パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

フォローだフォー!

2005-10-28 13:17:37 | Weblog
 メールアドレス変更以後、はじめてミクシーに行き、メールの設定を変えたついでに、日記も二つ書くのはやっぱりしんどいので、こっちにリンクした。天下のミクシーとリンクした以上、これまでみたいに、SさんやMさんについて、勝手放題に書くわけにもいかない。
 というわけで、ちょっとフォロー。
 なんで、文句たらたらで仕事を続けたのかというと、まず、Sさんには過去、いろいろとお世話になった。それで、あくまでも技術スタッフという積もりで協力したのだ。しかし、Sさんが、私の事を「かつての全共闘の精神を今も頑固に保持している」ようなことを言ったり書いたりするので、それだけはやめてくれ、全共闘なんか大嫌いなんだから、デモだって、一回狩り出されて参加したものの、「アンポ フンサイ」とか、「オキナワ ダッカン」とか、わかってもないスローガンを叫ばされる馬鹿らしさ耐え切れず、それ以後は全然参加していないし、そもそも全共闘と日本共産党とどっちを選べ、と「究極の選択」を迫られたら共産党を選ぶくらいなんだ!とまで机を叩いて(Sさんが叩くもんだから、こっちも……)主張したのに、数日後、書き上がった「あとがき」には、「全共闘の根性を今も保持する」と相も変わらぬ文章が。Sさんの理屈で言うと、書かれた本人がいくら否定しようとも、「自分がそう考えているのだから、そう書くのだ。君には、私の頭の中を変えさせる権利はない」というわけなのだ。
 ……なんか、フォローするつもりが、全然そうなってない……。

 Mさんについては、ゲイ特有の(決めつけちゃってる……)人懐っこさがあるので、粘着的仕事の進め方に音をあげながらも、ともかく、我慢我慢でやってこれたような気がする。あと、Mさんは、若い頃、「シザリングス」という、すばらしい写真集を作った実績がある。これは、私に言わせれば、日本人の出した写真集として史上五本の指に入るとまで思っているくらいなのだ。実際のところは、草森紳一の示唆があってはじめて本になり得たという側面もあるけれど、Mさんにグラフィックデザインについて才能があることは確かで、それは一緒に仕事をして確認できることでもあったので、なんとか続けられたのである。

 うん、こっちはなんとかフォローになったようだ。
 ではまた。

納得いかへん

2005-10-27 19:44:00 | Weblog
 ロッテ優勝。バレンタイン監督の、典型的「外人の日本語」による優勝コメントを聞きつつ、チャンネルを変えたら、トム・ハンクスが大阪弁で「納得いかへん」と某映画で喋っていた、に92ヘーがついたところだった。その映画は、スピルバーグ監督の最新作で、地球上の架空の国の国民であるハンクスが、空港でテロリストか何かに間違えられて警察に連行されるl時に、「納得いかへん」とつぶやいているように聞こえるというのだ。「空耳アワー」ハリウッド版だが、「もっとも聞きなれない言語」として、わざとスピルバーグが日本語の関西弁をハンクスに喋らせたのではないかというコメントがついてて、ベッキー(だったかな?)が、「わー、もう一度聞きたい」と言ったら、ちびの司会者が生意気にも「ビデオを見てください」とぬかして、結局、それを聞くことはかなわなかったが(あのチビ、女性に人気があるらしいが……どこがいいねん!)、日本語は世界で最も孤立している言語だそうだし、あり得る話だ。

 さて、「無限」の話。「無限」では、部分が全体に等しいとはどういうことか?
 たとえば、「無限」に続く数字として、お馴染みの円周率(π)がある。具体的に書くと、3.141592653……と延々続くわけだが、この中で、9が6個続くケースを探すと、小数点以下762位から767位までに出現するという(「……134999999837……」だそうだ)。では、9が10個並ぶケースはというと、これは、まだ見つかっていない。しかし、πが無限である限り、それは必ずある。だったら、9が100個並ぶケースは? ないわけがない……。じゃあ、1000個は、1000000個は……? これも、πが無限である限り、あるに違いない。いや、ある。「ない」と言ったら、「無限」を否定することになるからだ。じゃあ、いっそのこと、9が無限個含まれているかどうか、と言ったら、これも否定できない。「????」と「?」が無限に続きそうだが、それが、「無限にあっては部分と全体は等しい」ということの意味なのだ。
 あるいは、こんな言い方もする。アルファベットを数字に置き換えると、πの中に人類がこれまで書いたすべての文章(シェイクスピアからボードレールから、三島由紀夫まで)が含まれている、と。

 Sさん本、できました。480ページ、厚さ37mm。立派です。少なくとも外見は。(そこにSさんが書き込んだこともπに含まれている……いや、今私がこうして書いている文章も……)もしかしたら、筑紫のニュース23に呼ばれるかもしれないとか。私、スタッフですが、納得いかへん(笑)。

