パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

クオリア、書き直し

2006-03-31 18:17:47 | Weblog
 ……というわけで、昨日、というか今朝の投稿は、ミスによる全文喪失から立ち直れないままで、今いち、だったので、書き直しだ。

 まあ、要は、茂木健一郎は売れっ子科学者ということで、受けまくっているようなのだが、それはまずいよ、と言いたいのだ。もちろん、私自身も科学者なんかじゃないのだが、それでも、氏が科学者とは言い難い文章を書いていることがわかる。
 たとえば、『脳内現象』のまえがきに次のような文章がある。

 《私》という特別な視点から解放され、客観化された世界を記述する枠組は、「数」である。目の前にりんごがいくつあるのか、あの山の高さは何メートルか、今日の気温は何度か。このような「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。
 一方、私たちが意識の中で体験する様々なものは、赤い色の赤い感じや、水の冷たいかんじなど独特の質感から構成されている。この「質感」は、クオリアと呼ばれる。クオリアは一般に数量化することができない。私の見ている赤と、あなたの見ている赤が同じであるということを、確認する手続きは存在しない。

 つまり、茂木健一郎は、「科学者」によってもたらされた、近現代を支配する物心二元論的世界観を、あくまでも「科学者」として、科学的に打破し、クオリアの復権を果たそうというのだが、しかし、『脳内現象』を読む限り、その、「物心二元論的世界観を打破」しようという動機そのものが、物心二元論の上に立っちゃっている。
 あるいは、この文章だけをみても、「数」について、「客観化された世界を記述する枠組み」と説明していて、これはこれで別に誤りではないのかもしれないが、どうも受験生の解答のような感じがする(ちなみに、彼は東大理学部卒)。《「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。》とか、トートロジーとしか思えない。
 じゃあ、どう書いたらいいかというと、私なら、こう書くね。

 「人は世界を数で現わすことで、世界を客観化する」

 この「数化」は、要するに「概念化」である。たとえば、「りんごの数を数える」ということは、りんごを「りんごという概念」に変換してはじめて可能になる。このような作業は、人間なら赤ん坊でもやってのけるが(新生児でも数を数えることができるらしい)、コンピューターにはできない。(人間がりんごの数を数えた上、その値を入力してやらなければならない。)

 前回の書き込みでは、竹内外史氏の記述を参考に、概念化されたりんごと実物のりんごを重ね合わせることで、「質感(クオリア)を伴ったりんご」の感覚が得られるのだと説明したのだが、この推論を裏付ける現象が、実際に報告されている。
 それは、意識清明な状態でありながら、突如、何の関係もない「画像」が視界に現れる「病気」で、発見者であるシャルル・ボネの名前をとって、シャルル・ボネ・シンドロームという。(意識そのものが混濁している中で見る「幻覚」とはまったく違う)

 症例1。48歳男性、左後頭葉梗塞。脳硬塞発作翌日から幻視が出現するようになった。見えるものはピラミッド、彫刻、段梯子、汗じみた制服を着たローマ軍兵士たち。三日後、見えるものは閃光や、線などに変り、それに重なって青と白のビリヤードの玉が見えた。次の日から、猫ばかり見えだした。親猫の首、子猫の首、自分を見つめる群れなどが右の視野に出現。そのうち色が消え、最後には灰色と白のまだら猫一匹だけになった。この猫はいつまでも消えなかったのでデクスターと愛称をつけた。1ヶ月後、このデクスターも去ってしまい、右側の視野はただの暗黒になった。 
 症例2。62歳女性。右後頭葉梗塞発作後三日目から等身大の人々が左側から彼女の方へやってくるのがみえだした。彼らは重々しい表情をしていたが、特徴のない顔つきをしていた。彼女の前を通り過ぎる時、彼女の方を見るものもあれば、お辞儀をするもの、顔を背けるものもあった。時々、犬も現れた。犬はしっぽを振っていた。一週間後、幻視はすべて消失した。(『脳から見た心』山鳥重、NHKブックス)

 このシャルル・ボネ・シンドロームは、次のように解釈されている。
 たとえば猫を見たとしたら、その猫の情報は電気信号に変換され、指令部に当たる脳の高次の視覚野に送られる。指令部には、猫の映像がサンプリングとして集められており、その中から、送られてきた猫の情報にできるだけ近いサンプルを探し、その情報をトップダウンで低次の視覚野に送り、より上質な猫の映像を作り上げる……。
 驚いたことに、これが「見る」ということなのだそうだが、この時、なんらかの理由で、網膜(眼)から送られてくるはずの入力信号がないのに、サンプリングとして溜め込まれていた情報が「垂れ流し」状態になることがある。これがシャルル・ボネ・シンドロームである。

