パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

新宿最後の日に……

2006-06-30 19:15:04 | Weblog
 新宿最後の日(笑)。といっても、別にどういうこともないのだけれど、今回は、台東区への引越しということで、東部への移転は初めてだ。元来、世田谷の住人が、下町へ行く、ということはあまりない。逆はけっこうあると思うが……。自転車を多く使う身としては、下町は坂がほとんどないので、有り難いが、どの程度「有り難い」かは実際になってみないとわからない。

 金英男氏を見て、元西武ライオンズのエース、渡辺を連想した人は少なくないだろう。あのはげ具合といい……。
 それはそれとして、ヘギョンちゃんがお祖母さんに叩頭する様子を見て、本当に朝鮮は儒教が根強く残っているとしみじみ思う。親に対する「孝」が、主君に対する「忠」より大事なのだ。じゃあ、家族を引き連れ、南に戻って、孝行に励めばいいじゃないかと思うが、それは駄目。ということは結局、「孝」が優先する儒教の大原則を金正日はよく心得ているなあと韓国人に思わせようというパフォーマンスが、北の今回の戦略だろう。外見だけだが、それでいいのだ。
 北では、無料で大学に進学でき、医療費もただとか、自分自身、宣伝に過ぎないことを知っていて、でも平気で、宣う。聞く方(韓国人)も、突っ込まない。餓死者がどれだけ出ようと。
 戦前の「日本時代」、反日活動で警察に引っ張られて、散々侮辱され、「自尊心」が大いに傷付いた某大学生が、眼鏡を掛けていればインテリと思われ、警察の態度が改まるだろうと、翌日、レンズのない伊達眼鏡を掛けて警察に出頭した、という話を読んだことがあるが、まるで、風呂敷をマントにしただけで月光仮面に変身できたと思い込む子供みたいだ。

 あー、これから引っ越しでごわす。

走れ走れ!

2006-06-27 23:34:22 | Weblog
 「サッカーの原点は走ることにあり。最後まで走りきる体力を作れ」って、だから前から言っているじゃないの。体力は、頑張れば必ず百%発揮できるものなんかじゃないんだって。何度も書いているが、私は高校時代、ちょっとだけボート部にいたが、ボートの言葉に「ロウ・アウト」というのがある。最後まで漕ぎ切ってゴールに着いた瞬間、目の前が真っ白になって失神してしまうくらい、完全に力を出し切ることだけれど、これができれば超一流選手ということになっている。
 並の選手も、持続力を含めた体力を測定したら超一流とさして変わりはないが、「ロウ・アウト」するほど、その力を出し切ることはできない。それで、レースが終わってから体力があまってしまって、余計悔しい思いをしたりする。
 もちろん、超一流選手だって、いつも「ロウ・アウト」できるわけではない。最近絶好調のマリナーズの井口が、「力を出し切れているのが嬉しい」って、コメントしていたが、そういうことなのだ。

 というわけで、昨日のオーストラリア対イタリア戦、オーストラリアは、あのでかい身体でよく走ると、感嘆しながら眠りについたら、「走る」夢を見てしまった。
 最初は、誰かと一緒に歩いていたのだが、そのうち、走り出してしまう。『マラソンマン』のダスティン・ホフマンのように、走る走る。しかも、子供のように、全然疲れない。走りたいと思うだけ走れてしまう。夢とはいえ、若いなー(笑)。一緒に走っているやつが、驚いている。

 そんな夢を見たせいか、秋葉原に行った帰り、新宿駅の一個手前の代々木で下り、新宿五丁目まで走ろうと思ってしまった。まさに、年寄りの冷や水であるが、分厚いジーパンに普通の革靴だから、そんなに走れるわけはない。高島屋まで走ったところでダウンしたが、別に息切れしたというのではなく、脚の筋力がおいつかない。全然。マラソンランナーは心臓と肺臓で走るというが、それだけではない。やっぱり、筋力が一番大きいのだ、と確か、瀬古が言っていたが、そんな感じ。まあ、こっちはせいぜい2、300メートルだけど。

