……というわけで、昨日、というか今朝の投稿は、ミスによる全文喪失から立ち直れないままで、今いち、だったので、書き直しだ。
まあ、要は、茂木健一郎は売れっ子科学者ということで、受けまくっているようなのだが、それはまずいよ、と言いたいのだ。もちろん、私自身も科学者なんかじゃないのだが、それでも、氏が科学者とは言い難い文章を書いていることがわかる。
たとえば、『脳内現象』のまえがきに次のような文章がある。
《私》という特別な視点から解放され、客観化された世界を記述する枠組は、「数」である。目の前にりんごがいくつあるのか、あの山の高さは何メートルか、今日の気温は何度か。このような「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。
一方、私たちが意識の中で体験する様々なものは、赤い色の赤い感じや、水の冷たいかんじなど独特の質感から構成されている。この「質感」は、クオリアと呼ばれる。クオリアは一般に数量化することができない。私の見ている赤と、あなたの見ている赤が同じであるということを、確認する手続きは存在しない。
つまり、茂木健一郎は、「科学者」によってもたらされた、近現代を支配する物心二元論的世界観を、あくまでも「科学者」として、科学的に打破し、クオリアの復権を果たそうというのだが、しかし、『脳内現象』を読む限り、その、「物心二元論的世界観を打破」しようという動機そのものが、物心二元論の上に立っちゃっている。
あるいは、この文章だけをみても、「数」について、「客観化された世界を記述する枠組み」と説明していて、これはこれで別に誤りではないのかもしれないが、どうも受験生の解答のような感じがする(ちなみに、彼は東大理学部卒)。《「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。》とか、トートロジーとしか思えない。
じゃあ、どう書いたらいいかというと、私なら、こう書くね。
「人は世界を数で現わすことで、世界を客観化する」
この「数化」は、要するに「概念化」である。たとえば、「りんごの数を数える」ということは、りんごを「りんごという概念」に変換してはじめて可能になる。このような作業は、人間なら赤ん坊でもやってのけるが(新生児でも数を数えることができるらしい)、コンピューターにはできない。(人間がりんごの数を数えた上、その値を入力してやらなければならない。)
前回の書き込みでは、竹内外史氏の記述を参考に、概念化されたりんごと実物のりんごを重ね合わせることで、「質感(クオリア)を伴ったりんご」の感覚が得られるのだと説明したのだが、この推論を裏付ける現象が、実際に報告されている。
それは、意識清明な状態でありながら、突如、何の関係もない「画像」が視界に現れる「病気」で、発見者であるシャルル・ボネの名前をとって、シャルル・ボネ・シンドロームという。(意識そのものが混濁している中で見る「幻覚」とはまったく違う)
症例1。48歳男性、左後頭葉梗塞。脳硬塞発作翌日から幻視が出現するようになった。見えるものはピラミッド、彫刻、段梯子、汗じみた制服を着たローマ軍兵士たち。三日後、見えるものは閃光や、線などに変り、それに重なって青と白のビリヤードの玉が見えた。次の日から、猫ばかり見えだした。親猫の首、子猫の首、自分を見つめる群れなどが右の視野に出現。そのうち色が消え、最後には灰色と白のまだら猫一匹だけになった。この猫はいつまでも消えなかったのでデクスターと愛称をつけた。1ヶ月後、このデクスターも去ってしまい、右側の視野はただの暗黒になった。
症例2。62歳女性。右後頭葉梗塞発作後三日目から等身大の人々が左側から彼女の方へやってくるのがみえだした。彼らは重々しい表情をしていたが、特徴のない顔つきをしていた。彼女の前を通り過ぎる時、彼女の方を見るものもあれば、お辞儀をするもの、顔を背けるものもあった。時々、犬も現れた。犬はしっぽを振っていた。一週間後、幻視はすべて消失した。(『脳から見た心』山鳥重、NHKブックス)
このシャルル・ボネ・シンドロームは、次のように解釈されている。
たとえば猫を見たとしたら、その猫の情報は電気信号に変換され、指令部に当たる脳の高次の視覚野に送られる。指令部には、猫の映像がサンプリングとして集められており、その中から、送られてきた猫の情報にできるだけ近いサンプルを探し、その情報をトップダウンで低次の視覚野に送り、より上質な猫の映像を作り上げる……。
驚いたことに、これが「見る」ということなのだそうだが、この時、なんらかの理由で、網膜(眼)から送られてくるはずの入力信号がないのに、サンプリングとして溜め込まれていた情報が「垂れ流し」状態になることがある。これがシャルル・ボネ・シンドロームである。
