パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

かつて、日本という国があった

2012-01-30 22:39:32 | Weblog
 2060年には、日本の人口は4割減って、8400万(8800万だったかな)になるそうだ。

 4割というと驚くが、8400万というと、私が小学校時代に教え込まれた日本の人口にほぼ等しい。

 この頃に教え込まれたことって、非常に根深いものがある。

 輸出が大事とか、鯨は全身捨てるところがないとか、日本は水力発電が多いとか、今となっては全然ちがうのだが、イメージとしては、人口8400万ともども、ずっと強く残っている。

 にしても、地域の人口というのは常に変化しているので、例えば、中国では例の三国時代に飢饉、戦乱等で9割以上死んでしまい、偉大な「古代中国」は実質的にこの時滅亡し、西方の遊牧民族が取って代わった、と岡田なんとかという歴史家が言っていた。

 その古代中国も、東方の民族だった殷王朝を西方の騎馬民族の周王朝がとってかわって打ち立てた文明なわけで、ここにも相当な「断絶」があるのだろう。

 しかし、その中国はかなり不思議な民族で、「国家意識」というものがない代わりに、「族」の意識が極めて強い。

 だから、外国に移民しても「族」のつながりは失われず、チャイナタウンを形成する。

 これと正反対なのが日本人で、外国に移民するとあっという間に日本人であることを止め、現地の国民になってしまう。

 これは本当に「日本人だけ」の現象なんだそうで、それを考えると、日本人が遠からず、世界から消えることもあり得ると思える。

 結構ユニークな民族で、他のどこにも見られない、歌舞伎とか能とか相撲とか生け花とか茶道とか落語とか俳句とか盆栽とか切腹とか、一部珍妙なものも含み、有していたのみならず、一時期はアメリカと大戦争をやらかしたり、負けたあと復活して経済覇権を再びアメリカと争ったりとか、世界の皆さんに往時を偲んでもらえたら嬉しいんじゃないかとか、思ったりする。

 しかし、真面目な話、ニュース番組のなかで、どこかの教授が、これからは老齢者のための格安の公営マンション住宅をつくれば、高齢者も安心できるだろうと言っていたが、本当に、こんな簡単な施策がなんでできないのかと不思議に思う。

 この住宅公団の「大失敗」をマスコミも学者も指摘しないのが不思議なのだが、住宅公団は、高度成長政策の成功で舞い上がり、貧困者向けではなく、中流向けの高級アパートの建設に邁進、それがバブルの破裂で破綻し、住宅公団もURとかいう機構に衣替えして、自分の失敗に頬かむりしているのだが、そもそも公営住宅が「貧乏人向け」でないなんて、考えられないほど、バカげてるのに、マスコミも学者もそれを指摘しないのは、学者もマスコミも同じくらいバカだからだろう。

 くりかえすが、日本では貧乏対策は、貧乏人を救うのではなく、貧乏人の収入を上げることだと官僚は考えてきたし、もしかしたら今もそう考えている。

 それでも発生する貧乏人は「生活保護」で面倒を見ようというわけだ。

 あ、そうだ、貧乏人云々と書いているうち、これを書きたかったんだ!というのを思い出した。

 何かというと、昨日だったか一昨日だったか、消費税が10%にする際の貧乏人対策として、食料など、貧乏人も金持ちも等しく消費する物品にかける消費税を低くするという対策は全世界のどこでもやっていることなのだが、日本だけはちがう。

 なんでかと思っていたが、理由は結局、「線引き」が難しいからということらしい。

 あの商品は消費税をかけ、これはかけないとなると、それを扱う業者から必ず文句が出る。

 それで、均一にするというわけだ。

 でもこれは、日本の官僚が日本国民を信用していないことの現れなのだ。

 太平洋戦争でも、日本の官僚は戦費を公債で国民から集めることをせず、郵便貯金を流用した。

 その郵便貯金を集める標語が「欲しがりません,勝つまでは」だった。

 「欲しがりません」で、貯金させ、それを戦費に使ったのだ。(一方アメリカはドナルドダックに公債募集をさせた。)

