パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

シリアスか、コメディーか

2006-12-24 14:58:19 | Weblog
 今日の昼下がり、上野の町を歩いていたら、どこからか、「オレはまだ生きていたいんだ~!」という叫び声が聞こえた。なんだろうと思ってあたりを見回したら、四、五階建ての雑居ビルの屋上で男が青空に向かって仰け反り、それをビデオカメラが映している。自主映画を作っているらしいが、いったい、撮っている作品はコメディーなのか、シリアスなのか……コメディーならまだわかるが、日本映画はプロアマとわず、シリアスでもこれをやっちゃうからなー。

 しかし、真面目な話、いかなるストーリーのもとに、この男はビルの屋上に追い詰められ、まさに殺されんとしているのか(殺されねばならぬ程、悪い事をしたのか、それとも、全く濡れ衣で殺されようとしているのか)、それはまったくわからないが、いずれにせよ、人生最大のピンチに臨んで叫ばれる台詞が、「生きていたい」というものであることは、自分は虫けらに等しい存在であるが、その虫だって生きているんだから私も生きていたいんだ、と言っているに等しい。
 このような、お気楽人生の成れの果てとも言える台詞が、定型として(海に向かって「バカヤロー」と叫ぶような)定着したのは、島崎藤村の「自分のようなものでも生きていたい」が始まりらしい。
 と言っているのは伊藤整で、私もほぼ同感なのだが、それはともかく、もし仮に、その男がビルから突き落とされて死んだとしたら、どうなるか。ビルの下の道路に見い出される男の死体は、もはや、虫けらの死体と何ら変わるものではないという事実を人は受け入れる事になる。言い変えれば、「無」がすべてを覆ってしまう。その男が、「正しい人」であっても同じだ。その、絶対的力を持つ「無」は、実は「自然」だ。それが日本的自然主義なのだが、欧米の場合はちがう。
 
 もちろん、欧米だって、「正しい人」が報われずに、不幸になったり、極端な場合には殺されたりすることは、日本と変わりない。古今東西、この事実は普遍的だ。しかし、もし「神」がいるとしたら、なんでそういうことが起きるのか? ここに、「論理性の有無」につながる、彼我の「問題意識」の絶対的相違が存在する。

 と、まあ、ここまでは、そう難しい話ではないし、誰もが「なるほど」と納得できることだと思うが、問題はその先だ。「無(自然)の絶対は神の絶対と同じように強い」(伊藤整)として、その「無」がすべてを支配する社会において、論理を担うべき知識人の役割が曖昧になってしまう。たとえば、「生きていたいんだー」と叫びながら、ビルの屋上から落ちて死んだ男の死を、誰がどのように認定するのか。「平家物語」の平智盛のように、「見るべきものは見つ」が関の山だろうか。(智盛はそういって、自害しちゃうのだが)
 ところで、昨日、『ジェラシック・パーク』を深夜放送で見たが、ジェラシック・パークの創設者の老科学者は、「見るだけでは幻と変わらない。わしは、この手で確かめたかったのだ」と言う。映画、『ジェラシック・パーク』は、テーマ的にはこの老科学者の挫折ということになるだろう。正直言って、とってつけたような感じは否めなかったが……。

 ふ、封筒がない。先にちゃんと買っておくべきだったなー。すみません。月曜日に買ってきて、すぐ発送します。よろしく。

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