パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

一歩前進、二歩後退

2011-07-31 21:42:55 | Weblog
 民主党と政府の足並みが揃わないため「復興増税」の具体案の作成ができないそうで、NHKニュースでは、「復興のためなら増税も仕方ないと思う」という「街の声」を紹介したものの、番組の最後に、司会者が、「NHKは増税賛成なのか、けしからん、とおしかりの言葉をまた受けるかもしれませんが、NHKは決して増税賛成というのではなく……」云々と弁解していた。

 いや、納税者が増税を「被災者のためなら」と納得して受け入れたとしても、実際には、その分、財布のひもを締めるだろうから、結果的には差し引きゼロでしょという、簡単な話なのだが、こんな簡単な話がなぜわからないのか。

 日本人は、眼前の事実を見るだけで、「概念」を理解するのが苦手なのだ。

 というか、「概念的存在」を、はなから信じていないのだ、きっと。

 例えば、震災後のスローガン「一つになれニッポン」には、これまでさんざん楯突いてきたのだが、決して「一つになるのがイヤ」と言っているのではないのだ。

 では、私は、いったい何に楯突いているのか?
 
 中根千枝の「タテ社会」の著書に載っていた話だが、日本にやってきた留学生が(中国人ということだったが)、下宿先で、女主人から「私をお母さんと思って家族のようにつきあってくださいね」と言われて閉口したという。

 「家族関係」は、「代替不可能」な関係なのに、家族でないものを家族と思え、なんて無理だというわけだ。

 逆に言うと、「家族関係」が他の人間関係で代替可能であるが故に、「家族と思ってくださいね」という台詞が出てくる。

 ……という、記述を読んで、なるほど、と思った。

 「家族」とは、中国やインドのような大家族制の社会であれ、英米のような小家族制の社会であれ、概念的存在である。

 あるいは、概念的存在としての「家族」を支えているのが「家族制度」である、と言えるかもしれない。

 「概念的存在としての家族」というのは、あまり聞き慣れない表現かもしれないが、要するに、「家族を名乗る資格」である。

 大家族制の場合、その資格はより広範であり、小家族制の場合は狭い、というわけだ。

 その「資格」は、現実には「制度」によって必ず守られるわけではないにしても、「家族を名乗る資格」は「資格」として、すなわち「概念」として認識されているのだ。

 ところが日本の場合、そんな発想は皆無である。

 とりわけ「家族」の場合。

 では日本の「家族」は、いかなる存在なのかというと、幼い頃から「一つ屋根の下」で暮らしてきたから「家族」なのだ。

 震災復興のスローガン――「一つになれ」も、かつて「一つ屋根の下」で暮らしてきた過去を夢見ているのだ。

 「かつてあった」過去を夢見、憧れることは、人間として普遍的な感情であるけれど、問題は、日本人が「家族」を「家族概念」を媒介せず、「実感」として受容していることだ。

 もちろん、日本人と異なる家族概念を持つ(実際のところ、日本人は「家族概念」を持たないのだが)中国人やインド人が、親兄弟を、ただ概念としてしか理解していないわけではない。

 親や兄弟、姉妹、あるいは叔父叔母、従兄弟等に対する気持ちは、少なくとも小説を読んだり映画を見たりする限り、我々と変わるものではないと思う。

 問題は、日本人の場合、家族間を結ぶ「絆」は、「実感」しかないということだ。

 
 その結果、「日本全体が一つ(家族)になれ」というスローガンの後ろにそれと矛盾した心理が張り付いていることになる。

 それは、たとえ「一つ屋根の下」で一緒に暮らした近親者であっても、目の前にいない限り、「去る者、日々に疎し」とする心理である。

 これは諸外国の人には――中国からの留学生に「私を家族と思ってくださいね」と自己紹介して戸惑わせたのと同じ――「欺瞞」と見えるに違いない。

 しかし、私は、この日本人独特の感性を破棄せよと言っているのではない。

 そんなことは、典型的日本人である私自身を振り返ってみてできはしないと思うからだが、しかし、「概念的思考」(論理的思考)を理解し、必要に応じてそれを駆使することはできると思うし、さもなければ、日本に未来はないと思うのだ。

 ただしそれは、外国人とつきあうためでも、グローバリズムに対応するためでもない。

 日本人同士が、「お互い、日本人じゃないか」という甘えを介さず、論理的に話し合うために「概念的思考」は絶対に必要であり、それは、遅々として進んでいないように見えて、少しずつ、「一歩前進、二歩後退」のようなかたちかもしれないが、進んでいるようにも思うのだ。