新しい眼鏡

2005-10-25 16:03:06 | Weblog
 うさぴょんさんの他に、H氏からも「深謝には、ありがとうの意味が含まれると辞書にある」とのメール。謝謝(笑)。しかし、いくら言ってもMさんには通じない。「言葉ってのは、時代によって意味が変わるからね」と、まちがった使い方が一般化したのだ、とでも言いたそう、というか、そう言ったので、こりゃ、問題は「謝」という漢字の原義にあると思って、本屋で立ち読みしたら、「謝」とは、元来、「官職を去る」時に使われた言葉らしい。「無能でふつつかな私が、なんとか勤め上げることが出来ましたのも、みなさんのおかげです。謝謝(シェーシェー)」といった感じだろうか。この時の、「無能」「ふつつか」といった謙遜的意味合いが、「おわび」という意味に転化したのではあるまいか。いずれにせよ、「謝」という漢字には「おわび」と、いわゆる「感謝」の意味が両方含まれていることは……最初からわかっていたんだけど……あんまり理詰めの話にし過ぎると、最終的にMさんの面子が立たなくなる恐れがある。といって、ごりごりの「理詰め」で押しまくったのは元来、Mさんなんだが……。

 眼鏡の度があっていなくて、疲れるので、新しいのに変えた。最初、レンズとも5600円というバカ安のにしたのだが、検眼が終わって、最終的にきめる時、ふと横を見たらラルフローレンのポロブランドの縁が目に入り、試しにかけたら非常に感じがよい。しかし、値段がぐっと張って、15800円。一挙に三倍だ。しかし、店員の中年男性も、「ぐっと落ち着きますよ」と言う。「大学教授みたいだな」と、私。「自分で言うか!」と言いたげに、「くすっ」と笑う店員。くそっ、つい言っちまった。でも、以前の5600円の眼鏡だと、結局、満足感が得られずに、どうしても粗末に扱ってしまったことなどを考え、Sさん本の編集費用も期待して、思いきったのだ。
 で、その眼鏡が今日できたのだが、うーん、今のところ、満足である。

ぐた~

2005-10-24 00:36:40 | Weblog
 23日中に投稿するつもりが……一歩間に合わず、しょうがない。

 たとえば、コップの水にインクを一滴垂らすと、インクはコップ全体に広がってゆく。ごく当たり前に観察される現象だが、何故インクが拡散するのかというと、インクの分子がより密度の小さいところを求めて、水中を移動するからだ……と考えている人が多いと思う(私もそう考えていた)。が、実は全然ちがう。分子がでたらめに動いた、その結果なのだ。
 どういうことかというとたとえば、インクをコップの右から入れたとすると、コップの右側のほうから左に向ってインクは拡散してゆくが、インク分子自身は、「完全にでたらめ」に動いている。「完全にでたらめ」とはどういうことかというと、四方八方どちらにも偏しないということだ。(もちろん、重力の影響をうけてはいるが、それはすべての分子に一様に働くので無視してかまわない)「四方八方どちらにも偏しない」で動いているのに、何故、濃い方から薄い方へ動いてゆくのかというと、理由は物凄く単純で、「濃い方」に、インクの分子の数が多いからである。
 たとえば、コップの中央に仮想上の膜を引く。その膜によって引かれた境界線の近辺の分子の動きを観察するとどうなるか。インク分子の数が多い方(濃い方)から、少ない方へ動く分子もあれば、逆に少ない方から多い方に動く分子もあるが、全体的に見れば、数の多い方から、少ない方へと移動する分子の方が多いということになる。言い換えれば、分子レベルでインクの移動を観察すれば、インクは必ずしも「濃い方から薄い方」ばかりでなく、「薄い方から濃い方」にも移動していることが観察されるはずだ。その結果、ポアンカレの計算によれば、分子二個レベルなら、10の2乗秒、すなわち100秒の間に必ず一回は元の状態に復帰する。三個レベルなら、1000秒、すなわち15分、四個レベルで三時間……となり、17個レベルで早くも宇宙の年齢(130億年)に等しい時間を必要としてしまうことになる。

 前回は、こんな、ほら吹き男爵も腰を抜かす巨大数の話をしたのだが、そんなのは数学者や物理学者のお遊びであって、我々の現実とはなんの関係もない……かというと、そうでもない。というのは、我々が存在しているこの宇宙そのものが、ポアンカレ回帰の結果、生まれたのではないかという説がある。というか、ほとんど確実にそうだと思われるのは、エントロピー増大の法則というのがある。御存じと思うが、あらゆる秩序ある系は、時間の経過と共に無秩序に向っている、というもので、人が死ぬのもエントロピー増大の法則に則っている。言い換えると、人は、このエントロピー増大法則に反してこの世に生まれ、負のエントロピーを取り入れる(具体的に言えば、栄養摂取行動)ことで「エントロピー増大」を防ぎつつ、可能な限り生き続けようとしているのである。
 我々の宇宙も同様で、いずれエントロピーも限界に達して「熱死」する、と考えられていた。「いた」というのは、最近の研究では必ずしもそうではないという結論に達したらしいからだけれど、いずれにせよ、宇宙が現に存在し、エントロピー増大の傾向をたどっているということは、その最初に「エントロピー最小」の状態が実現していたはずである。それが、「ポアンカレ回帰」の結果ではないかというのだ。
 喩えとして……適当かどうかわからないが……無数の、何百兆個ものコインが、勝手に、つまりでたらめに裏になり表になりを繰り返しているとする。それが、ある時(「時」というのも適当ではないけれど)、すべて表(あるいは裏)になった……これが、宇宙の始まりである。すべてのコインが表(あるいは裏)になる理由、あるいは原因、目的はない。あくまでも「確率」の問題で、基本原理はマージャンの「天和」と同じである。ついでに「時間」のことを言うと、コインが裏になり表になっている様を映画に撮影し、それを逆回転させて上映しても、前の状態と区別はつかない。つまり、「時間(=時間の矢)」は発生していない。一方、コインをすべて「表」にしてから、それを机に転がし、撮影したらどうなるか。逆回転と正回転は直ちに区別がつき、「時間(=時間の矢)」が発生したことになる。

