際、ケインズはそういう比喩(ギリシャ神話に出てくる盗賊の話だと思うが)を出して説明しているのだが、堀内某は、「実感」にとらわれて、それを読み誤ったのだろう。

 この堀内某を復党させたこと自体はどってことないのだが、それを決めた安部首相が、人気低下を受けて、大衆にわかりやすいように、さらに「実感」に縛られた政策を展開しそうなのが、気になるのだ。

やっと……

2006-12-13 22:34:41 | Weblog
 夕方、校正を戻した。これで、来週末には本ができる。

 しかし、校正ゲラをみながらつくづく思った。我ながら難しいことを書いてしまったと。

 フランスのリュミエール兄弟が世界初の映画上映会で「列車の到着」を映した時、驚いて逃げようとした観客がいたくらい、人はそれに驚いたが、では、その後、本物の列車を「映像」と見間違えてひかれて死んだ、なんて人は一人もいない。どうして、ある時は映像と現実を区別でき、ある時はできないのだろうか……という問題から考え出したら、最後には現代数学(トポロジー、位相幾何学)にまで及んでしまった。
 といっても、トポロジーは最後に「あ、これか」と思ったものなので、ちょっと触れるに止まったのだが、でも、「映画を見る」という体験は、トポロジカルなものだという感じはしませんか……ね?
 たとえば、人は、スクリーンに触りたがる。何故触りたがるかと言うと、そこに「なにか」があると思うからだ。何故、そこに「なにか」があるのかと思うのかというと、そこで、なにかが「動いている」からだ。ということは、その時、そこにトポロジー空間が成立しているのだ……といったようなことなのですが。

 ともかく、年内にお届けすることはできることになりました。(3年前もそうだった)

高速道路問題、再び

2006-12-11 23:02:24 | Weblog
 安部内閣支持率低下。
 とはいえ、47%ほどの支持はある。しかし、ちょっと前だったら支持率が5割近ければ大変な高支持率で、大体3割前後が普通だったが、それでも、政権維持できたのは、与党の自民党と一体だったからだろう。
 しかし、小泉以来、いわば大統領型内閣になったために、支持率の低下は内閣に直接ダメージを与えるようになった。安部内閣は従来型か、大統領型かというと、マスコミ、世論は大統領型と見ているから、47%でも騒ぐ。安部首相自身も「率先垂範」で、ことにあたる「大統領型かつ改革派」をイメージしているだろうから、47%はまだ大丈夫としても、これからさらに5ポイントくらい下がったら、さすがに危機を自覚せざるを得ないだろう。そしてその時、どのような政策を打ち出すかで安部内閣の真価が問われることになるのだと思う。

 ところで、道路特定財源が来年度は5000億円もあまってしまうそうで、じゃあ、それを道路公団の赤字補填に充てて、通行料金を下げたらどうかという意見が出たら、「改革精神に反する」とかでぽしゃったみたいだ。最悪のリゴリズム(厳格主義)!! 

 そもそも、今、「赤字補填」と書いたけれど、道路公団の抱える40兆円の「赤字」とやらは、要するに、高速道路建設費として、郵便貯金とか年金積立金などから借りた金で、ちゃんと払っている(といっても、一部税金で負担しているらしいが)。 しかも、「限界です。もう払えません、堪忍して下さい」というのでもない。ただ、毎年、新たに高速道路を作っているので、新たに生じる借金で支払い総額がなかなか減らず、公団発足当初の約束である、「建設費償却後の通行料無料化」がいつ実現できるかわからない。さあ、どうしよう……という話だった。今考えると、全然、「どってことのない話」だ(私は「当時」からそう思っていたけれど)。単に、「最初に約束しちゃったあれ、どうする?」という《道路公団内部》の話。
 ところが、年間3兆円以上もあったガソリン税のうち、本四架橋の建設費用返済分にあてていた5000億円が、払い済みとなったので、余ってしまった。
 このガソリン税は、高速道路建設に使われていた財政投融資(郵便貯金、年金等)とはちがう。どうちがうかというと、税金として集めたのだから国民に返す必要はない。財政投融資の場合は返さなくてはならない。それで、これまでも、ガソリン税の一部を道路公団の抱える財政投融資による借金返済に充てていたわけだが、これを、本四架橋分5000億をいっぺんに注ぎ込めば、ぐんと通行料金が安くなるだろうというのが、今出ている話。
 これに私見を付け加えれば、注入金の配分先を案配して、通行料金収入の多い東名阪神などのメジャー路線に金を入れることはせず、まず、通行量が少ない地方の高速道路に注ぎ込んで、これを一気に無料にする。そうすれば、地方の活性化にもつながるだろうし、また、これにより黒字路線は、稼いだ黒字分を他に回す必要も無くなる。この繰り返しを10年も続ければ、全額返済、めでたしめでたし……ということになるのではないか、ねえ、猪瀬さん? どうだろう、私の案は。でも、猪瀬さんが民営化して公団をいくつにも分けちゃったから、いざガソリン税の余剰分を分けるとなると、ぶんどり合戦でにっちもさっちも行かなくなるかでしょうねえ、きっと。まったく、百害あって一利なしだったんですよ。道路公団の民営化なんて。