天国の小松左京様へ

2011-07-28 23:10:33 | Weblog
 グラフィケーションにお世話になってほぼ三週間。

 校正の手伝いをしたり、国会図書館で資料を探したり、バックナンバーを読んだりの毎日だが、今日、やっと蛍光灯をつけることができた。

 紐を引く際、ちょっとしたコツがいるみたいなのだ。

 何事も、「慣れ」が大事、ってことで。

 それはさて、グラフィケーション誌も、創刊以来、ほぼ50年、昔のバックナンバーには、とっくに鬼籍に入られた人は少なくないが、今も元気に活躍している人も少なくない。

 雑誌自体が若かったので、書いている人も、当時売り出し中の若い人が多かったのだろう。

 そんな一人が、当時売り出し中というには、大物過ぎるが、昨日、訃報が伝えられた小松左京だ。

 で、「グラフィケーション」に、小松氏が何を書いていたかというと、関西落語4大SFネタという題目で、正直言って、私は何も知らず、タイトルだけで、いかにもすごそうな、「地獄八景」の桂枝雀版をユーチューブで見ようとしたら、全編聞くと1時間は優に越えるらしいので途中で止めたが(「仕事で聞いている」と言えば言えるのかもしれないが……まあ、「慣れる」のが先決と思って、職場で聞くのは止めた)面白そうなのなんのって。

 大阪の「心斎橋」にかけているのだろうが、地獄ツアーにやってきた客が、案内人に、「ここはどこですか?」と聞くと、案内人が、「震災橋」ですと答え、「ぎょうさん人がいまっしゃろ」とつけ加える。

 神戸の震災の後だったのか前だったのかわからないが、「後」だったら、さすが桂枝雀と言いたいところだが、さすがの枝雀も、東北大震災の後では、これは言えないだろう。

 正直言って、私はそういう日本の現状がたまらなく嫌だし、逆に言うと、こういう強烈なギャグ(といっていいのかわからないが)が言えるようになってはじめて、「復興」も視野に入ったと言えるのではないかと思うのだが、その小松左京、東北大震災を目の当たりにして、「これほどの死者を出してしまったのは、我々の世代に責任がある」と述懐し、衰えが目立って早まったそうな。

 元来、私はSFというのが苦手で、ミュンヒハウゼンの『ホラ男爵の冒険』と(『ホラ男爵』はSFではないかもしれないが)、グゥインの『闇の左手』以外、面白いと思ったものがない。

というか、「面白い」と思う前に、絵空事につきあうのが面倒くさくなってやめてしまうのだが、グゥインって、「グラフィケーション」でインタビューを受けていたが、女性だったのですね。

 と、グゥインが女性だということも知らなかったくらいだから、小松左京の『日本沈没』なんか、小説も映画もまったく見ていないが、小松左京自身は、「高度成長に浮かれる日本に対する警告」の意味で書いたんだそうだ。

 正直言って、「当時」、そんな「警告」を耳にしたところで、まともに理解しようとはしなかったと思うし、実際、作品自体もどうってこともないと思うのだが、東北大震災の惨状に「私たちに責任がある」と明言した人の存在を知ったのは、小松左京がはじめてであった。

 菅直人はまったくいただけないが、しかし、彼に責任があるのではない。

 責任があるのは、小松左京の世代である。

 それを認め(といっても小松左京自身は、「反原発」ではないと思うが)、なおかつ、実際に死んでしまったことに、天の邪鬼な表現になるかもしれないが、震災後、はじめて聞く「いい話」とすら思ったのだった。

 作家・小松左京の真骨頂を見たというか。

 「地獄八景」を絶賛したのだから、きっと私の意は伝わるにちがいない。

 ねえ、天国(「正直」な小松さんは、きっと天国にいる)の小松左京さん!

敵は誰か?

2011-07-26 22:22:33 | Weblog
 久しぶりに国会図書館に行った。

 相変わらずごちゃごちゃと七面倒くさいのは相変わらずなのだが、入り口で、入館カードのようなものを手に入れる必要があるらしく、その発売機の前で戸惑っていると、最前からそばにいて、様子をうかがっていたとおぼしき女性係員が「サササッ」と寄ってきて、しかるべくアドバイスをしてくれた。

 それは大変に助かったし、その手際も「水際立っている」といってもいいくらい見事で、感心したのだが、実際のところは、多くの人が私のように戸惑うので、それに対応すべく、係員を配置しているのだと思う。

 だったら、入館者が戸惑うことのないように、入館手続きをもっと簡単にすればよいのだ。

 簡単に言えば、私は、入館時に「R0189」という番号を振られたのだったが、実名でやればいいのだ。

 「R0189」をコンピュータの脇に置かれたカード読み取り機にセットするとコンピュータが作動する仕掛けで、検索を依頼した本が見つかると、「R0189」という数字が電光掲示板に示され、「あ、私だ」と気がついてカウンターに行くと、係員が、「○○さんですね」と私の名前を確認し、本を渡してくれる。

 私が探した本は、4、5冊あったので、そのたびに「R0189」が表示され、最後には、「R0189」が実名であるかのように、愛着を感じるようになってしまった。

 というのはオーバーだが、実際のところ、実名が電光掲示板に写し出されてはいけない理由は何なのだろう?