 さて、Sさん本の入稿が終わって、なんか、すっかりぐた~ってなってしまった。いつお金くれるかな~、金が入ったらしゃきっとするんだけどね~。

 Mさんに、「深く感謝」って、普通に使っているという人が多いスよ、たとえば「深謝する」なんて言葉があるでしょ、と言うと、「《深謝》は、深く謝っているのであって、決して《ありがとう》ではない」と反論してきた。なるほどね~、言うね~、……でもよく考えたらおかしい、やっぱり。と考えていると、Mさん、本文中にも「深く感謝する」という言い回しをみつけたが、さすがにもう間に合わない(印刷が済んじゃってる)のであきらめたようなことを言い出した。「間に合った」ら、直させるつもりだったのだろうか。冗談じゃないが、たぶんそうだろう。他のところで直しているのだから、「誤り」を放置してよいわけがない。斯く考えると、この問題、事と場合によっては重大な問題に発展しかねなかったかもしれない。ばからしいが。

「イラクサの園」って、覚えてますか?

2005-10-17 17:38:19 | Weblog
 今、南原企画の事務所で連続的に写真展をやっているのですが、前回のEさんの時の話。
 最終日の前日、ラス前ってやつですな、「女流書家」だという人がやってきて、Eさんとの共通の知人である中村某氏の話になった。中村氏は、数年前に脳硬塞で倒れたらしいが、寝たきりになったわけではない。だから、展覧会に来ようと思えば来れるのだが、まだ来ていないとEさんが言った。「女流書家」氏は、じゃあ、私が電話して、来るように言うわ、と言うなり、携帯で「中村氏」を呼び出した。
 「中村さん、Eさんの展覧会、なんで来ないのよ。なに? 脳硬塞で……わかってるわよ、でも歩けるんでしょ。え? もう一度倒れたら死ぬって医者に言われた? じゃあ、なおさらじゃない。Eさんの写真展は、明日、最終日なの。いい、必ず来るのよ! 見納めよ!」
 と、結論的にはこんな強引な内容の電話が延々三、四〇分続いた。時々、その「中村氏」の言い訳している声が聞こえる。でも何と言っているかはわからなかった。

 さて、その翌日、中村さんが現れた。私は、ずっと壁の向こう側で、例のSさん本の仕事をしていたのだが、Eさんが、その私を読んだ。
 「ちょっとちょっと」
 出ていくと、杖をついた初老の男性がいる。
 「昨日の電話、覚えているでしょ。あれで呼び出された中村さんです」
 「あ、どうも」
 「どなたかわかりません?」
 とEさん。
 「……わかりませんが……僕が知っている方ですか」
 「中村です。以前、アランでお世話になりました」
 「……ん? 中村……もしかして、中村裕之さん?」
 「そうです。『刺草(イラクサ)の園』を書いた」

 びっくりだなーもう。覚えている人、いますか? お耽美小説『イラクサの園』。能の宗家であるなんたら老人とその息子たちの話。ストーリーは全然覚えていないが(連載当時もストーリーは、ついいにわからぬまま(笑)だったのだけどね)、なぜか印象的で、だから「中村裕之」という名前も覚えていたのだ。それにしても、こんなところ(?)でお会いするとは、奇遇中の奇遇であると、ひとしきり昔話をした。
 「初老の老人で杖をついている」なんて書くと、いかにも枯れた隠遁老人のイメージだが、中村氏は、実際は、足こそたしかに若干不自由だが、血色も良く、痩せてもいない。でも、もう二回も脳硬塞で倒れたので、医者に「今度倒れたら命の保障はできない」と言われたことは事実らしく、別れ際、「死が近くなると、昔の知り合いに会うそうですよ。私もそろそろ……ハッハッハ」と笑って帰っていったが、「偶然」というものは、時間が長くなれば長くなるほど起こる確率も高くなるわけで、「死期が近くなると昔の知り合いに会う」ということは別に不思議な現象でも何でもない。