 というわけで、猪瀬の『日本国の研究』を改めて一から批判し直そうと思って本棚を探したが、見つからず、代わりに、昨日書いた、「なくしたコート」が出てきた。紺色のダッフルで、丸めて段ボールに入れ、本棚の上にのっけていたのだ。気に入ってたコートなので見つかって嬉しい。しかし、昨日の今日で見つかるとは!……まあ、よくある話ではあるが。

 ちなみに、本が見つかったら、猪瀬批判を再開したい。では。

靴の価値

2006-12-10 19:18:13 | Weblog
 久し振りに、のんびりとフリーマーケットに行った。一応、目的は、引越しの最中になくなってしまったコート(あんなにかさばるものが、なんでなくなっちゃうのか?)と、靴。靴は、フリーマーケット以外で買ったことは、ここ10年近く、ない。何故なら、靴ばかりは国産はダメで、絶対にヨーロッパに限るのと思い込んでいるのだが、舶来(死語)の靴をちゃんとしたお店で買ったらやっぱり高いだろうと思い、もっぱら、フリマでこつこつと探しているのだ。

 そのうち、若い男性二人のスペースで見つけた靴を履いてみたら、サイズ等、ぴたりだったので、値段を聞くと、500円というので、早速買おうと思い、どこの製品か聞いたら「さぁ……」という。ちょっと怪しいと思ったが、安いし、ダメならダメでしょうがないと思い、買った。買って帰ろうと思ったその時、オリーブ色のミリタリー風のコートが目に入ったので、やや長めだが、自転車に乗っても裾が巻き込まれる程長いわけではなく、ちょうどいいと思って、値段を聞くと1000円だというので、これも購入した。

 その後、会場を歩いているうちに、買った靴の具合が気になったので、実際に履いて歩いてみた。ん? なんかおかしい。しっくりこない。試しに履いた時にはぴったりだったのに……やっぱり、国産だったかも。

 日本人の足の特色を理解しているのは日本のメーカーだから、日本人が履く靴は日本製がいいというようなことをよく聞くのだが、そんなことはない。たしかに、理屈を言うと、それが正しいような気になるのだが、実際には、「日本人の足の形」など一切調べずに作っているヨーロッパ(ロシアも含む)靴のほうが、少なくとも私の経験としては、圧倒的に良い。どうしたって、ヨーロッパは靴を履いて生まれてきたような文化だから、気合いの入れ方が違うのだと思う。

 というわけで、「失敗した!」と思ったが、500円だからしょうがないとも自らを慰めつつ、このままでは恐らくすぐに捨ててしまうことになるだろうから、捨てるくらいだったら、別の何かと買い替えればいいだろうと思い、若者のお店にもどって理由を話し、何か適当なものはないかと探したが、なかなか見つからず、そうこうしているうちに、若者が、500円返しますと言ってきた。いやーすまんのう、渡りに船だ。ちゃんとコート1000円買ってるからいいよね、と自分に言い聞かせて、500円を受け取った。一方、若者は件の靴について、もって帰るの面倒だからあげますよ、と言う。もらっても、多分捨てるだけだと思うと言うと、自分達も同じだという。靴、大暴落(笑)。

 「ものづくり大国」を自称するなら、靴だってちゃんと作れよと言いたいが、日本では家から出る時に靴を履き、戻ったら靴を脱ぐ生活であるのに対し、欧米では、ベッドから下りたらすぐに靴を履き、またベッドに戻るまで靴を脱がない文化だから、「気合いの入り方」がちがうのはやむを得ないのかも。
 

入稿二日目、順調に飛行中……か?

