パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

社保庁電算室の怪

2007-06-30 23:21:38 | Weblog
 『朝まで生テレビ』を見る。もちろん、「年金」問題がテーマだが、終始データ紛失問題ばかり。おまけに、民主党は、年金については、民主党は、「国民年金の代りに基礎年金を創設し、財源は税金で」が持論だったはずだが、今回は、未だに選挙公約ができていないんだそうで、実際、その「かつての持論」への言及は一切なし。選挙本番までは、党内分裂を引き起こしかねない問題には目をつむり、「データ紛失」の不手際のみを集中的に責めることにしたのだろうかと勘繰ってしまう。(亀井静香の「国民新党」は「基礎年金は税金で」という選挙公約を決めたらしいので、ここにするかなあとも思う……フジモリ元大統領を担ぎ出したり、なかなか面白い)

 ところで、この『朝まで生テレビ』に、民主VS自民の行司格で出演していた江田議員が、今回のトラブルは社保庁の電算システムが絶望的に古く、外とつながることが出来ないことが原因であると言っていた。なおかつ、社保庁には、その古い電算システムを管理できるエンジニアすら、一人もいない。すべて、外注先に「お任せ」してきたからである。だから、安部首相が「1年以内にデータ修正を終える」と発言したが、そのために、どれくらいの時間、費用がかかるか、「誰もわかってない」のだそうだ。

 この江田氏の言う、「昔のシステム」が具体的にどんなものか、よくわからなかったが、察するに、かつてのワープロシステムみたいなものだろうか。

 というのは、もう、十数年以上昔の話だが、『月光』の編集室にはパソコンはなく、文字データ入力用のリコーのワープロが編集部員の数に合わせ、数台置いてあった。しかし、はじめの頃は、今で言う「データ入力」なんかではなく、「手書きの代り」に過ぎず、ワープロ文書を写植屋に渡し、それをオペレーターが手打ちの写植機に向かって入力していた。つまり、手書き原稿より見易いというのが導入の主な理由だったのだが、そのうち、肉体的にも手書きよりずっと楽に入力できるようになった。

 その後、各写植屋に電算写植機が導入され、それに伴い、ワープロで入力した文字データを電算写植機でも使えるように、今のHTML言語のようにワープロデータを書き換えることが写植屋の主な仕事となった。

 そして、その次に、ワープロ機械はDTP(デスクトップパブリッシング)に特化したDTPワープロに移行する。これは、要するに「高機能ワープロの一種」で、メーカーとしては、キャノンとフジが有名だった。

 実はこの当時、既にアップルコンピュータと、アップル用のDTPソフト(クォークエクスプレス)は売り出されていたのだが、アップルコンピュータとソフトを両方買うと百万円以上した。一方、DTPワープロ(要するにDTPに特化したパソコンということだが)の場合、独自開発のDTPソフトが組み込まれていたので、アップルコンピュータ+ソフトに比べて半額に近かったのである。

 それに、当時は、まだインターネットなんてなかった……と思う。あったのは、ニフティなどのパソコン通信(実は、いまだにインターネットとパソコン通信の違いがはっきりわかっていないのだが)程度でしかなく、またDTPワープロのメーカー(キャノン)のセールスマンに、アップルを買っても、DTP以外の機能を使いこなすのは無理ですと言われ、それもそうだろうとしたがったのだった。(このキャノンのセールスエンジニアの忠告は、今、世界中のパソコンオーナーが、自分のパソコンの機能をどれくらい使っているかを考えると一理あるとは思う。しかし、それでもなおかつ、彼の言い分は淘汰されざるを得なかった。たとえば、彼の言うには、DTPソフトの開発は、クォークより自分達のほうが早いということだった。それはそうかもしれないのだが、キャノンには、それをオープンメディアとして開発するような、将来に向け開いた発想がほとんどなかったことが致命的だったのだと思う)