 たとえば、ちょっと前に、「凍ったストーブの上のやかんの水が、ストーブに火を入れなくとも、いつか沸騰する」、という話を書いたけれど、これは、「もしかしたらそういうこともあるかもしれない」のではなく、必ずそうなるのだ。
 え? なんで?と思われるかもしれないが、ちゃんと物理学の本に書いてあるのだ。で、その物理学書に従い、もう少しちゃんと書くと、「かつて沸騰していたが、今は冷水の入ったやかん」でも、充分に長い時間をかけると「かつて沸騰していた」状態に必ず回帰するというもので、ポアンカレという数学者が「厳密な数学的証明」を経て主張したことから、「ポアンカレ回帰」と呼ばれている。
 ただし、この「ポアンカレ回帰」が起こるに必要な時間はめちゃくちゃ長い。めちゃくちゃなんてもんじゃない。お釈迦様が何十億回も生まれ変わったとか言うけれど、そんなもんじゃない。
 たとえば、コップ一杯の熱湯がやがて冷えて普通の水になる。これが、「ポアンカレ回帰」で再び熱湯になるのにどれくらいの時間が必要かと言うと、コップ一杯分の水に含まれている水の分子の数をNとすると、10のN乗秒かかる。で、この「N」がどれくらいの数字かというと、コップ一杯分の水の分子1個1個に色を塗った上で、海に注ぎ込む。注いだら、海の水を南極から北極まで、大平洋から大西洋まで、インド洋から日本海まで……ともかく、地球の海すべてを充分にかきまぜる。かきまぜたら、再び、海の水をコップ一杯汲む。そのコップ一杯の水に、最初に色をつけた水の分子がどれくらい含まれているかと言うと、数百個(だったか数千個だったか)もある。あるいは、コップ一杯分の水の分子を1個1個数珠つなぎに繋ぐと、地球から太陽まで何往復もできる……とか、まあ、いろいろな「喩え話」があるが、そのような膨大な数のベキ数秒かかるのだ。具体的に言うと、10×10×10×10×10×10を……よくわからないけど、何兆の何兆倍回か繰り返した秒数だ。
 といってもまだピンと来ない方には、こう言おう。我々が生きているこの「宇宙」の年齢(130億年)ですら、まだたったの10の17乗秒、つまり、10を17回かけた秒しか経っていないのだ。
 じゃあ、 要するに、「ポアンカレ回帰」なんて我々には関係ないじゃんと言えばその通りなのだけれど、そんなことは宇宙開闢以来、一度も起きていないかというと、そうではない。我々の身の回りで、しょっちゅう起きてはいるのだ。
 たとえば、コインを三個用意して、それを机の上にばらまく。最初は、……なんでもよいが、わかりやすくするために、三個とも表だったとする。次に、「三個とも表」という状態に「回帰」するには、五、六回も繰り返せばよいだろう。四個だったら、もっとかかるが10分もやっていれば、大丈夫だろう。でも、10個だったら、一晩中繰り替えしてもだめかもしれない。20個だったら、100個だったら……というわけだ。これをコップ一杯の水にたとえれば、何百兆個もあるだろう水分子のうち、三個、四個、十個、百個……といった範囲内で観察すれば、「ポアンカレ回帰」はしょっちゅう観察されるが(実は、これが「ブラウン運動」なのだけれど……と思うのだけどね)、何億個単位(それでも水滴1個にも全然満たないだろうが)だったら、何百億年も観察し続けなければ、「ポアンカレ回帰」を観測することはできないのだ。

 とまあ、そういうとてつもない話しなのだけれど、モノの本によると、ニーチェの「永劫回帰」思想は、この「ポアンカレ回帰」に刺激されたものらしい。実際、「ポアンカレ回帰」にしたがって物理現象を研究し、「エントロピー概念」を仕上げたボルツマンという物理学者は、ニーチェに先立つロマン派哲学者の嚆矢、重鎮であるショーペンハウアー哲学に凝ったあまり、自殺しちゃったらしいし。

 と、中村先生の「イラクサの園」に近い話題に回帰したところで、では、また。

筑紫哲也を巻き込みてんやわんやの大騒ぎの一幕

2005-10-15 23:27:19 | Weblog
 久しぶりです。やっとSさん本の入稿が終わりまして……筑紫哲也も巻き込んで、えらい騒ぎでした。いや、筑紫さん本人はこうなってるとは、もちろん、露知らずなんですが。
 本の入稿まぎわが修羅場になることは、当たり前なものの、今回のような大騒ぎははじめてだ。60過ぎの大の大人が(ちなみに私ではありません)土下座するわ、号泣するわの大騒ぎ。おかげで私は長岡の印刷屋まで上越新幹線「トキMAX」で行かされる始末。

 上越新幹線なんて乗ったことない。始発がどこかもわからない。でも上越線なら上野だろうと思って、地下鉄駅御苑前駅で駅員に、「上越新幹線に乗りたいんですが、上野ですよね。」と聞くと、駅員は一瞬怪訝そうな顔をしたが、「上野でしたら、四谷でJRに乗り換えて秋葉原から行くのが近いですよ」と言われた。その通りにしたら、たしかにとてもスムースに上野に着いたが、上越新幹線の始発駅は「東京駅」で、次の停車駅が「上野」なんだった。
 ま、ともかく、凄いですね、二階建ての新幹線。上野駅に出発ぎりぎりに着いたら、ちょうどホームに静々と入ってくるところ。
 「で、でかい!」
 感激して、思わずスティールのボディをなでなでしてたら、駅員に「ダメ、触っちゃ」と怒られた、ってのは、もちろん嘘。もう、嬉しくってなでまわしまたよ。トキを。
 さて、乗ってまた驚き。出発ギリギリに飛び乗ったもので、自由席車両まで四、五両分を、二階建てだから階段を昇っては降り、降りては昇りをくりかえしながら、内部を観察。外見もスケールがでかかったが、内部もさらに凄い。シベリア超特急にでも乗ったかのような重厚さで、感激する私を乗せたトキは、二階建てで背が高い分、揺れはややあるようだが、そのまま清水トンネルに突入! 映画「ミッションインポッ渋る」いや、「ミッションインポッシブル」は、絶対この車両で撮影すべきだったと大興奮。清水トンネルの中を飛ぶヘリコプター……無理か。
 と、まあ、日本は本当に世界に寒たる圧倒的鉄道大国であると認識を新たにしながら(こんな鉄道、全国民あげてのよほどの執念がなきゃできないぜ)、長岡に着いた。長岡もいい街だ。私の知っている限りでは、相模原市と雰囲気が似ているなと思ったが、要するに平野の中心で、坂がないってことが共通しているのだろう。
 