 書きかけで、弁当を買いに外に出たが、人の顔をしげしげと見てしまった。「見る」って、不思議すぎである。

クオリア、再び

2006-03-31 03:35:28 | Weblog
 ちっくしょう。また書き込みをパーにしてしまった。プレビュー画面と書き込み画面をまちがえてしまい、プレビュー画面で文字を削除しようとしたら、瞬間的に全文削除になってしまったのだ。回復不可能。書き込み画面でないところで編集をしようとしたら、そもそも「無効」とするのが普通だと思うが。もう、すでに5、6回、書き込みをパーにしている。gooのブログは、この問題以外では結構満足しているのだが……。

 ところで、「週刊文春」のコラムで、中村うさぎが茂木健一郎のことを書いている。
 茂木健一郎は、ちょっと前に、クオリア問題がらみでちょっと触れたが、最近すっかり売れっ子だ。本はそこそこ売れてるみたいだし、NHKで「プロフェッショナル」とかいう番組ももっているし、自分のHPでは、クオリア宣言とか、クオリア・ミッション・ステイトメントとか、すごいことになっている。たとえば、クオリア宣言は以下の通り。

クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。「クオリア・マニフェスト」(The Qualia Manifesto)は、クオリアの本質、その起源の解明が、今後の人類にとっての最大の知的チャレンジであることを宣言し、クオリアを中心とした文化運動の開始を呼びかけるミッション・ステイトメント(Mission Statement)である。クオリアの起源の解明に成功すれば、アンドロメダ星雲に人類を送ることより大きなインパクトを人類に与えるだろう。

「クオリア」は、今後の人類の知的挑戦における本質的課題を象徴する概念である。
 知的に誠実であり勇気を持つ者達よ、「クオリア」の解明のために団結せよ!

 いやはや、すごい鼻息だけれど、彼の言う、解明されるべきクオリア問題とは何かというと、彼の著書『脳内現象』(NHKブックス)によれば、たとえば「赤の赤らしさ」が、余りにも完璧すぎるように見えるというところにあるという。プラトン風に言えば、「赤のイデア」が「赤の赤らしさ」を支えているが故に、「赤のクオリア」は完璧だ、ということになる。彼の文章は次の通り。

 わかりやすい例として、「赤」の感覚的クオリアをとりあげてみよう。目の前の薔薇を見ている時、その花びらの赤い色は、その微妙なニュアンスを含めて、まさにプラトン的完璧さをもって心の中に感じられている。しかし、そのような「赤」のクオリアを生み出している脳内の神経細胞は、入力した刺激と関係なく時々刻々と変化するノイズに満ちており、しかも離散的である。いったん、眼を閉じた後、また眼を開けて薔薇を見る時、その時の神経活動は、前に薔薇を見た時と異なるはずである。それにもかかわらず、私たちの意識は前と同じ完璧な「赤」のクオリアを通して、得も言われぬその花びらテクスチュアを捉える。……

 茂木氏は、この「クオリア」問題こそが、人間の「意識」をめぐる「最大級のミステリー」だというのだが……たとえば、山田さんという人に会い、その数日後に街で偶然にまた会ったとすると、その山田さんが違う服装をしていても、それが山田さんだとわかる。これは、「最大級のミステリー」だろうか? そんなことはない。

 昨日会った人と今日会った人の共通点から山田さんという抽象的な存在を構成するのではなくて、山田さんという概念がまず出来て、その山田さんが昨日はこうで、今日はこうだということです。
 身長170センチで色の黒い……人が山田さんである、という順序で考えるのではなく、まず山田さんという概念があって、その山田さんが身長170センチで色が黒いと考えるといいたいのです。……
 私がいいたいのは次のことです。私の頭の中に概念の体系があって、私が見るとか聞くとかいう感覚でさえ、ほとんどその概念との対応で行われるということです。(『数学的世界観』竹内外史)

 要するに、我々が薔薇の花を見て感じる、「得も言われぬ質感(クオリア)」とは、経験を重ねることで脳内にサンプリングされた「概念としての薔薇」(あるいは、「想像上の薔薇」)と、現実の薔薇の花が合体して得られる感覚なのだ。……と思うのだが……時間がなくなったので。

獲物は……

2006-03-25 17:14:46 | Weblog
 「立てば芍薬、座れば牡丹」の牡丹を近所の花屋で見た。掛け軸などではよく見るけれど、実物を見たのはこれがはじめてかもしれない。ぼてっとしていて、たしかに昔風の美人に見える。中国人は牡丹が大好きで、「聊斎志異」にも牡丹の精の話がある。無類の牡丹好きの男が牡丹の精と結婚する話だが、男が裏切ったので「もう貴方と暮らすことは出来ません」と言って、抱いていた赤ん坊を地面に落とす。赤ん坊は地面に触れた瞬間パッと消えて、そこから牡丹の花が咲く。「聊斎志異」屈指の名作だ。うん。

 数日前だが、幸ビルの裏通りで、二人の作業衣の男と普通のサラリーマン風の男一人が、何かを囲んでしきりに話している。
 サラリーマン風「いやー、よく掘ったね」というのに、作業員は、身ぶり手ぶりで答えている。
 その前には、一本のネズミ色の管が。まん中あたりが、「野鼠を飲み込んだ青大将」のように膨らんでいる。どうやら、異物がつまった水道管をほじくり返したらしいが、大捕り物でもしたかのような彼らの様子がおかしかった。

