パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「ためしてがってん」をためしてがってん

2006-11-29 12:36:57 | Weblog
 今、「月光」の最後のラストスパートに入っております。長い長い、ロングスパートで、いささかヘばり気味ですが、その合間を縫って、一言。

 最近、NHKの「ためしてがってん」の女性アナウンサーが、「男の食彩」などに出てくる、ちょっと垂れ目の、気さくなコメディエンヌっぽい女性アナウンサーともども、モテモテ状態だ。(今のところNHK局内的な現象ではあるが)
 もちろん、「ためしてがってん」のほうがずっと目立ってはいるが、実は、私はこのアナウンサー(小野なんとかというらしい)はどうも信用にならぬと以前から思っているのだ。説明がスムース過ぎるのだ。単なる子供だましの比喩であることを、彼女自身だってわかっているだろうに、それに何の疑いも見せず、ひたすら破綻なく見せようとしているところを見ると、一応、理系出身の私としては「犯罪的」とすら思うのだ。(その点、垂れ目のコメディエンヌ風アナウンサーの場合は「罪一等」を減じてあげるが、でも、スムース過ぎるという印象は一緒だ)

 たとえば、もう大分前の「ためしてがってん」だったが、歯医者さんが出てきて、歯磨き粉(チューブ入り歯磨きはなんて言うのだろう。歯磨き剤か?)はほとんど意味がないと口走ってしまった。すると、小野某アナウンサーは、あわてて発言を遮った。そのままにしたら、後で物議をかもすかも知れない発言なので、やむを得ないといえば、いえるのだが、でも、この人、全部知ってるんだ、知っていてコントロールしているんだ、と思うとなんか、嫌だ。その後、どんどん「信用度」を増しているところを見ると、とっても嫌だ。もちろん、それでなければ、あんなにスムースに説明はできないが、なんかどうも信用ならないなー。

 ちなみに、少し前、歯医者さんに歯ブラシによるブラッシングをしなさいと命じられた時、試しにこう言ってみた。「歯磨き、使ってもいいですか?」
 そうしたら、その歯医者さんは、こう答えた。「一週間一度くらいならいいでしょう」

 少し説明しておくと、歯磨き剤には口腔内をすっきり感じさせる、メンソールのような芳香剤が混ぜられているため、ちょっと磨いただけで、満足してしまう恐れがあるが、歯磨きを使わず、ブラシだけだと、本当にすっきりするまで熱心に磨くことになるので、歯磨き剤なしのほうが、実は効果がある、というわけだ。

アルトマン追悼

2006-11-26 21:38:20 | Weblog
 ちょっと前の話になってしまったが、アメリカの映画監督ロバート・アルトマン死去。81歳。
 81歳なら決して早死にではないが、エリア・カザン、ロバート・ワイズ、ビリー・ワイルダーといったあたりが軒並み90超、J・スチュアートも90近く、遊蕩の印象のあったケイリー・グラントですら、84、ボブ・ホープときたら、なんと100! 映画以外でも、少し前に報道された経済学者、ミルトン・フリードマンが96、同じ経済学者のガルブレイスが97……なんてニュースばかり目にしていると、81も若死に思えてしまう。(それに比べて、日本は、「長寿国」だそうだが、なんたる違いか……つまらんやつばかり長生きしているのか……おっと、これは禁句か)

 それはともかく、アルトマン作品で見たのは「ナッシュビル」と、あともう二本ぐらいしかないのだが、何がどうなってるのかわけわからないのに、でも見ている間中、「いいな、好きだな」と思い続けているのが、我ながらなんとも不思議な印象だった。なんでだろう……?(もちろん、アルトマン作品全部というわけではない。「バッファロービル」は、ちょっと……「ナッシュビル」で期待し過ぎたか、面白くなかった)