 と、まあ長岡行きに関してはこれくらいにして、印刷屋にもっていったデータはカラーページを含むデータ量の大きいもののみ。残りはメールで送ります、と現場のオペレーターに言った。実は、全部持っていこうと思えばできたのだが、Mさんと相談して、Sさんの態度次第で残りを送稿しようということになったのだ。もし、態度が気に食わなかったら、「残りは送りません、我々は職場放棄します。よって、本も出ませんよ」と。
 と、いかに険悪な状態でフィニッシュを迎えようとしていたかということなのだけれど、幸いにして、なんとか丸くおさまり(この結末は、私にしては微妙なところ……)、ちょっと手こずりながら、残りのデータをメール送稿したのが昨夜。
 やれやれと、何日ぶりかで風呂屋に行って、翌日(ということは今日)のお昼前、Mさんから、息絶え絶えの声で電話が入った。
 「とんでもない間違えを見つけちゃったのよ」
 「え? どこですか?」
 「冒頭のSさんの《謝辞》があるでしょ。あそこ。《この本づくりに加わってくれたすべての人に深く感謝します》ってあるところ」
 「どこがいけないんです?」
 「《深く感謝》なんて言い方はないの。言うんだったら《厚く感謝》じゃなきゃいけないのよ」
 実は、昨夜、送稿が終わってから、この問題をMさんが持ち出し、私は、「どっちでもいいでしょ」と答えたのだったが、その後、Mさんは、本屋に行き、手当りしだい辞書を調べた結果、「広辞林」に用例が載っていて、そこに「厚く感謝」みたいに書かれていたというのだ。
 「《深くおわびします》はあるけど、《深く感謝します》とは言わないのよ」
 「そんなことないでしょ」
 「だってさ、《厚くおわびします》とは言わないでしょ」
 昨夜もしきりに言っていた「理屈」だが、なんだかなー、だ。
 「昨日も言いましたけどね、《深く感謝》で充分に意味は通じるでしょ」
 「そりゃあ、通じる。意味はね。でも、そんな問題じゃないのよ」
 「じゃあ、なんの問題です?」
 「編集者として恥ずかしいじゃない。言葉遣いを知らない、ってバカにされる」
 「バカにされませんよ」
 「いや、バカにされる!」
 の押し問答。実は、昨日の晩、奥付の出版社の番地が「1個」違っていたことも見つけた。でも、奥付ページは一昨日長岡に持っていったデータに含まれていて、もう印刷をはじめちゃっているのでどうしょうもないのだが、こっちの方が問題だろう。
 「どうしても直さないとまずいことなら、しょうがないけれど、こんなどっちでもいい問題でわざわざ印刷屋に電話して直させるなんて、僕はお断りします」
 「え? どうでもいいこと? 全然そうじゃないよ。大変なことよ。我々の名誉に関わるのよ。お願い、電話して!」
 と、電話口で身をよじっているのが目に見える。しょーがねーなー。
 「わかりました。じゃあ、まあ電話しますが、間に合わないって言われたらあきらめてくださいね」
 「えー! そんなこと言わないで、粘ってよ」
 「納豆もオクラもとろろ芋も大好きだけど、こんなことで粘るのはイヤです。」

 で、結果は結局OKだったのだが、確認のため、印刷屋から送られてきたファックスを見ながら、こっちも辞書で調べてみたら、「厚く」は、「思い遣り、気配り」の気持ちを表すとある。だから、「厚くおわびします」とは言わないわけだ。別におどろくようなことではないが。次に「深く」を調べたら、「底の見えないくらい深い様子」の他に、「ある状態があまねくおおっている様子」を指すとあって、用例として「秋が深まる」「毛深い」があった。へー、なるへそ。じゃあ、ここは、「みんなに深く感謝」でもいいわけじゃないか。つまり、「みんな」に対して「あまねく感謝する」という意味だ。まあ、ちょっとこじつけかもしれないが、そんなことを電話の報告がてらにMさんに言ったが、Mさんはそんなのそっちのけで、「よかったあ」の連発。
 「何が《よかった》んですか。どっちでも《よかった》だけじゃないですか」
 と皮肉るが、全然反能無し。無邪気に喜んでいる。まあ、それがMさんのいいところではあるのだけれど、癪なので、もう一度念を押して、「深く」でも構わなかったと思うと言うと、「深く」の意味も知っていて、でもやっぱり「厚く感謝」でよかったんだと主張する。
 「ほんとうによかったわー」
 「《厚く感謝》が過ぎると、《厚かましい》ってなるんですよね」
 と最後っぺの皮肉を放ったが、のれんに腕押しで、「じゃあねぇ、また電話するねぇ」で、ちょん。やれやれ。

iMac=無法松説

2005-10-08 14:45:26 | Weblog
 久しぶりに、Mさんの事務所兼レストランでiMac(旧型)を使ってアルバイト。南原企画で使っているのは「青白」のG3だが、iMacのほうがスピードが速く、安定している。
 「気持ちいいですねー、MさんのiMacは」
 「そう?」
 Mさんは、パソコンはまったくいじれない。
 「iMacっていいのかな?」
 「ベストセラーですからね。……それに後期型だから、いろいろ改良されたということもあるかもしれないけれど、結局、いいものに当たったということでしょう」

