パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

納豆キムチ御飯、グー

2007-02-27 22:30:22 | Weblog
 二日程前、また温水が出なくなった。それで、また、外に出て、機械室のドアを開けてみたが、故障を知らせるランプはやはり点滅していない。
 前回は、「復帰ボタン」のキャップを外すところまでやったのだが、キャップを外しても、ボタンを押さなければ「復帰ボタン」の機能は果たさないことは言うまでもないのであって、非常に中途半端なナンセンスなことをしたものだという反省があったので、今回は、キャップは外さず、ただ、じっと睨んだだけで、再び機械室のドアを閉めた。
 そして、台所に戻って蛇口をひねったら……なんと、あっという間に、お湯がジャーッと出てきた。本当に、「見た」だけなのに……量子力学の「観測問題」そのものではないか。

 「量子力学の観測問題」とは、月光22号「天文特集」で、ほんの少しだけ触れたことがあるが、たとえば、電子(素粒子)が一個、ある箱の中にあるとする。その箱には小窓がついている。それを開けて中を覗くと、その電子は、その箱の中のある場所に発見されるだろう。一見、当たり前の話だが、その「位置」は、観測した瞬間に、確率的にのみ定まるというもの。言い換えると、観測していない時、電子(素粒子)は、その部屋のあらゆる場所に存在しているということで、したがって、これを「電子雲」なんて呼んだりする。それが、「見た」瞬間、キュッと一点に凝縮して、観測可能な状態になるというわけだ。

 というわけで、よく考えると、当たり前だが、ガス湯沸かし器問題とは全然ちがう(笑)。

 新宿東急ハンズに行った帰り、久しぶりに「牛丼太郎」で、キムチ納豆丼を食す。納豆御飯にキムチをプラスしただけだが、結構いける。(牛丼太郎は出店が少なく、食べる機会が少ないのが残念。)醤油も不要で、健康によろしい。(なんでも醤油を使えばおいしくなってしまうのが、日本料理の欠点、と漫画『料理人味平』で読んで以来、塩分カットの意味合いも含め、醤油を使わずに済むなら使わない主義。)帰ってから作ってみたが、同じ味だった。当たり前。

 半分食べたところで、生卵をまぜてみたが、これはダメ。栄養は増したかも知れないが、味が薄くなってしまった。

ある変哲のないソファの物語

2007-02-24 19:21:04 | Weblog
 いったん、ほぼ完成したと思ったギャラリースペースだったが、再度作り変えることにし、それがほぼ完成したので、最後の仕上げとしてソファを置こうと考え、多慶屋などを見たのだが、いまいちだったので、ヤフーオークションを覗いた。

 ヤフオクの「家具」は、ほとんど業者出品ばかりで、個人出品は極めて少ない。1%もないんじゃないかと思うくらいだが、一つだけ見つけた。
 それが写真のソファだが、自由が丘の丸井で購入して6年、気に入っていたが、引っ越しで手放すことにした。もとは黒だったが、昼間の光で見ると、赤茶けている。気になる方はカバーをかけて使って下さい、という出品者のコメントがあり、残り三時間くらいでまだ買い手はついていなかった。

 なんてことのない、くたびれたソファだが、一目見て、なぜか気に入ってしまい、よし、これらなら、きっと二、三千円で落とすことができるのではないかと思った。二、三千円といっても、送料が大分かかるだろうから、実質一万円くらいだろう。このソファに一万円出そうという人は、あんまり、いないのではないか。

 そんなことを考えていたら、残り二時間くらいで1000円の値がついた。

 やっぱり、ウォッチしている人はいるんだと思いつつ、1100円を入れようとしたら、先に入れられた。それで、1200円で応札してみたら、最高値をとることができた。

 そして、そのまま時間は過ぎていった。

 オークション締めきりは深夜の11時59分なので、それまで帰れない。それに、時間が来ても、競ったりすると時間が伸びる。その時は、どうしよう。5000円くらいで入札しておいて、そのまま帰宅。翌朝結果を見ればいいのでは?

