パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

年末雑感

2005-12-31 01:45:50 | Weblog
 中古カメラの「K」で、戦前のドイツの中判蛇腹式カメラ、6300円なりを見つけた。店員に言ってウインドウから出してもらい、シャッターを押してみたら、ストンと、いい音である。その他、引っ込んだレンズをぐいと引っ張り出して(白髪の店員はこれができず、「やりましょう」といって、私がやったら簡単に引っ張りだせた)、指定の場所にカチっと納めるのも、なかなか感じがよろしい。これは買い物と、衝動買いに近かったが、でも、以前から6×9が欲しかったこともあって(本当は6×7がいいのだが、6×7は比較的少なく、最近は6×9でもいいかと考え直したところ)、買った。しかし、いかんせん、60年以上前の品物。私より古い! がたがきてるかもしれないと、買ったその場で、再度裏蓋を開けて調べたら、ややや!シャッターの羽が一枚、動かないまま。何度かやっているうちに馴染んで動いてくれるかもしれないと思い、シャッターを何回も切ったがダメ。それで、店員に言って返金してもらったが、プロだったら、これくらいチェックしろと言いたい。ちょっと裏から覗けばすぐにわかるんだから。

 うー、さぶい。でも、昨日(いや、一昨日になるのか)より多少暖かい。そういえば、昨日(一昨日)、コンビニのおばちゃん店員に「お寒いですねー、でも、昨日よりはちょっと暖かいですねー」と言われ、風邪ぎみで寒気がしていたこともあって、「えー? 寒いよー!」と答えたのだった。その風邪も、今のところ、大丈夫。

 話がまたさかのぼるが、一昨日、元日本帝国陸軍中野学校出の小野田寛郎さんが、アイドルっぽい若い女の子と渚を散歩しながら、「我々はね、移動する時は、このように波打ち際を歩くんですよ。そうすると、足跡がすぐに波で消えてしまうんです」と話していたが、これも「アフォーダンス」なんですな。常に、環境と対話をしながら行動すること。それを怠るとたちまち生死に関わってくるのが軍人だ。実際、アフォーダンス理論は、第2次大戦中にアメリカ軍の要請で戦闘機のパイロットの適格性を調べる仕事についたギブソンが、パイロットたちの驚異的視覚能力が従来の視覚理論では到底説明がつかないことから、「知覚により対象と一体化する」という、アフォーダンス理論の基本的発想を得たそうだ。(従来の主客2元論的知覚理論では、主体は対象を認識すると同時に、対象から疎外されてしまう)

 それはそうと、今年は例年になく「仕事仕舞い」モードに入るのが早いような気がするのは私だけか。テレビなんか、もうすっかり前倒しの正月気分が充満している。昨日見た(といっても瞬間だけ)番組なんか、すっかりお屠蘇気分て感じで、あきれた。もっとも、正直言って、私は、「正月番組」というのが好きなんだ。でもやっぱり、浮かれるのはお正月に入ってからにして。

 しかし、まあ、それにしてもNHKの紅白歌合戦に対する異常なほどの前宣伝には、「呆れる」を通り越して、怒りすら感じる。今年のNHKの紅白に対するいれ込み具合は、ほとんど、「事件」であるとすら思う。
 国民的番組なんだから、「国民的」であることが第一で、エンターテインメントでなくてもいいんだというなら、それでいいんだけれど、でも、エンターテイメントにしたいらしい。たぶん、エンターテインメントなんて才能がなくてもできると思っているのだろう。そう思うと、さらに腹が立つ。

アフォーダンス理論とは

2005-12-28 00:18:53 | Weblog
 詩人の鈴木志郎康さんが、毎朝、トイレで「脳と心」の本を読み、その報告を書いている。大分前から書いているようだけれど、先日、読み終わったとのこと。曰く、

