パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

お話し

2013-01-30 01:54:11 | Weblog
 どうしても書き込みが長過ぎくなってしまうので、短めに。

 「春闘」がはじまったそうで、NHKニュース(多分、テレ朝をはじめ、どの民放ニュースも同じだろうが)は、連合と経団連の交渉が始まったことを、報じていたが、連合曰く「デフレ脱却のためにも賃上げを」に対し、経団連曰く「いったん賃上げすると下げられないから、できる企業はボーナスで対処したい」。

 どちらの立場も私には関係ないのだが、「デフレ脱却のために賃上げを」というのは、共産党も、社民党も言っていたが、ぎりぎりかつかつで生活しているわけではない、既得権益を現に保有し、そのうま味を享受している正社員の給料が少し上がったところで、そのお金は「将来のため」に貯蓄されるか、ボーナスが増えても、ローン返済に回り、消費に回らないから、デフレ脱却なんてできるわけがないじゃないか。

 と、ぶつぶつ文句を言いながら見ていると、ニュースはその次に、65歳以上の社員が、退職せず、働きたいと希望した場合は、企業はそれを受け入れなければならないという法律ができるという話題に変わった。

 そして、そんな立場になるであろう、一人のベテラン技師が、永続勤務を申し出て、東北の被災地で電話線かなにかの補修作業を若手に教えている。

 教えられていた若手技師は「ありがたいです。勉強になります」と言っていたが、こんなシチュエーションを見て「いい話だなあ」と思う人は少なからずいると思うし、それにケチを付けるつもりもないけれど、こんな話で自分を慰めている限りは、それは「お話」で終わるよ、と言いたい。

 もちろん、それは最初から「お話し」なので、問題はそれに気づくこと、そして、そこから抜け出すことなのだ。


瓦の小判

2013-01-27 03:43:33 | Weblog
 Eテレで、日本の財政赤字の話題を、どこかの大学教授が旦那さん、女装した又吉がその奥さんというシチュエーションで解説していた。

 旦那さん(日本政府)が、奥さん(日本国民)に8000万円の借金をしているが、旦那さんの月収は90万円で、40万円を奥さんに毎月返済しているという説明で、今後奥さんは旦那さんを信用しますか、疑いますか、拒否しますかというのだ。

 以前は、日本の国民が、一人当たり200万円近い借金をしているという解説で、それに比べれば、家庭内の借金という説明に変えたのは(私は、右のポケットが左のポケットから借りているという説明の方がいいと思うが)、一歩前進なのか、と思ったが、教授の説明は聞けば聞くほど、わからなくなる。

 実際に、「借金」をしているのは、銀行であって、日本国民の資産1400兆円は、その借金の担保と説明した方がいいと思うが。

 具体的には国の「徴税権」を担保にしているのだそうだが、1400兆円の借金というと、借金というからには、全額返さなければならないように思うが、実際には利子を返せばよい。

 詳しいことはよくわからないのだが、アメリカで、額面1000億ドルとかのコインを発行し、それで「借金」の利子分を払うというアイデアが検討されたことがあったそうだ。

 これは、政府紙幣の発行は、議会の承認などが必要だが、反対勢力が多いので、それは無理、ということで、議会の承認が不必要な「コイン」の発行で対処しようというアイデアらしい。

 これは決していい加減なアイデアではなく、スティーグリッツ教授か誰か、有名な経済学者の提案のはず。

 スティーグリッツ教授は、安倍の前首相当時か、その後の福田首相当時かもしれないが、日本政府から相談を受けて「政府紙幣を発行しろ」と提案したそうだから、あり得る話だ。

 昔々、江戸時代に、小判を改鋳して金の品位を下げた小判を発行して幕府の財政危機を救った切れ者がいて、彼のおかげで空前の「元禄時代の繁栄」がもたらされたが、この男は、「金の小判でなく、瓦の小判だっていい」と言ってのけ、新井白石に憎まれて失脚した。

