パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

狂、その2

2006-12-19 22:47:20 | Weblog
 神田の特価本屋で「太陽」の白川静特集を立ち読みしたら、白川先生と漫画家の岡野玲子さんが対談していて、その冒頭の話題が「狂」についてだった。読んでいったら、白川氏には、「狂字論」という論文も書いているそうで、「狂」についてはなみなみならぬ関心があった様子。(他に、「真字論」というのも書いているそうだが)昨今、白川ブームでもあるので、本屋で探せばいくらでもあるだろう。

 ところで、漢字というと、藤堂朋保という人もいたが、藤堂氏は白川説を「中国古代宗教研究家が畑違いのことをしている」と白川静を批判したことがあり、一時、険悪な関係だったらしい。
 白川氏は、漢字の起源はすべて祭祀の実行者が創作したものだというものらしくて……正直いって、藤堂氏の説のほうが一般受けはするし、「なるほど」と思うこともあるのだが……白川流の強引さも、捨て難い。

 それはともかく、藤堂派の漢字サイトに、「漢字家族」というのがあって、表示されているカウント数を見るとかなり盛況のようだが、そこで「狂」を検索したら、次の文章が見つかったので、コピーした。


 「中道なるものこれと与にするをえずんば、必ずや狂狷ならんか。狂なる者は新取し、狷なる者は為さざるところあるなり」(『論語』・子路)
 「帰らんか、帰らんか! わが党の小子は狂簡なり。あざやかに章をなす。これを裁するゆえんを知らず」(『論語』・公治長)

 『孟子』はこの『論語』の一節を、彼の書の巻末ににおいて、ていねいに解説している。これまさに「圧巻」の名にふさわしいもので、彼はここに儒家のほんとうの魂を見たと思ったのであろう。

 「中道が得がたいとすれば、狂狷なる者とともに行動せざるを得ない。狂(むてっぽう)なる者は新取的であり、狷(へそ曲がり)なる者はこれだけは絶対にやらぬという操がある。・・・孔子はいった、『私の門を通り過ぎながら、中へ入ってこなくてもいっこうに残念だとは思わぬ相手、それはほかでもない、郷原(くそまじめ)だろう。郷原は、素直な人間性を賊なうものである』と」
 「郷原とはどんなのをいうのですか?」
 「この世に生まれたら、世の中に合わせていけばよい。うまく調子を合わせればどうにか過ごせる。外に衣を着せて、世の中に媚びるもの、それを郷原というのだ」
 「郷党の者すべてが、あれはまじめ人間だ、というようなら、どこへ行っても原人(円満居士)として通るでしょう。それなのに、孔子が素直な人間性を賊なうものだといって悪んだのはなぜですか?」
 「それを誹ろうにも手がかりがない。刺そうにも刺すテがない。そして流俗に同調し汚世に合わせている。じっとそこにおればいかにも忠信に似ており、何かを行えば、廉潔らしく見える。人びとはそれを喜び、当人自身も是認している。だがこれではとても堯舜の道には入れない奴らである。孔子は『似て非なる者を悪む』といった。孔子が郷原を悪むのは、それが有徳者とまぎらわしいからである」


 おるなあ、こういう人は、うじゃうじゃと。(郷原の「原」には「すなお」という意味があるそうで、したがって、「郷原」とは、近所のいかにも物わかりの良さそうな人、といった意味だろう。サイト解説の「くそまじめ」では、「狷」になってしまうのでは?)