 ところで、秋葉原で、ダ……とか言う、ファミレスに入った。すると、武豊そっくりの若い男性ウェイターがメニューを持って現われ、私の前にひざまずいた。え? 600円のハンバーグでひざまずいてくれるの? それも武豊似のハンサム君が、とびっくりながら、店頭の看板で見た600円くらいのハンバーグ定食みたいなのを頼んだら、今度は、その武豊君がびっくりした顔で、「ハンバーグですか?」と言う。「ダ……でしょ」と言うと、そのお店は地下です。うちは焼き肉屋です、と言った。そ、そうか。どうりでアベックが多かった。
 それで、ダ……に入り直したのが、これが大当たり! ハンバーグはまあまあだったが、アイス、ホットコーヒー、紅茶、ウーロン茶、ジャスミンティー、100%オレンジジュースその他が飲み放題。セットを注文すると、スープもただ。スープを飲みたかったが、セットではなかったことと、甘いものは呑みたくなかったので、ウーロン茶と、ジャスミンティーを選んだが、実にうまかった。特にジャスミンティーは、「ホームラン軒」のジャスミンティーしか飲んだことのない私には、甘く感じた。また、こよう。

お引っ越し4

2006-06-24 12:37:02 | Weblog
 今朝の産経新聞の家庭欄に、引っ越し、出産、結婚など、基本的に良い方向への変化であり得る変化であっても、「鬱」の原因になる、と書いてあった。なるほどね……。しかし、これまで何回か事務所を引っ越したが、「鬱」的になることはなかった。今回の引っ越しの動機は、ちょっと後味のあまり良くない出来事がきっかけなので、多分、その為だろう。

 同じく、産経。社説で、福井日銀総裁の辞任を要求。社会的信用が失墜したからだというのだが、結局、福井が、現今の事態を乗り切ってしまったら、フジサンケイグループ(というか、既存の全マスコミ)が蛇蝎のごとく忌み嫌う、ホリエモン、村上ファンドに対する追究も尻すぼみになるおそれがあるので、そう言っているのだろう。
 産経新聞は、湾岸戦争に際しての報道が素早く、適当であったことと、匿名のコラム時報、「斜断機」が含蓄に富んでいたこと、それから一週間程度の連続インタビュー企画があって、それが好きだったこともあって購読していたのだが、健在なのは、連続インタビュー企画くらいで、後は酷く質が低下していると言わざるを得ず、引っ越しを機に購読はやめよう。ただ、産経は、昔から、犯罪等、社会ネタ関連で、独特のルートを持っていると言われている。多分、文芸春秋社関連なのだろうが、ちょっと雑誌的特種報道があって、それは今でも時々面白いのだが……、いかんせん、経済に弱すぎた。まあ、どこも、日経を含めて五十歩百歩なのだが……せめて、「日本国政府の借金、870兆円に」と正確に書いてくれよ。「日本国の借金」ではなく。
 そんなこんなで、私が思うに、ホリエモン(村上ファンド)は、ニッポン放送買収前に自前の新聞、フリーペーパーでいいから、作っておけばよかったのにと思う。同じマスコミとして行動しているのだ、という買収の大義名分も立つし。

 「別冊歴史読本・のぞき見日本意外史」をパラパラとチェックして、面白い記事を発見。豊臣秀吉は指が6本あったというのだ。カトリックの宣教師がはっきりそう書き残しているのだそうで、著者曰く、当時の日本人はみなそのことを知っていただろうが、独裁専制君主の肉体的欠陥(……いや、異常かな……いや、特徴か)を具体的に文章で書き残すことはできなかったのだろうと。それはそうだろう。ただし、前田利家は、それを仄めかした文章を残しているそうだ。

 しかし、「歴史読本」とか、「別冊宝島」など、本屋で立ち読みすると、とても面白そうで、でも、実際に買ってじっくりよむと、結局目次タイトルのお題目以上の記述はなく、肩透かしを食らう。実際、秀吉が六本指だったからといって、だから歴史がどうなったというものでもないし。(「歴史読本」と「別冊宝島」を並べるたりすると、「別冊宝島」の編集者は怒るかな?)