 日本のマスコミは、この新井白石のようなものだろう。

 マクロ経済学で言う「貨幣論」というのは、むずかしくて、よくわからず、直感で判断するしかないのだが、多分、私の言っていることはそんなにちがってはいないはずだ。
 

「持ち家政策」の破綻

2013-01-23 23:51:46 | Weblog
 教師や警官などの地方公務員の退職金が引き下げられるため、早期退職者が続出しているそうで、早期退職を申し出た本人が「退職金を住宅ローンに充てる予定だったので(早期退職を申し出た)。こんなことになるなんて、まったく思っていなかった」と言っていた。

 そう、これはある意味、いや明確に、自民党の「持ち家政策」が破綻したことを意味しているが、それを指摘する論者は、皆無だし、今後も、「皆無」だろう。

 それで、あえて書いておこうと思った次第。

 私が小学校時代、クラスの半分近くが警官の息子で、彼らは「官舎」に住んでいたが、訪ねると、びっくりするボロ家で、歩いていて、畳を床下まで踏み破ったことを覚えている。

 もちろん、地方公務員を含む公務員は「官舎=低所得者向け住宅」に住むべきだと言うつもりはない。

 いや、そう言ってもいいのかもしれない。

 何故なら、国家財政の赤字が1000兆円、地方財政の赤字が400兆円とか言われているのだから、彼らの給料が下がるのは当たり前だが、実際は下がっていない。

 国家公務員だけ、二年間の限定付きで、少しカットしたようだが、地方公務員は、公務員の猛反対でまったく実現していない。

 なんでか?

 主たる理由は、「ローンの返済に支障がある」、だろう。

 新自由主義の親玉、ミルトン・フリードマンが提唱した「定理」に「恒常所得定理」という定理があるそうで、これは、恒常的な所得は消費に向かうが、非恒常的な所得、つまりボーナスは直接消費には向かわない傾向があるという「定理」なのだそうだ。

 「定理」というと、ちょっと大げさだが、ボーナスや退職金をローン返済に充てるという人は多いだろう。

 「持ち家政策」は、要するに、借金を強要する政策だから、「破綻」はこういうかたちでやってくるのだ。

 ちなみにボーナス制度についてウィキで調べたら、欧米のボーナスは文字通りの例外的処置で、日本も戦前は似たようなものだったが、戦後、盆と正月に数ヶ月分の支給が定例になったのだそうだ。

 やはりこの制度は戦後日本の特徴で、それを高度成長期の「持ち家政策」に巧みに絡めたのだった。

 ちょっと話題が変わるが、ついでに書いておくと、マスコミ報道で、犠牲者、被害者がえらく美化されて報道されるのが非常に不思議で「社会部記者」のクセというか、そういう習慣になっているのだろうと思っていたが、労働政策の専門家、熊沢誠氏の「日本の企業は全人格評価を行う」という解説で合点がいった。

 アルジェリアで一人だけまだ行方不明の「日揮」の最高顧問を含め、全死亡者をマスコミは「素晴らしく有能な人たちだった」と、その「全人格」を賞賛するのだろうが、それは社員だった以上、人格高潔と認められていたので、死後もそういうことで通せば、自分たちの立場も守られるということで、そうしているという習慣と言えば習慣なのだろうが、なんたる習慣か!と思う。

 もしかしたら、最高顧問は赤軍派と関係があって、ゲリラを導入し、それで行方不明なのかもしれないじゃないか。

 

ローザ・ルクセンブルグの自由

2013-01-23 01:28:19 | Weblog
 前回、熊沢氏の発言に触れたのだが、もう一度「グラフィケーション」を読み直した結果、理解に大変にむずかしい話であることがわかった。で、もう一度。

 熊沢氏は、「個人主義」と「集団主義」の二様のイデオロギーを、「価値意識としての個人主義」と「価値意識としての集団主義」、「生活を守る手段としての個人主義」と「生活を守る手段としての集団主義」の四つにわけ、各国文化がどこに位置しているかで、その社会の様相を図ることができると考える。

 「価値意識としての個人主義」と「生活を守る手段としての個人主義」の二つのイデオロギーを信奉する社会は、欧米のホワイトカラー、専門職の社会で、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての集団主義」をイデオロギーにしているのが、欧米の労働者、ブルーカラーである。日本の炭坑労働者も、戦後の一時期まで、このイデオロギーを有していた。

