パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

疎かったので

2011-01-31 17:20:26 | Weblog
 少し前、再建途上にある日本航空の稲森会長が、日本航空の社員には、倒産後もなお、「安全運行のための赤字はやむを得ない」と考えている人が多く、それが悩みの種だと語っていた。

 これこそ、まさに官僚の独善思考なのだが、官僚自身は、その独善性に気づかない。

 そもそも「安全運行のために生ずる赤字はやむを得ない」のなら、利益を上げることを目的とする民間航空会社はあってはならないことになる。

 否、航空会社であろうが、鉄道会社であろうが、人命に関わり、かつ公共性をもつ事業はすべて民間ではなく、官営でなければならなくなる。

 事実、その通りであるならば、航空会社であろうが、鉄道会社であろうが、官営にすべきだが、「事実」は全く異なる。

 「事実」は、安全運行のために生じた赤字は、税金で補填することになるし、そのように官営事業は制度が設計されている。

 事業本体は常に「安全」なのだ。

 その代表例が、年金のデータ処理を、当時、一般的にパソコンとのちがいがあまりはっきりとわかっていなかった、たとえば、「書院」や「文豪」といった、ワープロ感覚でやってしまったために(たぶん、そんな感じなんだろう)生じた損失を、3000億円近い税金で補って、テンとして恥じることがないのだ。

 「我々は、公僕として一生懸命やった。コンピュータに関する知識に関して言えば、確かに疎かったかもしれないが、20年前、30年前はみんな似たり寄ったりだったじゃないか」というわけだ。

 官僚は「疎くて」ミスをしても、制度(法律)を盾に、責任を取らないですましているが、政治家はそうはいかないからね。

 残念!

 菅総理大臣。

アングロサクソンの微笑み

2011-01-30 15:01:31 | Weblog
 今回のアジアカップは、放映された試合すべてが面白かったが、それとは別の意味で「面白かった」のが、決勝戦の延長後半、日本が点を入れてから、オーストラリアチームのメンバーが時々「笑み」を浮かべていたこと。

 子供の頃、映画「ホワイトクリスマス」を映画館で家族と見ていて、あの「笑み」が怖くて、ラスト近くで逃げ出したことを思いだした。

 「余裕」が本当になくなると、欧米人、特に英米系の人は「笑み」を浮かべるのだ。

 もちろん、「ホワイトクリスマス」におけるビング・クロスビーの「笑み」には、少なくともストーリー的にはそんな意味はないのだが、子供の私は、あの「笑み」を受け入れないと、がらりと態度が変わりそうに思えてひどく怖かったのだ。

 スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットは、「我々スペイン人は、芸術、科学分野に関してはアングロサクソンに決して劣るものではないが、政治的叡智に関しては彼らの足下にも及ばない」とどこかで語っていたが、スペイン人だけではない。

 南方のフランス人もイタリア人も、北方の生まれで、元来アングロサクソンと同祖であるドイツ人も、ロシア人も皆、「政治的」にはアングロサクソンの、はっきり言って支配下にある。

 誰の目から見ても「支配下」にあることが歴然としている日本に比べれば、そんな風に見えないかもしれなくても、実際には、日本と五十歩百歩なのだ。

 メルヴィルの「白鯨」は、そのアングロサクソンによる世界支配、すなわちグローバリズムを象徴的に描いた小説だ。

 エイハブ船長の破滅的な暗い情熱に異を唱えるのは、これも同じアングロサクソン系と思われる航海士スターバックのみで、黒人、ミクロネシア人を含む非アングロサクソンの乗組員たちは、「野郎ども、死ぬまで漕ぎやがれ」と叱咤されるままだ。

 日本だけではないと思うけれど、昨今の「アンチグローバリズム」を唱える人々は、それが実質的に「反アングロサクソン」であることを弁えているのだろうか?