とどのつまり……

2006-06-23 18:35:49 | Weblog
 秋葉原の新事務所に、荷物を少々持ち込み、一服しながら部屋の寸法を測ったりしているうちに、なんとなく落ち込んでしまった。あくまでも「なんとなく」で、はっきりした理由はないのだけれど……昨日の対ブラジル戦、惨敗のせい? ……まさかね。でも、本当に酷かった。早朝のし白茶けた雰囲気が拍車をかけ、最後の10分でさすがにテレビを切ってしまったが、中田が何と言うか、聞いてみたくなり、またつけたが、中田はグラウンドに倒れて起き上がらなかったそうで、中村の無言のインタビューだけ聞いた。
 日本の実力は4対1のスコア以上に開いていた、という意見があるようで、気を取り直した中田も、ブラジルの実力を思い知らされた、というようなコメントを残したみたいだが、そうではないと思う。ブラジルの選手が、「今日の日本は驚くほど弱かった」と言ったそうだが、「驚くほど」というのは、あそこまで弱いはずはないのに、という意味だろう。(希望的解釈ではなく)

 もちろん、ブラジル相手に2点以上の差を付けての勝利はさすがに不可能だったと思うが、頑張れば、ゼロゼロか、あるいは1対1の引き分けに持ち込むことは可能だったと思う。コンフェデ杯で引き分けだったように。もちろん、引き分けでは決勝トーナメントには進めない。でも、それでいいじゃないの……コンフェデ杯だって、引き分けで、決勝トーナメントにはいけなかったのだし、というモチベーションが働かなかった。
 なんちゅうか、要するに「ぐだぐだ」になってしまったのだ。そして、それは、結局、みんなが言っているように、オーストラリア戦での逆転負けが最後まで響いたのだと思う。てことは、やっぱりジーコが……てことになっちゃうか。

お引っ越し3

2006-06-21 14:10:45 | Weblog
 伊右衛門茶のお土産風鈴を扇風機で鳴らしながら書いてます。

 ネットをうろちょろしていたら、アマゾン・マーケット・プレイス(AMP)なるものを見つけた。「見つけた」ったって、ほとんどの人がとっくに御存じだろうが、アマゾンにISBN登録してある本ならば、新本、古本問わず売り捌くことができるというシステム。
 これは好都合と、試しに、串間努氏の「シーモンキー」研究(?)本を1000円で出品したら、ものの五分と経たぬうち(本当に!)に売れてしまった。アマゾン在庫切れのうえ、他に同書を出品している人がいなかったので、売れるだろうとは思っていたが!
 気をよくしてせっせと出品したが、もちろん五分で売れるはずはない。六ヶ月置いてくれるというので、フィッシングのつもりで気長に待とう。
 ちなみに、野坂昭如の三島本、『カクヤクたる逆光』を出そうと思って値段を見たら、なんと、80円。野坂の著書の中では、かなり上位の本だと思うけどなあ……。高かったら出そうと思ったが、やめた。次に、故小松方正の『霊界通信』を調べたら、800円の値がついていた。もう二十年以上前の本で、定価1000円なのだが、たしかに、「この手の本」の中では、黄泉でが……いや、読みでがある。即出品。

 旧聞に属するが、サッカーワールド杯、対クロアチア戦引き分けを受けて、中田ヒデの「勝てた試合だった」なる記者会見での発言に対し、「それはクロアチアの台詞だろう」との突っ込みが。
 それで考えた。
 日本が勝つ確率が6割と、中田が考えていたとしよう。その場合、クロアチアの勝つ確率は、残りの四割かというと、そんなことを中田は言いたいのではないだろう。クロアチアはクロアチアで、勝つ確率は8割あった、と考えているかも知れない。合わせて、14割……それでいいのだ。
 あるいは……中田の台詞は、柳沢の「信じ難い」シュートミスのことを念頭においてのことかも知れない。人間のやることだからミスはつきものとはいえ、高額の報酬をもらっている選手のやることではない。喝ーっ!