 一般的には、アンチハリウッド映画をマイペースで撮り続けた映画作家(作品自体、「マイペース」で、それが面白かったのだが)ということになっていて、ニュースなどもすべてこの線で報道していたが、この批評はいかにも彼の「反権力」ぶりを称揚しているみたいで、つまらないこと限り無い(大体、アルトマンは「反権力」なんかではないだろう)。しかし、アルトマンの映画が実際、アンチハリウッドスタイルであることも間違いない。それは、どういう点でかというと、ハリウッド映画が、事前の知識がなくても、劇場に入って画面を見れば、誰でもすぐに「わかる」ように作られているのに対し、アルトマン映画は「わかりにくい」。「ナッシュビル」なんか、予備知識なしにいきなり見てしまったのだが、入れ代わり立ち代わり色々な人が出てきて、音痴な歌を披露したりして、なにがなんだかわからない(でも面白いのだが)。
 では、「わかりやすい」と「わかりにくい」のどちらがいいかと言ったら、当然、「わかりやすい」ほうがいいわけだが、それでもアルトマン映画が、「わかりやすさ」最優先のハリウッド関係者自身の間でも、高い評価を受けていたのは何故なのか。
 これを、「わかりやすさ」を優先したためにハリウッド映画が欠落させてきた何かがアルトマン映画にはあったから、と説明すると、これまたなん~んか、つまらないのだが、つまるところは、そういうことなのだと思う。

 まず、ハリウッド映画のわかりやすさについて言うと、ハリウッド映画はストーリーを重視し、それをできるだけスムースに観客に伝えることを目的にしている。理想的には、自分が映画を見ているという自覚がないくらいのスムースさが求められる。つまり、観客は、「映画」というより、それにのせて伝えられるストーリーを見ているのだが、アルトマン映画はちがう。アルトマン映画の場合、たとえば「ナッシュビル」なら、ナッシュビルという場所とそこに集まる人々を直接そのまま「映画」にしてしまう。そんなことできるのかいな、と思えるようなことをやすやすとやってのけてしまう。(アルトマン映画は「群像映画」なんて言い方もされるみたいだが、それは、こういう、他の何ものにも還元させない、「直接的」な撮り方の結果だと思う。)
 要するに、彼の作品が「わかりにくい」と思うのは、ハリウッド的な、ストーリー中心の「わかりやすさ」を前提としているからで、それをとっぱらってしまえば、「わかる」。でも、その「分かり方」が見慣れないので、自分にも、どうわかっているのかよくわからない。それが、「不思議な印象」ということなのだろう。

 じゃあ、アルトマン映画はアルトマン以外には撮れないかというと、案外そうでもなくて、たとえば山本政志なんか、前からアルトマンっぽいと思っているのだが……。一番簡単に見て取れるのは、画面に映っている人々が同時にあちこちで喋り出したりするところで、見た瞬間、「あ、アルトマンだ」と思ったものだった。「ジャンクフード」の試写会に現れた本人が、「オレってなんてうまいんだろう」って言ってたが、たしかに、「画面そのものに語らせる」というのか、そこらへんが本当にうまい。(登場者があちこちで一斉に喋るという方法は、たしか「北京の西瓜」で、大林宣彦がやっていたが、惨澹たるものだった)他にも、たとえば「てなもんやコネクション」で、料理が山盛りに盛られた中華レストランの机が、CGか何かでワンショットのままからっぽの机に変じてしまうところなんか、アルトマンぽいように感じる。いや、フェリーニか。ヒッチコックかも。
 いずれにせよ、このような特殊撮影は初期の無声映画なんかでとっくにやられている(「ノスフェラトウ」で、朝日とともに消えるドラキュラとか)わけで、ということは、アルトマンは映画というメディアの「原初的在り方」に惹かれ続けていた人なのかもしれない。

子供は死を恐れないか?

2006-11-24 16:03:49 | Weblog
 灰谷健次郎の訃報は、結構、大きく取り上げられているが、その中の誰かのコメントに、「子供と大人のもっとも大きな違いは何だと思いますか?」と灰谷に聞かれ、わからなかったので、「なんですか?」と聞いたら、「子供は自分が死ぬなんて思っていないことです」と教えられたと書いていた。

 こ、こ、こ、こ、こここ、これは違うだろう。全然。子供は、自分の死を身近に感じ、ものすごく恐れていると思うよ。それは、私自身のことを振り返ってもそうなのだが、理屈から言っても、子供は非常に弱い存在で、親、というか大人に見離されたら死ぬしかないことを知っている。だから、非常に死を恐れる。これは、一般的に、死にやすい弱い動物ほど死を恐れるのと同じだ。死の意味を知っているか否かといった、「知性」の問題ではない。イヌや猫を追い詰めたら、狂ったように抵抗するのは、彼らが死を知っているからではないが、でも、まちがいなく、死を恐れているが故に抵抗しているのだ。
 では、百獣の王ライオンは死を恐れないかと言われれば、動物として、そんなことはないだろうが、でも、カモシカみたいに群れで固まり、四六時中おどおどしているようなことはない、という意味では「恐れていない」と言ってもいいだろう。