 うん、そうしようと思って、時計を見たら、制限時間まであと5分。このまま1200円で落札できたら嬉しいなあと思っていたら、1300円の値がついた。

 チックショー。あとちょっとなのに、と思い、5000円で応札しておいて、自分は帰ろうと思ってキーボードで入力したら、最高値にならない。え? もっと高いやつがいるんだと思って画面を新規に変えてみたら、なんと、あっという間に10000円の値がついている。

 こんな変哲のないソファに?と思いながら、応札はさっさとあきらめて画面を見ていると、どんどん数字が上がる。11000、12000、15000、18000円……。

 翌朝、見てみたら、22000円で落札されていた。送料を含めると、30000円くらいだ。それほどのものかなあ……とも思うが、「レトロモダン」とか、「アジアンテイスト」とかをうざったく思うような人は(かく申す私も)、このような平凡さに引かれるのかもしれない。

 帰りの京浜東北線は、金曜日の最終近くとあって、超満員。
 その中で、昨日、古本屋のワゴンセールで買った蓮実重彦と養老孟司という奇妙な取り合わせの対談本+レジュメ代りの二人のエッセイという構成の本を立ち読み(『蓮実養老縦横無尽』哲学書房)したが、養老という人は、すごく頭のいい人だと痛感。蓮実の影が薄い。『バカの壁』を書くのもむべなるかなだ。
 『バカの壁』は、本屋でぱらぱらと立ち読みしただけなのだが、こんなのが百万部のベストセラー?と思うほど、難解で高度な内容だと思ったことを思い出した。
 思うに、養老本というものは、養老孟司の頭の良さを楽しむ本ということなのかもしれない。


 ちなみに、養老のレジュメは、「“自分”は不変で、変わるのは言葉だ、と人間、特に近代人は思っているが、実は、それは逆だ。言葉(具体的にはモノの名前)は変わらず、人間(肉体)は変わる(死ぬ)」というのだが、それを説明するレトリックがちょっとすごい、と思った。

 もっとも、養老のクールさと、蓮実のエキセントリックとでは、蓮実のエキセントリックのほうにより引かれるというところはあるかもしれない。

トラトラトラ

2007-02-21 21:49:30 | Weblog

 今日、神田の源喜堂で、『KOREAN TIGER』という本を「立ち見」していたら、こんな絵が見つかり、思わず買ってしまった。さすが、韓国人、虎(彪だけど)で、ポルノとは! しかも、なんか大真面目なところが、さらに笑える。表情がいいなあ。メスが右手(?)で身体を支えているところがなんとも。

 同書は、まさにトラづくしの画集だが、こんなのもあった。



 「竹と虎」の伝統的なモチーフなのだが、虎の後ろの「竹」が虎と重なる部分は、ばっさりとカット。真っ白のまま。大胆な構図だ……というか、完全な手抜き。でもちゃんと署名入りで、描き手は、安伯淳という。ちなみに、虎ポルノは、……ややや、同じく安伯淳(笑)。

 こんなのを描いといて、両班気取りでえばっているんだろうが、どうにも憎めないなあ。彼等は。

剣闘士の夢

2007-02-17 19:04:58 | Weblog
 屋上の貯水タンクの掃除のため、今朝から明日昼までトイレが使えないため、近所のコンビニでトイレを借りた。

 新宿から上野にやってきて、最初に感じたのは、7、8割方のコンビニに、コンビニで買ったお弁当であるとか、カップ麺であるとか、菓子パンなどを食べたり、缶コーヒーを飲みながらタバコで一服するためのコーナーが作られていることと、トイレを借りる人が多いことだった。
 新宿の場合、ミニストップをのぞいて「お食事コーナー」はなかった。トイレを借りる人はもちろんいたけれど、あくまでも「緊急用」で、「まことに申し訳ない」といった顔でトイレに向かうが、上野の場合は、「トイレ借りま~す」という感じでひっきりなしにやってくる。

 そのようなわけで、「お食事コーナー」でくつろぐことも、トイレを借りることも、ちょっと違和感があって、これまで一度もなかったのだが、今回はしょうがない。惣菜パンを買ったついでに、「お手洗いをかしてください」と断って(そう貼り紙されていたので)、トイレに入ったのだが、入ってびっくり。いや、びっくりするほどでのことでもないけれど、トイレのコンセプト(?)が、完全に「公衆トイレ」なのだ。 要するに、そのコンビニが入っているビルのトイレ施設を使っているのでは、明らかにない。「トイレ借して!」と飛び込んでくる人が余りに多いので、コンビニ側で後で作ったのだ。

 東京(首都圏)以外のコンビニに入ったことは、ほとんどないのだが、他の地域ではどうなのだろう。ちょっと興味がある。あと、「借しトイレ」と「インスタント食品お食事コーナー」がセットで設けられている確率如何なんてことも、興味深い。うん(こ)。

