パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

がんばれ、静香ちゃん(静香ちゃんは鬱病ではないので、がんばってと言ってもいいのだ)

2011-06-30 11:02:30 | Weblog
「熱中症対策は、ともかく水分と塩分をコマメにとること、屋外だけでなく、室内でもかかることがあるので、東北大震災のためにがんばろうということで、節電に協力なさっている方も多いと思うし、その心掛けは大切だが、必要最小限のクーラー、あるいは扇風機をまわすようにしてください云々カンヌン」

 こういった矛盾した台詞を、ひとつのためらいも無く、すらすらしゃべれてしまうのがマスコミ人なんだろうが、そもそも日本はこの20年間、ずっと鬱病(デフレ)状態であった。

 もちろん、マスコミにそういう認識があったかどうかは知らないが、固有の病としての鬱病の蔓延を問題視し、鬱病者に「がんばれ」は禁句である、むしろ「がんばるな」と言いたいと、マスコミは言い続けてきた。

 それが大震災で「がんばれニッポン」と、一転してしまったわけだ。

 「がんばろうニッポン」「ひとつになれニッポン」のスローガンがいつ頃からはじまったのか。

 私の記憶では、震災後一週間くらいにははじまっていたと思う。

 本当に「奇妙」に思った。

 議論なんかしている暇はないのだ!

 とスローガンの作者は考え、マスコミ人一同、そして政治家もそれに賛同したようだが、「議論」は絶対に必要だ。

 たとえば、財源をどこに求めるか、だ。

 この問題をきっちり議論しようと思ったら、政界再編がどうしても必要だが、再編しなければ議論ができないというわけではないだろう。

 そもそも、所属政党横断の組織、「議連」があまた存在するらしいし。

 振り返って思うに、前回の衆院選挙で、国民は民主党(のマニフェスト)を選んだのだった。

 しかし、民主党は、必ずしも一枚岩ではなく、1枚看板のマニフェストを一年前、党代表に就任した菅直人は、ひっこめてしまったのだった。

 じゃあ、菅直人は元来「反マニフェスト」派だったかというと、そうではないのだろう。

 ただ、「定見がない」、それにつきる。

 それで、その時々の「勘」のようなもので、姿勢が変わる。

 まあ、それならそれでもいいとは思う。

 むしろ「定見=イデオロギー」なんかにとらわれず、時々の「直感」で対処するほうがいいのかもしれないが、菅直人には、そんな「力」はなく、財務省の言いなりで政権を維持しようとしているだけだ。

 それが、与謝野を一本釣りしたことで露呈してしまったわけだが、まあそれはさておく。

 私は菅直人に、そもそも全然興味がなかった。

 とくに、鳩山が首相になって以後、名前だけはすごい役職についたように記憶しているが、まったく政治の前面に出てくることは無く、もう政治に対する熱意もアイデアも失っているではないかと思っていたので、去年の代表選に出馬したときには、驚いたのだった。

 しかも、あんなに支持を得るなんて。

 でもあの支持の多くは国会議員ではなく、地方票だった。

 小泉とそっくりだ。
 
 それはともかく、私は、正直言って亀井静香ファンで、亀井が首相になっていれば、とっくの昔にデフレは脱却しているだろうし、デフレを脱却していれば、大震災だって、原発問題だって、苦もなく、対応できただろうと思ったりしているのだ。

 実際、あれだけ少数の政党が、あれだけの存在感を見せているのは、亀井の力だろう。

 その亀井は、今何をしようとしているのか?

 どうやら、「政界再編」らしいのだが、実際、政界再編しないことにはにっちもさっちもどうにもならないことは確かだ。

 何故って、政界再編しない場合には、結局、「財務省」が裏で暗躍することになるからだ。

 財務省を「敵」とするか、「味方」とするか、いずれにせよ、彼らが前面にでる形、すなわち、結果責任を取る形を作らなければならない。

 財務官僚が、すべて経済学部ではなく、法科出身であることを不思議に思っていたが、最近、「ハハーン、そういうことか」と思うことしきりである。

 私は、財務省入省以後は、ある程度、経済学も学ぶのだろうと、好意的に思っていたが、全然何も知らないということはなくとも、本質的には「法律家」なのだ。

 原子力保安院しかりである。

 彼らは、原子力については何も知らないんだそうだ。

 もちろん、専門家はその分野についてすべて知っているわけではない。

 「知らない」ことは、そういうこととして「知っている」。

 それが専門家だ。

 官僚が知っているのは「法律」。

 基本的に、知らないことは「法律に書かれていないこと」だが、「法律に書かれていないこと」は、大陸法と英米法で、大きく異なっている。

 「法律に書かれていないこと」は存在しないとするのは、「なすべきことを明記する」大陸法の場合で、「してはいけないことを明記する」ことを基本とする英米法では、「法律に書かれていないこと」も、実質的に存在する。

 いずれにせよ、「法律」というのは、「独占された暴力」を背景にしている。

 これがやっぱり、すごいところなのだ。

 突如思い出したが、アフォーダンス理論のジェームス・ギブソンは、「見えないところも実際には見えている」と主張している。

 たとえば、今、誰かと話をしているとすると、その人の頭の後ろも「見えている」のだ。

 もちろん、その人の後頭部に「ハゲ」があって、それも「見えている」ということではなく、彼の頭の見えていない部分が「存在している」ことを知っている。

 この「知っている」は、実質「見えている」と言ってもいい、というか「言うべきだ」と、ギブソンは言っているようなのだが、もしかしたら、これは、英米人ならではの発想なのかもしれない。(ギブソンは、アメリカ人である)

5倍増!