 「日本人を信用してはいけない。彼らは自分勝手でエゴイストだ。彼らの勝手にやらせたら絶対に話はまとまらない。だから投網で上からバサッと網をかける。そうすれば彼らは文句を言わない。自分が損をして、他人が得をするのは絶対に許せないが、自分も損、他人も損ならことは収まる。これがドン百姓の日本人を扱うコツだ。わかったか!」と先輩官僚が、はるか江戸時代にさかのぼるであろう諸先輩から学んだ支配のコツを新人官僚を教え込んでいるのだ。

 というわけで、私は、官僚支配の旧弊の打破に向け、地方自治からの改革をスローガンにしている橋下を支持したい。

 まだまだ正体不明の所あるけれど、先週の「朝生」の橋下を見て、イメージが変わった。

 あくまでも、選挙民(住民)の自由意志を尊重するというのが基本姿勢であるようなので、だったらいいのではないか、と。

 石原は、「国柄」がどうのって、陳腐すぎる。

 私は亀井静香ファンなので、亀井の行動に注目だ。

 亀井が動けば、何かが動く。

世の中、狂ってる

2012-01-27 00:19:47 | Weblog
 要するに私がNHKに言いたいことは、「意見を言うな」ということだ。

 思い上がっているとか、生意気だとかじゃない。

 NHKはメディアなんだから、自分の意見を言ってはいけないのだ。

 自分では、「こうすればいいのにな」と思っても、メディア、つまり媒体が意見を言ってはいけない。

 できるのは、意見の公正な紹介だけだ。

 でも、これが、最高の知性を要すると言っていいくらい、ものすごく難しいことなので、本来、その自覚と、誇りをもってできる仕事なのだ。

 朝日新聞の夕刊のトップ記事が、「アメリカ連邦準備委員会が年2%のインフレターゲット政策を決定」だった。

 2%のインフレターゲット政策というのは、2%の物価上昇まで貨幣(アメリカで言えばドル)を刷って市場に供給し続けるぞ、と宣言したということだ。

 それで、ずっとインフレターゲット政策に「しかと」し続けた朝日新聞(朝日だけじゃないけど)がどんな「言い訳」をするかと思って記事を読んだら、曰く、「もし物価だけ上がって、景気が回復しなかったらどうするのか」と書いてあった。

 そんなの「景気が回復するまでやる」でいいではないか。

 その前に、インフレターゲット政策を実施すると明言した時点で市場が反応し、お金が動くようになるかもしれない。

 だったら、実際に金を刷らなくても、インフレターゲット政策は実現した
ようなもんで、要するに「はっきり言う」のが大事なんだ。

 と思う。

 その夕刊の日の朝刊の天声人語に、野田の支持率が、増税宣言後、急降下していることについて、「人々が増税を嫌がるのは世界のどこでも同じだが、必要なときにはやるしかないし、世論を説得しなければならない」と、野田と同じ、チャーチルの言葉を引いていた。

 なんてバカコラム。

 野田内閣が、税と社会保険の一体改革と言いながら、肝心の「社会保険の改革案の中身」を一向に出さないから、反対しているんだ。

 てことは「社会保険の改革案」次第では、賛成しましょうと言っているんだ。

 私だけじゃない、ほとんどの人がそう思っていると思うぞ。

 ところが野田は今の社会保険政策を維持するためだけにも、増税が必要と言いたいらしい風情、というか、現に言っているようだが、だったら、その前に日本政府の従業員、すなわち公務員の給与大幅削減をやれと言わざるを得なくなる。

 人の給料を下げろなんて言うのは、品性下劣で、言いたくないのだけれど、学童の通行路に立っている「緑のおばさん」の給料が年収800万円とか聞いたことがある。

 もう10年近く以前で、今はもうちょっと低いかもしれないが。

 しかし、「今はもうちょっと高いかもしれないが」と言うのが普通だったんだけどねえ……。

 それはともかく、以前、北九州でバスジャック事件があった際、バスジャックにあった運転手の自宅がテレビで映ったが、時価1億は下らないと思われる、かなり立派なおうちでいらして、びっくりしたもんだった。