 ともかく、そんなわけで、灰谷健次郎という「作家」の底の浅さが垣間見えてしまったコメントだった(と、私には見えた)。

 ナンバラ企画事務所の隣に、中国人が経営している漢方薬の店があるのだが、この店のトビラをしきりに叩いて、何か中国語で叫んでいる人がいる。出てみると、中国人のお婆さんで、部屋の灯りが消えているので、「今、いませんよ」と教えると、お婆さんは、「あ、そう」と言い、「こんにちは」と言って帰っていった。
 また、誰か悪い日本人が、「さようなら」と「こんにちは」を逆に教えたな。日本人を代表して謝りますね。
 「ありがとう」。

何かの縁で「兎の眼」と

2006-11-23 20:07:00 | Weblog
 灰谷健次郎、死去。
 ほんとに、訃報ばかりという感じだが、この人については一冊も読んだことはないので、特に思い入れはないのだが、みのり書房時代、親会社の社長が、灰谷健次郎に入れこんで、「兎の眼」の漫画化権をとって、知り合いの漫画家に書かせ、それを軸にした漫画雑誌を出したことがあった。しかもその雑誌の名前が「BUN」。私の名前じゃないか。(もしかしたら、その漫画家が灰谷の知り合いで、その漫画家とどこかで知り合った社長が、「じゃあ、『兎の眼』で漫画雑誌を作れば売れるかも知れない」という話だたかも知れない。忘れた。)

 ともかく、『兎の眼』だったら絶対売ると自信満々で出したのだが、結果はとんでもない、「BUN」は返本率百%だった(ある意味、私も傷付いた。名前のせいじゃ……と)。これは、オーバーでなく、本当に百%だったのだ。つまり、万引きすらされなかったという……。「返本率百%は、決してあり得ないことではない」という編集者にとっては実に怖~い教訓なのだが(実際は百%以上もあり得る。返本をもう一度店頭に並べ、それがさらに戻ってくるケースだ。これも実例があるらしい。幸い、みのり書房ではなかったが……)、社長はめげず、この次は絶対売れるから、頑張れと、編集長も兼ねていた件の漫画家にはっぱをかけたのだが、そうこうしているうち、漫画家の家が火事で全焼してしまい、夫婦二人でみのり書房に転がり込み、ビルの屋上にプレハブを建てて、そこで寝泊まりを始めた。
 私が、みのり書房をやめる少し前のことだけれど、結局、その雑誌は三号くらいで廃刊となり、漫画家夫婦もどこかに消えた。その後に、いったん下宿に帰ると二日も三日も爆睡してしまうアウトの名物編集員R2氏に閉口した編集長T氏が、R2氏に、漫画家夫婦に代わってそのプレハブに住み込むことを命じた。

 と、そんなことを思い出したのだが、2chの書き込み等を読むと、「児童作家には、イメージと裏腹の人が多いが、灰谷氏は正真正銘の好人物」と筒井義隆が評したこと、作品自身は子供達にとても好まれていたこと、「子供は善、だから何があっても絶対擁護」の人で、酒鬼薔薇を擁護し、彼の本名、写真をフォーカスで暴露した新潮社に抗議して版権を引き上げたこと、酒鬼薔薇だけでなく、どうにも擁護できそうにないコンクリート詰め殺人の犯人の少年も、「子供は絶対に善、立ち直ることができる」という主義から擁護したことなどがわかった。

 私は、酒鬼薔薇の類い稀な「知性」に大いに興味があり、それが少年であるが故にまったく問題にされず、結果的に、いわば封殺されてしまったのが不満なのだが(「無知の涙」の永山規夫は、事件当時19歳で、少年と大人の狭間だったので、「作家活動」が認められた)、これは灰谷氏の考え方とはまったく相容れない。何故なら、灰谷氏としては、酒鬼薔薇を純真な存在(子供)として擁護しているのだろうから、「酒鬼薔薇の知性」なんかを認めたら、擁護できなくなってしまうはずだからだ。

 と、以上のようなことを書いているうちに、この際、灰谷童話も一冊くらいは読んでみようか思っていたが、その気持ちもちょっとなくなってきてしまった。でも、読むかも知れないけど。