2011-06-29 12:58:53 | Weblog
 酷暑!

 熱中症で病院に運ばれた数が、去年の5倍とやら。

 昔の高見山のCMを思い出してしまったではないか。

 高見山は「2倍2倍」と言っていたから、それより多い。

 それはさておきとりあえず、これだけは言っておきたい。

 5倍増は、去年より5倍暑いのではなく、大震災の克服のための「がんばろう!」精神が全国に広まってしまったせいにちがいないと私なんかは思うのだが、そんな視点がマスコミにはさらさら見られないということ。

 熱中症患者の激増の原因はともかく、スローガン、「復興に向け、がんばろう」は、本当にやめるべきだ。

 なんでって、「がんばって」も、どうしようもないぞ。

 戦争と同じく、復興国債をばんばん発行でもしないことには。

 ただし日本では、昔から、戦争国債をあんまり出していない。

 役人が日本国民の「愛国心」を信用していないからだ。
 
 その代わり、「欲しがりません,勝つまでは」のスローガンが作られた。

 ……と、私は思っているのだが。

助かりましたっ!

2011-06-23 15:42:50 | Weblog
 今、「風に吹かれて」につけた写真論のひとつのネタ本である、T・J・ロンバートの『ギブソンの生態学的心理学――その哲学的・科学史的背景』をおさらいしている。

 ギブソン(ジェームス・ギブソン)は、視知覚、つまり、「見ること」あるいは、「見えること」がいかなることであるかを研究している知覚心理学の専門家で、従来の西欧の哲学的伝統である心物二元論に真っ向から反するアフォーダンス理論を創始したことで一部にその名を知られている。

 その「一部」に、写真家のホンマ・タカシなんかがいるのだが、まだまだそんなに有名ではない。

 なにしろ、難しいのだ。

 それも、複雑で難しいのではなく、単純すぎて難しいのだが、それはさておき、ロンバートの上述の本は、まさにそのタイトル通り、「その哲学的・科学史的背景」を詳述したもので、従来の、というか、今でも主流の視覚論理がいかに複雑な過程を仮定しているか、それを理解するだけでぐったりしてしまうような本なのだが、ひとつ、疑問があった。

 それは、最初に読んだときから感じていたのだが、「動くもの」を見るとはどういうことかについての記述が全然ないというわけではないが、少ないのだ。

 「動くものを見る」とは、「動きながら見る」ことと同じである。

 たとえば、F1レースなんかで、ドライバーのヘルメットに小型カメラをつけて写したりするが、ドライバーの「視界」は、決してあんな風に揺れ動いているわけではない。

 もっと身近な例でいえば、本を読むとき、われわれの目は、行末から行頭へ、猛烈なスピードで動いているが、めまいを起こすことはない。

 この、「読書時の目(眼球)の急速な動き」は「サッケード」と言われるが、実のところ、本を読むときだけでなく、人間は常に目をきょろきょろ動かしているのだ。

 人間に限らない。

 あらゆる生物は、目を持つものは目を、持たないものは、自らの身体を常に動かして、環境が発する情報を得ているのだ。

 と言ってしまうのは、ちょっと性急かもしれないが、バクテリアの動きなんかを見ると、そんな感じがするのだ。

 それはさて、ギブソンがこの問題にどんな回答を与えているかというと、「目が動いても、見ている外の世界(環境)は動いていない」から、視界は安定しているのだ、と言う。

 この「目」とは、眼球、すなわち網膜である。

 もっと正確に言えば、網膜に写っている「像」である。

 この「像」自体は、人が、たとえ座禅中の禅坊主のように静止していたとしても、激しく動いているが、それでもめまいを起こすことが決してないのは、「見ている外の世界(環境)は動いていない」からだとギブソンは説明するのだ。

 ウーン、なんと説明したらいいのだろう

 そうだ!