 理由なんか、ない。

 あえて「ある」としたら、役人のする仕事を増やしたいのだ、役人は。

 とか思いながら、用事を終え、外に出ると、左前方にテレビで見慣れた建物が。

 首相官邸だ。

 第二次補正予算と、赤字国債法案と、あともう一つ、法律が通れば、菅直人首相は「辞めざるを得ない」と、野党のみならず、与党の民主党の大半も考えているみたいだが、権力闘争に明け暮れてきた政治家にしては、見通しが甘いと思わざるを得ない。

 だってそうでしょう。

 三つの法案が通ったとしたら、それは、菅直人の勝利であると菅直人は思うはずで、だとしたら、菅直人は辞めるわけないじゃないの。

 それでも、周囲は、「辞めざるを得ない状況をつくれば、辞めざるを得なくなる」という理屈で、その「状況作り」に邁進している。

 変な理屈だが、与野党挙げて、菅下ろしに邁進している事態に隠された心理的実態は、要するに、「他人任せ」なのだ。

 菅直人が、そこまで「敵」の心理を見切っているとは、とても思えないが、「マニフェストはまちがってました」と謝ってまでして、首相辞任の花道としての法案を通そうとしている岡田幹事長を見ていると、そんなことも考えてしまう。

 菅直人は、一人、ほくそ笑んでいる。

 それにしても、与党の幹事長が、与党党首の「敵」だてんだから、かつてのソ連、中共もかくやといったところだが、ここは、「マニフェストを守れ」と小沢一郎が呱々の声を上げることに期待したい。

記憶するために――堀浩哉展

2011-07-23 13:21:41 | Weblog
 数日前、現代美術家・堀浩哉展「起源――naked place」を見た。

 展タイトルに冠された「起源――naked place」は、縦1メートル、横3メートル弱くらいの、オフセット印刷機の亜鉛板のハンコを連想させる厚さ1ミリくらいの板の全面に、「記憶するために」という言葉が繰り返し書かれている。

 私が「亜鉛版」を連想したのは、その微妙な青色の諧調が、職業柄、見慣れているオフセットの亜鉛版に似ているように思ったからだった。

 そしてそこから、さらに妄想をたくましくして、「記憶するために記憶するために……」と繰り返し殴り書きしたB5判くらいのノートの切れ端かなにかを、亜鉛版に拡大焼き付けし、それを展示しているのではないかと思ったのだった。

 それで、近場にいた知人に聞いてみると、「いや、そうではない。ビデオ画面を焼いた上に、直接文字を書いたのだ」という。

 え? どういうことなんだろう?

 本人に聞けば一番よくわかるのだが、本人は、展覧会に付属して行われる、同タイトルのパフォーマンスの準備で忙しいのだった。

 そのパフォーマンスが、やがて始まった。

 多分、昔の「AIR」展で使った物と同じと思われる、太いロープにぐるぐる巻きにされた堀浩哉が「記憶するために」とつぶやきながら、会場に現れ、小刻みに前進する。

 その後、堀夫人のエリゼさんが、観衆の間をかき分けて登場、その観衆に、自分の来ている衣装に「針」を入れるように要請する……というパフォーマンスで、終わった後、エリゼさんに「千人針ですね」と言うと、「年がばれるわよ」と言われた。

 さすがに私は「千人針」なるものの実物を見たことはないけれど、それは、つまるところ「記憶」を保証する装置、仕掛けにちがいなく、「起源――naked place」展もまた、同様な「仕掛け」からなるにちがいない。

 では、「記憶するために」、なぜそんな「仕掛け」が必要なのかというと、たとえば外出した後、部屋の石油ストーブを消したか否か、ひどく気になる時があるが、それは、「石油ストーブそのものの映像的記憶」を呼び覚まそうとしているからである。

 しかし、「映像」にこだわっている限り、問題は絶対に解決しない。

 消えたストーブの映像が、燃えるストーブの映像を呼び覚まし、燃えるストーブの映像は、消えたストーブの映像を呼び覚ますからだ。

 この「悪循環」を断ち切るには、同じ部屋の中にある物で、「ストーブとはまったく関係のないもの」を思い出し、それをストーブと結びつければよい。

 その「記憶」を手がかり(サイン)に、ストーブが部屋を出るときにどういう状態であったかを確かめることができる。

 「千人針」は、その一種である。

 ……といったことを、「起源――naked place」の場に立ち会いながら考えたのだったが、堀本人に会って話を聞いたところ、オフセット印刷機の亜鉛版かもしれないと思った「微妙な青色」は、実は、宮城県の海をビデオで撮った映像を、ちょっと特殊な印刷でプリントしたもので、その上に、これも特殊なインクで「記憶するために」と書いたのだそうである。