 しかし、本当に、《純粋》な感動の涙を誘う童話といったら、オスカー・ワイルドにとどめをさすのではないだろうか。特に、『幸福の王子』とか。ワイルド自身は、「幸福ではない、快楽だ」と言ったのだけれど、実際、自分の眼から何から全部失いながら、みんなのためになれたと幸せの涙を流す「幸福の王子」の幸福は、善も悪も超越して、まさに「快楽」の次元で成立しているわけで、そもそも灰谷童話とは次元が違うのだが。

maniac?な話

2006-11-22 15:01:07 | Weblog
 今朝、「珈琲館」のパン、ゆで卵食べ放題のモーニングを食しながら、新聞各紙を読んだが、中で目についたのが、朝日新聞のいじめに関する連続コラムの高史明のエッセイ。
 「命は大地の上に花開いているもので、そのことで(つまり、大地を介してつながっていることで)人は他人とつながっている。死ぬということは、その大地を失うことであるのだから、死にたくなったりしたら、大地と接している自分の足の裏に、命の意味をよく聞きなさい。」といったような内容。

 これはなかなか深い言葉だ。朝日新聞だから、全部ダメ、ってわけじゃあない。

 高という作家のことはよく知らないが、名前から在日だろう。調べたら、やっぱり「在日」で、元共産党員、作家で、親鸞の研究家でもあるそうだ。
 戦後間もない、共産党が武力革命を唱えていた頃の党員で、現読売新聞の社長だかオーナーだか知らないが、いわゆるナベツネを捕まえ(当時ナベツネは新聞記者)、皆が「殺しちゃえ」と言ったのを押しとどめたそうで、それがきっかけで共産党を離れる。

 親鸞の研究家ということは、もう、在日なんてアイデンティティーは捨ててしまえばいいと思うのだが、ネットで彼の発言を読むと、そういうわけにもいかないようだ。
 いずれにせよ、朝鮮人、中国人の中には、「大人(たいじん)」と呼ぶにふさわしい人が時々いる。
 これは、中国、朝鮮は高い倫理性を備えた人が治めるという建て前なので、実際には、競争の結果、トップに立った者が「徳があったからトップに立ったんだ」と屁理屈をこねるのが99%だが、それでも、「大人」にふさわしい人が、時々出るということなのだろう。
 その点、日本人には、そういう人はなかなかいないが、それは、社会を治めるべき人は、「徳」ではなく、自分のついている「地位」で治めるからだ。したがって、木(地位)から落ちた猿は猿ではなくなってしまうが、中国、朝鮮なんかの場合はそうではない。本当に徳のある大人は、大概、競争に負けるが、負けても、「大人」として扱われる。でも、実際には、それもまたインチキという場合が大半で、たとえば、有名な竹林の七賢人なんか、実際には賢人でもなんでもないのに、賢人づらして、書を書いたりして庶民から金を吸い上げ、悠々たる余生を送ったりする。
 中国、朝鮮の儒教社会はそこらへんの虚々実々がえらくややこしいのだが、欧米の研究家は、どうしてもそれがわからないために、一般的に、中国、朝鮮人のほうが、権柄づくで非人間的な日本人より人間として魅力的だということになってしまう。(こちらとしては、ちゃんとわけあって非白人社会として唯一、「近代化」を成し遂げたのだと思っているし、それは欧米人も基本的に認めていると思うのだが、彼らの本音を探れば、それも日本の近代化=経済力が維持されている限りにおいてであって、ちょっとでもそれに陰りが見えたら、即、やっぱり中国、朝鮮の方が人間として魅力的だということになってしまうはずだ。その意味では、日本がバブルが崩壊しても全然社会が壊れず、欧米の助力なしに立ち直ってしまったことは、ものすごく意外なことだったのだろうと思う)

 ただし、最近では、相当maniacな分野で、「日本人、かっこいいじゃん」という欧米人が増えているわけで、NHKがそこらへんをフォローしてるのが嫌な感じだが、でも、興味のあるところだ。それで、maniacを英和辞書で調べたら、ずばり、「狂人」、「精神病者」と出ていた。杜甫ホ……いや、トホホ……ても、精神病のうち、特に躁病を意味するそうで、なるほどと思い直したりして。いや、別に躁病ならいいってわけではないのだが……。(話が逸れた)

痛し痒しな話

2006-11-21 14:00:19 | Weblog
 株価下落。関係者(どんな人だが知らないが)の話では、個人消費が伸びないことを市場が察知し、嫌気した結果だそうだ。