 『グラディエイター』を見る。

 例によって、途中(ゲルマン対ローマ軍の戦闘シーン)から見たので、最初は、『ブレイブハート』かと思ったが、『ブレイブハート』の戦場は草原だったが、こちらは森の中だ。ラッセル・クローも見たことがなかったので、主演らしき男を見ても誰だかわからず、「はて? なんて映画なのだろう」と思ったが、クローが、新しい皇帝の姦計にはまってグラディエイター(剣闘士)に仕立て上げられるところで、はじめて、「あ、そうか、これが『グラディエイター』か!」と気がついた。(題名当てゲームみたいで、楽しい)
 敵役の、「性格が歪んだ」皇帝を演じていたのがリバー・フェニックスの弟のホアキン・フェニックスだということも、はじめて知った。
 ホアキン皇帝は、父皇帝を自ら殺し、新皇帝の位につくが、その時、父皇帝から深く信頼されていたクローを殺そうとする。しかしクローはその魔手を危機一髪で逃れ、遠くスペインの地で剣闘奴隷となり、勇名を馳せるようになる。
 やがて二人は、満員の観客が注視するもと、闘技場で対決することになる。もちろん、皇帝がクローにかなうはずはないが、悪知恵の働く皇帝は、戦闘の直前に隠しもっていた短刀でクローの腹を深く刺し、重傷を負わせ、その上から鎧を着せて傷を見えなくしてしまう。見る人(観客)にとって、それが見えなければ、傷は存在しないも同じである。しかし、クローの強さ、執念(皇帝に妻子を殺されている)は、皇帝の予想外で、激闘の末、クローは皇帝を倒すが、自らも、戦闘に先立って皇帝によって負わされた傷の痛手で死ぬ。

 という話。ローマ皇帝が満員の闘技場で、奴隷である剣闘士と闘って殺されるなんて「創作」だろうと思っていたが、闘技場ではないが、剣闘士に暗殺されたローマ皇帝は現存するそうで、『グラディエイター』は、それを元に作られた映画なんだそうだ
 もちろん、「暗殺」と闘技場で衆人注視のもとで殺されることでは、根本的にちがう。

 たとえば、敵役の皇帝は性格が歪み、正直さも、慈悲も、勇気も持たないが、大衆操作に関しては天才的で、彼らを煽り、その支持で皇帝の地位を保っている男。しかし、それゆえに、今で言えば、大スポーツ競技場である闘技場で、支持者である「大衆」が見つめる中で奴隷と対決することを余儀無くされるのである。
 この「大衆」こそが、『グラディエイター』の一貫したテーマなのだが、一方で、終始、クローの心象風景で綴られた映画でもあり、皇帝を倒したクローが、皇帝に殺された妻と息子のもとに旅立つエンディングは、一種の「夢落ち」とも言える。すべて、「ある死にゆく剣闘士の夢だった」と。

 「夢落ち」に百億円超の制作費てか。でも、さすがに戦闘シーンは凄かった。

機械の夢?

2007-02-13 16:33:45 | Weblog
 西川口のアパートには、自動湯沸かし器がついているが、昨今、あちこちで人を殺して問題になっている室内型ではなく、水道の蛇口自体が冷水から温水まで無段階の切り替え式になっていて、住人は基本的にそれをいじることのない、「室外型」である。温水が出てくるまで、冬の間はどうしても余計に時間がかかるが、それでも2、30秒も待てば温かいお湯が出てくる。
 ところが、一昨日の夜、突然温水が出なくなった。5分近く出しっ放しにしても、痛くて切れそうになるくらい冷たい水のままだ。
 それで、一晩たった昨日の朝、事務所からガス会社に電話をしたら、何かの拍子で自動的にストップしたかと思われるので、室外機を点検して、もし赤いランプが点滅していたら、その脇に黒いキャップがあるから、それをとって、中にある復元スイッチを入れてください、もし、点滅していなくて、それでもお湯が出ない時は、故障等については24時間体制で対応しているので、もう一度電話して下さいと言われた。
 それで、帰宅後、すぐに部屋の外の機械室のドアを開けて覗いたら、ランプは点滅していない。
 すぐに電話をしようと思ったが、電話をすると直る、という経験が何度もあるので、もう一度確かめる積もりで、風呂の蛇口を熱湯ポジションに思いきりひねってみたが、やはり、お湯は出てこない。バスタブの底から15cmくらいになるまでためてみたが、冷水のままだ。
 それで、ガス会社に電話をしたが、インターネットの相談センターみたいに電話が込み合っていた。深夜、12時に近いというのに、時節柄、問い合わせが多いのかなと思いながら、「しばらくお待ちください」という録音アナウンスを聞いていたが、なかなかつながらず、退屈まぎれにふと台所の蛇口をひねった。すると、なんと!数秒を経ずにお湯が出てきた。そしてさらに数秒で、アッチッチなお湯になった。
 あ、なんてこった!と、風呂場に駆け込んで試したら、こちらも同様に、あっという間に熱湯が出てきた。

 どういうわけだ? パソコンなら、こちらの操作ミスということがあるのだが、室外温水器で、こちらは蛇口をひねるだけだから、ミスのしようがない。だとしたら、室外機がどこかおかしかったのだが、でも、治ってしまったのでは文句も言えない。
 それで、電話は、つながらないまま、切ってしまったのだが、ぎりぎりになって回復するなんて、室外温水器に何が起きたのだろう。持ち主にちょっと悪戯をして、喜んでいたのか?