 職業の貴賤を言うのではないが、運転手風情が……と思った。

 運転手は労働者、労働者は労働者らしく、貧しく、かつ貧しいが故に正しい生活を送るべきであるのに、そういう雰囲気がまったく感じられなかったのだ。

 バスジャックを起こし、中年女性を殺した少年に怒るより、運転手の立派な家を見て「世の中、狂ってる」と思ったのは、たぶん、私だけだろうなあ……。
 

左手が不自由に

2012-01-25 22:31:48 | Weblog
 昨日、一昨日降った雪が凍った路面で足を滑らせ、かばってついた左手がやがて痛みだし、使えなくなってしまった。

 当たり前だが、不便。

 包丁を使うのだって、左手で材料を押さえて切るわけだが、それが力が入らないので、今朝は朝食を作るのを止め、お昼も、新宿の街頭の弁当屋で弁当を購入したのだが、一度、同じ弁当屋で買った肉じゃが弁当300円なりが、安くて大変に美味しかったので、それを買おうと思ったら、なかった。

 たぶん、味が大変に淡白だったので不評でメニューから外したのではないかと思うのだが、あったのは白身魚のフライとコロッケと、あとは付け合わせ。

 店で買う「揚げ物」は、ここ一年近く買っていない。

 食生活を変えて以来、味があわなくなってしまったのだ。

 先日も、スーパーで分厚い衣で覆われた「わかさぎのフライ」を購入したが、「衣」を食べている感じで、自分でわけもわからず、作った方が全然うまかった。

 自分の定番メニューは、4、5種類の野菜と鶏肉を炒め、パンではさんで食べる。

 それだけ。

 朝は、できるだけ6枚切りの食パン1枚で済ませるようにしているが、どうしても2枚になってしまうので、8枚切りとミックス、腹が納まらないときは8枚切りを1枚追加する。

 残った野菜炒めは食パン2枚で挟んでサンドウィッチにするが、チーズと目玉焼きを追加して挟む。

 味付けは塩胡椒に、昆布づけにしたお酢をたらすとうまい。

 問題は、野菜炒めの「油」の量だと思う。

 「油」の量が適量、というか少ないと、食後に牛乳を飲むとき、低カロリーの牛乳が非常においしい。

 逆に油が多いと、低カロリーの牛乳はまるで水みたい。

 「油」には気をつけよ、とよく言うが、料理に使った油が少なければ少ないほど、てきめんにおいしく感じるので、「油」の危険性はひしひしと実感する。

 「味付け」も、食材が5、6種類もあれば、それだけで味がついて充分うまい。

 それで、弁当屋の弁当、あるいは料理屋の食事はすっかり敬遠するようになったのだ。

 そんなにしょっちゅう食べていたわけではないが、ケンタッキーのフライが大好きだったのだが、今はとても怖くて食えない。

 月に一回ぐらいは食べても構わないと思うが、油を控えた食事の後で普通の牛乳を飲むと非常に脂っこいので、それを思うと、あのジュージューのフライドチキンは見るのも怖い。

 日本一のベジタリアン、メルツバウの秋田昌美氏は、公演のたびに、「ケンタッキーは食べるな」というビラを撒いているそうだけれど、頑張れ、秋田昌美。

 私は一時(2週間くらい)ベジタリアンを目指したが、無理でした。

 あれ?

 私は何を書きたかったのだろう?

 NHKのニュースに文句を言いたかったのだ。

 去年、日本は30年ぶりに貿易赤字になったんだそうで、NHKニュースでは、この「危機」をどう脱するか、プロジェクトX(はもうないけれど)張りに、海外に工場を移転しながら、国内の就業者数も減らす事なく維持している会社を紹介したり、こういう風であってほしい日本に誘導するのに必死。

 うんざり。

 昨今の格差社会については、世界中で格差の縮小、中産階級の復活(先進諸国では)が叫ばれているんだそうで、それはニュースとしては、そういう動きがある……ということは現実はそうではないということだが、まあそれはともかく、中産階級の充実、拡大がアプリオリに「いいこと」かというと、それはNHKごときが考えることではない。