 また、欧米における労働者の組織は、中世のギルドを範にしているので、失業者の状態を詳細に把握しているので、失業者が出ると、自分たちの仕事を少なくして、失業者を救うワークシェアの意識が古くからあり、それが可能でもあったと熊沢氏は言っていた。

 なるほど、勉強になります。

 一方、日本のホワイトカラー、つまりサラリーマンは、「価値意識」としては集団主義を、「生活を守る手段」としては個人主義な選択を迫られていると、熊沢氏は言う。

 この組み合わせでは、「生活を守る手段としての集団主義」と「価値意識としての個人主義」のイデオロギーからなる社会は、未だ世界に存在せず、熊沢氏はこれが自分の理想だという。

 理想的社民主義というか、である。

 と熊沢氏は大きな図式を描いていたが、実際にヨーロッパに進出した日本企業の雇用実態を調査に行って、日本の会社の雇用の実態が、「全人評価」にあることがわかったという。

 「全人評価」とは、要するに「全人格」を対象とする評価で、欧米では社員に対してこういう評価はしない。

 ブルーカラーが典型だが、会社は社員に自分の仕事、例えば製品をちゃんと、いくつ、つくることがでできるか、その「実績」を求めていて、彼らの「人的能力」には無関心だという。

 だから、労働者の方でも、一時間遅刻したら、一時間分、減給されて、当たり前だと思っている。

 逆に言うと、一時間分の減給を承知で、遅刻することもある。

 これを「ローザ・ルクセンブルグの自由」と言う(のだそうだ)。

 ローザは、第一次大戦後、活躍し、当局に惨殺されたドイツの女性のコミュニストで、彼女は「別の考え方をする自由」を主張したのだが、日本の会社は(社会は、といってもいいだろう)この「ローザ・ルクセンブルグの自由」ををもっとも警戒する(と熊沢氏は言う)。

 たとえば、自己都合で残業をしない場合、残業をしないこと自体より、個人的理由で残業を断ったことが問題にされる。

 これが、日本の会社が従業員を「全人格評価」とするということで、その結果、従業員は、「価値感」まで会社に依存することになる。

 しかし、価値感を会社にあずけながら、生活を守る手段としては「個人」におまかせというやり方は、社員にとって大変に厳しいライフスタイルだが、みんなの目標が、ちょっと腕をのばせば手に届く程度の消費材が目標だったら、それも可能で、それ故に「高度成長」も可能だったが、それが高度成長期以後、「希少財」にまで広がってしまった。

 「希少財」というのは、熊沢氏曰く、「土地付きの家」が主たるもので、これを「みんなが目指した」が、そもそも「土地付き住宅」は供給が限られているので、すべての人がそれを目標にヨーイドンで挑んだら「負け組」ばかりとなってしまうと熊沢氏は言うし、実際、その通りになったわけだ。

 そしてさらに問題なのは、「負け組」もテレビはもっているし、パソコンもあるし、その意味では昔とちがうわけだけれど、しかし、昔とちがって、日本では、「負け組」の名前がいみじくも示しているように、「全人格評価」の結果としての「負け組」なので、自分がそうであることは到底耐え難いものとなる。

 これが問題なのだ。

 ではどうしたらよいか。

 それは「生活を守るための手段」を個人ではなく、集団が所有すべく、政策を変えること、具体的には「持ち家政策」から「低所得者向けの公共住宅建設政策」に変えなければならない。

 大阪市の市バスの運転手の年収は「平均」で800万円以上あるそうだが、この年収でローンを組めば、相当豪華な家が持てるし、実際に持っているが、これが「持ち家政策」の成果だというのは、運転手でも豪華な家が持てると言いたかったのだろうが、なんか変である。

 このことは、きっちり民主党時代に認識していればよかったのだが、「不勉強」がたたって、政権から転がり落ち、住宅政策といえば「持ち家政策」しか念頭にない自民党に戻ってしまった。