 たしかに、半年ぐらい前から、その雰囲気は感じる。といっても、コンビニとか外食屋とか、その程度なのだが、な~んとなく、値上げをしたい雰囲気があり、実際に、御飯の量を少し減らしてみたりしているが、しかし、それもいわゆる「様子見」以上ではなく、消費者の判断を気にしながら、「出しては引っ込め」のカタツムリ状態だ。

 切り札はやっぱり子供が増えることだろう。子供が増えれば、嫌が応にも消費を増やさざるを得なくなる。

 あと、もうひとつは少子化と裏腹の高齢化に伴う財政負担、具体的に言えば医療費と年金だが、医療費について言えば、本来、これもまた「消費」の一種と考えてもよいはずだが、実際には「社会保険」制度なので、健康な人、特に現役世代の負担になる。しかし、現役世代だっていつ病気になるかわからないのだから、社会保険方式は崩す訳にはいかないだろう。(ただし、アメリカみたいに、医療保険も実質は民間の保険会社が行い、掛け金は、国民から徴集した税金で政府が払うという折衷方式もあると思うが)
 問題は年金だ。懐かしい金さん銀さんが、自治体からお見舞金のようなものをもらって、何に使いますかと聞かれて、「老後のために貯金します」と答えてみんなを笑わせたけど、正直いって、本音だろう。若いうちは、金がなくなれば働けばよいが、年をとったらそうはいかない。そんなに必要無いとわかっていても、せっせと貯金する。
 実際の話、毎年、政府が払う年金支給額は、ン十兆円に達すると思うけど、そのうちの相当額は貯金に回っているだろう。もちろん、そのお金を預かった金融機関が国債を買っている。つまり、いわば政府に還元しているわけだから、痛し痒しの話だが……。
 前から考えているのだが、年金をクーポン券で払うというのはどうだろう。クーポンなら、実際に使われた金額だけを国が負担すればいいのだから、確実に財政負担は減るが、でも、確実にデフレ要因になるし……これまた、痛し痒しな話だ。

 一昨日だったか、曾野綾子が産経新聞で、以前、ある大手新聞社系の週刊誌のコラムで、自分は東京出身なので、差別を目にしたことはないと書いたら、編集部から「そんなはずはない」と書き直しするように言われ、それを拒否して、結局、コラムの連載そのものが中止になったと書いていた。
 私も東京の世田谷だが、差別を実見したことはない。正直言って、問題という問題があることそのもも、ずいぶん後まで知らなかったし、今だって、正確に理解できているとはとても言えない。もっとも、「それはあんたが知らないだけだ」と言われればその通りなのだが、しかし、「東京人」一般の感覚は、そんなものだ。
 問題は、そういう感覚が、差別を受ける側としてどうなのかということだ。今までは、そういう無知が差別を見えなくし、結果的にそれを助長するのだと言ってきたわけだが、逆に、グッドニュースと考えることだってできるし、そう考えた方が彼ら自身にとってもいいと思うのだが……。
 ただ、確実に非難されるべきは、「差別ありました」と書かなければいけないと言った、大手新聞社系の週刊誌の編集者だ。まさか、「私は差別なんて知らないから、差別なんかないんでしょ」と書いた訳ではないだろうに。どこだろう……朝日、毎日、読売の三つの一つなんだが。

善悪の真相

2006-11-17 17:03:10 | Weblog
 倉田由美は倉田真由実の間違いでした。倉田由美って、漫画家いなかったかなーと思ってグーグルで調べたら、漫画家にはまったくヒットせず、同名の救助犬のトレーナーがいた。

 オビナタさんのミクシー日記を見たら、鈴木志郎康さんのブログ日記がリンクされていたので、久し振りにのぞいたら、毎朝恒例の「便所読書報告」が載っていて、ここ暫くは、「知覚と意識」についての読書報告をやっているらしい。私は、今回の「月光」で、かなり詳しく総合的にその問題を扱ったので、乞う御期待、と大風呂敷。

 その後、ほぼ一年前のBNを見たら、ハンナ・アレントの「暗い時代の人々」の報告をしていた。
 アレントとは、ユダヤ人の女性哲学者で、左寄りだが積極的に時局発言を行っているので、あちこちで名前だけはよく眼にする。特に青土社系の雑誌(「現代思想」とか)で。でも、全然読んだことはない。柄谷行人とか浅田彰とか頭の良さそうな人々がいろいろ難しいことを言っているので、敬遠しているのだ、実は。