 『22日の朝、トイレで読んで来た「脳と心の地形図」を読み終わった。最後のところで、自由意志を持った「私」という存在が形而上的な存在でなくあくまでも脳のニューロンの働きによるものであることが強調されていた。「次世代の人たちは、人間はプログラム可能な機械だという事実を、地球が丸いという事実と同じくらい当然だと考えるだろう。それは人間の尊厳をおとしめるどころか、人間の暮らしを飛躍的に向上させることになる」と書かれていた。』

 あくまでも、「報告」なので、志郎康さんが、この「脳と心の地形図」なる本の結語についてどう考えているかは書かれていない。そうなんだね、考えるのは「私」なのだが、それを踏まえて言うと、結局、「人間はプログラム可能な機械だという事実」を悪魔でも、いやあくまでも推進しおうという「ゾンビ説」がメジャーなのだ。たしかに、「ゾンビ説」でなければ、「ホムンクルス説」になってしまい、そうすると、「心」が「脳」とは別に独立して存在する(心身二元論)ことになってしまうから、どうしたってゾンビ説が残る。言い換えると、ホムンクルス説は、ゾンビ説に先行するが故に、ゾンビ説に反駁できない。
 では、ゾンビ説(「心は脳という物質的な現象のコインの裏面に過ぎない」)が視覚の研究に関する最終的解答かというと、そうではない。何故なら、ゾンビが「心身」のうち、「心」を削ったものであることで明らかなように、その理論的根拠は「心身二元論」にあるからだ。だから、たとえば、人間ならば幼児でも易々クリヤーする、「行為の選択」が、ゾンビ(ロボット)にはできない。いや、できないのではないのだけれど、「不要な行為」を全部チェックした後でないと、「必要な行為」にたどりつけない。ロボットがもたもた動くのは、このせいだ。
 これを「人工知能におけるフレーム問題」というらしいが、今書いたように、人間ならばまだ生まれて間もない幼児であっても、自分がしようとしていることに関係のないことを無意識のうちに「無視」している。つまり、人間は誰でも「選択」と「選択にかかわらないものの無視」を同時に行なうことができる。実際のところ、それが「行動」ということなのだが、これを言い換えると、人間は、自分をとりまく「環境」と一体化し、環境が変化すれば、自分も変化する。そして、それを可能にしているのが「知覚」なのだ。つまり、知覚とは、人間(生物)と環境の直接のつながりそのものである。
 ……というのが、最近ちょくちょく耳にする「アフォーダンス」ざんす。

 おやじギャグはともかく、アフォーダンスとは、「~を可能にする」という意味の「アフォード」から、この理論の創始者ジェームス・ギブソンが作った新造語で、要するに、「知覚者が作り出す価値ある情報」ということらしい。
 たとえば、従来の理論ならば、水晶体を通じて集められた光が網膜に像を結び、それが電気信号に変換されて脳に送られ……というプロセスで「視覚」を説明してきたが(この点では「ホムンクルス仮説」も「ゾンビ仮説」も変わらない)、アフォーダンス理論はこのような見方を一切否定し、視覚の本質とは、心身二元論的な「主客の分離プロセス」を伴わずに、直接に対象(環境)から情報を得ることであるという。すなわち、「知覚とは情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的に作り出すことではない」(佐々木正人)。
 そもそも、それができれば、別に「水晶体―網膜―脳」といったような図式に捕われる必要はないわけで、アフォーダンス理論は、かくのごとくえらく単純で、でもえらく難解である。

 というわけで、難しすぎてうまく説明できないというか、実際のところ、全然理解できてないんだろうけど、ソニーのアイボも、このアフォーダンス理論を導入した新ソフトを開発中だそうで、もしこれがうまくいったら、実は私はこれまでロボットなんかには全然興味なかったのだが、ちょっとすごいことになるかもしれない。

年の瀬

2005-12-26 18:50:03 | Weblog
 ディープインパクト破れる! 馬券買わなくて良かった!とかいって、買う気なんかはなからなかったけど(金ないし)、これで私がいかに「博才」がないか、改めて証明された。(大学時代、体育実習の選択の際、1.1倍にも満たない倍率のくじ引きで、見事「落ちた」ことがある)あんまり、楽しくない証明だが。
 ディープインパクトに百万とか一千万円くらい一挙に注ぎ込んだ人もいるだろうが、そういう人は、今後一切博打はすべきではないだろう。私からの忠告である。

