パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「プレゼント下さい」

2007-05-30 19:31:01 | Weblog
 昨日はミスユニバースになった森理世さんを誉めたのだが、今日はカンヌ映画祭で賞をとった河瀬直美をけなす!

 なんだ、あいつは! 彼女の映画は見たことないので、何も言わないが、あの受賞の際の傲慢な態度はなんだ!

 とはいっても写真で見ただけなのだが、どのカットを見ても、謙虚さのかけらもない、得意満面といった表情で、心底呆れた。

 彼女の映画を見たことがないと書いたが、淀川長治が「映画になっていない!」と怒り心頭の文章を書いたことをはじめとして、「おもしろくない」という評判が数多(あまた)存在していることは知っている。
 昨日も、彼女の映画の先生が彼女についてテレビで喋っていたが、その発言内容は、つまるところ、「私は彼女の先生だったが、彼女に頭があがらない。何故なら、私は賞を取ったことがないから」といったもので、彼女の作品にはあまり触れていなかったように思う。

 それはともかく、河瀬直美自身は、自分の作品の評判が日本では芳しくないことを知らないはずがない。ということは、彼女のカンヌにおけるあのあからさまな得意満面、傲慢不遜な態度はそれが原因しているのかもしれない。

 しかし、そうは思うのだが、しかし、今日(5月30日)、帰国した彼女の第一声には驚いた。「うどん食べたい、プレゼント下さい」だ。5月30日は彼女の誕生日なんだそうだ。

 日本での不評判を、カンヌにおける受賞で見返してやった、と感じる気持ちは解るのだが、「プレゼント下さい」を聞いて、本格的に彼女はバカなんだと思った そもそも、彼女が演出している様子が全然頭に浮かばない。彼女の顔・表情から、知性のかけらも感じられないからだ。

 しかし、小栗康平の『死の棘』とか、タケシの『座頭市』がグランプリをとっちゃうなんて、ヨーロッパ人は何を考えているのだろう。ポストモダンの相対主義で頭がどうかなっちゃっているのではないだろうか。

 ちなみに、私はタケシ映画が嫌いというわけじゃない。あちこちで書き込んでいるが、『みんな、やってるか~』なんか、大好きで、ブニュエルの『自由の幻想』に匹敵する傑作ではないかとすら思っているのだが、そのブニュエルが神様であるヨーロッパでは、タケシ映画中、唯一、この『みんな、やってるか~』のみ不評なんだそうだ。

 もちろん、私こそ正しいのだなんて言う積もりはないのだが……わけがわからない。(やっぱりポストモダン思想のせいか?)

サンキュー・ソー・マッチどすえ

2007-05-29 22:42:12 | Weblog
 政治評論家の三宅のおじいさんが、「政治家が自ら命を断つとしたら、それは、自分の政治生命が断たれたと思った時だ」と喋っていて、「なるほど」と思ったが、では、松岡大臣の場合はどうなんだろう。三宅氏が言うように、松岡大臣が、何らかの理由で「自分の政治生命が断たれた」と思ったことは確かだろうが、どんなに凄い理由があるに違いないと思っても、そう思うのは、当人の「主観」に過ぎないのだから、「な~んだ」と周囲が拍子抜けするような理由であるかもしれない。

 いずれにせよ、安部ちゃんはピンチだが、とっておきのピンチ脱出策がある。それは、誰も指摘していないが、事務所の光熱費について、安部首相の「法的に適正に処理している」といった鼻で括ったような態度を改め、徹底的に調べると宣言し、実行することだ。もちろん、法的に違反してないことを強権的に調べるということは異例だが、「異例」を行うことで反転攻撃も可能ではないかと思うのだが、どうだろう。

 ミスユニバース、日本代表が優勝。

 このニュースはテレビニュースをラジオで聞いたのだが、テレビをラジオで「聞く」と思わぬ発見がある。
 今回は、優勝者のコメント、「サンキューソーマッチ」が、カナダ留学の経験があるのだそうで、達者なのだが、なんとなくのんびり、ほんわかしていて好感をもった。こういったことは、テレビでは画面に心が奪われて、なかなか気づかない。
 また、その後で、エベレスト山に71歳で登頂に成功したおじいさんの奥さんの感想が流れて来たが、これも、「エベレストに登ったなんて、あたしは何も知りませんの。」といった言葉がまた、のんびり、ほんわかとしていて、年齢の差こそあれ、雰囲気が似ている。