 ……と大いに誉め讃えながら作業をしていると、突如、「カラカラカラカラ」と音がしだした。実はこの嫌な音は以前から時々してたのだが、その時はすぐにおさまり、その間、機能がおかしくなることもなかった。しかし、今回は違う。音が止まない。そのうち、突如、画面が動かなくなってしまった。
 「ン!」
 Mさんの指示で、ある文章を訂正するために範囲指定したのだが、色が指定色に変わったあたりで動かなくなった。したがって、フリーズといえばまさにフリーズなのだが……フリーズへの入り方があまりにもスムースなフリーズ(?)で、普通とちょっと違うような感じだったので、少し待てばもとに戻るだろうと軽く考えたが、「カラカラカラカラ」という音は消えず、フリーズも一向に溶けない。
 ……こ、これは、一向一揆、いやHDがいかれたのか? だとしたら、御臨終だ。手の施しようがない。
 Mさん自身は本質的に「ゲイ」の人で、今の奥さん(レストランのシェフ役をしている)も、Mさんのそういうところが気に入ったのだろうと、勝手に(ホントに勝手に……Mさん、奥さん、ごめんなさい)思っているのだけれど、もしかしたら、iMacでホモビデオや写真のコレクションくらいしているかもしれない、だったらヤバいが、パソコンをいれないのだから、そんなことはないだろうということで、「データだけを助け出すことはできるらかもしれませんが、かなり高いですよ、40万くらいかかったってある雑誌に書いてありました。」と言った。
 「うへー、オレがそんなに出せるわけないでしょ。」
 だよなあ。店に来てからほぼ二時間経つが、客は全然いないまま。
 そこに、奥さんが顔を出した。
 「どうしたの?」
 「パソコンが壊れちゃったらしいんだよ」
 「あんたたち、さっき誉めてたでしょ。誉めちゃいけないのよ。誉めちゃあ、絶対だめ! つけあがるから」
 ……そうかもしれないですねー、ちょっと誉めすぎたかも、と、私の機械じゃないことをいいことに、適当に返事をして遊んでいたが、とにもかくにも再起動してみましょう、そうすると直る場合がありますから、と繰り返しすうち、三回目ぐらいで順調に起動した。
 「あ、直りました」
 「あたしが、きつく叱ったからよ」
 いや、まあ……でも、またいつダメになるかわからない状態なので、必要なデータだけとりあえずMOに移して……といっても、何が大事かも、本人、よくわからないのだが、適当に選んで移し終わったところで、また「カラカラカラカラ」と音がして、フリーズしてしまった。役立つかどうかわからないが、最小限のデータはなんとか保存できたわけだ。
 「お、奥さん、……こ、これで勘弁してつかあさい……奥さん、わしにきつかったけど……好きでしたばい……ガクッ」(iMacは無法松か!)って。(本当に、「他人の不幸」は、「私」を傷つけないなあ……と実感)

クイズ、その2

2005-10-06 12:33:19 | Weblog
 昨日の書き込みに「コメント1」と表記されていたので開いてみたら、自分で書き込んだ「クイズの答え」だった。がっくし。

 というわけで、今日はクイズしょの2だ! 答えは、記事の中で。
 
 このブログにも書いたけれど、今、一部、部屋の模様替えをしているのだが、壁の作製は大方終わり、ぼちぼちペンキ塗り段階にとりかかろうと、一昨日、ペンキを買ってきた。(ちなみに、今では普通のお店では「家庭用ペンキ」はすっかり斜陽製品で、行った店でも、店頭に並べたもので全部で在庫はないと言っていた。メーカーにもないんだそうだ。え? ペンキって、もはや、そもそも「日本では作ってない」の? そんなことはないと思うのだが……まあ、それはさておく)
 ペンキを使う前には、充分かき混ぜなければならない。それで、帰り道、カクテルのシェークのごとくしばし振った。本当は、棒か何かでじかに混ぜなければならないのだけれど、その労力を少しでも軽減しようと思って。ところが、ふたを開けたら、全然まじっていない。透明液(水分)が上澄みになって、その向こうにペンキ本体(?)が沈んでいる。まあ、これは、ちょっと振ったくらいでは混ざらないというだけのことなのだろうが、さて、ここで問題だ。

 液体と空気では事情がやや異なるが、我々(すべての生物)の生存に絶対不可欠な「空気」は、周知の通り、窒素、酸素、その他が混じった混合ガスである。もう少し詳しく言えば、真空の中を、窒素、酸素などの分子が猛烈なスピードで飛び交っている、それが「空気」だ。(分子の動く早さは極めて速い。たとえば、液体の中でさえ音速より速い!そうだ)
 しかし、いかに軽いとはいえ、窒素も酸素も「重さ」がある。だったら、それら空気を構成する諸分子は、店に置きっぱなしのペンキ液のごとく、時間が経てば最下層に沈澱するはずではないか。しかし、実際は、幸いなことに、そうではない。何故だろう? これがクイズである。