 安藤美姫、オリンピックへ。ヘー。これまで溜めたポイントが高かったおかげらしいが、すっかり悪役イメージがついてしまって、ちょっと可哀想である。

 夕方、歯医者へ。
 歯医者「どうですか?」
 私「もうすっかり痛くないです」
 歯医者、歯茎を触って、「あー、大分いいね。ぐらぐらしてたのもしっかりしたし。でも、まだ少し腫れがある」
 私「え、まだあるんですか? 押しても全然痛くないんですが」
 歯医者「ちょっとあるね。……危なかったんだよ。ついこの間も二人ほど、あんたと同じような症状で病院送りしたところなんだ」
 私「……病院?(こ、ここ病院じゃなかったの?)」
 歯医者「いや、うちのような町医者では手がつけられないので、大病院に送ったの。そこで今、点滴生活だよ。あんたは、ぎりぎりセーフだ」

 ありがたいこっちゃ。水虫の時の経験が生きたのかもしれない。

 クリスマスも終わり、近所のスーパーは、午前12時を期して、ディスプレイが「お正月」に一変してしまった。別に、シンデレラじゃあるまいし、そんなに急がなくても、と思うが、やっぱり日本はキリスト教国ではないということなのだろう。ともかく、世間はすっかり「2005年終了モード」に突入した感じ。パソコンで言えば、「このまま終わってもいいですか」モードだ。「いやどえす」と言っても、しょうがない。

 ところで、パソコンの調子がいまいちと書いたけれど、この「終了モード」で「終了」を選択しても終わってくれないことが時々あるのだ。「あれ? さっき終了させたはずなのに、もしかしたらやってなかったのかも」と思って、「終了」を選ぶと、画面に「すでに終了がが選択されています。このままお待ちください」と出る。ところが、いくら待っても、終わってくれない。結局、コンセントを抜いて終了させることになる。終了段階まで来てのトラブルなので、実害はないのだけれど……。

鏡のごとく……

2005-12-24 22:54:46 | Weblog
 ヒッチコックの事にうさぴょんさんが触れてくれたんで、以前、『めまい』についてかき忘れたことを一つ。
 ヒッチコックに関する詳細な研究書に、『めまい』のキム・ノヴァックのグレーのひどく地味な、しかも「鯖色」というか、てらてら光っているツーピースのスーツについて、ノヴァックがこんな地味な上に気味悪く光っているのは嫌だと拒否したのに、ヒッチコックが頑として聞かなかったのは、ヒッチコックが彼女のことをいじめたのだと書いてあった。この他、彼女がサンフランシスコ湾に投身自殺をはかった(もちろん、「狂言」だったのだが)場面で、彼女が完全な金づちであることを知っていて、代役を立てなかった。しかも、その身を投げるシーンは、ただ彼女がすっと姿を消すだけで、海に落ちた場面は、完成時には全面カットされていた。
 なんでこんなにキムをいじめたかというと、ヒッチコックは彼女の役をヴェラ・マイルズにふりたかったし、その予定でいた。ところが撮影直前に、妊娠していることがわかり、急遽ノバックを起用したが、ヒッチコックは終始不満だった。それで、おとな気もなく、虐めぬいたのだ……と書いてあったのだが、金づちのキムをサンフランシスコ湾に放り込んだことは別として、「グレーのスーツ」は決していじめではないと思う。
 というのは、キムが死んでしまって(実は生きていたのだが)、失意のどん底にあったジェームス・スチュアートが、彼女が生前住んでいた高級アパートの前で、彼女にそっくりの女性がアパートから出てくるところを見て、ハッとする場面がある。もちろん、それは「錯覚」で、本当は、彼女の数倍も年をとっているお婆さんなのだが、なんで見間違えたかと言うと、「グレーのツーピース」を着ているのだ。あと、ヘアスタイルと髪の毛の色(ノヴァックはプラチナブロンド、お婆さんは「白髪」だが、遠見にはほとんど同じ)も同じなのだが、まっさきに眼に入るのは、「グレーのスーツ」なのだ。
 ヒッチコックが、ノヴァックの「こんな地味な(お婆さんが着るみたいな)スーツは嫌よ!」と反発しても、それを着せたのは、要するにトリックとして必要だったからだ。