 そんなことを考えていると、ふと、深沢七郎の『風流夢譚』を思い出した。

 『風流夢譚』は、「わたし」が寝ると同時に、時間の進行がとまってしまうという、奇妙な「癖」を持った腕時計を持っている「わたし」が、ある日、10分間ほどうたた寝をして夢を見、起きてからその腕時計を見たら、針がちゃんと10分だけ進んでいたため、「わたしが夢を見ている間、この時計も起きていてくれたのだ」と、涙が出る程嬉しくて、その腕時計を抱き締めたというお話で、その時、「わたし」が見た夢が、東京で革命が起きて天皇一家の首がちょん切られるという夢だったという仕掛けの小説である。
 なんというか、人間と機械がシームレスにつながっちゃった世界というか。
 
 そこで、またまた話が横滑りするのだが、『風流夢譚』の作者の深沢七郎は、魯迅の『阿Q正伝』の阿Qみたいな人ではないのか。

 《「あんたはまた何をしにお来やした?」彼女はびっくりして言った。
  「カクメイだ…あんた知っとるか?…」阿Qはあいまいに言った。
  「革命革命って、革命はもう済みましたよ…あんたたちはわたしたちをどういう風に革命するおつもりかえ?」年とった尼は眼を赤くしながら言った。
  「なんやて?」阿Qはいぶかった。
  「あんた、知らないの。あの人たちはもう革命してしまいましたよ」
  「誰が?」阿Qにはますます不思議だった。
  「あの秀才と毛唐ですよ」
  あまりの意外さに阿Qは呆然とした。》魯迅『阿Q正伝』(高橋和巳訳、中公文庫 吶喊 より)

 知識人(秀才)と西欧かぶれ(毛唐)たちがなんで、「革命」を遂行しなければならないのか? 革命が必要なのは、一文無しの文盲、阿Qではないのか? でも、殺されるのは阿Qたちだ。

 深沢七郎は、『風流夢譚』の出版がもとで、出版元の中央公論社の社長宅に住み込んでいた女中が殺され(同時に、社長夫人も刺されたが重傷ですんだ)たことに衝撃を受け、記者会見で涙をぽろぽろ流して、「まったく関係のない人を死なせてしまった責任は私にある」と謝罪し、「誰か、私を殺してくれ」と言って、放浪生活をはじめる。
 深沢の流した涙は、「なんの関係もない」女中さんが死んだことに対するもので、言い換えると、中央公論社の社長夫人か、あるいは、社長自身が殺されるなら、「話の筋道は通っている」のだ。しかし、深沢はそこまでは言えなかった。

 魯迅にくらべ、やはり、ひとまわりもふたまわりも人間が小さかったことは否めない。

 アマゾンの「アソシエイト」なるものをやってみました。
 それから、「シームレス」つながりで、こんなサイト見つけました。ちょっと重いけれど、面白いです。

芥川賞受賞作『ひとり日和』、感想文

2007-02-11 18:23:03 | Weblog
 掲載誌の「文芸春秋」の「編集だより」に、「20歳のフリーターの女性が七〇台のおばあさんと同居生活をしながら、失恋や別離を経てしだいに自立して行く姿を、四季のうつろいと共に描いて見事です」と書いてあるが、選考の慎太郎、村上龍、池澤夏樹、黒井千次、高樹のぶ子、山田詠美、宮本輝、河野多恵子も、評価それ自体に、各々ニュアンスの差はあっても(当たり前だが)、「編集だより」に記されているような基本理解で読まれているらしいことは共通しているようだった(う~ん、なんか微妙な言い方)。しかし、私には、「編集だより」氏の感想はまったくの的外れであるように思える。

 なんて書くと、また気を衒ったことを書いている、とか思われるかも知れないが、私の理解では、「母親との確執の結果、神経症的症状をあらわにし、やがて不倫にうつつを抜かす女になっていくであろうことを、現在進行形の形で予感している女の子の物語」ということになる。

 実のところ、作者の青山七恵が、もしこのような意図のもとに本作を書き上げたのだとしたら、大変な才能の持ち主だと思うのだ。しかし、題名の『ひとり日和』が示すように、作者自身の作品理解も、「編集だより」氏と同工異曲であるとしか思えないのである。

