パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

横光利一、再読

2006-12-20 21:36:59 | Weblog
 本棚を整理していて、横光利一の短編集を立ち読み。(これだから、作業がはかどらないのだが)

 『御身』。これがなんで横光作品なのだろうと思ったが、大正期の作品で、志賀直哉の強い影響を受けていた頃の作品ということだった。なるほどと、納得。
 姉に子供が生まれ、弟が高揚する話。姉の赤ん坊の扱いがぞんざいだと思い、一人で気に病んでいる時、「疱瘡の予防接種で、丹毒になり、一時危なかったが、片腕ですんだ」と、姉から手紙が来る。遂に恐れていたことが起きたと思い、姉がいけないんだと怒る弟。そして、片腕を失って、嫁に行けなくなったらオレがひきとって、結婚する(叔父と姪なんだけど……)と自らを慰める弟だが、周囲は、「片腕ですんだ」というのは文字通りの意味で、片腕を切り落としたわけではあるまいと、呑気である。
 あ、もしかしたらオレの早とちりかも……と考え直す弟に姉から手紙が来て、やはり、その通りで、丹毒の影響が出たが、それも片腕に現れただけですんだという意味だった。

 別にこれが「オチ」という話ではないが、嫌味の少ない志賀作品という感じか。

 『厨房日記』。なんで、こんなタイトルなのかよくわからないが、横光の分身である「梶」のヨーロッパ見聞記を小説風に仕立てたもの。ダダイズムの首謀者で、後にシュルレアリスムに転じたトリスタン・ツァラの家で開かれたパーティーに招かれたエピソードが興味深い。
 ツァラは、梶に、「自分は他の国のことならば多少は想像がつくのだが、日本だけは少しもわからない」と言う。たぶん、ツァラの言う、「想像のつく国」には、中国なんかも入るのだろうし、アフリカの黒人王国なんかも入るだろう。もちろん、それらは子供の頃に見た絵本か何かの記憶が元となったもので、それ以上のものではないだろうが、でも、それがもし失われたとしたら、ツァラの心は何がしかの欠損を生じるであろうようなものだ。しかし、「日本が想像つかない」という『厨房日記』におけるツァラの口振りには、日本をそういう、自分の想像の国のコレクションに組み込もうとするような、積極的ニュアンスは全くない。知っても知らなくてもどっちでもよいが、たまたまその日本人がお客さんとしてやってきたのだから、聞いておこう、といった態度でしか書かれていない。切迫したものがない。どうも、俗人っぽい。
 そのツァラに、梶は、日本がどんな国であるか、日本人がどんな民族性を持つか説明する。この説明は、正直言ってあまり面白くない。(むしろ、その前に、「日本人の腹切りは見栄でやるのか、責任を感じてやるのか」と言う一婦人の質問に、「どちらでもない。日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならないんだ」と答えるところなんかのほうが面白い)
 ツァラは最後に、「日本ではシュルレアリスムは成功していますか」と聞く。もし、この会話が実際にあったものだとしたら、ツァラはやはり、俗人だと考えざるを得ないが、それはともかく、梶は、「駄目です」とだけ答えてツァラ邸を辞する。
 こうして日本に帰った梶は、「世界」と「日本」の落差に頭が混乱し、自分がヨーロッパであれこれ見聞してきたことと無縁に生きている妻に対し、「お前はいったい何者だ」と不思議な、そして不安な思いにとらわれるが、その時、先刻、くつろいで組んだ裸足の足が妻の手に触れた時の感触を、ふと思い出す。

 「……前に一足触った芳江の皮膚の柔らかな感触だけが、嘘のようなうつつの世界から強くさし閃いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有り難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生まれてきた秘密の奥も覗かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手まくらのまま横になった」

 そして梶は、この後、急速に国粋的観念に目覚めてゆくというストーリーだが、なるほどね、日本人の「愛国心」というものはこういうものかもしれない。特攻隊の遺書なんかは、つまるところ、みな、このような「触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有り難いこの世」への思い出で締めくくられているように感じられる。一方、鈴木大拙は、戦争末期の昭和19年に書いた『日本的霊性』で、こういう日本人の観念の根底にある「気楽さ」を「本当の宗教心を知らない」と、厳しく叱責したのだが……
 うーん、難しい話になったが……いずれにせよ、梶(日本)は、安心立命を得たが故に、大陸ヨーロッパで打ち当たった「渾沌とした世界」を見失っていく、ということなのだろう。(もちろん、横光はそこまで書いてはいない。「元の木阿弥かあ」とぼやく梶を、妻が笑うという曖昧な終わり方だ)

 しかし、文庫本(新潮文庫)の解説(篠田一士)では、テーマ的に扱いづらかったのか、この「厨房日記」の解説だけ、なかった。日本の純文学(私小説)の世界が閉鎖的と批判されるのは、作家のせいというより、むしろ、批評家が、(批評家が考える)「文学」以外のテーマを排除するような枠を設け、その内に閉じ込めようとしているせいではないかと思う。

 青島幸男死去。タレントとしての知名度だけを頼りに、というか、知名度の維持を目的に政治活動を行い、結果はただ政治を混乱させただけ、と私は思う。

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