 電気機器安全法、中古品への適用除外へ。あったり前だ。法律を作った経済産業省のキャリア官僚は、たぶん、東大を出ているのだろうが、こんなミスをするなんて。

お経と野球

2006-03-22 15:03:41 | Weblog
 日本対キューバ戦、日本が初回で四点リードというところまで見て、愛宕山のお寺に行く。お彼岸の法事なのだが、一応、去年、喪主をやらされたもので、右代表という感じで。
 着いたら、もう読経は始まっていた。住職にその息子らしい、林家正蔵的雰囲気の副住職、さらにその子供らしい、まだ小学生前の、まさに「小坊主」さんが並んでいる。(あともうひとり、補佐役的雰囲気のお坊さんがいた。)
 「小坊主」は、最初はお祖父さんの読経を神妙に聞きながら、ちょっとお経も唱えていたみたいだが、やがて飽きてしまったらしく、落ち着かなくなった。でも、檀家さんにはああいうところが受けるのだろうな。歌舞伎で、一門の最年少である「孫」が桃太郎に扮して、鬼役のお祖父さんを踏んづけて拍手喝采をもらったりするのと同じだ。

 お経が終わってから、浄土宗の歴史を少し話してくれた。浄土宗の歴史というか、「南無阿弥陀仏」つまり、念仏の歴史だ。
 浄土宗の開祖はもちろん法然だが、法然は最初、天台宗の学僧だったそうだ。天台宗はエリート知識人の宗教で、「南無阿弥陀仏」も阿弥陀様を実際に「見る」(もちろん、「幻覚」なのだが)ためのサインのようなもので、「視知覚」を妨害しないように、口に出して唱えることは禁止されていたのだそうだ。
 これに疑問を抱いたのが法然で、阿弥陀様を「見る」のではなく、阿弥陀様に「救われる」ことが大事なんだということで、口に出して唱えなければならないと主張した。何故、口に出すようにしたかというと、「知」に対する根本的疑念、反逆ということだろう。
 元天台宗の坊さんとしては、すごい逆転の発想だ。(あるいは、天台宗の学僧として、その「知」の奥義を極めたという自覚があったのかもしれない。)
 この法然の思想を引き継いだのが親鸞だけれど、親鸞が、どう「念仏」に新たな解釈を加えたかというと、ちょっと忘れてしまった(笑)。しかし、その後の「念仏宗」である時宗の一遍は凄い。念仏を唱えれば救われる、なんて甘い、救うか救われないかは、すべて阿弥陀様が決めること、我々はただ念仏を唱えていればよい、という。これが、いわゆる「踊り念仏」だが、ここまでくると、キリスト教のプロテスタントと同じになる。救うか救わないかは神様が決めることで、人間はそれを知ることはできないという、いわゆる「予定説」だ。

 じゃあ、日蓮宗の「ナンミョウホウレンゲキョウ」の、いわゆる「お題目」はどういう位置付けになるのだろう。グーグルで調べたが、よくわからない。個人的な念仏に比べて、「お題目」は積極的に人を、ひいては世界を救うのだという感じだろうか。ちょっと迷惑だったりして。

 お寺の帰り、千駄ヶ谷の明治公園の側を通ったら(お寺には自転車で行ったのだ。なんかミスマッチだ)、フリーマーケットを開催していたので、覗いたら、売り物のラジカセから日本対キューバ戦の実況中継が流れていた。九回、大塚が後二人打ち取れば勝利という場面だった。
 以前から感じていることだが、野球って、試合時間が長い。攻守交代で二、三分使ったり、テレビのコマーシャルだとか、ちょっと用足しがある場合なんかには好都合だろうが、はじめて野球を見る人は、なんと間が抜けたスポーツだろうと思うのではないか。いや、だからといって、別に、試合時間を短縮せよ、なんて言っているわけではない。あの、一見ちんたらした駆け引きも、野球の面白いところだ、と思っているので。何はともあれ、日本野球は結構すごい。

 フリーマーケットでは、ひと振りすると適量が出てくるという砂糖入れを買った。この道具は最近ちょくちょく日本でも見かけるが、これに最初に眼をつけた日本人は植草甚一だ。たしか、小林信彦のエッセーだったが、植草甚一がニューヨークでこれを買ってきて、しきりに「いい、いい」と連発していたが、こんなもののどこを植草甚一が気に入ったのか、さっぱりわからないというのがそのエッセイの趣旨だった。あの「趣味の良い」植草甚一も時として変なものを気に入ることがある、といったコンセプトだ。
 これを読んだのはだいぶ前だが、私も小林信彦の意見に賛成だった。見たことも使ったこともないけれど、小林の文章から想像する限り、あんまりかっこいいとは思えなかったのだ。
 では、それをなんで買ったのかというと、実は、これ、結構便利なことに近年気がついたのだ。植草甚一が気に入ったのも、「趣味」としてではなく、「実用品」として良いと思ったのだ。特に、植草は独り者だったので、たぶん、いちいちスプーンを出し、またそのスプーンを洗わなければならなかったりすることがめんどくさかったのだと思われる。植草甚一=趣味の人にはちがいないが、四六時中趣味で生きているわけではない。
 これに限らず、小林信彦の文章、特にエッセイに関しては、昔は「なるほど」と思うことが多かったのだが、最近は、その納得したはずのことについても、「いや、ちょっと待てよ……?」って、わざわざ而後訂正することが多い。
 なんか、長くする予定は毛頭なかったのに、長くなってしまった。