 たしか、金田一春彦だったと思うが、外国人の女性は、たとえ若くて絶世の美女でも、パーティーなどで男と喋っているところを見ると、決してセクシーではない、むしろ、男のように見えると書いていた。
 何故なら、外国の女性は、一般的に、セクシーになろうとする時は、自らそうなろうとしてなるのであって、セクシーになるべき場ではないと思ったら、そう誤解されないように、「男のように」喋るからだそうだ。

 金田一に言わせると、ところが、日本の女性だけは違う。雰囲気的にもっとも近いはずの韓国女性などと比べてもはっきりしているのだが、どんな場合でも、相手に「女性性」を認識させる雰囲気を、年齢に関係なく、発散しているという。(これが、日本女性が歓迎される主な理由だそうだ。多分、日本独特の「女言葉」が影響しているのだろうが)

 ミスユニバースのコメントと、エベレスト最高年齢登頂者の奥さんの柔らかいコメントをラジオで聞いていて、金田一の上のような指摘を思い出したのだが、日本の女性が、いついかなる場合でも、男の間に入ると、ごく自然に「女性性」を発揮して雰囲気を和ませるということを「なるほど」と思うと同時に、外国の女性は、自らセクシーになろうとする時にのみセクシーさを発揮するということには、かなり驚き、次に、ハリウッド映画とか、言われてみれば、そうかもな、と思った。(「セクハラ」概念も、このことを関係あるのかもしれない)

あっと驚く~

2007-05-28 22:26:40 | Weblog
 松岡農水相、自殺! ZARDの坂井泉水自殺、あ、いや、事故の可能性が強そうだが……落下距離が3mだし……とはいえ、自殺の可能性もなくはない。しかし、松岡農水相自殺には驚いた。知ったのが2chだったもので、最初は、最近、2chで流行っている「ルール無視」の嘘スレッドではと思ったのだが、本当だった。

 そもそも、「ガス水道費疑惑」といっても、年間で500万円程度。もちろん、私などにしてみれば、大きい金額だが、一年間分として500万円を何かに回したとしても、何ができるのだろう。ということは、国会で、緑資源機構に関する質問を受ける予定だったということだが、こっちのほうが問題だったのか……? 

 ニュース等では、与党の雰囲気としては「自殺するほど追い詰められていたとは思わなかった」が主流のようだが、言い換えれば、「ガス水道費疑惑」も「緑資源機構からの献金問題」も客観的には、それほど大きな問題ではないのに、何故……?ということになる。

 もちろん、これは表向きで、実は、ガス水道費疑惑も緑資源機構問題も測り知れない、深く暗い闇を抱えているのだ、と考えることもできないではないのだが、厳しく追求していたはずの野党議員のテレビインタビューなどを聞く限り、「真相がわからなくなり残念」といった通り一遍なものでしかなかった。
 ということは、松岡大臣の自殺は、野党の追求……というより、「いじめ」を苦にした挙げ句ということになるが……まさか、あの顔で……って、顔は関係ないか。

 話がそれるが、帝銀事件の真相を知るという、女探偵さんの話では、平沢が犯人と目された理由は、平沢は、事件後に何処かから大金(当時の金額で8万円だったと思う)を手にしていたのだが、その理由を頑として語らなかったからだという。
 何故、平沢はお金の入手先を明かさなかったのか? 女探偵さんの話だと、平沢はアルバイトで春画を描き、「大金」はそのお礼だったのだが、誇り高い芸術家(平沢はプロの水彩画家だった)として、ポルノを描いたなんて、口が裂けても言えなかったのだというのだ。

 松岡大臣も、これと同じで、真相を言えば「な~んだ」といったような事柄でも、本人としては致命的事柄だったのかもしれない。特に松岡は、典型的な大衆型政治家だから、その可能性は高いのではないだろうか。

 いずれにせよ、遺書が残されているそうなので、それが公開されれば、すべて……とは言わないが、かなりのことがわかるのではないだろうか。たとえば、「死をもって身の潔白を明かす」といったことが書かれていたとしたら、「いじめ自殺」とあまり変わりないということになるだろうとか。