 スキャナーに例えれば、いいのだ。

 スキャナーの場合(コピー機でもいいのだが)、スキャン対象(客体)は静止している一方、スキャナー自体(主体)は激しく動いている。

 われわれの「視界」が斯くあるのは、われわれの目が前方を向いているからだが、もし、われわれの目が「手の平」にあったらどうだろう。

 その場合には、われわれは相対している人の後ろに回って、相手の背中を見ることができる。

 もちろん、われわれ人類の目が手の平にあるのだったら、お互いに相対して挨拶をするなんて習慣自体、ないだろうから、「人の後ろに回る」なんて観念自体もないにちがいないのだが、それはそれとして、「人の後ろに回って見る」ことを、われわれは、「手鏡」と称して実際にやっているのだが、その「像」は極めて不安定である。

 この「不安定」は、われわれが「対象の像を見る」ことを、「対象を見る」ことと同一視していることから生じているのだが、この「同一視」を大いに助長しているのが、スチルカメラ、すなわち静止カメラの発明なのだ。

 では、動く対象を動くままに撮るカメラ、映画の発明は「視覚」の学的研究にどれほど寄与しているか?

 ドゥルーズの「シネマ」という論文を読んでいない限り、なんとも言えない…のかもしれないが、ドゥルーズは、伝えられるところではベルクソンの影響下にあるそうで、だとしたら、あまり期待できない。

 なんて、とんでもないことを書いてしまったが、ベルクソンの『創造的進化』中に収められている「映画論」は、「“動き”を映画はどう再現するのか」という問題意識に直接触れているので、赤線をばんばん引いて、一生懸命読んだのだが、結局何がなんだかわからなかった。

 ベンヤミンの映画論でもある「複製技術時代の芸術作品」にしても、「動きをどう捉えるか」という問題にはまったく触れていない。

 私の知る限り、私が抱いている疑問にストレートに答えているのはギブソンだけであり、その「答え」も、私は正解だと思うのだが、いかんせん、「写真論」にとってはサブテーマであろうと思い、「月光」の24号に掲載した「映画の研究」で詳述したものを、あえて割愛し、ベンヤミンの映画論である「複製技術時代の芸術作品」からは、その「物語概念」にしぼって考えたのだったが、今回、再読して、「映画の研究」は、「写真の研究」にとって、決してサブテーマなんかではないことに気がついた。

 そもそも、私は――『風に吹かれて』にも書いたのだが――「映画を撮るように、写真を撮ってきた」のだったし。

 まあ、ぼちぼちやります。

 ちなみに、というか、全然関係のない話だが、今、「日本VSクエート」戦をテレビでやっているが、相手チームがゴールミスしたときにアナウンサーが必ず叫ぶ、「助かりましたっ!」って、なんとも貧乏臭いというか、みっともない台詞、なんとかならないのか。

 この台詞は、「ナショナルゲームに限る」。

 このことが、「ことの本質」を暗示しているが、その「本質」を見据えれば、「相手の失敗に安堵する」ことが、いかに子どもっぽい言動であるかわかるはずである。

 だとしたら、そのことを認識し、「失敗に安堵」するのではなく、まず第一にプレイの素晴らしさを褒めるようにするのが、「大人」かつ「フェア」なアナウンスというものじゃないか。

 あれを止めることが、まず大事だ、なんて思ってしまう。

想定外

2011-06-21 22:54:00 | Weblog
 数日前から、パソコンの電源をオフにしてから、さらに元源を切っている。

 ことさらに節電に協力というわけではないが、パソコン以外に、周辺機器の電源が入ったままなのは、やはりもったいないので。

 ところが、その元源のスイッチをオンにすると、とたんに、「ジャーン」と起動音が鳴って、パソコンが自動的にスタートしてしまう。

 周辺機器の電源が、元源を入れると同時にオンになるのはわかる。

 なぜなら、周辺機器、たとえばプリンターの電源スイッチは入ったままなのだから、元源をオンにすればプリンターもオンになるのは、当然だ。

 しかし、パソコンは、電源そのものを完全に切ったはずである。

 ああ、思い出した。

 2、3ヶ月前、計画停電に出くわしたとき、暗闇のなかで寝ていたら、電源を切ったはずのパソコンが「ジャーン」と起動音とともに立ち上がり、あまつさえ、そのまま故障状態に突入してしまったのだった。

 あのときの「故障」は、なんとなく復旧してしまった。

 それも不思議だが、今回は、故障というほどではないが、「自動起動後」、なんとなく、「挙動不審」な節があることはある。

 どうも、パソコンという奴は苦手である。

 話は全然異なるが、岸田国士の『日本人畸形説』と関連することで、一つ、思い出したことがあるので、書いておく。

 今、NHKの教育で、『クローンウォーズ』という、スピルバーグがつくっているCGアニメを放送しているのだが、これがけっこう面白い。

 とはいえ、私が見たのは一回きりで、それがとくに面白かったのかもしれないが、こんなストーリーだった。

 『クローンウォーズ』では、戦う兵士は皆クローン人間である。

 クローンとはいえ、ロボットと異なり、人間だから、感情もある。

 そのクローン兵からなる小部隊の隊長が負傷し、近所の民家に助けを求める。

 女主人は、ライフルを構えて排除しようとするが、結局、家畜小屋を提供する。

 そこに、その家の子どもたちがやってきて、「お父さんにそっくりだ」という。

 そう、その家の主人は、実は元クローン兵で、法律で禁じられている「愛」を成就するため、軍隊を脱走したのだった。

 …と、CGアニメでないと描けないストーリーでありながら、イーストウッドの映画を思わせるようなシリアスな内容になっている。

 これを、面白いと思うか否かは、それこそ、「人それぞれ」だと思うが、日本のアニメには、本質的に「無い発想」ではないだろうか。

 とはいえ、『クレヨンしんちゃん』なんかには、「ウーン」と思わせてしまうようなものもあり、ああいうものを見ると、「無い発想」なんか、そもそも無くたって構わないと思わせるところがある。