2006-12-10 02:23:38 | Weblog
 月光発行まで、後、踏まねばならない手順は、火曜日に校正が出るので、それを無事返せるかどうかだ。返してしまえば、もう、後は印刷のみなのだが、入れた日の晩、表紙と、本文のデザインチェックをやってもらったMさんから電話があり、頁の順番の入れ替えは間に合うだろうかと言う。じょ、ジョーダンじゃない。そりゃあ、やろうと思えばできる。また徹夜して、新しく台割を検討し、可能とわかったら作り直し、それをCDに焼いて、いったんこれで御願いしますと言った印刷屋の営業をまた呼びつけ、「こ、こ、これとさしかえてください」と言えばいいだけだ。だけっ!!!! ねっ!!! 
 しかし、頭ごなしに「ダメ」と言うとなんなんで、「無理ですよ~」と答えたが……。このMさんの「壁」が、あるのだ。
 ところで、なんで、ページを入れ替えたいかというと、色紙を入れたいので、台割を調整できないかというのだ。
 そ、そんな、今さら……というと、「南原さんは最初からその気がないから」とか言うので、大体、そのことは、事前にいろいろ検討したのだが、最初からそのようなことは予想して作っていないので(たとえば、旧月光の「不気味サウンド研究会」みたいな企画頁を作ること)、色紙を挟んでも意味がないから、また次にということになったではないかというと、「形」をつくることが大事で、それで人を集めるのだとかなんとか。
 そりゃあ、私も、雑誌内雑誌は好きだし、やりたいのだが、ああいうのは、意図的に作ってもだめで、やりたい人が勝手に、「ページちょうだい」ということでできあがるのがいいのだ。
 といっても、「なんでもいい」わけではない。そこらへんが難しい。
 そう言えば、2年程前、ある劇団のスタッフからページをほしいような話があり、渡りに船と思ったものの、話しているうちに、「世界」が私とまったく違うことがわかって、お流れになったことがあった。これでは、いくら色紙か何かで「別の世界」を作ってもカバーしきれないと。

 ぶっちゃけた話、Mさんとは、表紙を任せたくらいだから、「世界」がまったくちがうとは思わないのだが、ただ、よくあることなのだが、自分が「わかった!」と思ったところで化石と化してしまった人なので、もし、仮にページをそっくり渡しても、やることが全部わかっちゃう(笑)。もっとも、それはそれで、「なんでもいいから、かっこがついていればそれでいい」というようなこともあるのだが……まあいいや、Mさんのことはこれで。

 映画の話題1、評論家の花田清輝の全集を読んでいて、『ローマの休日』のへップバーンのことを、(けなしてそう書いているわけではないが)おとぼけが持ち味ののカマトト女優と評しているところに眼が止まった。なるほどそうかもしれない、と思いながら、仲間由紀恵が頭に浮んだ。彼女も、カマトトで、なおかつ、おとぼけが得意なのじゃないか。もっとも、CMでしか見たことがないが。(口絵の花田の写真を見ると、結構いい男だ。)
 映画の話題2、森田芳光監督が、「椿三十郎」のリメイクを作っているとか。なんで、「用心棒」じゃないのだろう。もちろん、「用心棒」は何度も何度も外国でリメイクされているが、常に面白い、すぐれたシナリオだ。「椿三十郎」も、それなりに面白いが、その面白さの元は「用心棒」にある。乙にすました武家屋敷に迷い込んだ無骨な「本物」の侍、桑畑三十郎(椿三十郎)が、今やサラリーマン以外でないような腑抜けた、しかし、それなりに真面目で一生懸命なリクルート若侍たちを歯がゆく思いながら行動を共にする、その「対照」が面白い作品だ。最後の決闘シーンが話題になるが、全体的に見れば、無骨な反時代的な男の戸惑いがテーマのコメディなのだ。つまり、「用心棒」をひっくり返したのが、「椿三十郎」なのだから、それをリメイクするなんて、ありえないことをやっているというか、最初からものすごいマイナスを背負っていると思うのだが。