 具体的に触れると、主人公(知寿)には、「盗癖」がある。しかし、彼女はそれで悩んだりはしていない。

 《小さい頃から、私は手癖が悪かった。/といっても、売り物を盗むような勇気はなく、たいてい周りの人の持っているちょっとしたものを狙ってコレクションに加えていくことが、幼いながら快感だった。…/盗んでいるわけではない。回収しているだけだ、と思い込んで、罪悪感を消す。誰も気づかない、ということがいっそう快感だった。同時に、どうしてこんなに皆が不注意なのか、腹立たしくさえあった。》

 なんだい、この言い草は!と頭にきたが、我慢して読み続けた。

 知寿は、こうして集めたがらくたを空の靴箱に入れている。今ではその箱は三つに増えた。

 《折に触れて、わたしはその箱を見返してみて、懐かしさにひたった。そして、かつての持ち主と自分との関係を思い出して、切なくなったりひとり笑いをしたりする。その中の何かを手に取っていると、なんとなく安心するのだった。/そして、ひととおり思い出を楽しんだあとには、こそ泥、意気地なし、せせこましい、などと自分を罵り自己嫌悪にひたってみる。そのたびに一枚皮が厚くなっていく気がする。/誰に何を言われようが、動じない自分でありたいのだ。》

 ごく身近な人に、「これ、ちょうだい」と言って、勝手に持っていくのではない。あきらかに「盗んで」いるのだが、あまつさえ、それを手に取って、「安心する」というのは、不可解だ。もしかしたら、作者自身にこのような「癖」があるのではないかとも思ったりしたのだが、いずれにせよ、この「盗癖」が、この作品理解の鍵になるはずである。
 たとえば、数ページ後に、《わたしは、いっぱしの人間として、いぱしの「人生」を生きてみたい。できるだけ皮膚を厚くして、何があっても耐えていける人間になりたい。》とある。「皮膚を厚くして」というのは、人の持ち物一つ盗むたびに、「一枚皮が厚くなっていく」という記述と対応している。要するに、「面の皮を厚く」して世間を乗り切りたいというのだ。
 ということは、今は、世間と渡り合える程「面の皮」が厚くないということである。もちろん、そんなことは、世間一般、ごく普通の青少年が悩む問題であると思うのだが、でも、それを克服するために、「人のものを盗む」というのは、一般的なことだろうか? わからないが、少なくとも、私の場合は人のものを手に入れて、快感にひたるなんてことはなかった。まして、「その本来の持ち主との関係をかみしめて」なんてことはなかった。想像もつかない。(それで、作者自身のことを言っているのではないかと思ったのだ)

 ともかく、彼女(知寿)は、ある日、恋人の藤田君のタバコを彼のズボンからをくすね、藤田君が、「あれ? おれのタバコがない」と言うと、「知らないよ」としらを切る。確信犯だ。ここを読んだ時は、さすがに気持ち悪かった。女性って、生理の時なんかに、本能的にモノを盗みたくなるものだとい話は聞いたことがあるのだが…だとしたら、それをほのめかすような「伏線」がどこかに書かれているべきだと思うが、そんな箇所はない。
 もちろん、彼女は、おばあさんの持ち物も盗む。それはやがてばれるのだが、その時、おばあさんに、「欲しければあげたのに」と言われ、「でも、欲しくなかったんだもの」と答える。いや、これは確かに作者自身に盗癖があるのだろう。でなければ、こんな奇妙な心理は書けないと思う。

 それはともかく、藤田君は、その後、彼女から距離を取るようになり、やがて居留守を使って自分のアパートにやってきた彼女を拒否するくらい、徹底的に知寿を嫌うようになる。「そりゃそうだろうなあー」、と、小説の主人公に対する感想としては異例な感情を持ってしまったが、この「嫌な感じ」は、その後も、小説のラストシーンまで続く。そこで、彼女は、会社で知り合った既婚男性とのデートに向かう電車に揺られながら、こう考える。

 《電車は少しもスピードをゆるめずに、誰かが待つ駅へと私を運んでいく。》

 彼女は、「自立への道」を走り出したのか? 「破滅への道」ではないのか?
 実のところ、ここまで読んで、漱石の『それから』を連想した。『それから』の代助は、狂気へと突っ走るのだが、知寿もにたようなものだと。 というのは、ルース・ベネディクトが、『菊と刀』で、漱石の小説の主人公(『ぼっちゃん』)の行動を、不良青年に見られる典型的神経症の症状であると分析していることは有名だが(ちなみに、この「神経症」というベネディクトによる分析評価は日本人の国際的評価として定着していることに留意すべきだ)、知寿の、母親との確執→盗癖→失恋→不倫→破滅(としか思えないラストの書き方だ)にも、それは典型的にあてはまるように思ったからである。