(運命に)従順な中国人

2006-03-20 18:15:35 | Weblog
 超久し振りに大宮のリベラル右翼、S氏来社。
 「テコンドー協会の件はどうなりましたか」と聞いたら、なんとか一本化できて云々というので、「新聞で読んだんですが、看板は一本化はしたけれど、中身はまだまだ、みたいなことが書いてありましたよ」と言うと、そんなことはない、と反論していた。帰り際に渡された名刺には、「社団法人全日本テコンドー協会専務理事」の肩書き(これは以前と同じだが)に、事務所が、渋谷の岸記念体育館内となっていた。「岸記念体育館」は、日本のアマチュアスポーツ界の総本山とも言うべき場所だし、確かに、名実共に「一本化」は成ったのだろう。頑張ってちょ。
 さて、S氏来社の目的は、S氏の裏の顔(笑)、ゆすりたかり……と言ったら「リベラル右翼」のこけんに関わるが、でもまあ、似たようなもので、某県の某JAが違法建築の建物を建てていることを告発する、という趣旨の「新聞」を作れという。もちろん、原稿、見出しも出来ていて、これをレイアウトして完成させてくれというのだ。
 やれやれ、と思いつつ、37万円の支払いが残っているし、もらうまでは仕事を続けなければならないと思い、仕事にとりかかったが、見出しの「何もやらない○野組合長」を見て、「これでいいのか!」とかサブをつけたらどうかと思ったりした。もちろん、こっちは、件の○野組合長がどんな人か全然知らないわけで、まったくの部外者なのだから、「煽り」のための提案なんか、倫理的に言って、そもそも出すべき筋の話ではなく、もし、やるとすれば、黙ってS氏の指示通りに作ればいいだけの話なのだが、つい、無責任に「こうすればいいのにな」とか考えてしまうのは、編集屋の品性下劣な面であろう。「尻馬」に乗りがちなところというか。

 倫理と言えば、中国だが、死刑囚の臓器を移植に供していることについて、「死刑囚本人の承諾を得ているから問題ない」と、政府が正式に死刑囚の臓器移植の噂を肯定したらしい。親の病いを治すためならば、人肉食も美徳となるのが伝統中国の倫理だった。ならば、死刑囚の臓器を難病治療のために摘出することに、何を躊躇う必要があろうか、というわけだ。こんな言い分が「国際的」に通るわけもないのに、凄いなー、中国人は。
 ところで、この件に関し、異常な状況下の「承諾」は「強制」とみなされるから、そもそも無効だとか日本の知識人が新聞で書いていたが、「そんな呑気な問題じゃーないだろ!」と言いたい。たとえば、もし仮にサインしなかったらどうなるか。サインを拒否した死刑囚はまっさきに処刑され、なおかつ、臓器は摘出されるだろう。肝心なことは、中国人は、中国がそういう社会であることを知っており、そこに住む自分達の運命をわかっているということで、したがって、サインを「強制」する必要なんか、そもそも、ない。(中国人は、「絶望の末の従順」という、まさに絶望的「運命論者」であり、それこそが中国の癌であり、まさに摘出、廃棄しなければならないと告発した中国人は、史上、魯迅ただ一人きりだ)
 しかし、死刑囚の臓器移植が何故、反倫理的行動なのか? 最大公約数的には、死刑囚の臓器移植は国家による臓器売買を容認しかねないからということになるだろうが、純粋に倫理問題として考えると、結局、感情の問題に帰するような気もする。もし仮に、自分か、自分に近い身内が臓器移植を受けなければ死ぬということになったら、死刑囚のそれでも欲しいと思うかも知れない。人間は利己的だから。しかし、もし、そういう立場でなかったら、「不快」だと言い、中国人、あるいは中国社会を非難するだろう。
 というのは、だいぶ以前、「何故人を殺しては行けないのか」という論争が持ち上がった時、戸塚ヨットスクールの戸塚校長が、「人を殺すと不快になるから」と答えていた。一瞬、「不快だからダメ(殺すな)」というのは、順序が逆ではないかと思ったが、それにも関わらずこの言葉が、ずっと気になっていた。ところが、つい数日前、人間の「感情」は、それぞれの場面に対応して引き起こされる身体の変化をストーリー化したものだという説明を読んだ。「人を殺してはいけない」という決まりは、まず根底に自らの「生存」が脅かされかねない事態に直面した時の身体上の変化があり、それをストーリー化したものが、「殺人への強い不快感」ということになる。なるへそ。(「感情」の有力な説明は、他にもう一つあるが、そっちはどうも興味があまりわかなくて覚えてません。メンゴ)
 しかし、そうだとすると、中国は、殺人をあえて肯定する稀な社会ということになるが……いや、実際、人肉食は、条件を満たせば肯定されるし、毛沢東は核戦争で中国人が一億や二億死んでも平気だと、言ってのけたんだっけな。