 昔、中国の杞の国に、天が落ちてはきまいかと心配した人がいたそうだが、実は、彼の心配はいかにももっともなのである。空気中を飛び交う酸素分子が重力で落下して地面にうすく張り付いてしまったら、我々は、腹這いになって生きなければならない。いや、その前に、液体酸素になってしまうだろう。これじゃあ、生きてゆけない。
 この、杞の国の心配症の御人に対しては、ある知識人が、「心配御無用。天の実体は我々の頭上にあるのではなく、我々を包みながら上方に向って積み重なっているのだ。これを「気」とゆうのじゃ。だから、崩れる心配はないのじゃよ。ふぉほっほっほ」と諭したことになっているが、この説明も、基本的には正しい。たとえば、「気(=空気)」は下ほど気圧が高く、昇れば昇るほど低くなっている。これは、「気」は積み重なっている、という古代中国人の説明にほぼ等しい。
 しかし、だ。なんで「積み重なる」のか。もし、酸素、窒素などに「重さ」があるのなら(実際、あるのだが)長い時間が経てば、酸素、窒素分子が全て落下して、最後には液体空気(?)になるはずではないか? そもそも、空気の密度が上に行くほど希薄だということは、空気それ自体が「重力」の作用を受けている証拠である。だったら、なんでそれが徹底されないのか。(おかげで我々は生きてゆけるのだが)まだ時間不足なのだろうか? 四〇億年も経ちながら?

 実は、空気中の分子は、前に書いたが、激しく動いている。それが、ブラウン運動なのだが、この「動き」を別様に説明すると、「気体は拡散しようとしている」のである。どこまで? すべてが「均一」になるまでだ。たとえば、冷たい空気と温かい空気が接したら、両方入り交じって、やがて均一な温度になる。当たり前に観察される事実だが、だとしたら、今度は逆の疑問が生じる。

 地球を取り囲む「空気」はなんで宇宙に拡散して行かないのか? 

 もちろん、そうなればそうなったで、我々は生きて行けなくなるから、空気(中の分子)が、どちらの理屈にも従わないでくれて大助かりなんだが、それはともかく、答えは、「ブラウン運動にょる拡散と、重力を受けての落下」の2原則の狭間で「妥協した結果」なんだそうだ。「妥協」って、科学ジャンルの説明にしては変な言葉だけれど、「ブルーバックス」にはそう書いてあった。そうとしか説明できない、ということらしいが、まあともかく、どっちつかずの優柔不断の結果、「上空に向って希薄になりながら積み重なっている」のが、我らが「大気」ちゃんなのだ。大気ちゃん、ありがとう。

 追伸 不可解な離婚をした「鈴木大地」っていたけど(今もいるけど)、「大気」って名前はないのだろうか。「鈴木大気」……んー今イチか。

今日はクイズです

2005-10-04 14:36:03 | Weblog
 情においてしのびがたく、使える内は使ってあげようと、切れない老い耄れノコを使っている最中のことでした。机の上においてあった道具箱に手が触れ、道具箱は真逆様に床の上に。道具箱には釘、木ねじ等がいっぱいつまっている。そして、蓋はあきっぱなし。あーあ、またよけいな仕事が増えたか、と思って下を見たら、なんと、釘、木ねじは一個も散らばっていなかった。さて、何故でしょう。とんちでもなんでもありません。事実です。答えは、コメント欄で。

 ついでに、夢解釈の話。
 三、四日前、こんな夢を見た。
 私はある部屋の中にいる。部屋は木張りの壁に囲まれている(これは、まちがいなく、今作っている部屋のイメージが夢の材料になったのだろう)。そこに、若い男がやってきて、寄付をしてくれ、という。なんの寄付かわからないが、貯金箱のようなものを持っている。困ったなあ、どうやって断ればいいだろう、と思っているうち、部屋が徐々に揺れだした。地震だ! かなり大きい。男は、寄付集めどころではなくなり、おろおろしている。部屋の揺れはさらに大きくなり、窓から外を見たら、景色が激しく揺れている様子がわかる。すごいなー、と思っているうち、カタストロフには至らないいまま目がさめた。