 いや、失礼。

 もちろん、そんなことは百も承知だろうが、では、「反アングロサクソン=反アメリカ」を唱える人もまた、実際は―「白鯨」のピークォド号の航海士、スターバックのように―「アングロサクソン=アメリカ」だという構造になっていることを承知しているだろうか?

 ここに、アングロサクソンの底知れぬ政治的智慧が潜んでいるのだ。

 例えば、アメリカの「国教」は、事実上、キリスト教であるけれど、このことは非キリスト教徒であるアメリカ人を排除することではない。

 このことは、移民からなる国家アメリカの国是といってもいいことだけれど、アメリカの精神的バックボーンがキリスト教であることも、「国是」と言っていい。

 この二つの「国是」をどうやって守るか?

 「非キリスト教徒に対する寛容な態度」である。

 この「非キリスト教徒に対する寛容な態度」は、当たり前だが、「非キリスト教徒」であるアメリカ人にとっては、「キリスト教徒に対する寛容な態度」を意味している。

 では「非キリスト教徒に対する寛容な態度」と「キリスト教徒に対する寛容な態度」によって、アメリカの何が守られているのか。

 アメリカの精神的バックボーンがキリスト教であること、そのことである。

 アメリカにも多数のイスラム教徒がアメリカ人として存在しているが、彼ら、「非キリスト教徒」に対する寛容を主張するのは、実際にはイスラム教徒のアメリカ人ではなく、キリスト教徒であるアメリカ人が、「国教」としてのキリスト教を守るために、「非キリスト教徒に対する寛容」を主張するのだ。

 この「二枚舌」が、オルテガが慨嘆した「アングロサクソンの底知れぬ政治的智慧」なのだ。

近代日本における稲作ナショナリズム試論

2011-01-29 10:33:12 | Weblog
 NHK等によると、日本の米は高くてもうまいので、富裕層に的を絞れば中国でも売れるだろう、ということである。

 そりゃまあ、日本人のような米の食べ方をすれば、日本米がうまいだろうが、誰もが日本人のような米の食べ方をしているかというと、そういうわけでもないだろうし…。

 なんなんだろう、この「食ナショナリズム」とも言える気持ちの悪いナルシストぶりは…と思ったら、この問題は、「米信仰」に端を発する、きわめて複雑で奥深い経過を経てきたものであるらしい。

 そもそも日本人は、周知の通り、昔から雑穀を食べてきたので、米を「主食」にするようになったのは明治、それも後期以降で、それまでは、米、特に銀シャリなんかは、贅沢品として、滅多に食べることはできなかった。

 ところが、ある時期から、この「贅沢品」が手に入る、正確には「手に入るかのように」思える時期がやってきた。

 それは、日清、日露両戦争の勝利により、台湾、朝鮮で米を作るようになってからだが、しかしそれは所謂「外米」で、日本人はそれを蔑む形で、国内産の高い米を崇めるようになった。(特に中国の米は「南京米」と総称され、もっとも侮蔑された。最下層の日本人が食べたからである。その侮蔑ぶりは、漱石の「坑夫」に詳述されている。)

 柳田国男は次のように言っているそうである。

 『軍は脚気予防のために挽き割りの麦を混食させる方針をとっていたが、にもかかわらず、一般にその混用の歩合が少なくなり、目に見えて飯は白くなった。米しか食わない人の数が激増して、粗悪な外国米(朝鮮、台湾、そして中国)が山奥にも運び入れられることになった。この変化の方が、実は、精白度より大きなことであった。(その結果)米は日本人の主食であることを信じて疑わぬ人たちばかりが日本の日本の生活問題を論じようとしたこと、それと一方に、米の飯は奢りであり、したがって米が食えるのは幸福だと思うような質朴な考えが合体して、始終注意をこの一点に集め、非常に我々の食料問題を窮屈にしたことは事実である。』