 本棚を片付けながら、雑誌「伝統と現代」の「死刑特集」をつい、読む。30年前の1976年、「銚子民宿母子殺人事件」なるものがあったそうだ。 読んでそのまま、銚子の民宿の主婦を強姦殺害、騒いだ九ヶ月の赤ん坊も殺したというもので、今回の山口県光市のケースと同じだ。逮捕後一年を経ずして死刑判決が下り、80年には高裁で控訴棄却となり、死刑が確定した。犯人は、中学一年の時に、三歳の幼児を殺して少年院に入っている。
 同特集には死刑制度の是非についてのアンケートが掲載されており、大半が、「非」だったが、中でも面白いと思ったのは、澁澤龍彦で、「聖性」を失った近代以後の社会では、本来、死刑は存在し得ないというもの。反対の賛成の反対!(賛成)。一方、藤原新也も「非」なのだけれど、戦後民主主義の非暴力主義の延長線上でそう言うのではなく、「人は人に死罰を課すほど倫理的に万能ではない」という。しかし、こういう言い方自体がずいぶん倫理的というか、はっきり言って「傲慢」とも思える。宮崎駿も、藤原と似たようなところがあるように感じる。宮崎駿は、創作中、自分が神のように思えて、「いかんいかん」と自戒しながら作ってるんだそうだ。
 「伝統と現代」の編集部も「非」の立場なのだそうだが、「我々軍人ほど平和の大切さを知っているのだ」というマッカーサーの言葉をひいて、「もしそうなら、この世で一番の《殺人否定者》は、死刑囚その人かもしれない」と編集後記に書いている。おいおい(笑)。しかし、「伝統と現代」は、そういう編集者の意図を誌面が全然反映してないところが、思わず笑っちゃうのだが、これは、ぶっちゃけていうと好奇心が前面に出ちゃうからで、それがこの雑誌のいいところなのだが、もうずいぶん前に廃刊になってしまって残念……というほどのものでもないところが、また「伝統と現代」らしいところだと、またまた笑ってしまう。なんのこっちゃ。

 サンクスの「手延べソーメン」で軽く昼食。昨日も同じソーメンだったのだが、「ほぐし水」をかけたところで千駄木のMさんから電話があり、例によっての男には珍しい長電話で、せっかくかけた「ほぐし水」が乾燥してしまった。ので、今日はリベンジである。

お引っ越し2

2006-06-17 13:55:52 | Weblog
 引っ越しっていろいろ疲れるのだけれど、今回の場合は、「本」をどうするか、これに尽きる。もともと、物を捨てるのが苦手なのだけれど、本は特に、捨てづらい。それで、選択しようと思って本をパラパラ見ると、捨てる積もりだったのに、案外面白くて、やっぱり残しておこう、となる。
 下川さんの「泥棒」の話を集めた本を読んで(いや、下川さんの本を捨てようと思った訳では……)いたら、こんな話が載っていた。
 コンビニかどこかで、16歳の女子高生が万引きをした。ところがちゃんとお金は持っていた。お金があるのに何故盗んだのか、と聞くと(ほとんどの万引きがそうだと思うけど)、女子高生曰く、「お金を出して買うほど欲しくはなかったが、でも、欲しかった」。
 わかるなー、その気持ち。本を捨てる捨てないで迷うのも、まったく同じ気持ちだ。それで、捨てる捨てないの境界線にある本が、今風に言えば「うざったく」なって、えい!と捨ててしまい、後で後悔したりする。そして、境界線上にない本、つまり、明らかに要らない本が、お目こぼしでいつまでも残っていたりする。

 同じく、ユリイカの、アラーキー特集をパラパラと読む。この手の本には珍しく、荒木批判がいくつかある。たとえば、引用だけれど、金井美恵子の「精力的だが、つまらない」とか。同感だなー。
 それから、美術家の森村泰昌が、アメリカ人が、「どうして日本の女性は、荒木に縛られることを望むのだろう」という疑問を紹介していた。「明らかに女性蔑視のイメージを作っているではないか、アメリカでは考えられない」というのである。森村は、この疑問に対して、あの写真は女性自身のセルフポートレートなので、それを荒木に撮影させているのだ、つまり、荒木は、彼女たちにとって、「道具」に過ぎない。したがって、彼女たちが自ら写真をとるようになれば、アラーキーは不用になって捨てられる、と。
 うーん、どうだろう。確かに、被写体である彼女たちが自ら写真をとりだしたことは事実だが、それでアラーキーが捨てられたかというとそうではない。
 ぶっちゃけたところ、アラーキーほどの技術がないということなのだろうが、それはそれとして、日本の女性が、あられもなく縛られることを望むのは、日本女性独特の表現術、「背中で口説く」という伝統の現われじゃないだろうか。
 これは、日本の「着物」の、正面ではなく、後ろ姿で見せるという、独特のあり方と関係があると思うけれど、実際、荒木にとられる女性の多くが、和服を着ている。(まあ、着た上で、脱いじゃうのだが……)