 いや、「本当に本当のところ」はわからないが。

 というのも、「死際の告白の真実性」については、あまり信用できないという点で、中国、朝鮮、そして残念ながら我が日本の東アジア各国は共通しているような気がするのだ。たとえば、「死際の告白」こそ尊いとする文化を背景に、逆に、「身の潔白」を主張して、実は真っ黒ということもあり得るのではないかと。もちろん、東北アジア三国の共通項は「儒教」だ。(日本の儒教は偽儒教だが、それなりの影響力はある。)

 それはともかく、安部首相のダメージは大きいだろう。以前のよう人気が低迷している時には、確かに首を切るのは無理だったと思うが、上昇気流にのったとされる今なら、辞めさせることのできる絶好のチャンスだったと思うのだが。

三人の囚人(訂正バージョン)

2007-05-21 15:06:48 | Weblog
 『3人の囚人』という、頭の体操クイズがある。ゲーム理論の世界では有名、というか、これがゲーム理論の基礎になっているんだそうだ。 

 《三人の囚人が居た。そこに所長がやってきて、こう言った。「ここに5枚の円盤がある。三枚は白で、二枚は黒だ。これをおまえ達の背中に貼り付ける。他人の背中は見ることは許されるが、話してはならない。自分の背中に貼ってある円盤の色がわかった者だけが、そしてその理由を論理的に正しく説明できた者だけが、釈放される」。こう言って、所長は三人の囚人すべてに白の円盤を貼った。

 結果は三人が同時に所長のところに来て、同じ理由を述べたので、三人とも釈放された。

 彼らは所長に何と言ったのでしょう。》

 というもの。わかりますか? 答は以下の通り。(以上は前回と同じ)


 3人の囚人を、A、B、Cとする。
 そのうちの任意の囚人、たとえばAとすると、Aは、自分以外、「白」であることを見るが、自分が白か黒かはわからない。これが第一段階である。(もちろん、BもCも同じ。)

 第二段階で、任意の主体、すなわちAならAが、自分が黒であると仮定したとすると、その場合、B(あるいはC)の目には、白と黒が見えているはずである。
 ここでBが何を見ているかを考えてみると、Bは、黒のAと白のCを見ていることになるが、自分が白か黒かはわからない(黒は2枚あり、そのうち、1枚しか確認できていないのだから)ので、動くことが出来ない。言い換えれば、不決断を強いられているのだ。
 ところが、このことが、別の推測を可能とする。
 すなわち、Bが「動かない」ことを見たCは、Bが動かないのは、Bが、黒のAと白のCを見ている故に不決断に陥っているのだと推測するだろう。すなわち、「C(自分)=白」ということになる。
 
 この事情は三人共通であり、したがって、「誰も動かない限り」、A、B、Cの三人とも、自分が「白」であることがわかることになる。(つまり、「3人同時に所長のところに走った」とは、実際の所、「3人とも動かない」ということを表象しているのだ)
 
 もちろん、私はこの答えを自力で……わかりませんでした。まして、こんな問題を考え出すなんて、世の中には頭のいい人がいるものだ、と感心するばかり。(ビートたけしなんか、わかっちゃいそうだが)

 追加 「A=黒」の仮定の元で、もしBが単独で動いたとしたら、Bは、AとCが「黒」であることを知り、なおかつ「黒」は二つしかないのだから、必然的に「自分は白である」とわかって、其れ故、動いたのだということになるが、AとCが黒であるということは、「三人の囚人すべてに白の円盤を貼った」とする問題に反している。この点からも、三人は「同時」に動くしかない。

三人の囚人

2007-05-20 23:01:03 | Weblog
 『3人の囚人』という、頭の体操クイズがある。ゲーム理論の世界では有名、というか、これがゲーム理論の基礎になっているんだそうだ。 

 《三人の囚人が居た。そこに所長がやってきて、こう言った。「ここに5枚の円盤がある。三枚は白で、二枚は黒だ。これをおまえ達の背中に貼り付ける。他人の背中は見ることは許されるが、話してはならない。自分の背中に貼ってある円盤の色がわかった者だけが、そしてその理由を論理的に正しく説明できた者だけが、釈放される」。こう言って、所長は三人の囚人すべてに白の円盤を貼った。

 結果は三人が同時に所長のところに来て、同じ理由を述べたたので、三人とも釈放された。

 彼らは所長に何と言ったのでしょう。》

 というもの。わかりますか? 答は以下の通り。


 3人の囚人を、A、B、Cとする。
 そのうちの任意の囚人、たとえばAは何を見るかと言うと、自分以外、「白」であることを見るが、自分が白か黒かはわからない。これが第一段階である。もちろん、BもCも同じ。