 この日本人の米に寄せる「窮屈な自意識」は、米騒動で拍車がかかり、窮地に立った日本政府は、東北地方で実績をあげつつあった新種の米を朝鮮半島において移植し、増産を命じたが、こうして生じた「外米」の普及、流入は、前述したように、高価だが、日本人の「口に合う」内地産の米に対する執着心を醸成したのだ。(その中間に位置したのが、朝鮮米の源流地である日本の東北地方。東北人のコンプレックスはここに起因する。)

 要するに、「日本人の主食=米」という図式は、海外からの輸入によってはじめて成立したのだが、その「海外」が朝鮮、台湾という近代日本の、はっきり言って帝国主義的侵略(20世紀初頭におけるグローバリズム)の結果得た支配地域だったことが、「米」に関わる、まさに「奢り」を地で行く心理を醸成したのだ。

 橋川文三は、「昭和維新論」で、次のように書いているそうだ。

 『何かがこの時期(1930年代)に巨大なかげりのようなものとして日本人の心の上をよぎり、それ以前とは異なった精神状態に日本人を引き入れたのではないかという印象を私は持っている。精神的な大亀裂に似たものがあったのではないか、そしてそれ以来、日本人はそのことに気づかないまま、不思議な欲望に操られ始めたのではないだろうか。』

 この「精神的な大亀裂」とは何か?

 それは、「日本人のすべてが常食として米を食べること」に象徴されるような「奢り」に似た何か、ではないか?

 ―と書いているのは、一橋大学員博士課程在学中の山内明美という若い研究者で、私はそれを一橋大学大学院言語社会研究科発行の「言語社会2」という分厚い本に収められた「近代日本における稲作ナショナリズム試論」で読み、なるほどと思ったので、ちょっと紹介してみたのである。

 ちなみに、「日本人畸形論」の岸田国士は、近代日本人の畸形性を払拭するには、「まず主食という概念を捨てよ」と書いている。

絶体絶命

2011-01-27 17:35:00 | Weblog
  財布を落としてしまった。

 と気がついたのは西川口の部屋に戻り、一夜明けた朝だった。

 正直言って、現金は大して入っていなかったのだが、「身につけている金」は、それっきりだったので、たちまち「文無し」になってしまった。

 絶体絶命の大ピンチ。

 というのは、間の悪いことに、今月中に引き払う予定の上池袋のアパートにキャッシュカード等を置いてきてしまったので、そこにたどり着いて、そこから銀行に行くしかないのだ。

 ということは、西川口から上池袋まで歩いて行くしかない。

 西川口から新宿まで自転車で走ったことがあるが、1時間30分くらいかかった。

 「歩き」だと、上池袋なら新宿よりだいぶ近いが、まず、4時間はかかるだろう。

 少し前にテレビで見た元歌奴(現円歌かな?)の落語、「品川心中」を思い出した。

 下町住まいの本屋が品川の女郎に入れあげる話だが、「下町」というのは、だいたい台東区、墨田区あたりだ。

 つまり、台東区、墨田区界隈から品川までテクテク歩いて行ったわけだ。

 西川口と上池袋は、台東区、墨田区界隈と品川ほどは離れていない。

 西川口から川口までは歩いて20分くらい。(これは実際に歩いたことがある。)