 しかし「持ち家政策」が、高度成長期と同じように実施できるはずがないし、そのことは、あれだけ広大な土地をもつアメリカでさえ、サブプライムローンの破綻で不可能が証明された。

 しかし日本において、まずなすべきことは、そもそも「負け組」という名称が不当であること、すなわち「全人格評価」の過酷な不当性を、「ローザ・ルクセンブルグ的自由」すなわち「別の考え方をする自由」を通じて訴えることだろう。

 あるいは、「負け組」は実際は「負け組」なんかではなく、「負け組」がなければ「勝ち組」もないことを、例えばヘーゲルの「奴隷が奴隷主に勝る」とする「奴隷の弁証法」を駆使して、主張していけば、いい。

 なんといっても数的には「負け組」が絶対に多いのだから。


社会が悪い

2013-01-22 01:11:46 | Weblog
 桜宮高校の生徒がテレビカメラの前で話をしていたが、首から上はカット。

 顔を出して話さなければ何を言ってもダメだ。 

 顔を出したくない人は、発言権はない、とはっきりさせなければならない。

 それがイロハのイだと思う。

 個人情報保護法かなにかと関係しているのだろうか。

 誰も何も言わないのは異常だ。

 「顔を出したくない」のなら、出してもいい、という人を選んで取材すればいいではないか。

 それはさて、先日の広末保先生の発言は、「(今の江戸ブームは)石川淳的な抵抗がない。何に抵抗しようとして、近世をもう一度発掘しようとしているのか、それが見えない」という内容だった。

 なるほど、日本人が江戸を関わろうとするならば、外国人が江戸を鑑賞するようなエキゾチズムに堕してしまってはいけない、というわけだ。

 さすが、広末サン、深い。

 ところで、その「グラフィケーション」に、熊沢誠という社会学者が、対談だけれど、「なるほど」と思わせる発言をしていたので、紹介したい。

 日本人は集団主義と言われながら、生活を守る手段としての個人主義的傾向が深まるばかりで、「生活を守る」ことにみんなの合意がさっぱり成立しない。例えば(不況になった会社で)人員整理されずに残った者がサービス残業をしたりする。欧米ではこういう状況になったら、逆に残業をやめて、仲間の生活を守るために合意する。

 この発言は1990年頃、つまりバブルがはじけた頃で、今も事態はまったく変わっていないわけだが、変わっていないのは、デフレから脱却できないということももちろんなるけれど、特に大津波以降、「仲間」とか「絆」とか言いながら、実際は、個人の生活を守ることが最優先で、汚染処理さえできない有様だ。

 もちろん、熊沢先生が言われるように、欧米の労働者たちが、自主的にワークシェアを実施しているわけではないだろうが、でも労働者たちがそういう精神を共有していることは事実ではないかと思う。

 そういう精神をもっているのが「労働者」とい存在であるというか。

 だから、熊沢氏は、対談相手から、それは労働者であることを肯定し、満足してしまうのではないかみたいに突っ込まれ、自身も、「ジレンマであるのだけれど」と言い訳をしていたが、私は、言い訳を言う必要はないと思う。

 労働者は、ぶっちゃけて言えば「奴隷」であり、奴隷としての自覚があればこそ、自分たちの生きる権利を主張できるし、団結もできるのだと思うから。

 それはともかく、日本人が悪い意味で利己主義的、個人主義的であることは否めない事実なのだが、それは日本人が悪いのではない。

 日本の社会が悪い。

 というのは、最近、ブラック企業の告発者として有名になってきた今野晴貴氏に昨年末にインタビューしたのだが、そのとき今野氏が言うには、自分たちがやっているNPO法人が東北の被災地でも救援活動を行っているが、寄付金がなかなか集まらず、困っているが、何故か、海外の日本人からお金が寄せられるという。

 それで「日系人からですかか?」と聞いたらそうではなく、海外で働いている日本人だそうで、今野氏はとても不思議な顔をしていたが、私が思うに、「寄付をして仲間を助ける」という精神が、海外で暮らしていると自然に醸成されるのだろう。