逆さまな世界

2006-03-17 21:31:34 | Weblog
 歯医者の待ち合い室に、「ホモホモ7」の、みなもと太郎の同人雑誌が置いてあった。一応、好き勝手に作ってはいるのだろうが、これこれこういうことをしたいから、あえて同人誌を作った――という感じではない。つまり、要するに、正直言って、あんまりおもしろくない……。和田誠の「お楽しみはこれからだ」を真似たページなんかがあったりして……いまさら、あまりといえば、あまり……なので、読むのを止めて奥付を見た。というのは、みなもと太郎の事務所は、「抜弁天」の近くにあって、一度尋ねたことがあるのだ。それで、まだいるのかなと思ったら、いましたいました。発行人住所は、新宿区富久町だった。そう、いつも、不動産のちらしを播いているところだ。一戸建てだったら、みなもと先生んちと知らずにポストに放り込んでいた可能性がある。でも、「ホモホモ7」以後、鳴かず飛ばずだし、そんな金あるのかなー。でも、以前、お邪魔した場所が、今は、広い道路に変貌しているので、もしかしたら、その時に立ち退き料をせしめて、同じ町内に一戸建てを買った可能性もある。あるいは、立ち退き料で一戸建てを買ったので、こつこつ漫画を描くのがめんどくさくなったとか……なんてこともあり得るだろう。

 「映画の研究」がらみで、「逆さ眼鏡」のことを調べた。上下左右が逆さまに見える眼鏡のことだが、これをかけると、実は、上下左右だけでなく、前後(奥行き)も「逆さ」になる。ていうことはどういうことかというと、たとえば――女の人には想像しづらいかも知れないが――立ち小便をすると、自分が自分に向かって小便をしているように見えるらしい。
 どういうことかというと、要するに、下を向いて自分の身体を見ると、視界の一番手前にあるはずの「自分の身体」が一番遠くに位置するのだ。つまり、「前後」が逆になる。(ただし、「前後」が逆になるのは、「自分で自分の身体を見る」場合に限られる)
 それから、低い天井の廊下なんかを歩くと、天井がちょうど自分の腰のあたりに位置することになるため、コンクリートをメリメリぶっ壊しながら歩いているような感じになるんだそうで、これがなかなか「快感」らしい。
 こういったことは、「視界」の世界は逆さになっていながら、「自分」の身体感覚は前と同じく正立しているために起こるのだが、数日後には「世界」が正常に、つまり、正立して見えるようになるが、今度は「自分」が逆さになった感じになる。「視界そのものは正立していて、それを見ている自分が逆さになっている」というニュアンスはよくわからないが、ともかく、このようなプロセスを経て、最後の段階で、自分の身体に関する感覚と外界の見え方が一致し、逆さ眼鏡をかけたままで、すべて「自然」な状態になるらしい。

 なんと不思議な……。
 

二つの裁判

2006-03-15 15:56:58 | Weblog
 山口県、光市の母子強姦殺人事件の弁護士が裁判引き延ばし戦術に出たという新聞記事の下に、連続七人を強姦した人気ラーメン屋「あ・うん」のカリスマ店長の無期懲役が最高裁で確定したとの報道が。
 ラーメン屋店長は、強姦はしても、別に殺してはいない。それで無期懲役。しかも、捕まったのは2003年の10月。つまり最終判決まで3年弱だ。
 一方、光市の母親を強姦して殺した上、赤ん坊も同じく殺害し、判決は同じ無期懲役。そして、事件が起きたのは1998年。最終判決はまだ出ていないが、逮捕後、すでに8年経っている。

 この「差」はいったい何だろう。母子強姦殺害事件が死刑でないのは、犯人が犯行時に未成年だったからか? それならそれでしょうがないにしても、一方が結審まで3年弱、もう一方が、8年たってもまだ終わっていないのは何故なのか。裁判にかかる時間は、未成年か否かは関係ないだろう。いや、わからないが、多分。では、母子強姦殺人事件の場合は、事実関係に特に慎重に調べなければならないような、複雑な部分があるのだろうか。
 逆に、「ラーメン屋カリスマ店長」の場合、殺してもいないのに、早いスピードで「無期懲役」の判決が出たのは何故か。
 マスコミは、こういった「謎」こそ、調べて欲しいと思うのだが。(ちなみに、私は、この「差」の原因は裁判長のパーソナリティーにあると思う……ていうか、消去法で行くとこれしか残らない)