 川口から赤羽までは荒川を隔てているだけだし、駅も一区間だけだ。

 赤羽から王子まで行けば、王子は明治通りのどん詰まりで、そこから上池袋は指呼の距離だが、赤羽から王子までがけっこうあるんだよなー、自転車で走った記憶では。

 それでも、「東区、墨田区界隈から品川まで」に比べれば、と我が身を奮い立たせて歩き始めたが、念のためと、昨夜、最後に立ち寄ったスーパーで聞いてみた。

 「財布の落としもの、届いていないでしょうか。昨日の夜8時半くらいです。」

 というと、「お名前は?」と言われ、「ウシオダです」と答えると、「ありますよ」と言う。

 監視カメラに、レジでポケットからぽろりと落ちている様子が映っていて、同じ服装なので同じ方だとわかりますということで、あっさり、戻ってきた。

 バンジャーイ。

 いや本当に助かった。

 あのまま、上池袋までの徒歩を強行していたら、なにしろ「文無し」だから途中で飯も食えず、行き倒れになっていたかもしれない。

 しかし、なんで「落とした」ことに気づかなかったかというと、ウォークマンでエルビス・コステロを大音量で聞いていたからだ。

 少なくとも財布の出し入れをするレジ等ではイヤホンを外すなりしないと「ヤバい」。

 いや、何によらず、歩行中、大音量でウォークマン(あるいはケータイ)を聞くことはあぶないですよ、皆さん。

 と言いつつ、今日もアート・ブレイキーなんてうるさいジャズを聞きながら歩いてしまうのだが。

平成の開国

2011-01-25 17:05:50 | Weblog
 日本の文化の「畸形性」が、日本人のマゾヒズムに由来するという直感を、本棚から見つけた本の次の一節を読んで、得た。

 「マゾヒズムは…満足体験の障害の結果起こるもので、この障害を克服するために行う永遠に不可能な試行である。それは、神経症の結果であり、原因ではない。マゾヒズムは、放出され得ない性的緊張の表現である。その直接の原因は、快不安、つまりオルガスム放出に対する恐れである。マゾヒズムは、もっとも深く恐れているものそのものを引き出そうとする試みである。それは、緊張からの快感的安堵であり、その安堵は破裂の過程として経験され、かつ恐れられる。」(W・ライヒ『オルガスムの機能』

 もっともこのようなマゾヒズムは、日本文化に限らず、あらゆる文化が本質として有しているわけで、そうであるが故に、「人間が人間であるために」という題目のもとに、それをドッカーン!とぶちやぶろう(それが、「オルガスム」だ)とするのが西洋なら、「マゾヒスティックな畸形性」を「美」と考える日本人は、それを「クール・ジャパン」とか言って、外貨獲得を政府主導でもくろんでいる。

 もちろん、外国にも「グロテスク」趣味の人は少なくないわけで、それなりの市場性があるのかもしれないが、もし仮にそうだとして、今現在、日本の輸出入は、依然として大幅に輸出の方が多いわけで、「クール・ジャパン」の成功は、それがさらに増えるということであり、したがって更なる「円高」を招くはずなんだけどねえ。

 この辺、マスコミ、とくに「クール・ジャパン」力を入れているらしいNHKはどう考えているのか。

 円高を利用して、海外に進出せよとか言っている人、マスコミがあったが、海外に出た企業が雇うのはその土地の人、つまり、「進出」の恩恵を蒙るのは、外国人なんだけどねえ。

 一方、円高だったら輸入品はもっともっと安くなるはずなんだが、マスコミは、それを「デフレの進展」と考えているのか、「安くせよ」なんて意見は全くなし。

 ひと月ほど前、JRの駅のエレベーターの前に立った瞬間の出来事である。

 エレベータの扉は、開いたままだが、これから閉まって出発するのか、または着いた瞬間で、これから中の人は降りようとしているのか、「一瞬」だが、わからなかった。

 キャリーバッグをもった人と目が合った。

 その人は、東洋人だったが、日本人とは少し違う感じがした。

 しかし、日本人かもしれない。

 要するに私は、このキャリーバッグをもった人が、降りようとしてい瞬間なのか、乗り込んだ瞬間なのか、中国人なのか、韓国人なのか、それとも日本人なのかについての判断を迫られたのが、「中の人」は、私の逡巡を察したのか、目で、乗るように促した。

 エレベーターは出発するところであり、「中の人」がどこの国の人なのかについては、わからなかったのだが、日本人同士ということがはっきりわかっていたら、こうした「コミュニケーション」はあり得なかっただろうと思う。