 NHKは、あくまでも「ニュース」として淡々と伝えればいいのだ。

 貧乏人の私としては、「中産階級」に格上げされることなんか全然望んでいない。

 貧乏人としてちゃんと生きていける事、それが望みであり、そのために「格差社会」で、金持ちが増える事が有効であるなら、それがよい。

 ブレヒトは、そう言っている。

 「国は富み、人は貧しくあるべきだ」と。

 これは、金持ちの冨を国が貧乏人に有効配分するということを言っているのだ(と思う)。

 「普遍的人権としての乏しさへの権利」とブレヒトは言う。

 正直言って、ちょっとわかりにくい日本語なのだが、翻訳を介して正しく想像すればいい。

 いずれにしろ、中産階級の非人間性はよ~くわかっているつもり。

 共産党の評判が最近いいのも、中産階級の欺瞞性を心底知っているからだろう。

 また話が拡散してしまった。

めでたしめでたし

2012-01-24 00:44:45 | Weblog
 「経済コラムマガジン」というブログがある。

 いわゆるリフレ派というか、日本はデフレなのだから、積極財政で景気回復をはかれという主張で、その筋では、結構名物コラムである。

 定期的に月2~3回更新され、それがだいぶ長く続いているので、その「流れ」を見るだけでも価値はある(と思う)。

 その主張自体については、まあ、いろいろ言う人はあると思うのだが、去年12月の半ば頃の記事は面白かった。

 それは小林慶一郎という「経済コラムマガジン」とは反対に、日本の財政破綻を防ぐには増税しかないという持論をもっている人で、大学の教授に加えて朝日新聞の論説委員なんかもやっている人だが、その小林教授の、上手の手から水が漏れたというか「語るに落ちた」発言を日本経済新聞かなにかで書いたのを、コラム氏から突っ込まれているのである。

 どんな発言か。

 同コラムによると、小林教授は「財政破綻」とは何かという、本質的なことを書いているのだが、それによると、これ以上財政支出削減をしたくても無理、増税も無理という状態において、国債を発行し、これを中央銀行(日銀)が買入れる他は手段のなくなった事態、これが「財政破綻」であると定義しているのだそうだ。

 「経済コラムマガジン」氏は言う。

 なんだ、それは私らが10年以上前から主張していることじゃないか、と。

 つまり、論者の一方は、日本は財政破綻しているのだから大量の日本国債を政府が発行し、日銀が買い入れるように主張し、反対論者は「まだ破綻していないからそんなことをする必要はない」と言い続けてきたが、その反対論者も、どうやら日本政府は財政破綻した、あるいはしつつある、ということで一致したというわけだ。

 めでたしめでたし。

 いや、ほんとうに。

 願わくば、さらに「経済コラムマガジン」氏の年来の主張――「政府紙幣の発行」に突き進めばいいのだ。

 それはさておき、マスコミでは、完全に小林慶一郎式論理のみが流通し、経済コラムマガジン式論理はまったく一顧だにされていないが、ネット上では両派が活発に論議を交わしている。

 マスコミもそろそろ、この「現実」に気づかないといけない。

 ところで、全然話題が変わるが、新幹線。

 日本人はこれを大いに誇りに思っているらしいが、あれって、日本のためになっているのか?

 昔は東京から大阪まで八時間だったが、現在は三時間くらいか。

 私は貧乏で新幹線に乗った事なんかあまりないので、よくわからないのだが、東京から大阪まで六時間くらいで充分ではないかと思う。

 三時間で行けて、どこがいいのかというと、エレベーターで閉ボタンを必ず押す日本人の性格にあっている、というだけではないのか。

 地方の住民は、新幹線が開通すると大喜びするらしいが、新幹線が開通してから日本の地方はどうなったか。

 いわゆる「ストロー効果」で、寂れるばかりではないか。

 そういう意見は、実は開通前にもあったのだが、みんな忘れている。

 といっても、今さら新幹線を廃止するわけにもいかないだろうから、最低、今の半額、つまり、新幹線特急料金を廃止せよと言いたい。

 高速道路の無料化は当分無くなったみたいだが、代わりに低価格飛行機便が一般化し、新幹線も「値下げ」を余儀なくされることに期待したい。

 あと、もう一つ言っておきたい。

 近々総選挙があるみたいだが、私は、以前から言っているように、消費税増税そのものには反対ではない。

 特に、今後の年金問題のためには、消費税を上げざるを得ないということはわかっている。

 消費税は、金持ちで年金をもらっているジジイもババアも公平に負担することになるからだ。

 賦課方式を止めて、積み立て式にしたいと言う事だが、だとしたら、無年金の私だって、これまで120万円くらいは払っているので、その分くらい払ってもらえるのだろうな、え、どうなんだい、民主党。