 あれほどの惨事を引き起こした海が、今では実に穏やかで、奇麗に透き通っていたことにショックを受けたのだそうだ。

 また、「起源――naked place」と名づけられた作品は、もう一つあるのだが、それは、韓国の釜山の海なのだそうである。

 こちらの場合の「記憶」は、文化的政治的な事柄に向けられていることになるが、私は、釜山の海の「色」が、宮城県の海の色とはまったく違うことにリアリティを感じた。

 「違う」ことが、両者を隔てるのではなく、逆に「つなげる」と思われるからだ。

 もうひとつ、意外だったのは、ノートの切れ端に書いて、それを拡大したものとばかり思っていた「文字」が、実際は、堀が直接に書いたものであったことだった。

 「筆跡」という観点からすれば、書道パフォーマンスでよく見る、身の丈を越える巨大な筆で書いた文字でも書き手の「個性」が維持されるのだから、当たり前と言えば当たり前であるが、考えてみれば、これは、より本質的には、対象と似ていないのに対象と結びついているという、文字の本質――「サイン性」に起因しているのかもしれない。

 デカルトが、「太陽という言葉、文字は、太陽と似ていない」とか書いていて、「何を言っているのだろう?」と、不思議に思ったことがあるが、「対象と似ていない」からこそ、文字、あるいは言葉は機能するのだ。

 漱石の『門』の冒頭、主人公がごく簡単な文字を読めなくなって困惑する有名な場面があるが、あれは、象形文字である漢字でも、実際は「対象と似ていない」が故に文字として機能しているし、同じ理由で機能しなくなることを示している。

 同様に、「対象と似ている」ことをもって自らの本質とする「映像=写真」は、「似ているけれど似ていない、まるで屍体のようなゲットーのセット」として機能する。

 金村修が、私の『風に吹かれて』について語った、謎の言葉――「写真は、世界の残骸に類似する」は、きっとそういう意味だったにちがいない。
 
 そんなことを、「起源――naked place」の場で、その意味を手探りしながら、私は考えていたのだった。

原田芳雄の本質

2011-07-20 01:38:00 | Weblog
 原田芳雄が死んじゃった。

 「訃報」と言えば裏亭さんというわけで、早速ミクシーをチェックしてみたら、タイトルに曰く「象徴だった男」。

 そうだな、まったくその通りだと思った。

 では、何の象徴かというと、私に言わせれば、「時代の象徴」だ。

 そして、ここで、若干、裏亭さんと意を異にせざるを得なくなる。

 何故かというと、「時代の象徴」と言うと、どうしても「いい意味でも、悪い意味でも」とつけ加えざるを得なくなるからだ。

 私にとって、原田芳雄は、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」というイメージがある。

 ところが、裏亭さんの記事では、「アナキスト、アウトロー、風来坊」のイメージで語られていた。

 ウィキペディアでも、同様だった。

 もちろん、そういうイメージで原田芳雄が「語られている」ことは、予想がつく、というか、知っているが、私にとって、原田芳雄は、あくまでも「茫洋としていて、どことなくユーモラス」というイメージなのだ。

 その意味で言うと、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』における役なんかが、ふさわしいのだが、私は『ツィゴイネルワイゼン』はちゃんと見ているつもりだが、原田芳雄が出ていた記憶がないのだ。

 ということは、『ツィゴイネルワイゼン』における原田芳雄の役柄は、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」なものではなかったのだろう。

 敷衍して言えば、残念ながら、彼の出演作品(映像)においては、そういう持ち味は生かされていないと断ぜざるを得なくなる。

 なんでまた、こんな七面倒くさい言い方をしなければならないのかというと、70年代以降につくられた映画、とくに日本映画は、「基本的にダメ」と思っているからだ。

 「基本的にダメ」だから、基本的に「見ない」、あるいは、「見る」としても、拾い物を探すというイメージで接している。

 もちろん、「拾い物」は、ある。

 なかでも一番びっくりしたのは、日活のロマンポルノだった。

 しかし、「基本的にダメ」という姿勢自体は変わらなかったので、以後、ロマンポルノを集中的に見るということはなく、ちょっと後悔しているのだが、それはともかく、中でも一番びっくりしたのは、『宵待草』という、神代辰巳監督の作品で、歌曲「宵待草」の作詞者、竹久夢二をモデルにしたものではないが、時代背景はちょうどその頃、つまり大正末期から昭和初期で、アナキストが出てきたり、飛行船がでてきたりする、何を言いたいのかよくわからない「茫洋」とした作品だった。