 いったい何を言いたいかというと、菅首相は「平成の開国」を叫んでいるようだが、主眼はどうも、そうしないと輸出が増えないと考えているようなのだが、そうではなく、人も物もどんどん輸入せよ、と言いたいのだ。

 それこそが、円高メリットの有効活用ではないのか。

日本人畸形説

2011-01-22 19:14:19 | Weblog
 劇作家の岸田国士が終戦直後の昭和23年頃に発表し、その辛辣な「日本人批判」に世間が驚いたと言われる「日本人畸形説」を読み、鬱々とした気分になる。

 岸田は、冒頭、次のように書いている。

 「日本人とは大方畸形的なものから成り立っている人間で、どうかするとそれをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美を強調する一方、その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味わい、その結果、自分たちの世界以外に『生命の完き姿』とでも言うべき人間の影像を探し求めて、これにひそかなあこがれの情を寄せる人間である。」

 これは、かなり有名な文章であるらしいのだが、岸田は、日本人の「畸形礼賛」を「子供の生活の領域」にも見いだしている。

 「日本の子供は由来、子供の想像の中からが生まれないようなグロテスクなものを与えられる習慣があった。西洋のギニョルはピュルレスク(道化芝居)である。日本の天狗、ひょっとこ、般若、福助、お多福などはピュルレスクというよりはむしろグロテスクであり、文字通り畸形的面相である。しかもこれらは、つい最近まで我々の遊び仲間であったのである。」

 岸田は、「さて、われわれは、いくら畸形的なものの価値と美を強調するにしても、畸形はすなわち畸形であって…そこには必ず不自然、不自由がともなう。」

 日本が世界に誇る、宮崎アニメなんかは、どんなに「作品」として優れていようが、上の岸田の言葉の格好な実例と呼ぶべきだろう。

 また岸田は、「西洋映画から受ける好もしい印象」について、こう語る。

 「西洋映画から受ける好もしい印象の重要な一部は、映画としての優秀性は別として、結局、西洋そのもののあり方、言い換えれば、西洋人の生き方の人間的な自由さにあると思う。つまり、畸形的なものが当たり前で通用していない健全な生活の実情が、我々にとって一つの驚異なのである。」

 もちろんこのことは西洋の社会が理想社会を実現しているというわけではない、と岸田は言っている。

 ということは、岸田の言っていることの半分は、映画とか小説といった「表現」に関わることである。

 岸田はそれを、西洋の文学作品は、端的に「人生らしい人生」「人間らしい人間」が、「いっさいの隔たりを超えて我々異国の読者に親しく話しかけてくる」と言う。

 「すなわち、デンマークの王子も、フランスの売笑婦も、ロシアの農民も、アメリカの主婦も、すべて人間としての完全な皮膚を持っていき、すなわち欲望し、祈り、嘘をつき、笑い、泣いている。読者はそれらの作品によって全身をなで回されているという感じがある。…そうして我々は、自分の身体の隅々に、様々な感覚が眠っていることを教えられ、自分の全身がはじめて生気を帯びてくるのを感じる。」

 私は、この文章を読みながら、つい少し前に見終えたスピルバーグの「宇宙戦争」を思い出した。

 それは、「畸形的」なものに対する「人間らしい人間」の擁護を描いたものだった。

 映画としての評価云々は別として(私は好きだけど)、ああいう風に日本人は、自分が善人なら善人なりに、悪人なら悪人なりに、無鉄砲なら無鉄砲なりに、正当化できない、と強く思った直後に、岸田の文章を読んだのだった。

 ところで、先に「(岸田の言っていることは)映画とか小説といった表現に関わる」と書いたが、「表現」が、日本人の現実(生活)と無関係かというと、そうではない。

 まず第一に、「政治」である。

 岸田は日本人と「政治」についてどう語っているか。

 以下の通りである。

 「日本の政治は、日本人がこれにあたる限り、たしかに畸形的なグロテスクな相貌を呈せざるを得ない。しかし国民は、それをその通りには見ていない。役所といえば役人だと思っているように、政治といえば政治家そのものをしか考えないから、そこには、『全き人間』による『全き政治』の姿を空想する余地がないのである。」