 第二段階で、もしAが、自分が黒であると仮定したらどうなるか?
 その場合、A以外、つまりB(あるいはC)の目には、白と黒が見えているはずであるが、その時、B(あるいはC)が、もし自分が「黒」であると仮定したら、黒が2枚、場に出ていることになり、しかるに、黒は2枚しかないのだから、B(あるいはC)が所長のもとに走り出さない限り、Aは、自分が「黒」だという仮定は誤り、すなわち、自分が「白」であると判断することができる。
 
 つまり、「3人同時に所長のところに走った」とは、実際の所、「3人とも動かない」ということを意味しているのだ。

 もちろん、私はこの答えを自力で……わかりませんでした。まして、こんな問題を考え出すなんて、世の中には頭のいい人がいるものだ、と感心するばかり。

「言論の自由」という理念(看板)について

2007-05-17 22:41:54 | Weblog
 福田恒存の『日本を思ふ』を久しぶりにぱらぱらと読んでいて、次の文章に目が止まった。

 《……当時、私にとっては『チャタレイ夫人の恋人』が問題でした。あれは猥褻文書ではない、したがって罰せられてはならない。それだけです。だが、多くの人にとって、あの本そのものはどうでもいい。問題は、「言論の自由」が危殆に瀕しているといふことでした。これはをかしい、と私はおもった。「言論の自由」の主張は『チャタレイ夫人の恋人』」のためにあらねばならないので、『チャタレイ夫人の恋人』が「言論の自由」のために利用さるべきものではありません。なかには、あの作品は大した文学ぢゃないが、「言論の自由」のために支持するといふひともずいぶんいました。しかし、このほうが世間には通りがいい。私にはいまだにわからない。……私には本末転倒のように思われます。……》

 この文章は昭和29年に書かれたものだが、マスコミ、進歩的文化人を中心に、「言論の自由」は、「言論の自由」という崇高な理念自身のためにあらねばならないとする「本末転倒」状態は未だに変わらない。

 たとえば、「言論の自由」という「理念」自体が大事ならば、あらゆる言論規制はあってはならないことになるが、実際にはそうも言えないので、たとえば、幼児ポルノは規制せよとか言う。しかし、もし、「言論の自由」がアプリオリに守られなければならない、大事なものだと言うのなら、幼児ポルノだって規制してはいけないはずではないか。

 端的に、『チャタレイ夫人の恋人』を「幼児ポルノ」に例えれば、「幼児ポルノにおける性表現は決して猥褻ではなく、したがってそれを出版しても罰せられるべきではない」と信じる人がいるならば、その人はその信念を主張すればよく、「表現の自由」という一般理念はその立場を擁護する、と福田恒存は言っているのだ。
 これは、論理的に一貫している。
 一方、「表現の自由それ自体が大事」、という理念を絶対とする立場は、はじめこそ威勢がいいが、幼児ポルノの場合のように、都合によって看板(理念)を出したり引っ込めたりせざるを得ない、というジレンマ(矛盾)にどうしても陥ってしまう。

 前々回のブログで言いたかったのも、このことなのだ。つまり、フェミニズムにおいて大事なことは、弱者としての女性(子供)を守ることであり、「フェミニズムの理念」はそのために利用されるべきものであって、逆ではないと言いたかったのだ。

無気味な、あまりに無気味な……

2007-05-16 22:05:59 | Weblog
 ここ数日、スガ秀実の『革命的な、あまりに革命的な』を再読しているのだけれど、さっぱりはかどらず(わからないので)、悶々としているところにまたとんでもない事件が起きた。もちろん、母親の首を切って殺し(殺してから切ったのではないところがなんともおぞましい)、それをバッグに詰めて警察に出頭した17歳の事件だ。ちょっと前には、ジェットコースターで首が落ちるし(実際には、「首」で切断されたのではなく、「顔」が削られてしまったらしいのだが……)、その前には、兄による妹バラバラ殺害事件、妻による夫バラバラ事件と、同種の事件が続いているが、今回の事件は、なんとも言い様のない「無気味さ」において、群を抜いているように思え、嫌な気分に拍車がかかってしまっている。