 ともかく、今後の計画をはっきり示せと言いたい。

 飯田何とかという若手経済学者が、今の民主党の言い分は「商品の中身をしらせずに代金を要求しているようなもの」と言っていたが、全くその通り。

 まず商品の中身を教えろ、そしてそれから、その是非を問うて、解散総選挙をせよと言いたい。

 でなければ、そもそも投票できないではないか。

 まあ、野田が、増税が最優先、それが確立できれば民主党の未来なんかどうでもいい、と考えているのなら話は別だが、あの顔を見ていると、そんな風に考えているようでもあるので(民主党より日本が大事とか、まあ、そうなんだけどね)、いずれそれが露見して失脚するのを期待するか。



余計なお世話

2012-01-15 14:30:39 | Weblog
 昨日だったか一昨日だったか、フジテレビの深夜のスポーツニュース(なんていうのだったか、ど忘れ。新聞とってないので番組の名前も、昔からやっているものは別として、知っているものがほとんどなくなった)で、ヨーロッパのサッカーのフリーキックでとんでもない驚愕の事件が起きたというコメントとともに、CMの後で、とお決まりの台詞。

 番組を変えようかと思ったが、どんな驚愕の事実が放映されるのか、興味があったので、割って入るCMも見る事にしたら、割って入るCMが一つじゃない。たしか、三つほど入ったと思うが、そのたびに別のニュースが流れ、「驚愕の事件はこの後で」の台詞とともにまたCMになる。

 怒り心頭に達したが、自分の「怒り心頭」の現状をちゃんと見極めたいと思い、がまんして見ていると、けっきょくその「驚愕の事件」とは、フリーキックで蹴った瞬間、ボールが破裂してしまったという、ただそれだけ。

 もう、今後「後回し」の場面に出くわしたら、迷わずチャンネルを変える事を決意した。

 少し前、中国で、この「日本式」のCM挿入を実施したら、全国の視聴者から抗議が殺到し、すぐに中止したそうだが、日本でもこれに怒っている人が少なくないはずだ。

 そもそも、なんで「伝えたい事」を後回しにするのか。

 もうだいぶ前の事になるが、野坂昭如が、週刊誌のエッセイコラムを連載する事になった誰かに「書いてしまうとネタ切れになるから、なんて心配せずに書きたい事を全部その回で書くこと」とアドバイスした、と書いていた。

 「後回し」にしたネタは、結局そのまま腐って使えなくなるというのだ。

 テレビ朝日の、深夜番組で、草とユースケサンタマリアがレギュラーで、大熊が司会をしているバラエティ番組が唯一、「割り込みCM」のない番組だった。

 これを見ていて、「決着がつくまで一気に見る事ができる」ことがなんと気持ちのいい事かと改めて思い知ったのだったが、これがちゃんと改まり、「世界基準」になるのはいったいいつのことか、わからない。

 つい先刻、Eテレで、「デジタル放送でどんな風にメディアが変わるか」というテーマの宣伝番組を、昨年八月放映分の再放送として流していて、そこで、デジタル化によって、パッシブ(受動的)メディアであったテレビ放送がアクティブ化すると、どこかの教授が「予想」していた。

 ただし、「受動的」なことにも「みんなが同じものを一度に見る」というメリットがあるので、将来は、このメリットをとりこむようなかたちで「進化」していくのではないだろうか、というのが教授の意見のようであった。

 その具体例の一つが、またしてもCMメディアで、たとえば街の広告看板や自動販売機にその前に立つ人の性別、年齢、複数の場合はその人数等を判別する装置をつけ、それにあった宣伝をするという仕掛けを紹介していた。

 余計なお世話――それだけ。

 そう言えば、タバコの自動販売機に二十歳以下の若者には販売できないように、画像判別機能をつけた自動販売機ができたとか、放送していたが、あれどうなったのか。

 ここ十数年、こんなことばっかりやってきたような気がする、我が日本は。

 ところで、私が「パッシブメディア」を擁護する由縁は、そもそも「情報」というものが、損得勘定とは別のものだと思うからだ。

 具体的にいうと、例えば昨日、インディ・ジョーンズシリーズをやっていたわけだが、昨日のは、シリーズの中でもたぶん、駄作中の駄作だろうと思うし、したがって途中で見るのを止めたのだが、じゃあ、時間を損したと思うかというと、そうではない。