 その結果、「何がどうなっても、それは日本の政治をこれ以上悪くもしなければ、良くもしないと、高をくくっている。」

 すなわち、日本人は「政治というものを人ごとのように考え」、「こうすれば、こうなる」と論理的に考えようとしない。

 まったくその通りではないか。

持続可能な社会保険制度のからくり

2011-01-22 18:54:45 | Weblog
 今現在、国民年金の給付金の半分は国が負担しているが、これが決まったのは4、5年前、石光弘当時税制調査会会長(今もやっているのかもしれない。いつもニヤニヤ笑いをしている極めて嫌みな奴だ)を筆頭とする「持続可能な社会保険制度を探る会」とかなんとかで、決まったものだ。

 半額国負担がはじまったのは2009年からで、この間も少しずつ保険料は上がっていて、2017年で18パーセント弱になった時点でこれ以上は上がらないことになっている。

 調査会で予測している数字は、次の通り。

 年金給付金の総額は、今のままだと126兆円になる予定だが、改革すれば116兆円に抑えることが出来る。

 一方、対応する負担(要するに国民が負担する分と国家が負担する分の総計)は、121兆円を114兆円に抑えるようにする。

 そうすれば、「持続可能な社会保険制度」が実現する、というわけである。

 国と国民がそれぞれ負担する114兆円は、給付総額116兆円に2兆円ほど足らないが、それくらいは「なんとかなる」ということなのだろう。

 ところで、この国民が負担する額とは、純然たる保険金(掛け金)のことであり、たとえば、国民健康保険の場合よりはっきりするのだが、国民が実際に払っている「3割」は「負担」に含まれない。

 同様に、役所等が負担する金額も含まれない。

 何故なら、そういう風に最初から決まっているわけだからだが、それはどういうことかというと、『国民(あるいは企業)が「私的」に負担する分はまったく含まれていないにもかかわらず、「国民負担」を減らそうとのかけ声のもとで国民の負担軽減を目指しているかの格好を示しつつ、国民が実際に負担している私的負担分の増大については見て見ぬ振り』を決め込んでいるのだ。

 実は、これは小沢修司という学者のウェブ論文を参照しているのだが、「参照」を続ける。

 『「報告書」に添付されている「社会保障の給付と負担の見通し-平成18年5月-」(厚生労働省)には、「見通しの前提等(2)」として、次の文言が記されている。すなわち、「『給付』は、これまでの見通しと同様、以下のものは含まれていない。」として、「医療、福祉サービス等の自己負担(利用時一部負担)」、「医療、福祉等の施設整備のために直接支出された国庫や地方公共団体の補助金等」、「医療、年金等の保険者又は地方公共団体等の事務処理に要する人件費等の費用、地方公共団体の単独事業の費用等」をあげている。』

 どういうことかというと、以下の通りである。

 『「医療、福祉サービス等の自己負担(利用時一部負担)」を例にとって考えてみよう。病気になり医者にかかるとする。かかった医療費の3割を窓口で支払う。その場合は、医療保険で支出される7割分の医療費のみが「給付」に計上され、3割の自己負担分は「給付と負担」には一切含まれることはない。3割負担分以外に差額ベッド代を払っても、それは私たちの感覚では立派に医療費ではあっても、「社会保障の給付」に計上される医療費ではないし、「社会保障の負担」にもならない。保育料しかり、施設利用料しかりである。』