 いずれにせよ、荒木の写真を好きか嫌いかで、その人の資質が区別されるような気がする。(別に、荒木に限ったことではないだろうが)
 たとえば、荒川洋治。ちょっと意外だけれど、彼は荒木を「まばゆい」ほどの存在で、「同じ人間に生まれたのに、どうして彼のように自由になれないのか」とまで書いている。しかし、読み進むと、ちょっとニュアンスがちがってくる。
 というのは、荒川は、日本の都会の鋪装した住宅街の道に引かれた白線が大嫌いなのだそうだ。「道を汚す、人を汚す。見るたびにうっとうしい」と。ところが、荒木の写真には必ずこの白線が入ってくる。そして、それを見ているうち、「いつの間にか、僕には個人的趣味や視線がひどく無力なものに思えてきて、白い線の上に舞い降りる」。
 荒川はアラーキーの写真が好きなのか、嫌いなのか……微妙に思うが、荒川は、それが「楽しい」と書く。
 私はというと、荒木の写真の「白線」を見ると、ものすごく憂鬱になるのだけれど。

 引っ越しに備え、東京市街道路地図を購入。東京地図出版というところの、リンクルミリオンというシリーズだが、本の綴じが、バインダー式になっているので、買ってから全部ばらして、現在使用中のバインダー式住所録に一緒に綴じ込んだ。個人的住所録と地図が一体化したのだ。これはナイスじゃないか、と自画自賛。バインダー式だから、見開きでぐいと開いても本が壊れることはないし。
 しかし、「リンクルミリオンシリーズ」は、東京区内版一冊しか置いてなかった。表記もわかりやすいし、いいと思うのだけれどなー。

お引っ越し

2006-06-14 22:27:38 | Weblog
 多田道太郎という社会学者がいる。まだ健在だったら、相当なお年だと思うが、この人のエッセイを時々、息抜に読むのだが、必ず「へー」と思わされる話が書いてある。たとえば、「地下商店街」は世界の中で日本にしかないとか。韓国あたりにはありそうな感じもするが、ソウルの「地下街」なんて話は聞いたことがないので、やはり、日本だけなのかも。あと、自前のテレビ番組で、24時間埋めることのできる国はアメリカと日本だけだとか。つまり、どの国も、多かれ少なかれ、アメリカ、または日本から番組、特に娯楽番組を買っているというわけだ。もちろん、日本から買うとしたら、アニメということになる。アニメと言えば、「萌え」だ。「萌え」と言えば、秋葉原。そう、この秋葉原に南原企画は引っ越すことになりました。

 まあ、いろいろと事情はあるのですが、端的にいって、去年の秋以降、今借りている部屋の家賃の値段が上がってしまったんです。今どき値上げなんかする強気の大家なんかいるのか、と思われるかも知れないけれど、実は、結構、滞納してまして(笑)。いや、笑うバヤイじゃないな。それで、3万円弱、上乗せされてしまったわけです。千駄木のMさん曰く、「払えないから滞納してるんだから、値上げなんておかしい」と言っていた。まさにその通り(笑)。むしろ、値下げを要求したいくらいなんだけど、まさかそうも言えず、「できるだけ頑張ります」と答えて、以後、Sさん本の編集代金など、臨時収入として入ったことなどもあって、4月ごろまではなんとかんとか維持してきたけれど、もはや限界ということで、移転を決意して、安い部屋をネットで探した。
 実際の所、今どき「安い」というだけなら、正直いっていくらでもあるのだが、実態は、やはり「それなり」の部屋でしかない。個人事務所だけなら、どんな場所でも、それこそ、たとえば橋の下だって構わないのだが、一応、ギャラリー活動をしているので、それもできる場所というと値段も「それなり」になる。(うーん、日本語は微妙だなあ。高い、安い、どっちも「それなり」で表現できちゃう)
 そんなわけで、あちこち調べているうち、秋葉原に適当な部屋が見つかったというわけです。 
 ただし、住所は「台東区上野」ですが、地図で調べたら、落語で有名な「黒門町」の近くみたい。しかし、窓から秋葉原の新ビル群が見える。下半身をアナログに浸しつつ、上半身はデジタルといった感じ。7月から移ります。
 ということで、いろいろ忙しいので、今日はこれで。

監督の差?