 マイナス価値の情報も立派な情報なのだ。

 あのつまらないインディ・ジョーンズを見て、よくできているジョーンズシリーズが「よくできていること」を改めて思い知ることができる。

 もちろん、あのインディ・ジョーンズを「面白い」と思う人だっているだろう。

 パッシブメディアは、こういう「選別」をあらかじめ引くことなく、情報を提供する。

 「この選択があなたにとって最適です」、なんて「余計なお世話」は言わない。

 どうも最近のNHKは、こういう利得主義というか、資本主義の生き残り策を積極的に応援しているような気がしてならない。

 NHKはそのような観点から離れた、本当に中立の立場でものを言うべきだし、それができる立場でもあると思うのだが。

 ところで、昨日、本屋で野坂昭如の「新刊」を見たような気がする。

 野坂は、今の日本について何か言う権利と義務がある一人だと思うので、もし、「見たような気」が錯覚でなければ、明日にでも本屋で立ち読みしてみよう。(本屋は立ち読みできるのがよい)

「3丁目の夕日」と「アンナ・カレーニナ」

2012-01-13 22:26:52 | Weblog
 フライパンの調子はまあまあいいようであるが、シチュー鍋の調子が良くない。

 例えばカレーを作ろうと思ったら、油をしいてニンジン、ジャガイモ、タマネギ、肉などをまずいためるわけだが、このとき、しょっちゅうしゃもじかなにかでかきまぜていないと、これも「あっという間」に底にこびりついてしまうのだ。

 フライパンでないからしょうがないのかも、と思いながら、かきまぜ、火が通ったところで、水をどっと入れるわけだが、水を入れたらあとはふたをして煮立つまで待ち、あとはカレールーをどぼんと入れるだけ。

 さて、できあがったと思って中をかき混ぜようとすると、肉、野菜が底にこびりついてしまっている。

 しゃもじで必死にひっくり返してみると、底にへばりついていたジャガイモのへばりついていた部分が焼けこげているのだ。

 もちろん、肉も焼けこげ状態で底にこびりついている。

 底にこびりついていないのは、煮ている間、鍋の底に直接接触しなかったものだけ。

 私は「お焦げ」が好きなので、「まあいいや」と思って、そのまま食べているのだが、これも使うたびにだんだん程度がひどくなっているので、どうにかしないといけない。

 「三丁目の夕日」らしき映画をさっきまでやっていたが、あんな映画がなんで人気があるのだろう。

 地方から集団就職でやってきた女子高生が、就職先で、「あのー、私どんな仕事なんでしょう」と社長にいうと、仲村トオルらしき社長が「自動車の修理だよ」。女子高生「ええ? 女秘書ではないんですか?」

 な、なんという会話。

 もちろん、これから「しこむ」か何かしてから、自動車をいじらせるんだろうが、自動車の修理工場に女子高生が就職すれば、当然、その女子高生は事務を担当すると思うだろう。

 あわよくば、社長の秘書を夢見ることはあるかもしれないが、油にまみれてエンジンを分解したりするなんて、まさかである。

 三文文士で、アルバイトで少年雑誌に小説を書いている男が、子供を預かってくれと頼まれ、その場では「ああいいよ」と答えたが、それはその場の口先だけの約束で、その子供(小学校3、4年生くらい)が、男の後を追うと、犬を追い払うように邪険に追い払う。

 男は別に意地悪な性格でもなんでもないので、この場面はドラマ的にはまったく無意味で、実際、結局預かる事になる。

 だったら、なんであんな場面を挿入するのか。

 預かってくれといわれ、驚く男の顔(アップ)。

 男の部屋にかしこまっている少年。苦虫をかみつぶしたような男の顔。

 で、いいじゃないか。

 なんで、わざわざ無駄を入れるか。(まあ、入れたっていいのだけれど)