 この主人公の「盗癖」については、選者の多くがふれているが、特に突っ込んで理解しようとしている風はなく、ただ、河野多恵子と高樹のぶ子だけが、彼女が盗癖をもつようになったかについての説明がいっさい省かれていることを、「小説のテクニックとして妥当で、優れている」と評価しているのみだ。
 それは確かにその通りだと思うのだが、主人公が何故盗癖をもつようになったか、その理由が書かれていないということは、ただ小説上の「テクニックだけ」のことでそうしたとは考えにくい。だとしたら、おのずと、『ひとり日和』という作品は、実はかなり深刻な問題を扱っているということになるはずだ。 (何故なら、隠していることが、一番、書きたいことであるはずだからだ)
 ところが、『ひとり日和』は、つまるところ、「編集だより」氏の言うところの、「失恋や別離を経てしだいに自立して行く姿」を描いた作品としてしか理解されないような作品になってしまっている。

 というわけで、これが、私が、作者の「才能」に疑問を持ってしまったと書いたことの理由である。

高峰秀子自伝と…

2007-02-09 22:46:39 | Weblog
 フリーマーケットで高峰秀子の自伝『わたしの渡世日記』(上下)と、昭和24年刊の『和服裁縫』(夏・冬)を買った。高峰秀子の自伝だけで良かったのだが、売り主が、4冊買ってくれるなら1冊百円でいいと言うので、自伝だけならいくらかと聞くこともせずに、買った。昭和24年発売の裁縫の本なんか、売り主もまさか売れるとは思っていなかっただろう。
 それくらい、高峰秀子の自伝が欲しかったということなのだが、別に彼女のファンというわけではない。映画もほとんど見たことがない。ただ、子役からスタートして、無声映画の時代からずーっと活躍してきた人ということに興味があった。
 それで、まだぱらぱらと見ただけなのだが、高峰秀子は1924年生まれ。ということは、まだ83歳。83歳で“まだ”はおかしいが、三船敏郎が東宝のニューフェイスに応募してきた時、“審査員”の側に座っていたというのだから、驚きだ。今や、日本映画史上最高傑作と言われるほどになった成瀬巳喜男の『浮雲』で、自分の役者としてのキャリアを終える積もりでいたというのも、びっくりである。
 実際、『浮雲』完成後に高峰秀子は、脚本家の松山善三と結婚し、半分引退状態に入ってしまうわけだけれど、それ以前、戦前の無声映画の時代から芸能界で生きてきたことをほとんど知らなかった私は、どこか金持ちのお嬢さんで、芸能界にしがみついて生きていく必要もないのだろうと、彼女の「童顔」も重なって、考えていたのだが、実は、そんな想像はとんでもない話で、彼女の母親は北海道函館の場末の活動写真館でなんとか糊口をしのいでいた女弁士で、その芸名が高峰秀子だったんだそうだ。
 それが、ひょんなことで子役として売れてしまい、以来、一家を支えるために、こまどり姉妹も顔負けの、ずっと働きづくめの青春時代。それも、『浮雲』でうちどめで、後は仕事を選んで悠々自適で暮らしたいというのが、彼女の人生設計だったようである。

 それにしても…彼女の全盛時代、私はまだ小学生。「小学生なんかが見る映画じゃないだんだろうなあ…」と思いながら、彼女がスペードのエースを悔しそうにくわえて寝転んでいる、『女が階段を上る時』のポスターを見たことを覚えている。
 確か、父親に聞いたのだ。「なんで、スペードのエースをくわえているの?」と。そうしたら、「スペードのエースはカード占いでは一番悪いカードなんだ。ところが、それが出ちゃったんで、それで悔しくて噛んでいるんだ」と。
 なるほどねえ…実際、彼女はパリでジプシーの占い師に、それに近い星のもとに生まれた、とずばり言われたらしい。