書きかけで、弁当を買いに外に出たが、人の顔をしげしげと見てしまった。「見る」って、不思議すぎである。
まあ、要は、茂木健一郎は売れっ子科学者ということで、受けまくっているようなのだが、それはまずいよ、と言いたいのだ。もちろん、私自身も科学者なんかじゃないのだが、それでも、氏が科学者とは言い難い文章を書いていることがわかる。
たとえば、『脳内現象』のまえがきに次のような文章がある。
《私》という特別な視点から解放され、客観化された世界を記述する枠組は、「数」である。目の前にりんごがいくつあるのか、あの山の高さは何メートルか、今日の気温は何度か。このような「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。
一方、私たちが意識の中で体験する様々なものは、赤い色の赤い感じや、水の冷たいかんじなど独特の質感から構成されている。この「質感」は、クオリアと呼ばれる。クオリアは一般に数量化することができない。私の見ている赤と、あなたの見ている赤が同じであるということを、確認する手続きは存在しない。
つまり、茂木健一郎は、「科学者」によってもたらされた、近現代を支配する物心二元論的世界観を、あくまでも「科学者」として、科学的に打破し、クオリアの復権を果たそうというのだが、しかし、『脳内現象』を読む限り、その、「物心二元論的世界観を打破」しようという動機そのものが、物心二元論の上に立っちゃっている。
あるいは、この文章だけをみても、「数」について、「客観化された世界を記述する枠組み」と説明していて、これはこれで別に誤りではないのかもしれないが、どうも受験生の解答のような感じがする(ちなみに、彼は東大理学部卒)。《「客観的」な性質が「客観的」であるのは、つまりはそれを数で現わすことができるからである。》とか、トートロジーとしか思えない。
じゃあ、どう書いたらいいかというと、私なら、こう書くね。
「人は世界を数で現わすことで、世界を客観化する」
この「数化」は、要するに「概念化」である。たとえば、「りんごの数を数える」ということは、りんごを「りんごという概念」に変換してはじめて可能になる。このような作業は、人間なら赤ん坊でもやってのけるが(新生児でも数を数えることができるらしい)、コンピューターにはできない。(人間がりんごの数を数えた上、その値を入力してやらなければならない。)
前回の書き込みでは、竹内外史氏の記述を参考に、概念化されたりんごと実物のりんごを重ね合わせることで、「質感(クオリア)を伴ったりんご」の感覚が得られるのだと説明したのだが、この推論を裏付ける現象が、実際に報告されている。
それは、意識清明な状態でありながら、突如、何の関係もない「画像」が視界に現れる「病気」で、発見者であるシャルル・ボネの名前をとって、シャルル・ボネ・シンドロームという。(意識そのものが混濁している中で見る「幻覚」とはまったく違う)
症例1。48歳男性、左後頭葉梗塞。脳硬塞発作翌日から幻視が出現するようになった。見えるものはピラミッド、彫刻、段梯子、汗じみた制服を着たローマ軍兵士たち。三日後、見えるものは閃光や、線などに変り、それに重なって青と白のビリヤードの玉が見えた。次の日から、猫ばかり見えだした。親猫の首、子猫の首、自分を見つめる群れなどが右の視野に出現。そのうち色が消え、最後には灰色と白のまだら猫一匹だけになった。この猫はいつまでも消えなかったのでデクスターと愛称をつけた。1ヶ月後、このデクスターも去ってしまい、右側の視野はただの暗黒になった。
症例2。62歳女性。右後頭葉梗塞発作後三日目から等身大の人々が左側から彼女の方へやってくるのがみえだした。彼らは重々しい表情をしていたが、特徴のない顔つきをしていた。彼女の前を通り過ぎる時、彼女の方を見るものもあれば、お辞儀をするもの、顔を背けるものもあった。時々、犬も現れた。犬はしっぽを振っていた。一週間後、幻視はすべて消失した。(『脳から見た心』山鳥重、NHKブックス)
このシャルル・ボネ・シンドロームは、次のように解釈されている。
たとえば猫を見たとしたら、その猫の情報は電気信号に変換され、指令部に当たる脳の高次の視覚野に送られる。指令部には、猫の映像がサンプリングとして集められており、その中から、送られてきた猫の情報にできるだけ近いサンプルを探し、その情報をトップダウンで低次の視覚野に送り、より上質な猫の映像を作り上げる……。
驚いたことに、これが「見る」ということなのだそうだが、この時、なんらかの理由で、網膜(眼)から送られてくるはずの入力信号がないのに、サンプリングとして溜め込まれていた情報が「垂れ流し」状態になることがある。これがシャルル・ボネ・シンドロームである。
書きかけで、弁当を買いに外に出たが、人の顔をしげしげと見てしまった。「見る」って、不思議すぎである。