 目立ったのは、妙にリアルな映像の質感。

 制作側としては昭和30年代をいかにリアルに描くかを目指したのだろうが、結果的にはスーパーリアルというか、非現実感が漂っている。

 といった印象で「三丁目の夕日」は打ち止めとして、昨日古本屋で600円で買ったトルストイの「アンナ・カレーニナ」全七巻(一冊100円、三巻のみ欠品なので、600円)のうち、第一巻を引っ張りだす。

 「幸福はどこも似たり寄ったりだが、不幸はそれぞれちがう」の名文句ではじまる小説で、小難しい倫理の話が展開するのかと思いきや(そう思っていたので敬遠してきたのだが)、少なくとも今のところは全然そうではない。

 ゴーリキーの「死せる魂」を彷彿とさせる、というか、明らかにパクリではないかと思わせるような、小金持の滑稽で風刺の効いた描写が続く。

 しかも、その合間にちゃんと主人公のアンナ・カレーニナが、そこはかとない不幸なイメージを漂わせつつ、早くも登場している。

 ゴーリキーは、すべての近代ロシア小説の元祖らしいから、トルストイが似ているのも不思議ではないのかもしれないが、ゴーリキーに輪をかけた「うまさ」に驚き、なおかつ、その「うまさ」の前に、さすがのゴーリキーも色褪せてしまうか……と思いきや、そうではなく、改めて「なんてゴーリキーはすごかったのだ!」と思わせてしまうことに、さらに驚く。

 天才同士だと「剽窃」もあり得ない、というか、「剽窃」もまた別の形態をとってしまうのだろう。

フライパンあれこれ

2012-01-09 20:07:33 | Weblog
昨日は天理対帝京のラグビー大学選手権、今日は四日市対市立船橋の高校サッカー選手権決勝を見る。

両方とも準々決勝あたりから見ていたのだが、天理と四日市の強さに感心していたのに、両方とも最後の最後にミスがでて負けてしまった。

天理は終了一分前にオフサイドで、決勝ゴールを許してしまった。それも、ポールの先端にぶつかり、内側に転がり込むという微妙さ。

四日市の場合は、一見、終始市立船橋が攻めているようで、実際はがっちり守って、時折攻勢に転じるあたりが、不気味感を漂わせていて興味をひいたのだが、そのカウンターアタックが身を結ばず、一点リードのまま、なんとか逃げ切りに成功か、と思った後半ロスタイムの最後の一分に、明らかなクリアミスが出て、「ヤバい!」と思ったら、点を入れられ、延長戦の、これも後半ギリギリに力つきてしまった。

しかし、堪忍してほしいのが、特に高校サッカーの中継アナウンサーのバカバカしさ。

力、技術とも、数年前の高校サッカーとは比べ物にならないくらいレベルが上がっているのに、それには全然触れず、ただひたすら「サイドストーリー」ばかり喋る。

それも、監督が人格者で、みな「しろーさん」と呼んでいますとか、キャプテンがファウルの累積カードをもらってしまって、決勝に出られないが、みんなその分、がんばってますとか、その主将の靴に部員が寄せ書きをしたのをアップで写したりとか、そんなのばっかりで、その欲求不満の憤懣をどこで晴らそうかと中継中から思っていたが、ありました。

それは、フライパン。

3、4ヶ月前に買ったフライパンがダメになってしまった。

安物買いをしたわけではない。

前にこりているので、並んでいるフライパンのうち、一番高いもの、といっても3000円くらいなのだが、それを買った。

耐久テスト150万回クリアとか、テフロン加工の表示許可をデュポンだかどかから得ているとか、そんなことが書かれていて、これなら大丈夫だろうと思い、なおかつ、テフロン加工専用のたわしなんかも一緒に買い、それで丁寧に洗っていたのだが、すぐになんとなく様子がおかしくなり、やがて肉や魚、玉子などのタンパク質が、あっという間にこびりつき、しゃもじでごしごしこすらなければ、大変な事になってしまう。

それで、まだ半年もたっていないが、買い替えるつもりで買ったスーパーに行って、「あんたのところで買ったが、全然だめだ」と嫌味をいうつもりだったが、店員の数が少ないこと、また、文句を言った後、「今度買うとしたら、どれがいいか」を聞いてみるつもりでもいたのだが、そんなこと、厨房専門ショップならいざしらず、スーパーの店員にわかるはずがない。