 で、私が「ウーン」とうなったのは、丹波哲郎が、漫画の丹波哲郎の「声」を自ら演じている、そのアイデアだった。

 これは、はるか鳥獣戯画にまでさかのぼる日本の漫画の歴史の「厚み」とでもいったものに支えられた、アイデアであったと思う。

 最近は、アメリカのアニメに有名俳優を配することが多いようだが、ここまでの「自由」は、ちょっと想定外ではないかと思うのだが…。

 いや、わからないけどね。



つまるところ…長友のお辞儀について他

2011-06-19 23:54:43 | Weblog
 「AKB」の三文字を使うと。アクセス数が伸びるかと思ったら、案の定、少しだが、伸びた。

 世間はミーハーである。

 昨日のことだが、下町に住む某から、同じマンションでも、スカイツリーが見える部屋と見えない部屋では、200万円近い差があるという話を聞いた。

 なんというミーハー!

 あんな鈍重な塔、見ているだけでクサクサしてくる、見えない方がいいと、私なんか思ってしまうのだが、世間はそうではないらしい。

  東京タワーだって、最近はすっかり東京名所だが、はっきり言って、あれを自慢する東京人はいないと思う。

 「あたしの家から、東京タワーが見えますのよ、オホホホ」と自慢する婦人の顔は、微苦笑のそれに違いない。

 だったら、富士山だって……ということにもなる。

 実際、富士山を見るのは、私は大好きだし、「月光」で特集だってやっているし、そのときには、寒風吹きすさぶ1月中旬、わざわざ富士吉田まで行って、強風逆巻く様子を、1時間近くも茫然と見つめていたくらいだ。

 しかし、そうやって見ている私は、どこにいたかというと、本当につまらない、そこにいるのが嫌になってしまうような、コンビニだかドライブインだかの敷地だったりするのだ。

 もちろん、この「聖」と「俗」の共存は、富士山の特徴でもあって、広重の五十三次も、北斎の富士も、そのような構図になっているし、藤原新也もそんな写真を撮っている。

 じゃあ、藤原新也の富士山とガスタンク、あるいはどこかの、多分、製紙工場の写真が、北斎の富士のような力を持っているかというと、そうは言えないだろう。

 単にシニカルな自己批評に過ぎない。

 ここでまた、岸田国士の『日本人畸形説』に戻ってしまうのだが、岸田は次のように書いている。

 「それが畸形的であろうとなかろうと、一人物の面白いところを描こうとする趣向は作家に共通なものであるけれど、その“面白さ”が、人間の破片に過ぎない場合が、日本の作家の場合には極めて多い。」

 藤原新也の「富士山とガスタンク」の写真も、つまるところ、風景の「破片」に過ぎない。

 風景に人が一人も写っていなくとも、それを写したのは人間であるから、「つまるところ」同じなのだ。

 スーザン・ソンタグは、彼女の『写真論』で次のように書いている。

 「(写真に写された)人間性とは何なのか。事物が写真となって眺められたとき、共通にもっている一つの性質である。」

 実は私は、アンセル・アダムスのロッキー山脈の写真が大好きなのだが、それは、アダムスの、ロッキーに対するアンセルの惚れ込み方が好きなのだ。

 岸田は、「フランス人がフランスを、イギリス人がイギリスを愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れではなく、まったく惚れ込んでいるところがある」と書いているが、自国のシンボル「ロッキー」に対するアンセルの惚れ込み方も、「自惚れではなく、まったく惚れ込んでいる」ところがあり、それが写真に反映しているのだ。

 ところで、岸田の『日本人畸形説』は、近代西洋と日本を比較しての物言いであると一般に見られているし、岸田自身もそれを否定していないが、必ずしもそうとは言えない。

 というのは、岸田は、支那事変中に中国の某都市で映画館を経営している「同胞」、すなわち、日本人から「日本映画を上映すると、観衆は、あるところで決まって哄笑するのを不思議に思って、よく注意していると、彼らに撮っていちばんおかしいのは、日本人のお辞儀らしいことを発見した」というのである。

 岸田は、この話を聞いて、パリの映画館でニュース映画を見たとき、「日本のさる高貴な旅行者」が多くの随員を伴ってパリのエッフェル塔の下で、迎え出た高貴な人物に向かって恭しくお辞儀をしたとき、観衆がドッと笑ったことを思い出し、次のように結論する。