 それはそうと、鈴木志郎康さんの日記では、次のように書かれていた。

 アレントの「暗い時代の人々」の代表者はドイツの劇作家ブレヒトで、ブレヒトは、「人が世界を去らねばならぬ日に、自分自身が善良であることよりも自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」といったようなことを言っている。
 ――これは、なる程と思わせる言葉というか、思想で、鈴木志郎康さんもそのような感想を書いているのだが、アレントは、「ブレヒトがナチスから逃れて亡命してから、彼自身は現実に密着しているつもりだったが、誤った現実認識を持ち、現実離れした詩人になって行き、東ドイツに戻って、虐殺者スターリンへの頌詩を書くなど完全に詩人ではなくなった」と非難しているということだ。「ブレヒトはナチスのユダヤ人虐殺という民族問題を捉えられなかった」と。

 アレントのブレヒト非難は、「自分自身が善良であることよりも自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」という言葉を、ブレヒトの卑怯な自己弁護とみなしたのだろう。そして、「自分のあとによりよい世界を残すことの方が意味が大きい」という自己弁護をもし受け入れてしまうと、「悪」すなわち、ナチスをも容認しかねないと。

 うーん、難しい問題、なんて言うもおこがましいことだが、私は、ブレヒトの肩を持ちたい。

 そもそもブレヒトは、戦前、ハリウッドに招かれて脚本を書いていた。ハリウッドは資本主義の牙城と思われがちだが、実は、そうでもなくて、西部劇の幌馬車の後ろに「鎌とハンマー」を交差させてぶら下げたりして、ソビエトのボルシェビキ(共産党員)への連帯の意思表示なんかをしている。この「鎌とハンマー」事件は、冷戦のぼっ発に伴って戦後間もなく起きた、有名な「赤狩り事件」にまで尾を引き、ハリウッドの十数人のシナリオライター、監督が、赤狩りの法廷(もちろん、アメリカの国会に設けられた糾明の場のことだが)に召喚された。その法廷で寝返って、仲間を売ったということで非難されたのがエリア・カザンだが、ブレヒトは、法廷に出廷せず、母国東ドイツに逃げてしまったのだ。アレントの、「彼自身は現実に密着しているつもりだったが、誤った現実認識を持ち、現実離れした詩人になって行き、東ドイツに戻って、虐殺者スターリンへの頌詩を書くなど完全に詩人ではなくなった」という批判は、そのことを指しているのだ。

 その後、半世紀以上の時間が過ぎ、もう潮時だろうと思ったアカデミー委員会は(つい数年前のことだが)、アカデミー賞授賞式に高齢ながら、生き残っていたカザンを招き、特別功労賞を授けたが、委員会の目論見は外れた。カザンのスピーチに対し、出席者はすべて歓迎はしなかったのだ。一部の人は席を立って拍手した。一部の人々は、席に座ったまま拍手した。残りは、座ったまま拍手もしなかったと三つに分かれたのだ。(会場の外でプラカードをもって抗議したリチャード・ドレイファスなんて極左もいたが)

 アレントのブレヒト批判は、以上のようなストーリーが背後にあるわけだが、私としては、それでもやっぱりブレヒトを支持したい。何故なら、善人は、どうしても「善」に頼ろうとする。これがなんとも噴飯ものというか、嫌いなのだ。神様も多分同じだろう。善人をサディスティックなまでに試そうとし、悪人はいわば、放置だ。
 いや、神様にかまってもらえる分、善人はもって瞑すべしかも。

面食い女の悲劇

2006-11-16 15:46:14 | Weblog
 「月光」、本当に、あともうちょっとでできますので……。

 さて……秋田・大曲の児童殺害事件は、誰も指摘していないみたいだが、典型的な面食い女の悲劇だと思う。
 ハッキリ言って、御本人はとても魅力的とは言い難い女性のようで、それを充分自覚しながら、でも、相手は「どうしてもハンサムでなければ駄目」の「面食い」癖は抜けない。また、惚れた男がまた男で、そういう相手の面食い癖故の弱点をわかっていて、無理難題をふっかける。女の方は、困った困ったと思いながら、逆らえない。「子供を殺せ」と言われたら、その通りにしてしまう。ここまでした私をまさか捨てないわよね、って心理だ。
 欧米なんかでは、このタイプの女性は多いんじゃないか。ビスコンティの『夏の嵐』とか。いや、日本でもなくはない。八百やお七なんか、芝居では、お七は美少女ってなってるけれど、でも実際は、今回の事件並みの御面相だったんじゃないか。フィクションでは安珍清姫の清姫とか。