 安藤美姫、げきち~ん! オリンピックは無理っぽくなってきた。
 ところで、なんでみんなスポーツ観戦が好きなのかと言うと、ミラーニューロンという脳の神経機能のせいらしい。
 ミラーニューロンとは、名前の通り、本来、「鏡像」に反応する脳神経だけれど、それを応用する形で、たとえば、私なら私が、ある人の動作なり行為なりに引き付けられる時、それを見ている私のミラーニューロンが私の見ている人のミラーニューロンと同じ反応(「発火」という)を示しているというのだ。たとえば、私がサッカーを見て興奮するとしたら、私のひいきチームのサッカー選手は、私自身の鏡像なのだ……なんて書くと、それほど不思議なことを書いているように見えないが、たとえば、ひいきチームの選手がシュートを放つ体勢に入った時、その選手が感じるであろう神経反応と同じ神経反応が私のミラーニューロンにおいて測定される、と書いたら少し驚いていただけるだろうか。
 ん?……てことは、安藤美姫なり、浅田ナオなりの演技を一生懸命見ているテレビの前の私は……「いや~ん、ミキティー、焼肉食べ過ぎで身体が重いんだってば~」、って感じになってるのだろうか? あるいは、競馬なんかはどうなるのだろう? 私は競馬には全然興味がないが、競馬好きは馬と一体化しているのだろうか。いや、一体化するとしたら、相手は「騎手」ってことか。今年の有馬記念には、ディープインパクトのせいで、ちょっと興味がある。競馬無関心派の私でさえこうなんだから、当日はさぞ大変だろう。

あれから二時間。ただいま……

2005-12-23 14:20:23 | Weblog
 さっき(ちょうどお昼の12時頃)、二丁目の中央通りを歩いていたら、中年男性が若い女性の腕をとり、引きずるように歩いている。母親が、「ちゃんと歩きなさい」と幼児を叱責しているような感じ。しかし、若い女性は別に嫌そうな顔ではなく、むしろ、バカみたいにニコニコ笑いながら、後ろに向って手を振っている。その先には、二人の若い男が、同じく、笑いながら手を振っている。その脇を通り過ぎようとした時、「頑張っていい子作れよ」という声が耳に入った。ん?と思っていると、続いてもう一人が、「オレ知らないよ~」と言って両手をバッテンにして、口をふさぐ仕種。な、なんなんだ?「お昼時」という設定も含めて、橋口亮輔監督の映画を見ているような気持ちになった。

 橋口監督と言えば、とっさに名前が思い出せなかったので「みんなのシネマレビュー」というサイトで調べた。そうしたら、私が見たことのある橋口作品は『二十歳の微熱』と『渚のシンドバッド』だけなのだが、両作品とも非常に評判がよい。平均、七点ぐらいとっている。以前、ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』について「テンポが遅くて退屈」なんて書き込みがあって、激怒したサイトなので、意外だった。どうみたって、橋口作品はテンポが遅いし。特に、『二十歳の微熱』で、監督自身が少年を買う客として出演した場面の長回しは評判が悪かった。たしかに、相米監督の「長回し」に比べると、芸がないかもしれないけど、芸がないだけで批判するのもどうかなあと思う。というのも、私は「相米監督の長回し」という噂を聞いてから『セーラー服と機関銃』を見て、なるへそ、みんなが言っている「相米の長回し」はこのことかあ、と思いながら見たものだったが、感想は、正直いって「芸」以上のものは感じなかった。もちろん、「芸」は大切なのだけれど。
 それはともかく、橋口作品は橋口監督が好きな人が見るので、こういう結果になるのかな。