 「たしかに、そのときの日本人のお辞儀は、いかにもとってつけたような、わざとらしい、ギコチないお辞儀の仕方であって、普通礼式と呼ばれる一つの動作に織り込まれた形態の美しさはみじんもなく、むしろ表情を伴わない機械的な運動――ある種の昆虫の反復する肢体の動かし方に近いものがそこに見られたことは否定すべくもないのである。われわれが日本風のお辞儀として日常見過ごしているのは、実は、現代日本の、畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印に過ぎないのだ。」

 インテルの長友の「お辞儀」がイタリアでは受けているみたいだが、あれも「畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印」であるが故に、観客はドッと笑うのだ。

 悪意はないにしても、「笑う」とは、そういうことであり、長友は、来シーズンはあのパフォーマンスは止めるべきだと思う。

 お辞儀ではなく、堂々と握手で対すべきだし、そうすれば、イタリア人も、「おや、日本人は変わったな」と思うだろう。

 ところで、私は、お辞儀で感動したことがある。

 それはサイパン島に今上陛下が赴かれたとき、多数の同胞の死者に対し、深々とお辞儀をした、あのお辞儀である。

 あれは、決して「畸形化された、精神を失った、申訳的の、自分でもこれでいいとは思っていない、半分照れながら行う挨拶の印」なんかではなかったし、あれを見て笑った外国人はいないと思う。

 そのせいかどうかわからないが、陛下は、今回の大震災でも、現地で、同様の「お辞儀」をされたが、私が思うに、あれは不必要だった。

 何故って、今回の大震災の被害者に、天皇家は責任がないのだから。

 「お辞儀」をするのはいいにしても、明らかに「差」をつけるべきだった。

 逆に言うと、サイパンにおける「お辞儀」は、「天皇家」としての責任においてなされたパフォーマンスであり、それ故に「有意味」だったのだ。

 なんだか、思わぬところに話が飛んでしまったが、スカイツリーに話を戻すと、今、彼のださださタワーがそびえ立つ、「押上」の駅前には、一度、行ったことがあり、そのときには、「ああいい街だ」と思い、写真に撮ってみたいとも思ったりしたのだが……今では、写真に撮る動機そのものがない。

 ちなみに、「風に吹かれて」の、あの平々凡々たる風景に対して私は、アンセルにとってのロッキーと同様、「惚れ込んで」撮ったつもりである。

AKB48畸形説

2011-06-18 16:18:27 | Weblog
 写真ブログ、更新したのでよろしく。 

 さて、本題。

 少し前に、岸田国士の『日本人畸形説』をとりあげた。

 その後、特に大震災が起きて以後、『日本人畸形説』に同感することが多く、読み直してみたいと思ったのだが、本棚から行方不明になってしまった。

 それが見つかったので、早速繙いてみると、冒頭、以下の文章が綴られている。

 日本人とは一体なんだろうか? 人はなんとでも言うがいい。私は私もその一人だということを前提として、こんな結論を下してみる。――日本人とはおおかた畸形的なものから成り立っている人間で、どうかするとそれをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する一方、その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味わい、その結果自分たちの世界以外に、「生命の全き姿」とでもいうべき人間の彫像を探し求めて、これに密かなあこがれの情をよせる人間群である。

 「オーマイガー」。

 私は嘆息せざるを得なかった。

 震災後の日本は、「もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する」ばかりで、後半の、「その畸形的なもののために絶えずおびやかされ、幻滅を味わい、その結果自分たちの世界以外に……密かなあこがれの情をよせる」殊勝な姿すら、皆無ではないか。

 一週間ほど前、「AKB48」の総選挙がマスコミを賑わせていた頃、韓国の「少女時代」の「世界的活躍」を紹介した番組がNHKで放送されていたが、「少女時代」は、「AKB48」と年齢的にはそれほど違わない。

 なんなんだろう、この差は。

 もちろん、「少女時代」のメンバーの方が、「AKB48」のメンバーよりも大人だと、単純に言いたいのではない。

 ただ、「少女時代」は、戦略として明らかに「世界」を狙い、そのために「国際基準」をクリアすることを目的にし、メンバーも努力していると考えられる。

 一方、「AKB48」は……「もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調」している。

 日本のアイドルは、そもそもそういうものであったのだが、「AKB48」(というか、秋元プロデューサー)は、そういった自らの方向性にかなり意識的だと思われる。

 問題は、この「意識」がどこへ向かおうとしているのか、なのだが、これがどうも「少女時代」と同じように、「世界」を目指しているように思われるのだ。

 秋元プロデューサーはともかく、少なくとも、世界進出を目論む「少女時代」のプロモーションビデオを放映したNHKは、「AKB48」をはじめとする日本の(一部の)少女の好きな「畸形的ファッション」を「カワイイは、もはや国際語」と言って、世界に売り込みをはかっているという「実体」がある。