 そう、それこそ、「茫洋としていて、どことなくユーモラス」な原田芳雄にぴったりの作品なのだが、原田の出演作品に『宵待草』はなかった。

 それでも、しつこく、「原田芳雄と日活ロマンポルノ」でググって見ると、意外や意外、年代的には当然なのかもしれないが、原田芳雄は、ロマンポルノ路線に転じる前の日活を支えた役者だったのだそうだ。

 要するに、原田芳雄は、日活ロマンポルノの監督にとって、ちょっとスター過ぎたのだ。

 それにしても、ウィキペディアに並ぶロマンポルノ、特に神代辰巳の作品群は、まさに綺羅星のごとく、輝かしく、それだけに、「裸で、扇情的であれさえすればなんでもいい」という、当時の日活上層部の経営判断はあまりにも「ことの本質」を見誤ったもの、と思わざるを得ない。

 否、「見誤った」のではなく、「ことの本質」を、まったく見ていなかったのだ。

 ところで、原田芳雄になんで「茫洋としていて、どことなくユーモラス」なイメージを持ったかというと、多分、「ブルース」を含む、彼の「語り口」だと思う。

 それが、原田芳雄に関する一切の「ことの本質」だ。
 やっぱり、「本質を見る目」が、大事なのだ。

写真が伝える真実

2011-07-18 23:58:47 | Weblog
 「なでしこジャパン」の快挙はまことに慶賀すべきことであるけれど、それを被災地の復興にからませる報道には、うんざりし、「関係ないでしょ」と、茶々を入れたくなる。

 被災地の小学生がカメラの前に引っ張りだされて、「あきらめずに頑張れば、きっと復興できるんだと思いました」と言わされているのを見たときには、「うんざり」を通り越え「怒り」を感じた。

 第一には、「言わされている」小学生がかわいそうだったこと。 

 第二に、「なでしこジャパン」は「あきらめずに頑張った」から勝てたわけではないからだ。

 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は、野球の野村監督の口癖だが、もちろん、「なでしこジャパン」の「勝ち」は、決して「不思議の勝ち」ではない。

 でもね、でもね、「あきらめずに頑張った」が、勝てなかった可能性も充分にあった。

 もちろん、その時はその時で、また別の「煽り文句」を用意しているのだろうが、そんなことで事態を繕うより、ちゃんと「死体」を撮れよ、と私は言いたい。

 昔々、青函連絡船が沈没して1500人の犠牲者を出した時は、水揚げされたマグロのように浜辺に並べられた「死体の写真」にショックを受けた。

 その少し前には、三原山で有名な伊豆七島の大島に、日本航空の旅客機DC3が墜落し、死体がごろごろ転がっている写真を見た。

 あれは、「見なきゃよかった」類いの写真なのだろうか?

 「真実」の名において、そんなことはないだろう。

 最近では(といっても、もう20年前のことになるが)、御巣鷹山のジャンボ機が墜落した時も、「死体」は写っていなかったが、それなりに真相に近づこうとする雰囲気がうかがえる写真だった。

 しかし、この頃から「死体写真」はマスコミから消え、それと同時に、「○○の悲劇を忘れるな」というキャンペーンが貼られるようになった。

 この、「○○を忘れるな」という言葉を目にするたび、思い出すのがクイーンのフレディの言葉だ。

 フレディは、死ぬ前、「私のことはできるだけ早く、忘れるように」と言ったのだった。

 もちろん、実際にはその言葉と裏腹に、フレディは年を追うごとに有名になっているのだが、「過去のことはできるだけ早く忘れるべし」という言葉は、「真実を言っているなあ」と思うのだ。
 

蝶と人間(同行者として)

2011-07-17 17:13:37 | Weblog
 評論家の草森紳一氏は、「コンポラ写真」が世間の耳目を集めた60年代後半から、コマーシャル写真を中心に、「写真表現」の最先端を切り開いてきた人だった。

 その草森氏が亡くなる2、3年前、『月光』でインタビューする機会があった。

 その時、草森氏は、「プロの写真家が撮る写真は情報量が少ない」と言った。

 私は一瞬、アレ?と思い、聞き返すと、草森氏は、「情報量の多い写真はスパイの写真ですよ」と呵々大笑したのだった。

 それで、以来、情報量が少ない写真が「いい写真だ」と思ってきたのだったが(我田引水すれば、私の撮る写真が情報量が少ないように思われることも、私が草森氏の言葉を信頼する理由だった)、「スパイの写真云々」という草森氏の「比喩」に納得したわけではなく、「なんでそうなるのか」ということはわからないままだった。