2006-06-13 21:22:17 | Weblog
 負けちゃいましたね、日本。今、TBSを見ていたら、亀田興毅が「なんとか勝てると思うてたら、こうなるんやね、サッカーは。最後、切れたんとちがうか?」と話していた。その通り!と思う。1対1になった時、「同点でよい」と、ジーコがしっかり指示を出しておけばなー。小野投入は、同点にされてからだったかな? だとしたら、「勝ち」を狙ったことになるが、オーストラリアは明らかに「強い」のだから、同点、両チーム勝ち点1は御の字じゃないか。
 セルジオ越後は、「監督の差が出たじゃないか」と言ったそうだが、たしかにジーコは「よい先生」ではあっても、「勝負師」ではない。これは、後知恵じゃなく、最初から、というか、途中からそう感じていた。そのジーコが、勝負師中の勝負師、ヒディンクにかかっては、とてもかなうはずがない。
 もちろん、その前に「実力はいかに?」という問題があるのだけれど……。プレマッチのドイツ戦における高原の2ゴールは迫力があったので、もしかしたら一皮剥けたかと思ったのだが……。などと、つい少し前までオフサイドルールがよくわからなかった奴が言ってますが、しかし、「監督が問題」だったのなら、対クロアチアも「監督」がキーになるが、クロアチアの監督は息子を依怙贔屓していると非難を浴びたりしたそうで、ヒディンクのように、万全の自信をもって采配をふるえる状態ではないようだ。そう考えると希望がないではない。……かな?

キックオフ!

2006-06-12 22:00:12 | Weblog
 久し振り、というか、開館以来、はじめて「内記漫画図書館」に行った。開館当時、「アウト」で取材したことがあるのだ。あれから、30年?
 松野明美そっくりの女性事務員に花輪和一の「浮草鏡」のコピーをとってもらった。一枚百円。草森紳一の原稿の挿し絵用なのだ。しかし、今、はと気がついたが、著作権はどうなっちゃってるのだろう。「百円」は、おそらく図書館の収入になるのだろうが、一部は著者、出版社に配られるのだろうか。(と言いつつ、私は勝手に新雑誌に図版を使っちゃうのだ)

 用を終えて図書館を出ると、雨がほんの少しパラパラっと降ってきた。あれ? 出る前に、天気がおかしいので電話で聞いたら、「百%降らない」だったので、自転車できたんだ。雨でコピーが濡れたらどうしてくれるんだ!と思ったが、結局雨は、その「パラパラ」だけで、天気予報通りだった。

 サッカーワールドカップ始まる。
 ヨーロッパマニアの女性(及び、一部の男性)にはたまらない1ヶ月だろうと、テレビを見ながら、思う。そのせいかどうかわからないが、世界地図の黒海の左上あたりに、真ん丸い(サッカーボールのような)大きな内海を発見して驚く。「え? 知らなかった」と。もちろん、夢。
 しかし、よく考えると、サッカーはイングランドで生まれたのに、イングランドの植民地――アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどではサッカーは盛んではなく、イングランドのライバル国である内陸ヨーロッパとその植民地である南米で熱狂的に好まれている。ちょっと不思議である。

 あー、今から日本対オーストラリア戦、キックオフだ。

奴隷の弁証法

2006-06-07 11:38:54 | Weblog
 哲学者ヘーゲルに、「奴隷の弁証法」という有名な論考がある。概略以下の通り。(ウェブ論文からまとめた)

 ヘーゲルは、人間は、他者がおのれの価値を認めることを求め、そのために生命を賭けた戦いが展開されると考えた。人が必然的に「戦う存在」だという点では、ホッブスの「万人は万人にとって狼である」と、考え方がちょっと似ているけれど、ホッブスの場合は、人間は「生存」のために戦うのだが、ヘーゲルは、他者に己の価値を認めさせるために戦うのだという。
 そしてその結果、危険を顧みずに奮闘したものは「主人」となり、おのれの生命を危険にさらすのを拒んだ者は「奴隷」となる。
 何故なら、人間は、己の価値を他者に認めさせるために戦ったわけで、「敵」を全部殺してしまったら、自分の価値を認めてくれる「他者」がいなくなってしまうため、撃ち破った者を、「奴隷」として処遇せざるを得ないのだ。ヘーゲル曰く、
「したがって、戦いによって敵を殺すことは、人間にとって何の役にも立たない。人間は敵を『弁証法的に』抹殺しなければならない。つまり、敵に生命と意識を残しておき、その自律性を破壊するに止どめておく必要がある。……言い換えれば、敵を奴隷化しなければならないのである。」