 ん? ふと時計を見たら、今、午後二時ちょっとすぎ。今頃、あの二人は何をテンテンテンテンテン……。

ついに歯医者に……

2005-12-22 13:51:45 | Weblog
 三、四日前、冷えたピザをぐにゅっと力を入れて噛んだら、以前からちょっとおかしかったのだが、下前歯の一枚が変になって、歯茎が傷むようになった。手で顎を触ると、歯の根っこあたりが膨らんでいる。化膿しちゃったのだ。ブリッジや差し歯が数年前から外れてしまっていて、でも、歯医者に行くのは嫌で嫌で、ここまで引っ張ってきたのだが、あー、もう潮時かと、あっさり近所の歯医者に行った。
 診断によると、この前歯は実は虫歯で、虫食いが神経に及び、その神経が死んでしまっている。それが腐って炎症を起こしているのだそう。そして、何やら、前歯を裏側からごしごしこすりだした。「ずきずきしますか?」「いいえ、しません」。ごしごしごし……。
 作業が終わって、先生、「腐った神経と、膿みをかき出しました。抗生物質と痛み止めを出しますから、飲んでおいてください。ブリッジの作り直しは入れ歯でないと無理でしょう。差し歯の作り替えと合わせて、この前歯の治療が終わったらやります。全部で一ヵ月くらいかかります」と。
 歯医者の腕って、ピンからキリだそうで、キリにあたったらどうしようと不安だったのだが、この先生は、まあ慎重な先生のようでよかった。
 しかし、「入れ歯」かあ……まあ、ブリッジをつくった時も四本分ものブリッジを支えている歯は一本だけで、それこそ「橋を渡るような難工事」っぽくて、よくぞやったものだなあと思ったくらいだから、まあ、しょうがないかも。
 

 さて、もらった抗生物質を飲んでから数時間後、痛みも腫れもほとんどなくなった。私は幸いなことに、抗生物質がやたらによく効く体質なのだ。というか、ほとんど抗生物質を使ったことがないので、よく効くのだろう。覚えている限り、今回で三、四回目。もっとも、そうと知らされずに投与されていたこともあるかもしれないが、直近では、五、六年前、水虫をこじらせて抗生物質で助かった。医者には「昔だったら敗血症で危なかったぞ」と脅かされた。いや、脅しじゃない、真実でしょう。今回、あれほど嫌だった歯医者にすんなり行ったのも、この苦い体験があったため。

 翌日(今日)、薬を調合してもらった薬局に立ち寄り、痛みがすっかりなくなったのだが、抗生物質はもう飲まなくてもいいか、それとも与えられた分(三日分)飲み切った方がいいか、と聞いたら、黴菌が少しでも残っていると、またぶり返す恐れがあるので、飲み切っちゃってくださいと言われた。

 ところで、なんで歯医者が嫌いかと言うと、まあ、好きな人はいないと思うけれど、子供の頃に通った歯医者が、柔和で上品にしたようなおじいさんなのだが、そんな外見とは裏腹にあんまり腕がよくなく、痛い思いをした記憶があった。そんなところに、映画『マラソンマン』を見てしまった。
 「無事なのか!」と言いながら、ダスティン・ホフマンに迫るローレンス・オリビエの元ナチの極悪歯医者。
 「なんのことだ?」とホフマン。ホフマンはなにがなんだかわからない。
 「無事なのか?」と再度聞くオリビエ。
 「何いってんのかわかんないよ」とアンガールズのごとく、手足をバタバタさせるホフマン(イメージね、実際はイスに縛り付けられている)。
 「無事なのか!」とまたまたオリビエ。
 「ああ、無事だよ。いや、無事じゃないな~。あ~、無事かもォ」とアンガールズのように自棄を起こすホフマン(だからイメージね)。
 「これでも言わないか」と歯医者の七つ道具をかざして迫るオリビエ。ヒー。