 ごく簡単に言えば、「情報量の多い写真=伝えるべき内容を多く持つ写真」は、その「内容」の方に目が行き、「写真それ自体」がネグレクトされてしまうからだ――。

 と言ってしまうと、いかにも「形式主義」のそしりを免れない。

 「形式主義」こそが真実を語っている、と言い切ることができればいいのだが、それは、ゲーデルの不完全性定理によって、数学者の「夢」であることが暴露されている。

 もっとも、その数学者自身が、自分の夢が「夢」であることに気づいていて、それでもなお、それを「楽園」として築き上げることを、「反形式主義者」(直観主義者と言う)たちに向かって「宣戦布告」しているのだから、何おかいわんやなのだが。

 この数学における「形式主義対直観主義」の対決の潜みに倣うならば、我々(「現代の写真家」、ね)は、どうしたって「直観主義」の立場に立つべきであり、それがポストモダニズムが擁護されるべき理由であるけれど、そのためには、モダニズムをモダニズムとして、きちんと継承していなければならないのだ。

 このような観点から、日本の写真史を振り返ると、案外、しっかりしているように思われ、現代写真のポストモダン的展開に寄与するのではないかと勝手に思っているけれど、このことは、いったんさておく。

 そうこうしているうちに、「情報量が少ない写真がいい写真だ」という、一見奇矯な意見の「真相」に、多少なりとも、少し近づくことが出来た。

 そのきっかけの一つとなったのが、雑誌『あいだ』における金村修の論文であった。

 金村氏は、「風に吹かれて」について、『そこには、語られるべき動機が存在しない。世界の無動機の湧出。写真は世界の残骸に類似する。』と書いている。

 これは、私が思うに、写真機(カメラ)とは、そもそも「見たもの=対象」を記憶させる装置であり、写真を見る人は、それを目の前に現前する印画紙上に、かつてあったものの「痕跡」として受容するわけだが、金村氏曰く、私の写真は、「オリジナルの何かを想起させる断片としての痕跡ではなく、オリジナルとは別の、オリジナルを想起させない痕跡として存在する」と言うのだ。

 それが、「世界の残骸に類似する」のだ。

 ここで、話がいきなり飛んでしまうのだが、日高敏隆という動物学者がいた。

 その日高のエッセイにこんなのがあった。

 ある夏の日の夕方、日課の散歩に出かけると、すぐ脇を一匹の蝶が飛んでいることに気がついた。

 翌日も同様だった。

 もしかしたら、この蝶は同じ蝶かもしれないと思い、観察してみると、果たしてそうであることがわかった。

 人間の日高敏隆と蝶は、同じ道筋を通る、「同行者」だったのだ。

 日高の話はこれだけだが、人間である日高の見ている「世界」は、網膜を解した「像」として日高に認識されているが、複眼で、網膜像をもたない蝶の見ている(?)世界は、蝶によって別様に「認識」されているにちがいない。

 では、日高と蝶が「同行者」とは名ばかりのことで、実際にはまったく異なる「世界」に属していたのか、というと、そうではないだろう。

 日高によると、その蝶は、日高と同様に木陰を選んで飛び、前方からトラックがやってくれば、日高と一緒にそれを避けていた。

 日高と蝶は、明らかに「同行者」として、ある一定時間内に「同じ世界」を共有していたのであり、この「世界」こそ「真のオリジナル」と言うべき物なのだが、それは、我々が、網膜に写った映像として、現に目で見ている物とはちがう。

 しかし、現実問題として、我々人間は、世界を「像」としてしか把握できないし、カメラという装置は、そのことに棹さし、我々の信念――「見ている物が見ている通りに存在する」――を助長するのである。

 だとしたら、我々は、「カメラ」で何が出来るのだろう?

 実のところ、我々人間の目がカメラと酷似していることが、混乱の元であるが、それと同時に、解決へ向けた道を開いてくれるのだ。

 それは、「オリジナルとは別の、オリジナルを想起させない痕跡」として世界を撮ることであり、その結果、「世界の残骸に類似する」世界が現出するのだ。

 換言すれば、人間は、自分が知っていることを知るしかないのだ。
 

カラスの勝手でしょ

2011-07-17 01:09:55 | Weblog
 京王線、桜上水駅から歩いて5分くらい、甲州街道沿いにある、ブロイラーハウス改め「Gallery RAVEN」で、田原喜久江の写真展「計画停電」を見る。

 田原喜久江さんは、金村修氏のフォトゼミの生徒さんだった人で、結構ご年配なのだが、大変にエネルギッシュな人という印象で、撮る写真も、そういう人が撮ったものという、「先入観」で、つい見てしまいがちなのだが、話をすると、それだけではない、重い「課題」を潜ませている写真であった。

 と、これは、もう5、6年前の印象なのだが、今回、新作を見て、改めて、「そういえばそうだった」と思ったのだった。

 というのは、「Gallery RAVEN」のホームページに載っている写真と、写真展のタイトル「計画停電」を併せると、正直言って、若干、「興味本位」というか、いい意味ではなく、ジャーナリスティックに流れていはしまいかと思ったのだったが、実際はそんな危惧はまったく不要だった。