 というわけで、主婦と生活社の和裁の本なんですが、欲しい方いますでしょうか。ただでさしあげます。和装コスプレなんかに便利と思いますよ。

ある日の出来事

2007-02-08 22:46:30 | Weblog
 3、4日前、秋葉原駅の自動改札口を出ようとしたら、30過ぎの男性と入り口で重なってしまい、お互いに、「どうぞお先に」と身振りで促したのだが、私の方が少しばかり改札口の中に入り込んでいたので、相手が譲ってくれた。
 それで、「どうも」と軽く会釈しながら、すでに改札口の半ばにさしかかっていた身体を半分ひねり、腕を後方に伸ばして切符を放り込み、そのまま外に出たところ、入れた切符が排出されると同時に、後ろの開閉ドアがガチャンと音をたてて閉まり、「料金不足です。精算して下さい」という録音アナウンスが流れた。
 そうだった! 10円だが、料金不足だったんだ!と気がついたが、私の「身体」は、すでに改札口の外に出てしまっている。
 どうしたもんだろう、正直に事情を説明して精算するべきだろうか。
 譲ってくれた男性が、私の方を見て不思議そうにしている。
 私は、その彼の視線を片隅で意識しながら、料金不足の切符を握りしめ、雑踏の中で呆然としていたが、数秒も経たぬうち、いったん閉まったドアが再び開いて、中から続々と人が出てきた。
 しょうがない。やむを得ず、そのまま精算せずに、人の流れに乗って駅を出てしまったが、よく考えると、私の身体は自動改札口の外にあり、精算する機械は改札口の内側にあるのだから、今さら精算しようと思ってもできないのだった。

カサヴェテスになりたい

2007-02-07 19:54:25 | Weblog
 アマゾンのマーケットプレースに注文してあった黒沢清の評論集、『映像のカリスマ』が届いた。
 
 定価は2680円。神田の古本屋では2200円で、ちょっと高いと思ったので、とりあえずマーケットプレースを調べることにしたのだが、価格に物凄く差がある。最安値550円(これを買った)から、最高でなんと、一万数千円という値がついている。高い値をつけているのはプロの古本屋のようだったが、強気の理由は分からず。
 最近は、新本でも時間が少し経つと、マーケットプレースでやすく手に入るので、本屋は、実物見本を確かめる場所と化しつつあるとかないとか。

 それはさておき、『映像のカリスマ』だが、取り上げた作家たちを本文の冒頭で「物語の登場人物」に見立てて解説している。これが、面白いので紹介。

 ゴダール…主人公。短期で正義感の強い熱血刑事。その破天荒な振る舞いが時として上司を悩ませるが、持ち前の度胸で恐るべき世界的陰謀に立ち向かう。移り気なのが欠点。
 トビー・フーパー…もう一人の主人公。ヘマもするが憎めない心優しき若手刑事。本当は宗教家になりたかったと日々悩む。知らぬ内に陰謀に巻き込まれる。優柔不断が欠点。
 ヴェンダース…第一の犠牲者。彼は本当に死んだのか、そのミステリーから物語は始まる。
 スピルバーグ…何ものかに命をつけねらわれるか弱き一市民。
 小津安二郎…主人公たちの上司。半身不髄で車椅子の身だが、その適確なアドバイスが主人公たちを導く。
 ジョン・カサヴェテス…単独で事件解決に乗り出す、偏屈で孤独な探偵。
 ロバート・オルドリッチ…王家の血を引く者。今は精神病院に幽閉されているが、いつの日か王国への帰還を夢見、主人公たちに奇怪な情報を提供する。
 ヒッチコック…「私が法だ」が口癖の狂人。
 ジョン・カーペンター…街の不良。
 ロバート・ゼメキス…街の不良。
 デヴィッド・クローネンバーグ…主人公たちを慕う若者。
 リチャード・フライシャー…忽然とあらわれて主人公たちの危機を救う伝説の勇者。年令は優に三〇〇歳を越えていると言われている。
 サム・ぺッキンパー…謀略を影であやつる黒幕。悪の権化か正義の使徒か、その正体は謎。

 スピルバーグの、「か弱き一市民」が傑作。「一」がきいている。いかにもだ。カーペンターとゼメキスが、単なる「街の不良」というのもおかしい。でも、私は、ジョン・カサヴェテスがいいな(笑)。

 HPで『月光24号』の「映画の研究」を一部をアップしました。文章にも少し手を加えました。ネット版です。これから残りもアップする予定ですが、面白そうだったら、本もよろしく。