 そんな時、30年近く前の事件だが、サレジオ高校の同級生首切断事件における公式精神鑑定書の一部(少年犯罪データベースドア」より)を読んで、変な言い方だが、「爽やか」な気分になってしまった。


〈君は犯罪をどう説明したいか〉
 僕の性格です。……軽卒さです……自制心のないことです。
〈それは前から思っていたか〉
 思っていなかった。あえていわれればそういうまでです。なぜやったのか、うまく口で言えない。
〈悪夢のようか〉
 ある意味ではそうです。
〈どういうことか〉
 ふだんの僕ならもっとよく考えてやります。
〈するはずがないか〉
 いえ、そうはいえない。もっと考えたと思う。
〈「魔がさす」という言葉があるだろう、悪魔がとりついたようにとんでもないことをした感じか〉
 百%ありえない。一般の場合でも、一切は過去の人間に関連して生じるのだから。
〈君の犯罪をこう考えることもできる。彼とけんかができていればこういうことにならないといえないか。がまんしすぎていたといえないか〉
 いえます。
〈それは親や学校のいいつけか〉
 それだけではない。自分の考えもそうだ。
〈がまんしたのはそれがよいからか〉
 よいことだから。
〈けんかできない弱虫だからか〉
 そうはいえない。腕力は弱くないから。
〈がまんしたのが悪かったといえるか〉
 ええ。
〈父のせいではないか〉
 ちがいます。
〈父は「がまんせよ」という人だろう〉
 そうです。
〈その点では父のいいつけをよく守ったといえるか〉
 まあそうです。
  ……
〈勝利の惑じは〉
 それはない。
〈事件後しばらくは?〉
 ……一般に認められれば勝利かもしれないが、そんなものではないでしょう。
〈一般が認めないのが口惜しいか〉
 みとめないのが当然でしょう。

 どうだろう。なかなか明晰な語りであり、私が、読んで「ほっとした」というのもおわかりだろうと思うのだが(結局、「殺人」は最終的に避けられなかったという印象があるにせよ)、これも殺した相手が、親友とはいえ、「他人」だからだと思う。しかし、今回は、「母親」だ。いや、もちろん、「母親殺し」は、決して珍しいことではないに違いないのだが……。

 とりあえず、上記精神鑑定書から、もう一ケ所、紹介。

〈いつ○○○君を刺す気になったの〉
 刺す直前の直前と思います。

 「直前の直前」という表現が、いかにも切羽詰まった心境を表しているようで、興味深い。

 ちなみに、有名な話だが、このサレジオ高校事件の犯人は、現在弁護士である。これは……「更正」を期待する「少年法」の主旨からいったら、もっとも望ましい事態のはずだが、やっぱりちょっと……いや、かなりおかしいのではないだろうか。「赤ちゃんポスト」の3~4歳児遺棄も「想定外」だが、これも「想定外」というか……。その履歴をひた隠しにして隠した上で「弁護士」になるのならまだしも(というのは、その場合は、事実が露呈したら弁護士を辞めざるを得ないだろうから)、この場合は、ただマスコミに名前が報道されることがないということを楯にしているとしか思えず、「鉄面皮」という印象をどうしても持ってしまう。
 人間の常識に反する法律なんて、常識で考えてあり得べきものではないだろう。

ジェンダーフリーとジェンダーレス

2007-05-13 22:55:36 | Weblog
 日曜日、ちんたらちんたらとパソコンをいじっているうち、小谷野敦のブログ、「猫を償うに猫をもってせよ」に迷い込んだ。

 読んでいたら、「を」と「お」は同じ、という小ネタがあった。

 「を」を「うぉ」と発音したりする人がいるが、これは、パソコンのローマ字入力だと「を」は「wo」、「お」は「O」であることから、発音もそれに合わせてしまっているだけだなのだ。(パソコンの例は私が考えたものだが……たぶん、そういうことなのだろう)

 その他、音楽家、山田耕筰のとんでもない話(子供のまま大人になったような、傍若無人の振る舞いで有名な人で、結婚した新妻の前で愛人の芸者と交わってみせたという。後、その芸者と再婚したが、文化勲章を受賞した時、拝受式は夫妻で出席する慣例だったが、その再婚した妻が病気だったので、その場で離婚届けに判子を押させ、もう一人の愛人と急遽結婚したんだそうだ……)とか、「もてない醜男」を標榜する小谷野先生ならではの怨みに満ちた記述が満載。(いや、山田耕筰の話は、本当だとしたら、怨みも何も、ひどすぎる話だが)