 逆に言うと、日本は、「仲間を助ける」ことが、正面切ってはできない、そんな社会になってしまっていることになる。

 というわけで、もう一度言いたい。

 日本の社会が悪い。

イチャモン2 スポーツ中継編

2013-01-21 00:40:07 | Weblog
 町を歩いていたら、後ろから数人のおばさんが話をしながら歩いている、その話し声が聞こえてきた。」

 「サントリーと東芝で、最後にサントリーが逆転したのよ」とか「帝京がどうした」とかなんとか。

 ラグビーの話だ。

 ここのところ、ラグビーがけっこう面白いとは書いたことだが、ラグビーなんかに縁のなさそうなおばさんたちが……。

 卓球の全日本も面白かったし、ボクシングの内山の強さには仰天したし、オーストラリアオープンのテニス、錦織も強い。

 今、スペインの世界ナンバ-5、フェレーとやっている。

 結果はフェレーの勝利だったが、プレイの魅力は明らかに錦織の方が上で、観客の態度がそれを示している。

 四大大会で優勝するのも……まあ、これは「運」もあるので、なんとも言えないが、観客を沸かせるプレイをするという意味ではトップに伍していることはまちがいない。

 テニスで、日本選手が(というかアジア選手が)ここまでやるなんて本当に信じ難いことなのだが、日本のマスコミは「信じ難い」と思う感性を失っているとしか言えない。

 ラグビーの話をしながら歩いていたおばちゃん三人組にすっかり後れを取っているのだ。

 ……じゃあ、スポーツチャンネルと契約すればいいと言われるかもしれないが、私はスポーツ専門チャンネルで見たいとは思わない。

 一般テレビで一般大衆と一緒に楽しみたいのであって、マニアックなファンにはなりたくないのだ。

 まあ、これまで何度も言っていることだが。

 しかし、やってると言えば、絆で結ぶ「駅伝」とか、そんなのばかり。

 高校サッカーの決勝も、実況アナウンスは、監督の賞賛、応援団の賞賛ばかり。

 優勝監督は、いかにも「体罰指導」を日常的にやってそうな監督なのに。

 何故そう思うのか。

 この監督は、準決勝だったと思うが、フリーキックで、ゴールキーパーの視界を遮るように選手を座らせて並ばせるという、汚い手をやらせていた。

なんで「汚い」と思ったのかというと、ゴールキーパーは、前に並んでいる選手の「脚の間」からキッカー、およびボールを見て判断しているのだそうで、それをさせないように、敵チームの選手の脚の前に座rせたのだ。

 フリーキック自体は素晴らしいもので、決めた選手は小原とか言ったが、相当才能があると思ったが、「勝ち負け」にだけこだわった非常に後味の悪い光景で、以来、この高校、名前を言うと、宮崎の鵬翔という高校だが、「負けろ!」と思ってみていたら、残念、ペナルティーキック戦で優勝してしまった。
 
 またイチャモンに終始してしまった。

イチャモン

2013-01-19 22:07:12 | Weblog
 小谷野敦氏のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」は、しょっちゅうイチャモンをつけているブログだが、その「イチャモン」が時々かぶるので、チェックをしているのだが、今回は図書館の検索で「ニッポンをニホンを入れたら検索できなかった」みたいな「イチャモン」を図書館に電話をしたというものだった。

 私も「ニホン」と入力するのが常で、「二本」に変換されてイラっとくることがよくある。

 一方、「ニッポン」にすれば「日本」以外に変換されることないので、そうすればいいのだが、指先から「おまえは軽薄なナショナリストだな!」みたいなメッセージを感じるような気がするので、ニッポンで入力したことはほとんどない。

 小谷野氏の「イチャモン」も、結局、「ニッポン」に対する嫌悪があるので、ついイチャモンをつけたくなったということではないかと理解する。

 小谷野氏は他に禁煙運動が猛烈に嫌いなようで、反禁煙運動家としての資格を失いたくない、ただそれだけのために喫煙をしているのではないかとも思うときがあるのだが、2、3日前、新宿の南口の近くのビルの陰で、二人の若者が煙草を吸っていたら、「路上喫煙監視中」みたいな腕章をつけた二人の老人が若者にツツツと歩み寄った。