 もちろん、「畸形的なもの」を好む人は、日本人だけではない。

 世界には、「畸形的なもの=グロテスクなもの」を好む人が、一定の数はいるから、全然商売にならないということにはならないだろう。

 アニメファンしかり、盆栽ファンしかり、漫画ファンしかり、「カワイイ・ファッション」ファンしかり……。

 しかし、私が思うに、彼ら「日本の畸形文化ファン」は、その「畸形性」を自覚し、自覚した上でファンになっていると思うのだが、日本人は、それを自覚していない。

 否、「オタク」と呼ばれる、日本人の「日本の畸形文化ファン」は、自分の好みの「畸形性」を自覚していると思うのだが、そんな履歴をもたない連中が、自ら得たものでもない、2次情報を頼りに、「畸形文化」の輸出にトチ狂っているのだ。

 しかし、そんな彼らも、「自分たちの世界以外に、生命のまったき姿とでもいうべき人間の彫像を探し求める」ことを忘れてしまっているわけではないと思う。

 たとえば、またNHKだが、和歌山太地町の捕鯨を伝統文化として擁護しながら、昨日は、小笠原諸島の近海に群れ集うザトウ鯨のホエールウォッチングに興じていた。

 『日本人畸形説』に戻ると、太地町の鯨漁文化の紹介番組は、「どうかするとそれをかえって自分たちの特色のように思い込み、もっぱら畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調する」ものであったが、C.W.ニコルが案内役の小笠原諸島の番組は、元来、小笠原諸島に西洋人の移民が住んでいたことも関係しているだろうが、「自分たちの世界以外に、生命のまったき姿とでもいうべき人間の彫像を探し求める」ていのもので、そのシンボルが、「ホエールウォッチング」であった。
 
 NHKの番組担当者は、この二つの作品の矛盾に気づくべきだし、気づいたら、その「矛盾」を説明しなければならない。

 具体的に言うと、それは、冒頭に引用した岸田国士の文章の前半と後半をつなぐもの、すなわち、岸田国士言うところの、「平衡感覚」である。
 
 実は、岸田は、「日本人畸形説」を発表して物議をかもした翌月、同じ雑誌に「平衡感覚について」という論文を発表している。

 1947年だから、敗戦後間もないこの当時、社会から「平衡」は失われていた。

 しかし、岸田は、それ自体は、現実においては是非もないことで、問題は「平衡感覚」が失われることだという。

 NHKの「太地町の捕鯨擁護」と「小笠原諸島のホエールウォッチング」で言えば、両者が矛盾していること、すなわち「平衡」が失われていること自体は大した問題でない。

 問題は、二つの番組において、「平衡」が失われていることを自覚している兆しすら見られなかったことだ。

 私が思うに、NHKの二つの番組は、技術的には完璧であるが、その「完璧さ」が問題の所在を隠してしまっているのだ。

 岸田曰く「平衡を保とうとする力そのものが、平衡という感覚の上に経っているか否か」が問題である。

 さもないと、「空白の全体を見るかわりに、自分の目に映ずる空白だけしか見ていない」ことになるからである――というのだが、いやはや、結構難解な論文である。

i-phoneじゃなかったら、そんなのi-phoneじゃないんです

2011-06-14 01:49:48 | Weblog
 相変わらず続く「がんばれニッポン」、「ひとつになれニッポン」の連呼、また連呼。

 幸いなことに、自民と民主の「大連立」は頓挫しそうだが、救いは、野田総理を予想するニュースショーの合間に流れた街頭インタビューにおける若い女性の「ひとつになっちゃうと、民主主義が機能しなくなるのではないか」という発言。

 これこそ、マスコミが率先して言わなければならないことなのに。

 あと、「若い人に譲りたい」の菅発言に対しても、マスコミは、「若ければいいというものではない」の肝心の一言を欠いたまま、「若い人を見回しても、適任がいない」と、人々の政治不信を煽るばかり。

 まあ、それがいつものマスコミの視聴率、部数稼ぎの手段なのだが。

 ともかく、私の言いたいことは、「“いい人”ばかりで、構成された社会は、決して“いい社会”ではない」の一言に尽きる。

 悪い奴、怠け者、は、社会に必要不可欠なのだ。

 ところが、NHKときたら、「役に立たない技術も、いつか役に立つ」と、人型ロボット技術を相変わらず擁護し続ける。

 この理屈は、「悪い奴、怠け者、は社会に必要不可欠」の理屈と似ているようで似ていない。

 NHKも、原発事故に日本のロボットがまったく役に立たなかったことを反省し、「役に立たない技術も、いつか役に立つ」と理論武装を試みたと思われるが、放送されていた「人の動きを一瞬のうちに分析解析し、人と一緒に机を運ぶことのできるロボット」の技術だったら、もしかしたら産業用ロボットの進歩に少しは役立つかもしれないが、「人間の心を、ロボットはいつか必ずゲットする」と研究者が言っていたのは、まったくの眉唾。