月光24号、遂に印刷屋へ

2006-12-08 20:12:29 | Weblog
 バンザ~イ! 「月光」24号、遂に印刷屋に入れました。久し振りだ、この解放感。何ヶ月ぶり? いや、三年ぶり(笑)。

 最後に来て、2週間以上、デカルトでひっかかってしまった

 「映画の研究」ということで、まず、視覚研究の歴史をしらべたら、西洋哲学が2000年来、苦闘してきた問題であることがわかった。「苦闘」してきた理由は、その出発にあたって、対象と離れているのに、何故、その対象のことを知ることができるのかという風に問題を立てたのだが、実はこれ自体が、西洋哲学の根本原理である主客2元論哲学が不可避的に抱える問題だったのだ。

 研究の始まりは、例によって古代ギリシャだが、その成果をアラビアのアルハーゼンという学者がヨーロッパに伝え、博物学者のデ・ラポルタや、有名なダ・ヴィンチらの研究を経て、ケプラーが光学理論としてまとめた。これを根底的に批判したのがデカルトで、それをさらにバークリ僧正が「視覚新論」に集大成した。しかし、この「集大成」は伝統的な2元論の枠内で試みられた「究極理論」とも言うべきもので、これに対し、アフォーダンス理論の創始者、ギブソンが、発想を一から改めた、新しい、一元論的というか、直接知覚論としての視覚理論をつくりあげた。

 ……というのが、視覚理論研究の全体的道筋なのだけれど、視知覚研究の現場ではこの道筋は「哲学問題」であるとして、ほとんど問題になっていない(と思う)。

 では、デカルトは、どんなことを言っているかというと、「見ること」の本質は、見たもの、たとえば馬なら馬の「見た目」は様々なのに、見た瞬間、「馬」とわかるのは何故かということを考えるところにあるのであって、見えているものが、そのオリジナルと類似しているといったことは問題でない、と言っている。(「見えているものが、そのオリジナルと類似している」云々というのは、「見ること」とは、対象のコピーを見ることなのだ、ということで、これが伝統的な心物2元論に基づく視覚理論なのだ。)
 
 つまり、デカルトは心身2元論の創始者として有名だが、視覚理論について言えば、むしろ2元論を否定しているとも言えるのではないか、とか、まあ、そんなことをいろいろと……。

 ちなみに、デカルトの言葉は次の通り。

「イメージが関係を持つ対象の総ての様々な性質を魂に感覚させる手段をどのようにして与えるか、ということだけが問題で、そのイメージがそれ自体として、どのように似ているかは、まったく問題ではない」

 これを、上記のように、馬云々と私が勝手に言い換えたわけで、あっているかどうかわからないけど、数学の集合論的考え方を参考に思いついたもので、それが妥当なら、デカルトの視覚理論は一種のトポロジーだということになる。

 ともかく、月光24号は、あと10日、遅くとも2週間以内には発送できると思います。御注文、ございましたら、メールでお知らせを。定価1000円、税、送料込みです。(表紙等、HPにアップしておきます)

月光24号、遂に印刷屋へ

2006-12-08 20:05:19 | Weblog
 バンザ~イ! 「月光」24号、遂に印刷屋に入れました。久し振りだ、この解放感。何ヶ月ぶり? いや、三年ぶり(笑)。

 最後に来て、2週間以上、デカルトでひっかかってしまった

 「映画の研究」ということで、まず、視覚研究の歴史をしらべたら、西洋哲学が2000年来、苦闘してきた問題であることがわかった。「苦闘」してきた理由は、その出発にあたって、対象と離れているのに、何故、その対象のことを知ることができるのかという風に問題を立てたのだが、実はこれ自体が、西洋哲学の根本原理である主客2元論哲学が不可避的に抱える問題だったのだ。

 研究の始まりは、例によって古代ギリシャだが、その成果をアラビアのアルハーゼンという学者がヨーロッパに伝え、博物学者のデ・ラポルタや、有名なダ・ヴィンチらの研究を経て、ケプラーが光学理論としてまとめた。これを根底的に批判したのがデカルトで、それをさらにバークリ僧正が「視覚新論」に集大成した。しかし、この「集大成」は伝統的な2元論の枠内で試みられた「究極理論」とも言うべきもので、これに対し、アフォーダンス理論の創始者、ギブソンが、発想を一から改めた、新しい、一元論的というか、直接知覚論としての視覚理論をつくりあげた。