 否、そんな「危惧」は、まさに「上から目線」の典型であって、おそらくは京王線沿線の駅で撮ったであろう、ホームページの写真も、会場に置かれていたチラシに書かれていた以下の文章と併せて読むと、「なるほど」と納得がゆく。

 「3.11以来、それまでに予測の出来ない、言葉には言い表わせないほどの衝撃が走り、飛び散った。欠片は私の一番深いところに刺さり、その欠片は時間の経過には希釈されず、むしろゆっくりと深く本質へと進行していった。ニュースは日を追うごとに鋭さに欠け、過去のことと紛らわそうとするが、それまでの日常生活や、目に見えない生き方の根っこに計画停電の大きなクサビはさらに深く届き、容易くは抜けない。云々」

 たしかに「計画停電=原発事故」は、すべての人の日常生活の根っこに深く届き、すべての人を揺さぶっているのだが、日常生活そのものは、まったく変わらずに、つづいているのだ。

 そして、「写真」は、まさにそういう、「日常」を「日常そのもの」として、金村流に言えば、「必要とされない目撃情報」を写すものなのだ。

 もちろん、作者としては、自分の「もっとも深いところ」からの反応として撮っているのだと思うし、そうでなければならないけれど、世間の誰がそれを知るだろう。

 「RAVEN」からの帰り道、カラスの太々しい顔に、「我関せず」を決め込む世間の顔が映り込んだ。

 ちなみに、「RAVEN」は、ポーの詩「大鴉」からとったんだそうだが、「大きいカラス」の意味。

 なかなかかっこいい、ネーミング。


私の我が侭

2011-07-14 00:05:15 | Weblog
 地デジを見れるようになったことは、折角買ったものが無駄にならなかったという意味で、歓迎すべきことなのだが、これまで、時間つぶしに見ていた通販チャンネル「QVC」が見れなくなってしまったのはイタい。

 見るものが、本当になくなってしまったので、ラジオで巨人阪神戦を聞いたが、1対1から、檜山の犠牲フライで阪神のサヨナラ勝ち。

 後のスポーツニュースで、喜ぶ檜山の姿が写し出されていたが、放送するに値しないと決めたのなら、大相撲の扱いが主な取り組みの結果だけのように、スコアと勝利投手、ホームランを打った選手の名前等、「結果だけ」放送せよと言いたい。

 BS放送かなにかでやってるのかもしれないが、そんなものを契約する気はさらさらない。

 有料で契約してでも、是非見たいものなんかない。

 ……というわけではなく、「是非見たい」ものはあるのだが、そういうものは、勝手に放送しているものを、勝手に見たいのだ。

 ものすごい我が侭を言っているようだが、偶々聞いた巨人阪神戦が好ゲームであったように、私は、「偶然」に出会いたいのだ。

 金払って契約して、テレビの前に座って、凡戦を見せられるなんて、「堪忍ならぬ」ということだ。

 実際の話、スポーツ中継にしろ、映画ドラマにしろ、大体は「平凡」で、見るに値するものなんて、普通は、「ない」のだ。

 そういう「現実」を踏まえた上で、偶々スイッチを入れたら、森雅之と高峰秀子がすごくて、「ナンダコレハ!」と興奮し、後でそれが豊田四郎の『浮雲』だとわかった、なんて「偶然の出会い」をしてみたいのだ。

 「コレがソレだ」という、代名詞の重なり合いというか。

 いずれにせよ、NHKが集金に来ても、「テレビは見てません」とはっきり断る理由が出来た。

 NHKにしてみれば、「あなたのご不満の対象は民放でしょ」と言いたいだろうが、そういうわけで、NHKにしても、日本を真の文化国家にしたいと思うのなら(そう思っているらしいが)、黒澤明から豊田四郎から、座頭市シリーズから社長シリーズから、Eテレで、全部流せ、と言いたい。

 近代日本の文化遺産といったら、「映画」にとどめをさすのであって、日本を真の文化国家にしたいのなら、すべての日本人が、「ああ、あれね、テレビで見たよ」と、直ちに反応し得るような「常識」にすることが大事なのだ。

 江戸時代の浮世絵が到達した表現レベルを、江戸時代以降の近代日本人がすっかり忘れ去ってしまった、「苦い轍」を踏まないように。

 日本人なら、そして日本人のみが浮世絵の神髄、本質をわかることができる、なんて考えているとしたら、それは近代日本人に特有の、とんでもなく屈折したナルシズムだと思う。