 というか、まったくのホラ話。

 「人の心」は、i-phoneのCM「i-phoneじゃなかったら、そんなのi-phoneじゃないんです」じゃないが、「自己同一性」という、神秘の円環を描いている。

 「自殺するロボット」を作れるというのなら、ロボット技術者のホラ話もホラ話ではないと認めるが、それは無理でしょ、と言いたい。

 このロボット技術者の話は、ディープなんとかというシリーズだったが、同じシリーズで、先週、象使いを3人集めてやっていたが、そこで「絵を鼻で描く象」が、実は、象使いの指示で描いていることを、象使いが暴露していた。

 私は、「絵を描く象」が描いた絵を見て、象にはもしかしたら「心」があるのかもしれないと思ってしまったのだったが、象使いさん、ネタ晴らしをしてくれて、有り難う、だ。

 そもそも「絵」は、どんなに稚拙でも、否、稚拙であればあるほど「芸術性」を露にするものなのだが、象の描いた「花の絵」は、そういえば、「芸術」ではなかった。
 
 あれ?

 だとすると、別の番組で、チンパンジーの描いた、暴力的な「絵」を見たことがあるが、あれは、どうなんだろう。

 あれは、「チンパンジー使い」の指示ではなさそうだった。

 チンパンジーには「心」の欠片が認められるということなのか…?
 
 嗚呼、思い出した。

 私が書きたかったのは、今日、駅で見た、「古代ギリシャ彫刻」の広告のこと。

 上野の近代美術館でやるらしいのだが、これは是非見てみたい。

 死んだ、中川大臣が、思わず触ろうとしてベルを鳴らし、辞任を余儀なくされた人類の最高傑作「ラオコーン像」は、無さそうだが、円盤投げだって、ミケランジェロの作品を児戯と思わせるに充分。

 ミケランジェロって、本当に、ギリシャ彫刻に比べたら、「どうってこない」と思う。

 ギリシャ彫刻に匹敵するのは、むしろ、運慶快慶だと私は思う。

 とか言って、私が運慶快慶の彫刻を見たのは、はるか昔、中学のときに、修学旅行で見て以来、見ていないのだが、なんでそれをミケランジェロよりギリシャ彫刻に近いと思うのかというと、夏目漱石の「夢十夜」の記述がハイデガーのギリシャ彫刻の記述に近いと思ったからなのだが、それはまた、後で。

「レインディア・ゲーム」讃

2011-06-12 23:31:11 | Weblog
 もう一週間近く前になるが、テレビで「レインディア・ゲーム」という映画を見た。

 例によって、途中から見たので、しばしば話が見えなくなったが、面白いのなんのって、であった。

 特に、イカレタちんぴら役が、ちっちゃいのに、イカレ方が凄い。

 最後にあっさり殺され、それまでの悪役としての「オーラ」が灰燼に帰してしまうところが、いかにも「それらしい」感じで、またいい。

 ストーリーはえらく複雑だが、全体としてはいわゆる「クリスマスキャロルもの」で、最後はほのぼのとした感慨に包まれる。

 最後のエンディングで、主人公はベン・アフレック、悪役はゲイリー・シニーズ、その愛人は、シャリーズ・セロンであった。

 名前は知っているが、見たことのない役者ばかりで、なるほど売れっ子なだけあるわい、と思ったのだったが、驚いたのは、ジョン・フランケンハイマーの作品であることだった。

 いかにも「今風」のように感じたからだが、ネットで調べたら、フランケンハイマーの最後の作品で、2年後に亡くなっているのだった。

 フランケンハイマーは、「フレンチコネクション2」の監督で、「1」に比べ、「2」はあんまり面白いと思わなかったのだが、見直したらきっとその感想も変わるだろうと思った。

 それくらいに、私は堪能したのだったが、ネットでついでに、映画ファンの評価を調べると、意外なことに、評価が割れている。

 低評価の理由は、「シナリオが甘い」というのが大半を占めていたが、何をもって「甘い」とするのだろう?

 思うに、ベン・アフレックが次々に襲い来るピンチをことごとく切り抜けてしまう、その切り抜け方が、あまりにも「ご都合主義的」だと言っているのかもしれない。

 しかし、そういう連中に限って、この映画が「クリスマスキャロルもの」であることに気づかず、「後味が悪い」などと言うのだ。

 理屈をこねずに、存分に楽しめばいいものを、理屈をこねて、楽しもうとしない。

 映画ファンにはこういうのが多くて嫌になる、と、元映画学生として、思ったのだった。

ある「アイデア」

2011-06-07 17:51:02 | Weblog
 旧月光の定期購読読者たちに、「風に吹かれて」の宣伝チラシを送付した。

 旧月光の定期購読読者たちこそ、元来、まっさきに連絡しなければいけないのだが、それに添えるべき「案内文」がどうしても、うまく書けなかったのだった。

 最初に書いた文章は、次の通り。

 潮田文、こと南原四郎です。

 月光24号以来、5年以上、皆様の前から姿をくらましていたことを、まず、深くお詫びしなければなりません。

 実はそれ以前より、自己への関心、すなわち内への関心と、社会への関心、すなわち外への関心に引き裂かれて悶々としておりましたことは、皆様薄々感じておられたのではないかと思っておりますが、その「克服」を強く意識するようになったのは、月光で連合赤軍を特集して以来のことでした。