 今から考えると、子供の頃にかかったその歯医者の先生、総研の内河所長にローレンス・オリビエをちびっと足して、二で割ったような感じだった。私の恐怖もむべなるかなである。

ホムンクルスとゾンビ

2005-12-21 13:32:09 | Weblog
 今、「映画の研究」というタイトルで特集原稿を書いているわけですが、これが「視覚の研究」にスライドしてしまって、大変。何しろ、「視覚」は謎だらけの人間の「知覚」のうちでも謎中の謎だし、おまけに「視覚」と「意識」はほとんど同一視されている。人間の脳の中に小人(ホムンクルス)が住んでいて、これが網膜に映っている像を見ているのだとするホムンクルス仮説は、「視覚」と「意識」を同一視するところからくる。もちろん、視覚を持たない盲人が「意識」をもないわけはないので、「視覚」と「意識」を同一視することは間違いだけれど、「視覚」から「意識」が生じるように「見える」ことは否定できない。(ここらへんが、「微妙」なんだよな~)
 この「ホムンクルス仮説」と対極の位置にあるのが「ゾンビ仮説」だ。ゾンビとは、もちろん、あの「生きた死人」のゾンビだ。で、ゾンビ仮説とは、人間の「意識」は、知覚についてまわる「影」のようなもので、因果関係を持たないから考えるだけ無駄、というもの。これは、論理学的には大変スマートで、論破することは難しいが、悪魔的なアイデア(だから、否定することが難しいのだが)なことはたしかだ。
 それで、前に書いたインド人の脳神経学者のラマチャンドランは、「意識」の存在理由を、「悟り」をもたらすものとしている。
 そういえば、『西遊記』の孫悟空が最後に対決する化け物は、自分の「コピー」で、自分とまったく区別がつかない。これは、哲学的には「他我問題」といって、「他人が意識を持つ存在であることを私は決してわかることができない」というもの。たとえば、あなたが、薔薇を指して「赤い」と言った時、その「赤」がどんな赤なのか、私にはわからない。これはクオリア(物事の性質を意味するラテン語)問題とも言うのだけど、この難題の解決を要請されたお釈迦様は、「どっちも本物」と答える。要するに「わからない」ことが「わかった」というだけなのだけれど、これが「悟り」なのだと。
 ところで、お釈迦様がなんで「わからない」と答えたかというと、お釈迦様は人間の中で再考の知性を持つものであって、神様ではないからだ。世界を創造したユダヤ、キリスト、イスラムの万能の神様はそうは言わない。じゃあ、どう言うかというと、たとえばπという数字がある。これは無理数なので、3,1416……と永遠に続くのだけれど、今は数兆桁までわかっているらしい。たとえば、1兆200億桁の数字は「8」てなぐあい。(もちろん、本当のところは知らないが、どこかのデータファイルにアクセスすればわかるだろう)では、その先、数百兆の数百兆倍の桁のπの数字はいかに?と尋ねた(考えた)らどうなるか。ゴッドだったら、「わかるよ」(というか、「今言うことはできないが、決まっている」というのが正しい)と答えるが、お釈迦様は「わからない」と答えるだろう。お釈迦様は人間だから、わからないものを「わかる」とは言えない。
 これは、前に書いた「実無限」と「観念無限」が対立する、「無限問題」そのものなのだけれど、実は、現代の数学基礎論では、πの数字はすべて、無限の彼方に至るまで「決まっている」と主張する「実無限」を採る。要するに「神様」の存在を認めるのだけれど、ぶっちゃけて言うと、実無限の立場で考えると、非常に不可思議な結果が得られるけれど、ともかくブレイクスルーする。無限は観念のうちにしか存在しないと考えると、アキレスは亀を追い越せない、というゼのンのパラドックスすらブレイクスルーできない。じゃあ、観念無限はとっくに破棄されたかというと全然そうではなくて、今でも実無限派と打々発止でやりあっているらしい。てことは、そのメリットも充分あるわけだ。