 ところが、ここで矛盾が生じる。というのは、主人がおのれの価値を奴隷に「認知」させようと思っても、主人にとって、奴隷は「道具」に過ぎない。つまり、「人間」ではないため、期待していた「自分の価値の認知」を得る事がができなくなってしまうからだ。
 しかし、そのことに「主人」は気づかない。もはや、「努力の全体は奴隷によってなされ、主人はもはや奴隷の用意してくれた事物を、消費することで否定し破壊し、享受しさえすればよい。」からである。
 つまり、戦いに勝った結果、主人は奴隷を支配することで、現状に満足し、生命を賭けて戦った意義は失われ、逆に、奴隷に依存するようになる。主人たる資格は、ここで失われるというわけである。つまり、自らの認知を求め、果敢に戦って勝利した「主人」に対し、己の生命を危険に晒すことを拒んで奴隷となった者が、「奴隷の身分を経ることで、自身の隷属を『弁証法的に抹消』したのである。」(ヘーゲル)

 つまり、戦いに敗れた存在である奴隷が最終的に勝利するとヘーゲルは言うのだが、 それは、奴隷こそは、労働における事物との関わりを強制されることにおいて、生命を賭けたことになるからだというのがヘーゲルの主張である。曰く、「したがって、労働によって、労働によってのみ、人間は客観的に人間として、自己を実現するのである。」

 かくして、労働を通して奴隷は主人を己に依存させることが出来るというわけだ。もちろん、「この労働はそれだけでは、奴隷を解放しない。しかし、この労働によって世界を変形することで、奴隷はおのれ自身も変わり、こうして、新たな客観的環境を生み出し、それによって、最初は死に対する恐れによって拒んでいた、認知のための解放闘争を再開することが出来るのである。」

 ――これが、マルクスを感激させ、「共産党宣言」を書くにいたらしめた、ヘーゲルの「奴隷の弁証法」であるけれど、私が思うに、これには致命的な欠陥がある。それは、ヘーゲルによれば、奴隷(=労働者)は額に汗して生産に従事する(世界に関わる)という本質故に「主人」に優越するというのだけれど、実際のところ、奴隷が奴隷の本質に徹することは、「主人」にとってまことに有り難い、つまり、「主人―奴隷」という秩序を維持するのに、好都合なことでしかないということだ。
 もちろん、だからといって、「労働に価値などはない」「万国の奴隷(労働者)よ、サボタージュせよ」というのではない。ただ、このような「にっちもさっちも」な状態を必然的に招来する自家撞着構造を内包しているのが、「奴隷の弁証法」で、それを「致命的欠陥」と言いたいのだ。

 それはともかく、なんでまた、唐突にこんなものを持ち出したかというと、今、話題の村上ファンド、あるいはライブドア問題について、ちょっともの申したかったからだ。
 で、どうもの申したいかというと、両事件を摘発した検察庁の長官が、去年だったかに就任した際、「額に汗して働く人の意欲を削ぐようなことはあってはならない」と発言したわけだが、なんともうさん臭いなあと思っていたのだ。ヘーゲルの場合は、一応、科学的客観精神を自負し、なおかつそれを目指しているという表向きの姿勢があって、それが「モラル」の問題を隠蔽していたが(一方、人間の労働は神に対するモラルの問題であると正面から認めることで、近代資本主義の「精神」を説明したのがウェーバーだ。私は、もちろん、ウェーバーを支持する)、この検察庁トップの発言は、ヘーゲルがなんとか誤魔化していた「モラル」の問題を、あからさまに語ってしまっている。(日本に「神」はいないので、どうしてもそうなっちゃうということでもあるが)
 いや、もちろん、「ルールを守る」ということは、イコール「モラル」の問題でもあるのだけれど……でも、全面的に同じ事では、多分、ないだろう。

 と、ここまで書いて、鋭敏な方はとっくにおわかりだろうが、「朝御飯」の問題がここで出て来るのですよ(笑)。つまり、件のNHKの番組では、「朝御飯」を、表向きは医学的問題として語ってはいるが、実際には、「モラル」の問題として取り上げたく思っているような雰囲気を感じたのだ。これは、たぶん、「プロジェクトX」成功以来、打ち出されたNHKの一つの方向だと思うが……これに、ポスト小泉の政争がからんで、積極的に後押しする勢力が存在し……と私は思っているのだが……。