それで、前回は並んでいるなかの一番高いのを買ったのだが、今回は並んでいるなかの一番安いのにした。(ただし、IH可のもの)

で、それからまだ二日くらいしかたっていないのだが、今の雰囲気では前よりはよほどいい。

そもそも、これまでフライパンで一番調子が良かった奴は、前住んでいた川口のアパートの近所に捨ててあったフライパンだった。

捨ててあったものでも、加熱するから大丈夫と思って使ったら、まあまあ使える。

ところが、その後、引っ越した先がIHだったので、それが使えず、改めて買ったフライパンがことごとくダメ。

というわけで、「拾ったやつが一番良かった」ということになったのだが、ともかくそんなわけで、今、改めて思うことは、なんであんなに「あっという間」にタンパク質が底にこびりついてしまうのかということ。

テフロン加工が逆目に出た、ということなのだろうか。

捨てるときには、靴でエイエイと踏んでやりたい。

猪苗代湖ズの叫び

2012-01-02 14:32:16 | Weblog
 紅白はどうなっているのかと思ってチャンネルを入れたら猪苗代湖ズが、「フクシマー! 好きだー!」と大声で叫んでいた。

 なんだこいつらは、と思ったら、叫んでいた男はサンボマスターのボーカルなんだそうで、他のメンバーも、「一流」なんだそうだ。

 ロックバンドとして、「一流」なことはわかる。

 あの地声の怒鳴り声は、なかなかできるものではないし、サンボマスターが評価されている理由もわかった。

 でも、あの「フクシマー! 好きだー!」は、どう考えても「絶望の叫び声」。

 「あんなに好きだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだ」という気持ちを込めて「フクシマー! 好きだー!」と言っている。

 そうとるのが普通だろう。

 だとしたら、「あなたに《好きだ》と言ってもらえて嬉しいですが、そう言ってもらえる私はもうありません。でもお言葉はありがたいです」という意味で、「フクシマ頑張れ!」と解釈するのはまああり得るかもしれないが、「元気をもらいました」というのはどうかしている。

 これは、自分に嘘をついている。

 なんで嘘をつかなければならないのかというと、世間にあわせるためだ。

 それでも苦痛にならないとしたら、それは「自分」というものをもっていないからだ。

 だとしたら、どんな風にでも、世間にあわせることができる。

 津波にあって、一本だけ残った松に、津波の恐ろしさ、津波の強大さを見るのではなく、津波に抗して生き残った事実を牽強付会に見て「希望」のシンボルにしてしまったのも同じ話。

 でも、その松は結局塩害で立ち枯れになった。

 あの松は決して「希望のシンボル」なんかではなく「絶望のシンボル」だったということが「事実」として明らかになってしまったのだ。

 結局、正しく「絶望」しなければ、「希望」も見えてないのだ。

 とか、小難しいことはともかく、「フクシマー! 好きだー!」という猪苗代湖ズの叫び声は、「好きだったんだよ、なのになのに……テンテンテン」という意味だったことを、詩人は(もしいるならだけど)ちゃんと指摘しろと言いたい。

 猪苗代湖ズの歌唱力があっただけに、なおさら。

 で、紅白は芦田なんとかという子供が脚を滑らせたところで、三谷幸喜が、ミッキーの踊りが「キレがある!」と誉めたこと(だったら猪苗代湖ズの歌唱力に「しんみりしました」くらいのことを言って、「元気になる」症候群を皮肉ってほしかったが)を見た後、テレビ東京のボクシング、スーパーフェザー級世界王座決定戦を見た。

 内山が11回、度肝をぬくKO勝ち。

 相手はメキシコのボクサーで、暫定世界王者だった実力者だが、左フック一発で倒れた瞬間、レフェリーが割って入って試合打ち切りを宣言したものすごさ。

 後でインタビューを受けていたが、それもすごくしっかりした受け答えで、感心した。

 お母さんも観戦していてインタビューを受けていたが、お母さんと言えば大相撲の豊ノ島のお母さんは、すごく若くて美人。

 二人が並んだら、どう見ても夫婦で、もう一度見てみたいが、豊ノ島が大関になったら出てくるだろう。

 豊ノ島、頑張って大関になれ(優勝でもいい)。