 ぶっちゃけて言えば、その「屈折したナルシズム」が、「震災後」の日本において、「屈折したナショナリズム」として現れているような気がしてならないのだ。

告白、二つ

2011-07-11 23:24:23 | Weblog
 チデジチューナーを購入したものの、今使っているテレビがリモコン対応でないので、チューナーが使えなかったと、一週間ほど前、書いたのだったが、実はそれは、チューナー付属のリモコンを、テレビに向けて操作していたからだった。

 そうではなく、チューナーに向けて操作すればよい。

 それだけ。

 あとは、説明書には、「戻るボタンを押しながら、ナショナルの場合はボタン1を押す。ソニーの場合は……」とかなんとか、いろいろ面倒くさいことが書いてあったが、実際にはそんな必要すらなく、あっという間につながってしまった。

 心もち、画面が以前より縦長になっているような気がしないでもないが、画質は相当きれいになっている。

 ところで、なんで「間違い」に気がついたかというと、実は私、以前、つとめていたル・マルスという、フジゼロックスのPR誌「グラフィケーション」をつくっている編集プロダクションにお世話になることになりまして、実質、今日初出社したのだった。

 「グラフィケーション」のことは、写真集「風に吹かれて」がらみで何度か触れているのだが、その後も、写真家、柳本尚規氏の写真集「故郷」に触発されて書いた渾身の論文を持ち込んだりなんかしていたのだが、2週間ほど前に、「手伝ってくれないか」とお声がかかったのだった。

 実は、その直前、ハローワークの紹介で、毎日新聞の集金業務をはじめたばかりだったのだが、集金業務は月末から月初めの10日間にも満たない仕事なので、両方できるのではないかと思ったのだった。

 ところが、その集金業務を一日休んで、編集長に会って話を聞くと、私が考えていたよりも、ずっと「ちゃんとした」仕事であるようなので、「両方やる」なんてことはできない。

 どちらかを選ばなければならない。

 だとしたら、結論は歴然、毎日新聞には、「まことにすみませんが、事情が急変して」と、仕事がいったん終了した時点でお断りをして、今日、改めて初出社ということになったのだが、その前に事務所を訪れた際、ブラウン管テレビが置いてあったので、いらないのだったら、ちょうだい、と話をしたのだった。

 しかし、よく考えたら、重いテレビを運ぶのも面倒だし、それよりも、使い道のなくなったチューナーを買ってもらう方がいいだろうと、都合のいいことを考えたのだったが、マルスのテレビは、私が持っているテレビよりさらに古そうだった。

 いずれにせよ、チューナーにつないで、使えるかどうか、試してみると、果たして、反応しない。

 しかし、私のテレビと違い、ちゃんとリモコンがついている。

 あれ、おかしいなと思っていると、編集部のK氏が、「(チューナーの)リモコンをチューナーに向ければいいのではないですか」とアドバイスしてくれたのだった。

 オーマイガー!

 そうだよ、きっとそうだ、というわけで、実際にそういうことだったのだ。

 それにしても、これで「元工学部」だからな~、とまたしても自己嫌悪に襲われたのだったが、「だから、工学部を中退したんじゃないか」と弁解したのだった。

 半世紀以上、このことの繰り返し。

 突如の告白だが、思うに私は、たぶん4歳くらいから、一種の軽い、いや、もしかしたら結構重い自閉症だったのかもしれない。

 と、今日起きた出来事と、それによってつなげることのできた地デジテレビが伝える「避難施設で行き場を失った自閉症児」の映像を見ながら、思ったのだった。

 私は、はっきり覚えているのだが、4歳になる少し前、両親から「幼稚園に行くか?」と聞かれ、「行きたくない」と答えたのだったが、なんで幼稚園に行きたくなかったのかというと、見知らぬ子供たちと親しくなれる自信がなかったからだった。 

 そして、テレビカメラの前ではいかにも快活に振る舞いながら、実際には周囲になじめず、一人でいるときには壁に頭を打ちつけたりしているという自閉症児の姿を見ながら、「(幼稚園で友達をつくる自信のなかった)私と同じだ!」と思ったのだった。

 でも、私の場合と違い、今は、それを「配慮」してもらえる。

 とはいえ、「配慮」すれば自閉症が治るかというと、そういう問題ではない。

 「自閉症」そのものは、「性格」のようなもので、決して治らないが、そのことを周囲が「配慮」し、なおかつ自分も自覚することで、自閉症的状態に耐えることがより容易く出来るようになる、そのことが大事なのだ(と思う)。

 もっとも、「性格」というと、「変えろ」と迫られかねない。

 それより、「病い」と言い切った方が、いい。

 私の撮る写真について、「見ていくほどに胸が痛くなるような喪失感が伝わる」(公明新聞、7月4日号、光田由里)と、病的状態を肯定するかのような文章が書かれたりしているわけだが、それも――自分で言うのも変な話だが――半世紀近い時間を経て現代社会が獲得した、ある種の「配慮」なのかもしれない。