 『…この方式を用いれば、「社会保障の給付」を減らし「社会保障の負担」も減らすための「持続可能な社会保障改革」はいとも簡単に実現できることになる。』

 私が前から大変に不思議に思っていたことだが、例の年金記録の再調査のために2600億円以上かかっても、厚労省の役人も、財務省の役人も顔色一つ変えない。

 「給付と負担のバランス」さえ維持できていれば、いいのだ。

 与謝野なんか、臆面もなく言い放っているが、このような官僚の論理の根幹には何があるのか。

 『「社会保障制度を将来にわたり持続可能なものとしていくため」に「報告書」が打ち出した「今後の社会保障制度の在り方」とは何か。「我が国の福祉社会は、自助、共助、公助の適切な組み合せによって形づくられるべき」であり、「自ら働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという『自助』」が基本となり、「これを生活のリスクを相互に分散する『共助』が補完し」、「自助や共助では対応できない困窮などの状況に対し、所得や生活水準・家庭状況などの受給要件を定めた上で必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などを『公助』として位置づける」としている。』

 と、小沢氏は指摘しているが、これは、私が以前から指摘していたことだ。

 すなわち、「日本の福祉は、救貧ではなく、防貧」。

 これが日本の官僚の確固たる信念というか、先輩から吹き込まれていることなのだ。

あるのは「功名心」(だけ)

2011-01-21 16:56:29 | Weblog
「写真集、入稿したぞー」と去年の暮れあたりに書いたのだけれど、たしかに印刷屋に入稿はしたのだけれど、なんやかんやでまだ工場には行っていなかったが、昨日、無事に工場に送り込みました。

 時間が空いたので、ちょっと書き直しなんかもしたけれど、これで、少なくとも初犯、否、初版についてはジ・エンド。

 あとは、まあ要するに、「待つ」だけ。

 与謝野が執念を燃やす「税制と社会保障の一体改革」って、要するに、財政を健全化しないと社会保障も立ち行かないという、財務省の理屈、そのまんま。

 与謝野は、基礎年金を税でまかなうという民主党のマニフェストには反対だという。

 菅は、半年前から与謝野と接触していたらしいが、与謝野が民主の基本政策に反対ということをわかって、誘っていたのか?

 心配なのは、菅の功名心。

 去年、民主党の党首選挙に立候補した時、「功名心」だけで立ったことが、なんとなくだけれど、はっきりわかった。

 小沢もはっきり腹をくくるべきだろう。

 今、腹をくくっても小沢に総理の座が転がり込むわけではないけれど、谷垣は、、与謝野と同じ考えなんだろうし、結局、小沢が「どう動くか」で決まる。

横沢彪は「お笑い」に何をもたらしたのか?

2011-01-14 13:22:08 | Weblog
 あまのじゃくな事ばかり言っているようだが、先日亡くなった横沢彪が、「お笑いに革命を起こした」、「新しくした」と絶賛されているのは納得いかない。

 横沢のしたことは、つまることろ、「お笑いをダメにした」ということでしかないのではないか。

 今でも、かつての「ひょうきん族」的なバラエティ番組が、必ずしも視聴者の全面的支持を得ているとも思えないのに、「これしかない」と業界人に考えられている(らしい)ことは、横沢が、「お笑い」すなわち、「喜劇」の基礎を崩してしまったためではないか。

 「基礎」がないので、バラエティでふざけるしかないのだ。

 島崎がふざけちらしていたが、あれ、電線音頭の完全なパクリではないのか。

 麻原ショーコーみたいなひげを生やしたデブの神様が、手をバッテンすると、タレントの頭上に水がかかる、なんて、どこが面白いの?

 これは、当時から思っていたことだ。
 
 そのビデオが流れ、十字架の神様の横に横沢が神父姿で出演していたが、神父は、タレントにかかった水しぶきをニヤニヤ笑いながら避けていた。

 これはないでしょ。

 「罰で水がかかる=酷い目に遭う」。

 これだけでも、実は、一つの「ドラマ」なのであって、そうでなければ何がそこで起きているのか、わからない。

 単に、手違いにもとづく事故かもしれない。

 実際、私は、ビデオを見て一瞬、「あれ、事故か?」と思ったのだが、それは、横沢神父の「笑いながら水しぶきを避ける」という素人っぽい反応で、「何のためにタレントがこんな目に遭っているのか」という「ストーリー」が見えなくなってしまったためだ。