 今、部屋を整理しているのだが、スペースを空けるため、月光のバックナンバーの売れ残り10数册と、他の雑誌類をまとめて紙袋に入れ、中身がわからないようにガムテープでしばってゴミ集積場に出した。ガムテープで縛ったのは、中身が「本」だと――多分ホームレスだろうが――いろいろ漁られて、ゴミ捨て場がぐちゃぐちゃに散乱してしまうからだ。
 ところが、その翌日の朝、例によってコーヒー屋のカウンターで朝刊を読みながら何とはなしに外を見ると、ホームレスが昨日出した紙袋を開けて、物色している。中国の特集とかサリンジャーとか酒鬼薔薇とか、こっちにしてみればお馴染みの表紙がホームレスの手の中でいじくられていて、別にホームレスでなくても同じだが、なんか変な感じ。
 ホームレスは大分長いこと、といっても10分くらいだが、物色した末、脇に月光を抱えて去っていった。
 その後、コーヒーを飲み終え、ゴミ集積場を覗くと、件の紙袋には「広告批評」が数冊、ポツンと残っていた。天野祐吉に、勝った(笑)。

バーブラ!

2006-03-13 21:34:23 | Weblog
 ナンバラ企画事務所の下に、「ドン・キホーテ」というスナックがある。二丁目の飛び地のようなゲイバーだがピー子が時々くるという、老舗だ。ここで五、六年前、昼間の土曜日にガレージセールをやっていて、そこでハッシュパピーのバックスキンの靴を買った。まったくの新品で1000円くらいだったと思うが、何故か、その後、さっぱり履く気が起きず、部屋の隅に放り投げておいたのを、数日前、これまた何故か、履いてみようと思い立ち、履いてみたら(んー、なんか要領の悪い文章だ)、非常に履き心地が良い。靴には、いつも、ドイツ製の、土踏まずの部分が盛り上がった「下敷き(ソール)」を敷いているのだが(ちなみに、靴及び靴の周辺商品は、ドイツが圧倒的によいみたいだ)、このハッシュパピーは、底がうまい具合にふっくらと盛り上がっていて、その必要もない。この次のチラシ播きには、このハッシュパピーを履いてやってみよう。(しかし、「ハッシュパピー」って、最近見ない。つぶれたのだろうか。)

 明治公園のフリマで、カシオのCDプレイヤー、箱入りデッドストックを500円で購入。解説書も保証書もある。(もちろん、期限切れだが。)ランダム選曲機能もついていたので、早速やってみた。いつも同じ曲順では飽きてしまうし、次に何がかかるかわからないのは、結構新鮮な経験かも知れないと思ったのだが、案外、そうでもなかった。しかし、お気に入りの、たとえばクインシー・ジョーんズのビッグバンド・ボサノバをかければ、ちょっと違うかも知れない。ピアノのラロ・シフリンのソロがいいんだ。ラロ・シフリンは有名な白人のジャズピアニスト(国籍はフランスかな)だが、ブルース・リーの「アチョー」の生みの親だ。いや、生みの親というか、「燃えよドラゴン」の音楽を担当した際、リーの「アチョー」ををたくみにフィーチャーした、天才というより、「異才」の人だ。

 夜、バーブラ・ストレイザンド(もともと「バーバラ」だが、デビュー時にちょっとひとひねりしたくて、「バーブラ」にしたんだそうだ)のインタビュー番組を見る。
 最初、顔を見た時、ライザ・ミネリだと何故か思い込んでしまい、インタビュアーのヒゲのおじさんの「あなたのお父さんは……」という質問に、「ハイスクールの先生だった」と答えたので、あれ? 映画監督じゃないの?なんて、とんでもない勘違いをしてしまった。顔だって、よく考えたら全然ちがう、ってのに、なんか、イメージで思い込んでしまったのだ。
 話を聞いていたら、もう、60をとっくに過ぎているようなのに、元気がいい。さすがに、昔のフィルムが流れた時は「若いなー」と思ったが、でも、現在の彼女に戻って、「歳とったなー」という風にはならない。
 途中で不思議な話をしていた。
 彼女が初監督作品に取りかかっている時、彼女の兄の誘いで、霊媒師のもとを訪れ、彼女が赤ん坊の時に亡くなった父親の霊を呼び出してもらった。その時は、大したことはなかった(んだったと思うが)が、家に帰ってから、居間の机がびりびりと動きだした。彼女は怖くなって、バスルームに逃げ込んでこっそり覗いていると、机は勝手に動きだして、その脚で文字を書いた。それは、「ソーリー」(申し訳なかった)と、「自信をもって仕事をしなさい」とか、そんな内容だった。
 しかも、その後、バーブラは、兄と二人で父親のお墓参りをして、その前で写真を撮ったが、父親のお墓の隣のお墓の名前が、彼女が監督中の作品の主人公の名前と同じだった。
 といった、因縁話だったけど、アメリカ人もこの手の話は好きらしく(ていうか、アメリカが本場なんだっけ)、みんな興味津々で、彼女が「あたしはシャーリー(マクレーン)とは違うわよ」と冗談を言っても、誰も笑っていなかった。
 話の最後は、ユダヤ人らしく、モーセがシナイ山で、「十戒」を授けられた時に、60万の霊に囲まれていた話をしていた。