 爾来10年余、あまりにも長い時間を費やしたことになりますが、このたび、総頁数648ページ、重量1キロ以上、厚さは4センチ近い、一部の評者から「奇書」とも呼ばれる大冊写真集 ――「風に吹かれて」を完成させました。

 もちろん、これをもって「克服」が成ったと豪語するわけではありません。

 たかだか、皆様の前からの逐電の言い訳にしかなりませんが、とりあえず、「風に吹かれて」の宣伝チラシをつくりましたので、同封させていただきました。

 もしも、これが縁で、皆様との再度のお目文字が叶いますれば、旧月光編集長として、これに増す喜びはありません。


 もちろん、こちらとしては、本を買ってほしいわけで、そのために郵便振替用紙を同封したのだった。

 そういうこちらの意図は、「再度のお目文字」という言葉と、郵便振替用紙の現物でわかるはずだが、なんだか、心もとない。

 かといって、言わずもがなの「押し売り」的態度があらわになるのも、嫌だ。

 かっこをつけているわけではなく、「言わずもがない」のことを言っても無駄だろうと思うのだ。

 それで、いったんは上記の文章で、とりあえず百通近く投函したのだが、投函後、「郵便振替用紙を同封したが、後払いでも構わない」旨つけ加えたらいいのではないかというアイデアがひらめいた。

 そうなると、いてもたってもいられなくなって、翌朝、郵便を回収すべく、郵便回収にやってきた回収車の運転手に「回収したい」と言った。

 以前は、「ああいいよ」と簡単に戻してくれたのだが、それは過去のことらしく、郵便局の本局までとりにきてほしいとのこと。

 回収した郵便袋を覗き、「これですね!」と言っているのだが。

 ……業務規定ではしょうがない。

 場所を聞くと、「伊刈」という聞いたこともない場所だったが、グーグルで調べると、西川口の隣の蕨駅から、かなり遠い。

 遠くても、西川口駅よりだったらいいのだが、さらにそのひとつ先の南浦和の方角にある。

 しかし、「書き直したい」という意欲を止めることはできなかった。

 蕨駅に着いたのは、夕方の6時過ぎ。

 それでも、グーグルの簡単なマップをたよりに、歩き始めた。

 とりあえずは、芝中学とかいう学校の近くのようなので、人に聞くと、「ここからまっすぐ行くと、名前は知らないが、2キロくらい先に中学校みたいなのはあるね」という、心もとない返事。

 でも乗りかかった舟、泣きたい気持ちでズンズン歩いているうち、なんとなく目的に近づいたような気がしたので、子どもと一緒に遊んでいた若夫婦に「ここは伊刈ですか?」と聞くと、そうだという。

 やったね!

 9時までやってると言っていたが、その9時より一時間ほど早く、回収(郵便局内では「取り戻し」と呼んでいるのだそう)に成功、封を開けた上、下記の文章をつけ加えたのだった。

 念のため、郵便振替用紙も同封しましたが、代金は「中身を見て面白かったら」で構いませんので、下記まで、ご連絡ください。

 たったこれだけのために1万5000歩以上歩いた、そのアイデアとは、「代金は、中身を見て面白かったらで構いません」の一言だった。

 月光でも、実質、後払いだったのだが、「代金は、中身を見て面白かったら」の一言が抜けていた。

 というわけで、どなたでも、「代金は、中身を見て面白かったら」で構いませんので、よろしく!

写真の本質

2011-06-05 01:20:17 | Weblog
 「風に吹かれて」のブログを更新したので、よろしく。

 テーマは、「写真の本質としての写真のつまらなさ」について。

 これは、実際のところ、いろいろな言い方が可能だが、たとえば、「ある部屋の扉を開けたら、真っ暗だったので、灯りをつけたら、見えるようになった」――とも表現できる。

 写真(の在りよう)は、このたとえ話に近い。

 誰も「たとえ話」とは思わないかもしれないが、アリストテレス風に言えば、「光が部屋を透明にした結果、部屋が見えるようになった」のである。

 アリストテレスによれば、「光」は、それが照らすものに「透明性」という力を与えるのだ。

 写真は、普通、日常を写すものだが、アリストテレス風に言えば、写真自体が光源となって日常に透明性を与え、「日常」として照らし出すのだ。

 こうして写真に写された「日常」は、決してつまらないものではないが、あえて「つまらない」と言った方が、その本質をより正しく伝えることができるにちがいないと思ったのだ。

 なんだか、またしても、あえて話を長くしてしまったような気がするが、まあ、よろしく。