『田舎教師』読了、他

2007-02-06 16:22:36 | Weblog
 田山花袋、『田舎教師』、読了。

 最初、題名からして、たとえば「クオレ物語」とか、「最後の授業」といった、先生と生徒の交流を軸にした話かと思ったら、全然ちがっていた。
 主人公の田舎教師(林清三)は、元士族の家に生まれた誇り高い青年で、いつかは都会に出、文学や音楽等、自分の好きな道で名を成したいと熱望しているが、父親が商売に失敗したため、東京遊学の夢を諦め、田舎の小学校に赴任してきた。
 それでも当初は夢に燃え、中学時代の旧友らと「行田文学」という同人誌を作ったりするが、夢を共にしたこれらの友は、やがてやすやすと「夢」を捨て、平凡な日常に埋没してゆくが、夢の捨てられない清三は、それらの友の姿を見てひとり、依怙地になる。
 その友の一人、郁治と、清三は、美穂子という女性をめぐって密かなライバル関係にあったが、美穂子は、その郁治といい仲になってしまう。清三は、そのことを郁治の妹の雪子という少女から聞かされるが、雪子は、清三のことを憎からず思っている。清三も、「おすましやだ」と口では非難しながら、心の中ではいつも気にかけている。
 やがて郁治は、清三に、遠回しに妹との話をもちかけるが、依怙地になっていた清三はそれを、「美穂子はオレ、妹はお前」、つまり、「交換交渉」と受け取り、郁治の母親から正式に話があったときも、「いやなこった、あんなおしゃらく女とは」と、話に乗らない。

 しかし、強がってはみたものの、自分の望むアートの道は進展するどころか、試験に失敗するなど、お先真っ暗な中で、遊廓に通うようになり、馴染みもできて、やがて借金を抱えるようになる。その後、その馴染みは別の客に落籍され、我にかえった清三は、「田舎教師」の身分で一生を終えてもいいのだと思い直し、教え子だった女性と身を固める積もりになるが、時、すでに遅し、元来、丈夫ではなかった清三の身体は、不治の病である、肺結核に冒されていたのであった!

 という、「いかにも」、な話だが、読みはじめて、「清三、あぶない!」と思った。

 その「あぶない!」ということの一つは、清三が田山花袋の筆でいいように引きずり回されるであろうこと。これは、その通りだった。

 もう一つは、夏目漱石が『三四郎』や『それから』で、三四郎や代助らに警告した「あぶない!」という台詞が、『田舎教師』の清三にもああてはまるのではないかということで、具体的には、極端な例で言えば、いつか、たとえば特攻隊のような究極の不自由さに自らを追い込んでゆくような、余裕というもののない「青春」のあり方というか…、そんなものを感じた。

 『月光』のHPのアドレスが変わりました。

 http://www.k4.dion.ne.jp/~gekko/

です。いったん、古いものに戻ってしまいましたが、これからまた作ります。よろしく。

 追加

 柳沢大臣が、「子供を二人以上持ちたいという健全な希望に応えることができる政策を考える」という発言に、子供が一人以下しかいない女性は「不健全」なのかと野党が抗議してるのだそうだが、揚げ足取りもいいかげんにしろ…というか、子供が二人以上で「健全」なら、一人以下は「不健全」という解釈は、論理学上、まちがっているのだね、不思議なことに、これが。

 たとえば、「A、またはB」という場合、我々の普通の理解では、「Aでなければ、B」(Bでなければ、A)ということになる。福島某が柳沢発言に噛み付いたのも、柳沢発言を、まさにこのように理解したからだが、これは、論理学的には特殊なケースで、「排他的or」と言う。(アリストテレスの排中律とは違う。排中律は、Aが同時にBではあり得ないという意味だ)
 では、論理学で「または」と言ったら、どういうケースを指すかというと、「どちらか一方でも、両方でもいい」という三つのケースを含むのだそうで、これが、論理学で言う「または(or)」の意味なのだそうである。

 こんな屁理屈は、学者の世界だけのことで、我々には関係ない…というわけではないことを示しているのが、今回の柳沢発言であって、柳沢大臣が、子供を二人以上持ちたいと思っている女性の希望が「健全」と言った時、そうでない女性は「不健全」だと《排他的》に区切ろうとしたわけではないことは、明らかだろう。しかし、「どちらか一方でも、両方でもいい」ケースを言い表わす言葉はどの民族を調べてもないのだそうだ。それでどうしても、ああいった、「舌足らず」な表現になってしまう。
 実は、論理学は長いこと、「または」を日常言語と同様に、「排他的選択」の意味で使っていたのだが、どうしてもつじつまが合わない。これはきっと。日常的言語生活に引きずられているからだろうと気付いた数学者が、まず、「非排他的選択」もあり得ることを証明し、それに論理学も従った結果、今日、飛躍的発展を遂げたのだそうである。(そのようなわけで、英語では、「どちらか一方でも、両方でもいい」と言いたい時は、「and/or」と言うことが多くなっているのだそうである。たとえば、「You ,and/or Me」とか。)

 まあ、大臣も、「健全」といった硬い言葉ではなく、「嬉しい」とか、「頼母しい」とか言えばよかったのだろうけれど…それとも、「一人以下では、嬉しくないのか」とか突っ込まれるのだろうか? やれやれである。