 「全員集合」だって、バケツたたきとか、似ているような事はしているのだが、「何のためにそういう目に遭うのか」という「ドラマ=ストーリー」がしっかりしているので、事故でバケツが落ちてきたとは、見ている人は、万が一にも思わないのだ。

 大晦日に「全員集合」の再放送を流すのがTBSの定番になっていて、昨年もやっていたが、全然色あせていない。

 しかし、「ひょうきん族」のビデオを見ても、感想は「たけしもさんまも若かった」でしかない。

 そのたけしが「ひょうきん族」の衣装のまま、テレビスタジオの廊下でドリフの誰かとすれ違った際、小さな声で、「適当にやってます」と「手抜き」を告白したとかで、それを披露したリポーターは、「たけしさんはシャイだから」とかフォローしていたが、「手抜き」は、本音でしょう。

 感想を聞かれて「人を使うのがうまかった」と語った由だが、素っ気なかったのもむべなるかなだ。

 その他では、「笑いに対してクールだった」という意見が目立ったが、要するにサラリーマンだったんでしょ、と思う。

サンケイの常識は日本の非常識…であってくれればいいが

2011-01-13 17:16:46 | Weblog
 ワタクシ的に言えば、「昨日の今日」という感じになるが、フジテレビの朝十時からやっている、ニュースネタを主婦宛にわかりやすく解説するという趣旨の番組で、「タイガーマスク運動」について、耳を疑う発言を聞いた。

 それは、どこかの大学で教えているらしい女性の言葉なのだが、彼女は大略次のようなことを言っていた。

 日本人は昔から、相互扶助の精神を大切にしていたが、戦後、「国民は文化的生活を送る権利があり、国はそれを保障する」という(字句は不正確だが、まあ、そんな内容だ)憲法25条の影響でそれが薄れてしまった。

 しかし、日本人の精神には国に頼らず、お互いに助け合って生きてゆくというDNAが残っており、それが発揮されたのが今回の「タイガーマスク」なのだという。

 驚いた。

 日本人(はっきり言って、農民)の「相互扶助」の生活習慣から、それから外れた人間を集団で疎外する「村八分」という習慣も生まれたのではないか。

 「相互扶助」、「助け合い」というと一見聞こえはいいけれど、一種の頼母子講だ。

 実際、日本の健康保険制度が「頼母子講」から出発している事は、厚生省が自ら、認めている。

 それも、世界に冠たる制度として。

 しかし、保険制度というものは、元来、自分の将来のために自分が払うものであって、「他人」のために払うものではない。

 「他人」のために払うのだとしたら、それは「税金」として払われるべきものだ。

 たとえば、こう見えたって私だって、かつて、厚生年金を10年分くらい払ったはず。

 総額は、会社負担が半分あるから、少なくとも50万円か、それ以上は払っている。

 もし、これが民間の年金保険だったら、50万円プラスαが戻ってくるはずなのだが、現行の年金制度、あるいは健康保険は「相互扶助」精神に基づく制度なので、私と私がつとめていた会社が払った金は、「助け合い」のために使われちゃって、今は全然パーなわけだ。

 こういったことは、これまで何度も書いてきたことだが、憲法25条が日本社会の伝統的美風を壊したという意見は初めて聞いた。

 これは、おそらくどこの誰も指摘しないだろうが、「フジサンケイグループのバカ」には、常識になっているのかもしれない。

 だとしたらますます、看過するわけにはいかない暴論であり、一言しておかなければならないと思って書いたのだが、日本人を前近代に生きる「土人」と罵った浅田彰は、いったい、どこで何をしているのか。

 ちょっと前、脚を組み、頬ヅエをつきながら、坂本教授と音楽談義をしているところをNHK教育の新春番組で見たような記憶があるが。