 しかし、この人(小谷野敦)、「霊柩車の研究」で世に出た井上章一と混同してしまう。あと、「治療」と称して、女性と一緒にお風呂に入ったりして、強制猥褻だか、セクハラだかで捕まった大学の先生ともイメージが重なる。

 いずれも、醜男でありながら、いや、それ故に「女性」に対して並々ならぬ執着を示す、ちょっとおたくっぽい先生たちだが、でも、基本的に彼らは信用できるのではないかと私は思っている。強制猥褻で捕まった先生なんか、本を買おうと思いながら、迷っている間に捕まってしまい、買えなくなってしまった。

 それはさておき、なんで小谷野敦氏のブログに行き着いたのかというと、「ジェンダー・フリー」について調べていたのだ。

 で、驚いたのが、「ジェンダー・フリー」というのは、和製英語なんだそうだ。(私が無知なだけだったのかも)

 『ジェンダーフリーとは、簡単に要約すると「性差(ジェンダー)の押し付けから自由(フリー)になる」というような意味の和製英語で、男だから○○しなきゃいけない、女だから××しなきゃいけない、といった固定的な性差関係を押し付けられないですむようにしましょう、という言葉です。』

 しかるに、反ジェンダー・フリー論者たちの多くは、「ジェンダーレス」、すなわち「性差の無視」と誤解して攻撃しているのだと上記の人は主張していたが、しかし、「性差からの自由」と「性差の無視」の違いは、実のところ、分かりにくいなあと思いながらさらに調べると、『「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源』(山口智美)という本に次のように書かれていることがわかった。

 『私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。』

 なんだか、頭がこんがらかるが、ウィキペディアのまとめによると、以下のようになる。

 『元々「gender-free」という言葉自体は、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが用いたとされている。しかし、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリー(ジェンダーの存在を意識しない)よりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」と述べて、「ジェンダーフリー」に賛成しないという文脈で使ったのである。故に、日本において「ジェンダーからの自由を目指す」思想や運動に「ジェンダーフリー」という語が用いられたのは、本来の意味と異なる誤用であった。日本で「ジェンダーフリー」と呼ばれる運動の思想は、英語圏における「ジェンダー・イクォリティ(Gender Equality)」運動に近い。』

 まあ、これが妥当な認識なのだろうが、いずれにせよ、問題は、「フェミニスト」が社会の現実に対してどのように反応し、結果的にどのように社会の改良に益しているかであって、その点でいうと、日本のフェミニストは、たとえば、学校名簿の性別無視の「混合書き」のような、どうでもいいことばかりを推進するばかりで、落第としか言い様がないと思うのだ。(「混合書き」は「聞いた話」なのでもしかしたら、噂だけかもしれないが)

蒼井優と山田優と夏帆が姉妹って……

2007-05-12 21:11:05 | Weblog
 最近、ちょっと気になっている事。

 その1。キャノン、エプソンの2大メーカーのジェットプリンターのCMが、いずれも「家族」をテーマにしている。キャノンの場合は、三人姉妹、エプソンの場合は、どう理解していいのか分からない組み合わせだが、とにかく「家族」ではあるらしい。

 さて、これの何処が気になっているのかと言うと、彼らが一向に「家族」らしく見えないところだ。

 「一体、何を言いたいんだ? テレビドラマ、芝居、映画などで、家族の出て来ないものなんかめったにないくらいなものだが、彼らはいずれも本当の家族ではないし、したがって顔なんか全然似ていない。しかし、それが気になって作品鑑賞に障害が起きるなんてことはないじゃないか」と、言われるかも知れないが、いや、まったくその通りで、ドラマで見る“疑似家族”のメンバーが、外見的にちっとも似ていなくても、ドラマ鑑賞に差し障りはないのに、CMとなると、「疑似性」が気になってしまうのは何故か?というのが、私が気になっている事なのだ。

 もちろん、こんなことを気にしているのは私だけなのかも知れないが……とりあえず、こんなふうに考えてみた。

 まず第1に、「疑似性が気になる」ということは、その当のモノが「本物(真実)である」ことを前提にしているわけだが、では、CMの場合はどうかというと、その表現が真実を語っているなんて、誰も思ってはいないだろう。だとしたら、たとえば、姉妹を名乗っている3人が到底姉妹のようには見えなくても全然構わないはずだが、実際には、逆に、それ(疑似性)が気になって仕方ないのだ。なんで、このような転倒した現象が起こるのだろう。