 ……というのが、視覚理論研究の全体的道筋なのだけれど、視知覚研究の現場ではこの道筋は「哲学問題」であるとして、ほとんど問題になっていない(と思う)。

 では、デカルトは、どんなことを言っているかというと、「見ること」の本質は、見たもの、たとえばリンゴならリンゴと、何故わかるのかということを考えるところにあるのであって、見えているものが、そのオリジナルと類似しているといったことは問題でない、と言っている。(「見えているものが、そのオリジナルと類似している」云々というのは、「見ること」とは、対象のコピーを見ることなのだ、ということで、これが伝統的な心物2元論に基づく視覚理論なのだ。)
 
 つまり、デカルトは心身2元論の創始者として有名だが、視覚理論について言えば、むしろ2元論を否定しているとも言えるのではないか、とか、まあ、そんなことをいろいろと……。

 ちなみに、デカルトの言葉は次の通り。

「イメージが関係を持つ対象の総ての様々な性質を魂に感覚させる手段をどのようにして与えるか、ということだけが問題で、そのイメージがそれ自体として、どのように似ているかは、まったく問題ではない」

 これを、上記のように、リンゴ云々と私が勝手に言い換えたわけで、あっているかどうかわかりませんが、数学の集合論的考え方を参考に思いついたもので、それが妥当なら、デカルトの視覚理論は一種のトポロジーだということになります。

 ともかく、月光24号は、あと10日、遅くとも2週間以内には発送できるでしょう。御注文、ございましたら、メールでお知らせを。定価1000円、税、送料込みです。(表紙等、HPにアップしておきます)

筋論ってなんだ

2006-12-04 22:05:15 | Weblog
 自民復党問題は、いわゆる筋論というわけで、面倒臭い。A、B、C、Dと何本も筋があって、それのどれが正しいとも言えないから、実りがある結論が出るわけでもなく、ただ面倒臭い。しかし、そういう筋を主張しあって、お互いに相手を消しあって、最後に何が残るかと言うと、大枠としての自民党という存在を認めるか認めないかということになって、そうなれば、当然、認めることになるわけだから、案外、党組織としては健全な結果となるかもしれない。民主党さん、喜んでいる場合じゃないと思うが。

 デカルトがヨーロッパで活躍をはじめた頃、日本ではちょうど鎖国をはじめてしまい、それまで、たとえばスコラ哲学などはキリシタン神父などを経て結構日本にも知られていて、仏教の僧侶とやり合ったりしていたのだが、肝心要の、スコラ哲学を論破し、近代を切り開いたデカルト思想以降がまったく入ってこなくなってしまった。そして、そのデカルトが切り開いた「科学革命」が、行き詰まりを見せ始めた頃に、開国となった。たとえば、マルクスなんか、江戸時代末期の人だ。イメージしているより随分古い。ダーウィンもそうだ。つまり、科学革命が行き詰まった結果、出てきた人が日本では、いかにも西洋科学の代表者みたいに受け取られてしまった。このボタンの掛け違いは、日本近代において、いかにも痛かった、といったようなことが、中央公論社、世界の名著シリーズ、「デカルト」編の前書きに書かれていたが、なるほどなと思った。