 しかし、バーブラ・ストレイザンドといえば「ファニー・フェイス」で有名で(代表作が「ファニー・ガール」だもの)、インタビュアーも、「正統派の美人ではないが」とか、失礼なことを言っていたが、実際のところは、彼女みたいな、かぎ鼻に分厚い唇って、あっちではもてるのではないか。テニスのシュテフィ・グラフとか、「蜜の味」一本で消えちゃったけど、リタ・トゥシェンハイムとか(知らねーだろ)……でも、ライザ・ミネリは、全然その系統じゃないんだよな。なんで混同しちゃったんだろう。

倫理の匙加減

2006-03-11 16:43:18 | Weblog
 「ザ・フライ2」を深夜テレビで見る。またまたまたまたまた、途中から、題名も知らずに見て、翌朝、新聞のテレビ欄で確認した。
 「ザ・フライ」の1も見ていないが、クローネンバーグというマニアっぽい監督が作ったということだけ知っていたが、2は、クローネンバーグではないらしい。

 1も知らない上に、30分ほど過ぎてから見たからストーリーはよくわからなかったが、主人公の顔がだんだんくずれていって、繭のようなものに包まれていくところ、気持ち悪い! しかし、外見が醜く、人間離れするにともない、行動が粗暴になるのは、何故?……ったってしょうがないのかもしれない。そんなものだ、人間は。途中でガード犬が化け物に変身した主人公に頭を撫でられて大人しくなるところなんか、そこらへんを皮肉ったのかもしれない。
 おもしろかったのは、化け物が人を殺した後、放り投げるところ。投げられてひんまがった姿勢のまま死んでいるところに、監督の「美学」みたいなものを感じたりして。これが「クローネンバーグ調」かと、「ザ・フライ」の続編であることを知った後に、後付けで思ったりしたが、さらに調べたら監督はクローネンバーグじゃないそうで……。

 ところで、殺した後、死体を放り投げるというのは、非人間的行為の象徴として演出していると思われるのだが、先に、幼児を二人殺した中国人女性も、自動車の車内で包丁で滅多刺しに刺して殺した後、外に「放り投げた」と自供している。私はこれを聞いた時、中国女らしいなーと思った。
 中国は、半世紀前までは一夫多妻みたいなもので、それに儒教の男尊女卑の教えが根深く残っているから、女性の力が弱そうだが、実は、世界一、恐妻家の多い国として知られている。それもつまるところ、大陸風「大家族主義」から来ている。
 というのは、大家族の「家長」には一族の最年長の男がなる場合が多いが、制度的に「最年長の男を家長とする」と決まっているわけではなく、あくまで「実力」で決まるので、時には女性が家長につく場合がある。そのような場合、その女性は「旦那さん」と呼ばれることもあるらしいが、そういった場合の、「女性の実力」とは何かというと、つまるところ、女性独特の手のつけられない「ヒステリー」といっていいかと思う。

 話が飛ぶが、ヒトラーがそうだったらしい。たとえば、会議の最中に激高してヒステリーを起こしたら、女性のヒステリーをだれもとめられないように、もう誰もとめられない。歴戦の勇士揃いの将軍連中も、ヒステリーを起こしたヒトラーに異義を唱えることができるのは一人もいなかったそうだ。画家のダリは、ヒトラーの背中は中年女性の背中だと言ったらしいが、さすが、ダリだ。観察眼が並みじゃない。
 それはともかく、数カ月前のことだ。私の前を二人の若い女性が腕を組んで歩いていた。若い女性が公衆の面前で腕を絡ませるのは、東アジア独特の風習だそうだが、最近では、日本ではあまり見られない光景なので、私の前の二人の女性は朝鮮か中国かどちらかだろうと思っていたが、言葉を聞くと中国人だった。
 ところがこの中国女性の一人が、歩きながらさっと顔を横に向け、「ペッ」と、音がしそうな勢いで道ばたに唾を吐いたのだ。瞬間的動作だったが、見事というか、鮮やかというか……もし、たとえば一メートル先に痰壷があったら、そこにピタリと入るような正確さと勢いが、この「唾吐き」にはあった。これか! これが有名な中国女性の「唾吐き」なんだ、と私はちょっと感動したりした。
 というのは、中国前漢時代に、趙飛燕、合徳という、美女姉妹がいた。姉の飛燕はスレンダーな美女、妹の合徳は豊満な美女という対照的タイプで、極貧の農家に生まれながら、二人して皇帝の側室に入り込んだ。中でも飛燕は非常に気が強く、やがて皇后の座を射止めてしまったが、妹はこの気の強い姉を非常に恐れていて、ある日、姉が「ペッ」と吐いた唾が妹の着物の袖にかかった。姉を恐れていた妹は、その袖を広げて、「まるで華のように美しい」と言ったいうのだが、じゃあ、「唾吐き」という行為自体は「美しい」のか? 唾を吐いた跡が「華のように美しい」のなら、唾吐き行為それ自体も「美しい」のでなければ理屈に合わないが、そういうことではない。「唾吐き」は、相手の顔に向かってなされる場合は、多分万国共通だと思うが、最大の侮辱行為だ。実際、中国の映画で、女が憎い相手に唾を吐きかけるシーンを見たような記憶もあるし。
 「唾吐き」だけでない。たとえば、重病の父母のために、妻を殺して、その肉をスープにしたりすることが、「美談」だったりする。だったら、人肉料理は、めったに口にできない最高級料理なのか、というと、必ずしもそうではない。やっぱり、人を食うのは、「犯罪」だったりする。
 ここらへんの「倫理」の匙加減が、中国人の場合、どうもよくわからない。