 唐突だが、スガ秀実が、『1968年』で次のように書いている。

 (中核派や革マル派は)内ゲバが革命などではないことを知っているが、だからこそ、それを革命として遂行しなければならないのだ。

 これは、CM中の「家族」が本物の家族などではないことを知っているからこそ、それを本物の家族として見ることを要求されていることと相似していないだろうか。そして、結果としては、「違和感」のみが残ることになる。

 一方、フィクションである劇映画や芝居などには、このようなシニカルな構造はない。「本当のこと」だと思って映画や芝居を見に来る人はいないからだ。

 しかし、「真実」を標榜する自然主義的リアリズム作品の場合はさにあらずで、「本当のこと」と、読者をして信じ込ませる度合いが深ければ深いほど、価値が深まるとされる。逆に言うと、そこに描かれたことが、「本当のこと」と信じられる限りにおいて価値が生じて来るような作品が、自然主義リアリズムにおいて、「良く書けた作品」ということになるのだが、その結果、どのようなことが起きるかというと、『布団』の田山花袋が悩んだように、作者がいくら一生懸命に「本当のこと」を書いても、誰もそれが「本当のこと」であると思わず、逆に、「まったくの絵空事」として書くと、それが「本当のこと」として受け入れられたりする。

 だとしたら、「絵空事」の完成をもって、「フィクション」として成立し得たと考えればいいではないかと考えたくなるが、その場合、「“本当のこと”と信じられる限りにおいて存在価値がある」、という自然主義リアリズムの基本精神は、自然主義者自身によって裏切られることになる。すなわち、彼らはシニズムに陥らざるを得ない。

 スガ秀実は、要するに、「嘘を嘘と解った上で押し通すとしたら、嘘を真実として押し通すしかない」と言っているわけだが、私はそれを、「自然主義者の陥る罠」であると、敷衍して考えようとしてみたのだ。しかし、あやふやなまま、いわば、「書きながら考えた」もので、どうも、付け焼き刃的な部分が残っているかも。宿題としよう(迷惑?)。

 深夜、ヒッチコックの『鳥』を再々度見る。改めて、その面白さに感服。
 ヒッチコック作品特有のユーモアには欠けるが……、と思っていたら、劇中、目玉焼きに煙草の吸い殻をを押し付けて消す場面があり、これは、鳥類に対するヒッチコックの敵意(子供の頃に嫌な思い出があったらしく、ヒッチコックは大の鳥嫌いだったそうだ)をユーモアにくるんで表現したものだそうで……なるほど、そこは見逃してしまったが……いや、でも、これを「ユーモア」と言えるかなあ……。

 中盤、食堂で鳥の襲来を告げられた酔っぱらいが、旧約聖書のエゼキエル書の一節を持ち出して「この世の終わりだ」と言い、一方、老鳥類学者が「自然の復讐だ」とエコロジカルなクールな意見を表明する。ではヒッチコック自身は、どう考えていたかと言うと、「自然の復讐」がテーマだと言っているそうだが、実際は、酔っ払いの暗誦する「エゼキエル書の一節」そのままの終末的展開となっている。
 そもそも、ヒッチコックは信心深い人間にはとても見えないのであって、明々白々なラストの宗教画的雰囲気も、ただそうしないとおさまりがつかなかったというだけの話だろう。つまり、『鳥』は、こけ脅しとも、ちぐはぐと言ってもいい部分の残る「B級作品」だと思うのだが、でも、そこがいいのだ。私にっては。

蒼井優と山田優が姉妹って……

2007-05-12 21:08:33 | Weblog
 最近、ちょっと気になっている事。

 その1。キャノン、エプソンの2大メーカーのジェットプリンターのCMが、いずれも「家族」をテーマにしている。キャノンの場合は、三人姉妹、エプソンの場合は、どう理解していいのか分からない組み合わせだが、とにかく「家族」ではあるらしい。