 さて、この夢の意味は?
 問題の焦点は、「寄付金集め」が何を意味するかだ。次に、私がそれを払いたくないと思っていることだ。何故、払いたくないのか。それはともかく、地震は、私の「払いたくない」気持ちの表現で、実際、そのおかげで払わずに済んだのである。
 ずばり、解答を言うと、「寄付金」は「国民健康保険」のことだ。「寄付金集め」の男はその徴収員である。
 というのは、夢を見た数日前、新しい保険証が届いたのだ。お金払ってないのに(笑)。いやー、日本はほんとうにいい国だ。「日本をあきらめない」だなんて、とんでもないよ、民主党君。
 それはともかく、掛け金払ってないのに保険証がいただけるとは、実に有り難いが、実際の所、幸いなことに、その保険証は使っていない。いや、一度、ガラスの破片で手を切った時に使った。でも、それだけ。もちろん、「使ってないから払わない」、というわけじゃない。
 もちろん、今の健康保険制度がベストとは思っていない。特に、医者の不正請求をチェックできるシステムが組み込まれていないところが門d内だ。だが、しかし、掛け金で他の人の医療負担の一部をまかなうとまあ、一種の互助組合のようなものと解釈することで、自分が医者にかかるか否かとは別に、払ってもいい、というか払うべきと思っている。今はよくても、いつ医者にかかるかわからないから。具体的に言うと、数年前に差し歯が抜けてしまい、作り直さなければいけないのだが、ダスティン・ホフマンの「マラソンマン」を見て以来、それまでも歯医者が大嫌いだったのだが(好きな人なんていないだろうが)、ローレンス・オリヴィエの名演技に震え上がって、絶対に歯医者なんかに行くもんかと決めちゃったのだ。でも、現実には行かないわけにはいかないなあ……もうじき保険証の有効期間も過ぎちゃうし、と思い悩んでいるところに新しい保険証が届いたのだ。有り難い。これで歯医者に行ける。実に有り難い話だが、おかげで、保険料の支払い問題が現実味を帯びてきた。
 実を言うと、ここ一月ほど、Sさん本の編集費用の一部前払いを受けたりとか、蜂巣くんの筑摩文庫本に書いた「解説」の原稿料が入ったり(どうもどうも、蜂巣君ありがとう)で、ちょびっと、ほんとうにちょびっとだけど、一息つけている。じゃあ、「つけている」なら、払わなあかんじゃないか……でも、でも……ちょびいっとなんだよな、お役所はそれをわかってはくれまい……と思い悩んでいたところに、「寄付金徴集員を地震で一時撃退する夢」を見たのだ。
 これで夢の意味ははっきりしたといっていいのだが、それを確認するかのような夢を見た。まさに夢を見た翌日、「健康保険料料金につき相談致度候」という役所通知がポストに入っていたのだ。正夢だったのだ!(こういうのは「正夢」とは言わないか)

ノコギリを買ってしみじみした話

2005-10-03 14:00:16 | Weblog
 2週間ほど前から部屋の根本的模様替えをはじめた。それで、ノコギリを買ったのだが、わずか2日使っただけでぼろぼろ歯こぼれしてしまった。もちろん、高級品なんかじゃないけれど、店に並んでいた中では、中くらいだ。(中の下かな)
 それで、フリーマーケットで中古を探すことにして、昨日、明治公園に行き、ぶらぶら会場を歩きながら探した。その途中で、カシオの70年代末期から80年代初期のものとおぼしきデジタル腕時計を見つけた。カシオの古いデジタルウォッチを集めているというわけではないのだが、見つけるとつい目が止まってしまうのだ。まあ、たいしてかっこよくもないのだが、なんか好きなのだ、80年代デジタルウォッチが。それで手にとって眺めていると、店のおやじが「1500円だよ」と言った。首を振ったら、1000円でいいという。また首を振ったら、800円でどう?と続けた。「500円なら」と言うと、「500円はない。800円で勘弁してよ。電池を入れたばっかりなんだからさ」と言う。そこで、気を改め、「ノコギリ買いにきたんだ。時計はいいよ」と言って、向いの店を見ると、ノコギリがあった。でも、よく見たら植木伐採用のノコギリみたいで、歯の一つ一つがえらくでかい。用途がちょっと違うようだ。それで、立ち去ろうとしたら、肩を叩く者がいる。振り返ったら、さっきのおやじだ。
 「500円でいいよ」。
 「500円なら買ってもいいいよ」みたいなことを言った手前、買わなければしょうがないかと思い、オーケーした。いざとなったら、電池だけでもゲットだ。しかし、ちゃんと動くのか? 一応、文字表示はなされているのだけれど、あちこち押しても、モードが切り替わらない。おやじは、「俺も詳しくはないんだ。家に帰ってからじっくり遊んでよ」と言う。なんか、ちょっと雲行きが怪しくなったが、まあいいかと、またぶらぶら歩きながら、いろいろ押してみた。でも、ダメ。ん~、本格的に怪しくなってきたなあ。
 結論。ダメでした。ちくしょー。「口は災いのもと」とは、まさにこのことだな。

 で、ノコギリなのだけれど、お婆さんが店番をしているところで、一丁300円で買った。もちろん、歯こぼれはしていない。使い込んで、しかも歯こぼれしていないとすれば、まあまあではないかと判断したのだが、でも、歯こぼれしたノコギリは、さすがにフリーマーケットといえども、商品にはならないだろう。要するに、使ってみないとわからないということだ。
 ついでに、ラチェット式のプラスドライバーを100円で買って帰った。

 さて、早速試し挽き。2日で歯こぼれしてしまったノコに比べ、歯自体のそりが小さいので、挽き幅が小さく、挽き跡も綺麗である。端正というか、きちんとしているというか……しかしい、あまりよく切れない(笑)。文字どおり、「切れ味」が鈍い。古道具だものなあ、しょうがないか、と思いながら、試しに今まで使っていた、歯こぼれしまくりのノコで挽いてみた。……切れる! なんだかんだ言って、こっちのほうが切れる! 部屋の模様替えが完成する頃には、さらに一段、二段、歯こぼれが増えて、すっかり切れなくなるのだろうが、今のところは、こっちのほうがいい! さしずめ、できは悪いが若さの勢いだけはある若者VS若い頃は抜群の切れ味を誇ったが、今はすっかり鈍ってしいまった老人、て構図か。なんか、しみじみしてしまった。

 追伸 ラチェット式ドライバーは大変に具合がよろしい。作りもしっかりしているし、結局、総額900円で、ドライバー一本買ったようなものだ。