 「ザ・フライ2」から話がそれてしまったが、……なんの話をしてたのだっけ? ああ、そうだ、「死体を放り投げる」ことについてだった。まったく、なんてことをしやがるのだ、中国女は。そういえば、「中国女」というゴダールの映画があったけな。

福井総裁の満面の笑みに隠されたもの

2006-03-09 23:51:20 | Weblog
 ヨーグルトの安売りで有名な(?)ワンダフルで、イオン発生装置付き歯ブラシを買った。126円と表示されていたが、そばに普通の歯ブラシがあって、そっちは84円だったのだが、レジで「84円です」といわれた。まちがえてる。でも、そのまま買って帰った。
 説明書きに、「歯磨き剤はなるべく使わないで下さい」と、堂々と書いてあった。つ、つごい。ライオンとかサンスターとかのメーカーから刺客が送り込まれたりしないだろうかと、心配になった。勇気あるなー。千葉流山市のメーカーだ。尊敬する。

 日銀、量的緩和政策の中止を発表。報道ステーションを見ていたら、古館が「量的緩和では、よくわからないので、ジャブジャブ政策と呼ぶことにしました」とか言っていたが、「ジャブジャブ」で何がわかるのだ? 隣の、加藤とか言う解説委員も、経済学については全く無知らしく、解説の際も、眼が泳いでいた。わかりやすいバカだ。
 「量的緩和政策」とは、昨日も言ったけれど、マネタリスト政策といって、利子率をいじるのではなく、直接、市場に貨幣を投入する政策で、非常に単純な話。でも、そんなことをしたらハイパーインフレになるだろうということで、なかなか実行に移せなかったが、日本が、「背に腹は変えられず」に、世界ではじめて本格的実行に踏み切った政策で、世界中の政治家、経済学者が注目していたのだ。
 具体的には、銀行が保有している国債を日銀が買い上げるという形で実行された。「あったま、イー」って言いたくなるような、「三方一両得」的なうまいやり方だと思うけれど、さて、それが中止(解除)になって、どうなるかが問題だが、竹中が言っているように、下手したらまたデフレになってしまうかもしれないので、そこんとこ、わかってるでしょうね、ということだろう。
 一方、このまま量的緩和を続けたらどうかというと、もしかしたら、インフレ、あるいはバブルになるかも知れない……といったって、今現在、インフレなんかじゃないし、また、インフレになったら、その時点で量的緩和を中止し、即、利上げをすればよい。そういう意味では、緩和政策と続る場合、抱えるリスクはゼロ。
 としたら、どっちを選ぶかは自ずと決まってくる。このまま続けてりゃいいのだ。
 もっとも、不都合が明らかになったら、その時、「中止」すればいいなどと言うと、日銀の基本政策そのものが「利子率操作」から、「量的緩和」に移ってしまいかねない。私なんかは、それでもいいんじゃないか、まずけりゃ、戻せばいいのだしとか思うのだけれど、日銀は、金融プロパーとしては、それはイヤであるらしい。「誇り」があるんだろう。福井なんか、これでようやっと金利弄りができる!と、満面笑み。

 正直言って、私は経済学については、あれこれ言ってるけど、まったくの素人だ。だから、量的緩和政策が解除されてどうなるかなんて、結局のところわからないのだが、ただ、一つ、明らかなことは、日銀が自分の信念にもとる政策を採用し、それが成功してしまったということだ。
 だとしたら、日銀はどうすべきか? 答えは自ずと明らかだろう。人間の感情としてしのびがたいものがあるかもしれないが、自分の嫌っていた政策で成功したなら、自分の態度を改め、それを認めるしかない。ところが、福井総裁は、その逆をした。自分の嫌いな政策を捨てることができることで、大いに満足なのだ。これは、人として正しい態度だろうか。
 日銀マンとしての「誇り」がそうさせたなら、「誇り」なんて、百害あって一利なしだ。