 なんて書いたけれど、これは、相手の男が結構、「いい男」だと思ったからなんだが……これまた、だれも指摘してなくて……。

 ともかく、そういうわけで、犯人の女は究極の「ダメンズウォーカー」なのかというと、倉田由美の「ダメンズウォーカー」を範例にする限り、さにあらずだ。

 「ダメンズウォーカー」って、ほとんど読んだことがないのだが、あそこで「ダメ」印を押されているオタクとか、ニートとか、マザコン男とかは、私はそんなに「ダメ」な連中ではないと思う。むしろ、ああいう連中と一緒になった方が、そこそこ幸せになれるんじゃないかと思う。(オタク、ニート、ロリコン、マザコン、いずれもある意味で男の本質で、誰もがどこかでひっかかる……自己弁護?)
 実は、作者、倉田由美のインタビューを産経新聞で読んだのだが……はっきり言って、こんなにイヤな感じの女性ってない、と思ったくらい、イヤな印象をもってしまって……それで、実は彼女には「面食い」癖があって、それで失敗(バツイチらしい)した悔しさを自分が判定した「ダメ男」にぶつけているのではないか、なんて考えたのだ。「本当はイケ面の性悪を訴えたいのだがでも、面食い癖は抜けないので、それもできないんだ、きっと」、と。
 いや、ものすごい、いー加減な、妄想百%の当てずっぽうの推測です。

社会科授業あれこれ

2006-11-14 13:52:44 | Weblog
 数年前のことだけれど、新宿の旧事務所の近くにアメリカの地方大学の分校みたいなものがあって、そこの先生らしい、上下グレーのスーツに身を固めたフットボールのプロ選手のようながっしりとした大男の黒人が、日本人生徒十数人を引き連れ、商店街のお店を指差しながら何か話している。話し終わると、少し離れた別のお店の前でまた同じように生徒に話している。

 いったい、何をしているのだろうと思ったのだが、その後、アメリカ社会について書かれた本を何冊か読んでいるうちにわかった。あれが、アメリカ流の、「社会科」、つまり、コミュニティ教育なのだ。わが町はこうなっている、何々が必要ならあそこに行きなさい、困ったことが起きたらどこそこで対処してくれますよ、とか、本当に具体的に教える。教わった子供達は、家に帰って、親にそれを教える。
 もちろん、それは移民第一世代の家庭のことだけれど、最近、よく「しつけ教育は学校が行うべきか、家庭でやるべきか」なんて議論がなされているが、アメリカに限って言うならば、答は明らかで、「社会が行う」だ。家庭にそれを任せたら、出身国の文化習慣を教えることになって、アメリカ社会はバラバラになってしまうからだ。

 だったら、アメリカはアメリカ、日本は日本なのだから、日本は日本のやり方でやればいいじゃないかと思うのだけれど、周知の通り、アメリカが日本に来て真っ先にやったことは「教育改革」、なかんずく、社会科(コミュニティ)教育の導入だったのだ。
 アメリカ軍が日本を占領してまずやったこと、それは、アメリカに正面きって戦争を仕掛けるなんて無謀なことを人民が政府に許したのは何故かという問題で、彼らは、まず教育に問題があったのだろう、特に漢字の修得に時間をとられて、他の知識の修得に難があったのではないかと推測し、大規模な読み書きテストを実施した。ところが、その結果は、小学校もろくに出ていない者ですら、読み書きができる。(これはルビという便利なものがあったからだ)
 この予想外の結果を受けて、アメリカによる教育改革は尻すぼみになっていったが、すでに手をつけられていた社会科教育の導入はそのまま実行された(んじゃないかと想像するんだけどね)。

 その一つが、コミュニティ教育、すなわち社会科の導入だ。(教育委員会制度もこの時導入されたのだろう)
 今、思うに、その教育を真っ先に受けさせられたのは我々の世代だが、教わっていて、何がわからないといって、「社会科」程、わけのわからない授業はなかった。中身が難しいというのではなくて、いったい、何を教えたいのか、それがわからない。 例の黒人の先生みたいに、生徒をひきつれて街に出て、「これが炭屋さんです。坂田君の御両親のお店ですね」なんてやる方法もあったんだろうが(同級生の坂田君は、坂田炭店の子供だった)、でもやったとしても、「so what?」だ。これが、アメリカだったら、「この雑貨店は、ジョーのお店だ。ジョーはイタリアのミラノからやってきたんだ。ミラノには、こんなお店が沢山あるんだ」とかなるんだろうが(実際、雑貨屋経営はイタリア移民が圧倒的に多いらしい)、坂田君ちの話じゃなあ……まあ、それはそれで面白そうだが。