 若者は「あ、どうも」みたいな様子で、素直に火を消していたが、もし、これが小谷野氏だったらどうなっただろうと想像しておかしくなったが、しかし、「路上喫煙禁止」とはどういうことなんだい。

 どこかの外人さんが、「我が国では、禁煙の建物、施設がどんどん増えていて、喫煙者は路上に出て喫煙をしている。禁煙の建物、施設が少ない日本で、路上喫煙が禁止になったら、愛煙家はどこで煙草を吸ったらいいのか。順番が逆ではないのか」と言っていた。

 これは、もう4、5年前のことで、今は禁煙の建物、施設は格段に増えているだろうが、「順番が逆」なことは仰せの通り。

 しかし、小谷野氏は文筆家だから、「看護士」にも文句を言えばいいのに、目にしたことはない。

 看護士は、男性、看護婦は女性にすればいいはず。

 つい昨日だったか、看護士が看護対象の老人を殺害したというニュースがあり、男性の看護士が力任せに殴ったりなんかしたのだろうかと思ったら、逮捕されたのは20歳くらいの若い女性だった。

 テレビニュースで、連行される模様が写っていたから、犯人が女性だと分かったけれど、新聞だったら性別が全くわからない可能性がある。

 「殺人事件があったという事実を報道すればいいので、犯人が男性か女性かは本質ではない」なんてことは断じてないだろう。

 前から言っているのだけれど、日本語には男性名詞、女性名詞の別がないので(中国語も同じみたいだが)、看護婦なら看護婦と「婦」をつける必要があるから、そうしていたのだ。

 男性の看護業そのものが昔は少なくて、患者が暴れたりする精神病院などに「看護人」として雇われていたように記憶しているが、ともかく、看護婦が登場する小説なんかは少なくないはずで、小説家の皆さんはどうしているのだろう。

 看護士(女)とか?

 そうかと思うと、年齢は、不要と思えるところにもしつこくこだわる。

 中国では、兄弟の年齢順は一郎、二郎、三郎という風に呼んでいるそうだ。(「水滸伝」を読むと、たしかにそうなっている)

 これは、英語で、エルダーとかヤンガーと呼んで、年齢の上下を説明するのと同じやり方かもしれない。

 実際、英語では、小説で兄弟、あるいは姉妹の区別を付けることはほとんどなく、翻訳者が困って、作者に聞いたら「そんなこと、考えもしなかった」と驚かれたとか。

 日常生活では「名前」で呼ぶので、エルダーとかヤンガーと言って、年齢順を明らかにすることは、必要ならするだろうが、そんな説明はかえって不自然ということなのだろう。

 金原ひとみのお父さんの翻訳家、金原端人さんの話だ。

 

忘れろ!

2013-01-19 01:06:12 | Weblog
 案の定、というか、Gメールに変更した途端、gooのメールが正常に動くようになった。

 もっとも、これもメールを変更しないと、「直る」なんてことはないわけだし、痛し痒し……という問題ではないが、そう思いたくなる。

 それはさて、昨日(17日)は、阪神大震災の起きた日で、「防災の日」かなにかに指定されているのだそうだが、3.11は、何の日になるのか。

 「津波の日」とか?

 そんな機運が全くないのは、「記念日」とやらが、いかに欺瞞的な習慣であるか、みんなわかっているその証拠に違いない。

 「サラダ記念日」が、日常の欺瞞をついた批判の言説に違いない……とは全く思わない。

 ともかく、またしても,「忘れてはならない」の大合唱。

 これまで何度も書いているが、こういう天変地異による被害を「忘れてはならない」のは、防災にあたり、責任を有する政治家、官僚、そしてマスコミ・知識人も含めていいと思うのだが、いわゆる専門家で、一般人は一刻も早く「忘れ」て、日常生活に復帰するべきなのだ。

 今回は原発事故が併発し、「原子力村」の専門家たちが責任を問われたのだったが、もはや彼らには責任を任せておくわけにはいかない、一般人が責任を持つしかないから、そのためにも決して「忘れてはならない」と言っているのか?