あれやこれや

2006-12-03 23:12:52 | Weblog
 今、NHKで国民健康保険の問題点を取り上げていたが……ご多分に漏れず、私も滞納しちゃっているわけだが……しかし、幸いなことに、私はほとんど病院にいったことがない。数年前に手の甲を切ったことと、あと、歯医者だけ。……てことは、もし、この間、きちんきちんと保険料を払っていたら……明らかに払い損ということだ。それも相当な額にのぼるはず。ケチなことを言うな、って言われるかもしれないが、実際のところ、今の制度では、病気になればなる程、「得」をする。病気になった本人にしてみれば、「得」といわれると変な気持ちになるかもしれないが……事実だ。実際、病院の待合室が老人の社交場になってしまって、「あら、○さん、今日はいないわね、どうしたの?」「病気で来れないの」なんて笑い話があったりした。これは、老人からもしかるべき金をとるようになってから激減したらしいが、てことは、事実、以前にはそういうことがあったということだろう。
 要するに「助け合い制度」っていうと聞こえはいいが、制度設計そのものにやはり問題があるのだ。
 NHKの番組では、左官屋さんが仕事がなくて保険料が払えず、ヘルニアで悩んでいるのに、保険証をとりあげられてしまった。役所に相談すると、生活保護を受けろ、と言われたが、自分としてはまだまだ働きたいのだと言って、それを断った。
 生活保護を受けてしまえば、たしか、月に17万くらいもらえるはずで、財政負担が増えるばかりである。したがって、苦しいが、生活保護は受けたくない、働くだけ働きたいという左官屋さんの意欲は、国側としては実に有り難い話のはずなのだ。しかも、この左官屋さんのような感覚は日本人が一般的に持っているもので、日本人の最大の美徳だろう。こんな国民、民族は他にない。だとしたら、そういう意欲を生かすように制度設計を考えるのが、日本の役人の努めでないのか。働けといっても、なかなか働こうとしないのが、普通なのだ。大いにやりがいがあるではないか。

 件の左官屋さんは、結局、一ヶ月間のみ有効の短期保険証をもらった。ヘルニア手術にはそれでも充分に役に立つ。ただし、払わないとまた一ヶ月で切れてしまうが、てことは、要するに、一種の期間限定割引券、つまり治療クーポン券だ。福岡市では、この短期保険証を積極的に発行するようにしているらしい。
 このクーポン券のアイデアについては、少し前に、年金をクーポン券で払ったらどうかと提案したのだが、それですべて解決とまでは言わないが、真剣に考えてもいいのではないか。

 大学教授が二人出てきて、アイデアを披露していたが、どんなものだったか忘れたが、陳腐なこと限り無いアイデアだった。「オッ」と思わせるものがない。別に、人を驚かせるのがいいとは思わないと教授さんは言うだろうが、そんなことはない。グッドアイデアには、からなず人を「オッ」と思わせるような斬新なものがあるのだ。

 それで、もう一つのアイデアなのだが、最近は格差社会とかで、収入にかなりの差がある。これは「いくない」と言う人が多いが、まあ、やり過ぎは確かにいいとは言えないが、とりあえず、現実を認め、低所得者を助けるために、公共料金の「基本料金」をゼロにしたらどうか。その代わり、使用料の増加に応じて、払う金を高くする。つまり、計算曲線の傾きを急にするのだ。コンピュータの計算式を改めるだけで、OKだ。電気、ガス、電話、下水道など全部そうすれば、月一万円近く節約できるかもしれない。
 ただし、使用を控えれば控える程、払う金が少なくて済むというのは、「貧乏人は麦を食え」的発想(古いなー、池田大蔵大臣が国会答弁でこう言って、社会党が反発し、辞職に追い込まれたんだっけ。バカな話だ)だ、と反発するのがいるかもしれないが。

 男子フィギュア、三人、表彰台独占。凄いな。浅田真央は、SPほどではなかったが……SPの完成度をフリーで維持するのはかなり難しいので、演技構成を少し考えた方がいいかもしれない。見る方も、四分というのは、結構長いし、「一気に見せる」というのではない方法を考えた方がいいのではないか。オレにコーチやらせろ、なんちて。

 アジア大会はじまる。水泳で中国選手に負けた日本の某選手、テレビインタビューで、「屈辱だ!」と顔を歪めて言い放った。わかる、その気持ち。
 朝鮮人を嫌う日本人は多いし、実際、拉致問題、原爆問題などそう思う理由もあるのだが、本音では、そんなに嫌ってはいないように思う。それに比べ、中国人とは、どうしても気があわない。しかし、それでもつきあわなければならない。どうしたらいいのだろう。一つ言えることは、中国人は、同様に日本人が嫌いだが、それを隠して、大歓迎して篭絡しようとする。これは、対日本人に限らずそうなのだが、「大歓迎」が何のためなのかをはっきりわかっていなければならない。さもないと、橋本元首相のように、痛いところを掴まれてしまう。
 ……と、安部首相が中国訪問して以来、政財界に浮ついた気分が蔓延しているらしいので、忠告したい。(私が忠告してもなんなんだが)