 一つ覚えているのがある。社会科を学んでいる○○君が、ある日、ビルの屋上から下を眺めた。下は交差点だ。やがて信号が赤になり、車が停止線で止まると、立ち止まっていた通行人たちが一斉に歩き始めた。「なるほど、社会ってこうなってるんだ」と○○君は思った、という話なのだが、当時唯一、「なるほど」と思った社会科授業だった。でも、「なるほど」とは思ったけれど、「信号を守らない車、人もいないわけではないだろうが、そういう場合は社会科ではどう教えるのだろう。きっと例外ということで教えたりはしないんだろうけど、なんだかなー」という疑問が残ったのも確かだ。

 しかし、その後、ン十年、この何がなんだかわけのわからない「社会観」が、一切、深まりを見せることなく、わけのわからないまま、来てしまった。実際、いじめ問題に関する「識者」のコメントのそこの浅いことといったら!だ。

 その意味で、話が飛ぶが、私は、「俺が日本史の教科書を書いちゃる!」と宣言して、今書いているらしい橋本治に期待する。橋本の日本史は、「貧乏は正しい!」シリーズの中で展開されていたもので、奈良時代に確立し、幕末まで続いた律令制度と平安時代末期に始まった武家制度の相互関係を中心とする制度史的観点から書かれていて、「制度史」というジャンルが一般的にそうであるように、恐ろしく難解なのだが、その分、解釈に挑戦するという楽しみがある。(「難解」なのは教科書には向かないと言われるかも知れないが、ビルの屋上から見た眺めで「社会」を語る難解さよりなんぼかましだ)

「やらせ質問」で思い出したこと

2006-11-11 18:35:20 | Weblog
 教育基本法改正問題に関するタウンミーティングにおける「やらせ質問」報道をみて、あることを思い出した。

 今を遡ることン十年、小学校2年生の時だ。母親を通じて、中山という男性教師から呼び出され、放課後の学校に行った。
 中山という先生は、もちろん、小学校の教師なのだけれど、生物学のちょっとした研究家でもあって、たびたび専門誌に寄稿したりしていたことで、学校関係者、あるいは生徒の父兄の間では一目置かれていた存在で、机も職員室ではなく、生物教室の一角に鎮座ましましていたような気がする。
 その生物教室で私を待っていた中山先生は、私の名前を借りて、雑誌に「朝顔の観察日記」を掲載したので、お礼をしたいのだと言う。雑誌を見せてもらうと、科学雑誌なので横組だったが、「世田谷小学校 2年2組 潮田文(私の本名だ)」と印刷されていた。
 もちろん、たかが小学2年生の観察日記に、何か新発見があるわけはない。ただ、「やった」ことがえらいえらいと誉められるだけで、中山先生の意図も、「こんなに真面目ないい生徒がいるのは、ひとえに私の教え方がいいおかげですよ」と言いたかったのだろう。

 しかし、私は、寝坊助のぐうたらで、朝顔の観察日記なんかできるわけがない。よりによって何で私なんかを選んだのだろうと思いつつ、先生に促されて読みはじめたが、私の文章なんかではあり得ないその文章に違和感がいっぱいで、冒頭の2行以上には進めなかった。
 しかし、なんで中山先生は私を選んだのだろう。実は、中山先生は私の担任ではなく、授業を受けたことも一度もないのだ。もしかしたら、物事を忍耐強く最後までやり遂げる感心な子供、という評判が諸先生の間にあったのだろうか。まさかね、と思うけれど、いい方向での「勘違い」なら、本人にとっても励みになるだろうから、いいことではないか、などと思っていたとしたらそれこそ、とんでもない勘違いだろう。
 私の書いたものではないものを私の名前で発表することが、決して許されるべきものでないことくらい、小学校2年生だってわかる。それがすべてなのだ。
 しかし、だからといって、小学校2年生では先生に抗議するようなことはできず、ただ仏頂面でつっ立っているだけの私に、中山先生は、鉛筆を2本、お礼にくれた。

 ……と、まあ、そんな思い出で、今報道されている「やらせ質問」とは、その動機が異なるが、教育関係者の拭い難い偽善的体質を示しているという意味では同じだろうと思う。