 まさか!である。

 そんな理屈をこねなくても、ちょっと前までは、こういう事態に立ち至ったときには、「風と共に去りぬ」のスカーレットのように「明日は明日の風が吹く」とつぶやくしかないし、映画だけでなく,実際にそういう風に言ったものだと思うのだが、一体いつの頃からこんな変なことになってしまったのか。

 それははっきりしていて、「戦後ずっと」と言えばそうなのだけれど、特にマスコミが一様にバカになったのは、バブルが崩壊した1990年あたりからだと思う。

 その1990年頃の「グラフィケーション」のバックナンバーをチェックしていて、広末保という、江戸期の「悪場所」と歌舞伎の関係、特に鶴屋南北の研究で有名な人が、当時巻き起こっていた江戸ブームについて言及していて、それがおもしろかった。

 特に,石川淳について、石川淳は江戸に題材をとった作品を多く書いているが,それは江戸に抵抗しつつ書いている(どんな風な発言だったか、正確に覚えていないのだが、たぶん「批判精神をもって書く」といったような意味で「抵抗」という言葉を使っていたと思う)。しかし、今の江戸ブームにはそんな精神はまったくなく……云々と。

 この後、間もなく、広末さんは亡くなったのだけれど、「江戸ブーム」は、そういえばあの頃にもあったのだなと思いつつ、以来20年、「一つになる」の合い言葉で、時を越え、江戸とも一つになって頑張ろうと言わんがごときご時世に、広末氏の懸念がそのまま事実になった世相のような気がしてならない。

 毎度毎度同じ書き込みになってしまったが、神戸大震災記念日で、またしても「忘れるな」を、街頭インタビューのかたちで言わせているので、また書きたくなってしまった。

 マスコミが、自分で言わずに一般人に「言わせている」のが卑怯だ。


大島渚死す

2013-01-16 23:46:04 | Weblog
 今,坂本龍一のEテレの番組、「スコラ」を見ながら書いているのだが、映画音楽をやっていて、なかなかおもしろいのだが、劇場映画の発明者、リュミエール兄弟は案外長生きしていて、一人は、なんと1954年に死んでいる。

 私は映画の発明者と,ある時期,ともに生きていたわけだ。

 「近代」とは,ずいぶん身近なものだったのだな、と思う。

 映画と言えば、大島渚死す。

 昔、「戦場のメリークリスマス」でインタビューを申し込んだら,けっこう気楽にオーケーしてくれた。

 「朝生」のはじまるずっと前だったが、その頃から「強面」、「頑固」、「おっかなそう」という印象があったのに,実際は優しい、分け隔てのない、好奇心のあふれた人で、彼の作品は、大概見ている。

 チンパンジーを愛する女の話(ヨーロッパでつくった映画)まで見ている。

 外国でも,けっこう大きく報じられているようだが、いわく「日本の伝統に抵抗した」と紹介されているようだ。

 まったく今の日本映画、というか日本全体に欠けているのは、まさに「伝統に反抗する果敢な意識」なのだ。

 それなしに「前進」なんてないのに、全部、八方美人でやろうとしている。

 前進も,進歩もなくてもいい、現状を維持できれば、と考えている人も多いと思うが、「現状維持」は実際は「退歩」につながり、それは滅亡につながる。

 デフレがまずいのも,結局それで。

 大島渚は、「愛の渇き」を見逃しているのがちょっと残念。


カラヤン風

2013-01-14 13:12:51 | Weblog
 一応リンクしてはいるのだが、フェイスブックの使い方が、いまいちわからないし、ツイッターの使い方はもっとわからない。

 ツイッターで、ちょっと書き込む、とか、そんな心理になることはしょっちゅうあるので、そのときはツイッターにと思ってログインを試みるのだが、パスワードを忘れたらしくて、ログインできない。

 広範囲に大災害が襲って、具体的に、今自分のいるところ、あるいは、自分が行こうとしているところの状況がどうなっているか、当然、新聞を見ても新聞は「昨日の出来事」しか書いてないし、テレビもラジオも、文字通り五十歩百歩だろう。

 そういうときにツイッターは効果を発揮するのだそうだが、たとえば「○○町」で検索して、自分の求める話題を探すのだろうか?