 さて、これの何処が気になっているのかと言うと、彼らが一向に「家族」らしく見えないところだ。

 「一体、何を言いたいんだ? テレビドラマ、芝居、映画などで、家族の出て来ないものなんかめったにないくらいなものだが、彼らはいずれも本当の家族ではないし、したがって顔なんか全然似ていない。しかし、それが気になって作品鑑賞に障害が起きるなんてことはないじゃないか」と、言われるかも知れないが、いや、まったくその通りで、ドラマで見る“疑似家族”のメンバーが、外見的にちっとも似ていなくても、ドラマ鑑賞に差し障りはないのに、CMとなると、「疑似性」が気になってしまうのは何故か?というのが、私が気になっている事なのだ。

 もちろん、こんなことを気にしているのは私だけなのかも知れないが……とりあえず、こんなふうに考えてみた。

 まず第1に、「疑似性が気になる」ということは、その当のモノが「本物(真実)である」ことを前提にしているわけだが、では、CMの場合はどうかというと、その表現が真実を語っているなんて、誰も思ってはいないだろう。だとしたら、たとえば、姉妹を名乗っている3人が到底姉妹のようには見えなくても全然構わないはずだが、実際には、逆に、それ(疑似性)が気になって仕方ないのだ。なんで、このような転倒した現象が起こるのだろう。

 唐突だが、スガ秀実が、『1968年』で次のように書いている。

 (中核派や革マル派は)内ゲバが革命などではないことを知っているが、だからこそ、それを革命として遂行しなければならないのだ。

 これは、CM中の「家族」が本物の家族などではないことを知っているからこそ、それを本物の家族として見ることを要求されていることと相似していないだろうか。そして、結果としては、「違和感」のみが残ることになる。

 一方、フィクションである劇映画や芝居などには、このようなシニカルな構造はない。「本当のこと」だと思って映画や芝居を見に来る人はいないからだ。

 しかし、「真実」を標榜する自然主義的リアリズム作品の場合はさにあらずで、「本当のこと」と、読者をして信じ込ませる度合いが深ければ深いほど、価値が深まるとされる。逆に言うと、そこに描かれたことが、「本当のこと」と信じられる限りにおいて価値が生じて来るような作品が、自然主義リアリズムにおいて、「良く書けた作品」ということになるのだが、その結果、どのようなことが起きるかというと、『布団』の田山花袋が悩んだように、作者がいくら一生懸命に「本当のこと」を書いても、誰もそれが「本当のこと」であると思わず、逆に、「まったくの絵空事」として書くと、それが「本当のこと」として受け入れられたりする。
 だとしたら、「絵空事」をもって、「フィクション」として成立し得たと考えればいいではないかと考えたくなるが、だとしたら、「“本当のこと”と信じられる限りにおいて存在価値がある」、という自然主義リアリズムの基本精神は、自然主義者自身によって裏切られる他ない。すなわち、彼らはシニズムに陥らざるを得ない。

 スガ秀実は、要するに、「嘘を嘘と解った上で押し通すとしたら、嘘を真実として押し通すしかない」と言っているわけだが、私はそれを、「自然主義者の陥る罠」である、と敷衍して考えようとしてみたわけだ。

 書きながら考えたもので、どうも、付け焼き刃的な部分が残っているかも。

 深夜、ヒッチコックの『鳥』を再々度見て、改めて、その面白さに感服。
 ヒッチコック作品特有のユーモアには欠けるが……、と思っていたら、劇中、目玉焼きに煙草の吸い殻をを押し付けて消す場面があり、これは、鳥類に対するヒッチコックの敵意(子供の頃に嫌な思い出があったらしく、ヒッチコックは大の鳥嫌いだったそうだ)をユーモアにくるんで表現したものだそうで……なるほど、そこは見逃してしまったが……いや、でも、これを「ユーモア」と言えるかなあ……。

 中盤、食堂で鳥の襲来を告げられた酔っぱらいが、旧約聖書のエゼキエル書の一節を持ち出して「この世の終わりだ」と言い、一方、老鳥類学者は「自然の復讐だ」とエコロジカルなクールな意見を表明し、ヒッチコック自身も、「自然の復讐」がテーマだと言っているそうだが、実際は、酔っ払いの暗誦する「エゼキエル書の一節」そのままの終末的展開となっている。
 そもそも、ヒッチコックはとても、そんなに信心深い人間には見えないのであって、明々白々なラストの宗教画的雰囲気も、ただそうしないとおさまりがつかなかったというだけの話だろう。つまり、『鳥』は、こけ脅しとも、ちぐはぐと言ってもいいB級作品だと思うのだが、でも、そこがいいのだな。