 話がすっかり逸れたけれど、いろいろ本を読んだ結果、視覚の本質とは、「動きの中から動かないものを抽出すること」ということになると思う。たとえば、我々は、机をいろいろな方角から見ても、机であることがわかる。前から見た机、後ろから見た机、それぞれ網膜に映った映像は違うけれど、いずれも「机」であることがわかる。これを「視覚の恒常性」というのだけれど、
とりあえず、これが「視覚の本質」ではないかな、と。

あああ……

2005-12-20 22:34:04 | Weblog
 キーボードの調子が悪く(Iがうまく入らない)、以前使っていたのを引っ張り出した。しかし、キーボード自体の調子は悪くないが、全体のレイアウトとか、大きさが私の手にあまり合わず、二回も書き込みをパーにしてしまった。小指がディレートキーにちろっとひっかかってしまったのだ。ああ……~。

もうじきクリスマスだし

2005-12-20 01:38:00 | Weblog
 お色直ししてみました。

 さて、前回のデータ行方不明に続き、パソコンのモニターが壊れた。前兆も何もなしにいきなり。富士通の17インチモニターで、結構気に入っていたのだが……。もう一台、17インチの予備があったので、こちらに切り替えた。かさ張るので、安くていいから買ってくれるところがあったら売り払ってしまおうかと考えながら、優柔不断で実行しなかったのが、とりあえず、ラッキーだった。
 しかし、本体も実はあんまり調子がよくない。フリーズが段々多くなってきた。どうも不安である。

 丸正の弁当を食いながら、なんとなく本棚に手を伸ばして手に取った岩波文庫の表紙を見たら、志賀直哉の「和解」と「大津順吉」だった。これも何かの縁と、「和解」は一応読んだことがあるので、「大津順吉」を読んだ。おもしろかった。しかし、岩波文庫では「和解」「大津順吉」の順番で並んでいたけど、「大津順吉」を最初に持ってくるべきだろう、どう考えても。
 それはそうと、志賀直哉って結構好きだ。でも、はっきり言って、小説家としての才能は――本人も作品の中で言っているけれど――そんなにないと思う。「大津順吉」は、主人公の大津順吉(志賀直哉本人)が、家の女中と結婚しようとして父、祖母と大げんかする話だが(「和解」は、その父と《和解》する話だ。だから、「和解」と「大津順吉」を一冊にまとめるなら、「和解」を「大津順吉」の後にもってくるべきじゃないのか、どう考えても……というわけ)、祖母は結構でてくるけれど、父親はほとんど顔を見せないまま、ただ、「お父さんは反対なさってますよ……ひそひそ」と間接的に反対意見が表明されるだけ。それだけ二人の間にコミュニケーションがなかったということなんだろうけど、作品に登場しないのは、私の想像では、おそらく、志賀直哉の実生活におけるそういった「事実」をそのまんま反映しているだけなのだ。(逆に、祖母とはあわや刃傷沙汰の大立ち回りを演じながら、作品の最後で、その祖母に甘えたい心情を吐露している)
 もう、芸がないっつーか。だいたい、「大津順吉」なんて、小説の主人公の名前じゃない。「暗夜行路」の「時任謙作」といい、どうも、魅力に欠ける。
 ところが、それでも、実際に読むと面白いのは、なぜだろう。「どうせオレなんか子供の頃から勉強はできないし、怠け者だし、自分勝手なくせに人に頼りたがるし、癇癪もちだし、すぐ陰にこもるし、人にあってもろくに挨拶もできないし、都合が悪いとすぐ開き直っちゃうし、すけべだし、しかもすけべを隠したがるし、それでますますすけべになっちゃうし、谷崎君みたいに文章はうまくないし、永井君みたいに語学はできないし、それでも小説家になって、《小説の神様》なんて言われてるけど、でも、結局そういう自分の欠点を売り物にしてるだけの恥知らずだし」といった、破れかぶれの「破調」が面白いのだろうか。