 ツイッターの画面を見てもそんな箇所はないみたいだし、みんなどうやっているのだろう。

 みんなのツイートを「何言ってんだ」とか「うん、同意だ」とかつぶやきながら見ていて、突如、自分の興味をもっていることに出くわして……ということなのだろうか?

 私の情報というのは、ほとんどすべてそういうかたちで得たものなのだが、緊急災害時などにはそれではまずいだろう。

 で、「第17捕虜収容所」も、そういうかたちで得た経験で、自分が望んで得た経験ではないことが決定的に大事なのだ。

 2chの書き込みも、そういうかたちで、利用しているわけだが、ツイッターはどうなのだろう。

 基本的には、ツイッターもそういうメディアであろうと予想しているのだが、みんなの利用の仕方はどうもそうではなく、もっと情報をピンポイントで探すことのできるメディアのようである。

 「自分が望んで得た情報」には価値がなく、「望まずに得た情報」に価値を見いだす私のようなタイプはあんまりいないと思うが、昨日、Eテレの「プレゼンテーション」で、実に貴重な「望まずに得た情報」を見つけた。

 それは、クラシックのオーケストラの指揮者がどんな役割を果たしているのかを、現役の指揮者なのか、あるいは評論家なのか、正体はわからないのだが、むさ苦しい格好をしたオッサンが解説していて、それがおもしろい、おもしろい。

 特にびっくりしたのは、数百人いる客席に向かって、オーケストラの団員になったつもりで、拍手をしてほしい。それを私が誰某流の指揮と、カラヤン風の指揮の二通りで指揮をしてみるといって、実際にやってみたのである。

 指揮者は二人で、一人は誰某(名前は誰だったか忘れたが、多分有名な指揮者なのだろう)の極めて明快、厳格な指揮で、客席の拍手を指揮した。

 拍手は、たったの一回だけ、「パンッ」で終わるのだが、ん、なるほどと思った。

 驚いたのは、「では次はカラヤン風で」と言って、指揮をしたのだが、びっくり!

 まるでちがう!

 カラヤン風に指揮をした「拍手」は、まさにカラヤン風で、実に曖昧でもやもやしていて、前の誰某流とちがい、まるでまとまりがないが、でも妙に説得力があるし、これで数回練習すれば、立派なカラヤン風拍手が完成するだろう、そういう拍手だった。

 私は数年前からクラシックをよく聴くのだけれど、知識は全然ない。

 ただ、カラヤンの指揮は、好き嫌いは別として、他の人とまるでちがうことに驚く。

 そういうわけで、私にはカラヤンと他の指揮者くらいしか「ちがい」はよくわからないが。

 そういえば、バーンスタインの「カルメン」が、まったくちがっていて、びっくりしたこもある。

 ともかく、なんであんなに指揮者でちがうのだろう?

 それは結局、指揮者に就任して何ヶ月間も練習を指揮し、そうして自分の望む音を引き出しているのだろう。

 と思ったのだが、例えばカラヤンが一躍脚光を浴びたのは、前任者の急病かなにかの突然の代役で指揮棒を振るい、それで世間を驚かせたということで、だとしたら、指揮の結果は「数ヶ月」などではなく、「一回」だけで、全然ちがってくるようだ。

 しかし、そんなことがなんで可能なのだろう?

 これが大きな疑問だったのだが、それが「拍手の指揮」で解けた。

 室内楽には指揮者はいないが、それは「一本締め」「三本締め」のようなもので、演奏者が皆、どういう風にまとめるか、知っているからそのようにまとまるので、「一本締め」の習慣を知らない外国人に「一本締め」をやってもらおうとしたら、指揮者が必要になってくる。

 しかし、Eテレの日本人司会者は、この「指揮者の役割」を、企業トップのあるべき姿として大いに参考になるとか言っていたが、このアホ!と思った。

 大体、カラヤンの指揮する会社組織なんかがあったら、曖昧模糊として、実に怪しげだし、バーンスタインが指揮をしたら・・・いや、結構、面白い喩えだな。