 しかし、この頃の南原企画のDTPワープロの使用方法はかなり変則的で、DTPワープロで作ったデータを家庭用プリンターで普通紙に出力し、それをそのまま版下として印刷屋に渡していたのである。それに、キャノンのDTPワープロで作ったデータを使うことのできる印刷屋は、ないことはないが、少なかった。このことで、DTPに関してはキャノンはアップルに敗北していたことははっきりしていたのだが、それはさておき、家庭用プリンターで作った版下は、品質的には専門機械である電算写植で作った版下より数段劣るのだが、金銭的に「背に腹は代えられない」ということで、アップルコンピュータ+ソフトシステムの価格が下がって、アップルシステムに切り替えてからも、かなり長い間、このやりかたでやってきた。しかし、今では、CTP印刷というパソコンデータを直接印刷する新しいシステムが普及したので、二年ほど前からこれを使うようになって、現在に至る。

 ……というわけなのだが、江田氏の言う、「社保庁のひどく古い電算システム」とは、察するに、我々が、「DTPに特化した単能パソコン」か、あるいはその前の、「ワープロ」を使っていた時代のどちらかみたいなことだったのだろうか。
 だとしたら、その頃、我々は、データを外(印刷屋)に持ち出す(変換する)ために1文書についきいくらいくら……といった感じで金を払っていたのだが……そもそも社保庁の場合、独自にデータを作っちゃったのだろうから、「変換ソフト」なんかあるはずがない。

 う~ん、こりゃたいへんだ。


『椿三十郎』は、なぜ面白いか(黒沢清)

2007-06-29 21:49:17 | Weblog
 NHKのテレビニュースの音声がラジカセから流れているが……日本米の中国初輸出の式典に安部首相までも出席して祝辞を述べている。いわく、「歴史的第1歩」だそうだ。なんで? 自殺した松岡前農相も日本米の対中輸出には相当執念を燃やしていたらしいが、その「熱意」の由来が全然わからない。
 ついでに言うと、日本の男には、中国に行って買春するやつがいまだに多いらしいが、そんなことをする連中の気持ちが全然わからない。「中国女ほど始末の悪いものはない」と、中国人(男)自身が言っているのに。「売春婦には売春婦として扱うだけさ」と言うかもしれないが、でも、その心の奥底には、「高尾太夫」を期待する心がきっとあるにちがいない。まして、中国人は、表面的にはひどく愛想がいいから、それにおだてられて武装解除してしまうのだろうが、いったい、何本、ケツの毛を引っこ抜かれたら彼らの本質(エゴイスティックな「打算」と、それに由来する「猜疑心」)に気づくのだろう。いや、いい加減、少しは気づいていると思うのだが、まさか、彼らの打算に、「誠」で応じようとしていやいまいか。だとしたら、打算と猜疑には、同じく「打算と猜疑」で応じる他ないのだと言いたい。

 ところで、「中国女」と言えば、映画『中国女』のゴダールで、ゴダールと言えば黒沢清なんだが(強引……)、その黒沢清の著書、『映像のカリスマ』から。

 『映像のカリスマ』は、本屋で何度か立ち読みした挙げ句、半年ほど前に意を決して買ったのだが、奥付を見たら1992年初版だった。15年間、初版のまま本屋に置いてあったか、取次ぎ、版元の間をループ状に往復していたのだ。名著だと思うのだが、黒沢清も大変だなあ……。

 それはさておき、この中で、黒沢は、黒澤明の『椿三十郎』の面白さについて書いていて、なるほどと思ったので、それについて少し書いてみたい。

 そもそも、『椿三十郎』は、同じ黒澤の『用心棒』の続編で、主人公の浪人、椿三十郎は、『用心棒』の桑畑三十郎と同一人物であるということはお日さまが東から上がるくらいにはっきりしているのだが、黒沢清曰く、椿三十郎の映画的アイデンティティ(こんな野暮ったい言葉を使っているわけではないが)は、『用心棒』の桑畑三十郎に預けっきりで、『椿三十郎』の三十郎は、いわば桑畑三十郎の抜け殻でしかない。
 その抜け殻三十郎が、上州の宿場町から、どこぞの侍屋敷が軒を列ねる町にやってきて、お家騒動に首を突っ込む。しかし、三十郎は「抜け殻」なのだから、主体的意志はない。そんなんで「ドラマ」は成立するのだろうか?

 案の定、一般に言う「ドラマ」と言えるようなものは何もない。ないないづくした。

 《主人公三船のムンとした態度の裏には背負った暗い過去へのニヒリズムがあるわけでもなく、若者達に有無を言わせぬ神秘名力を持っているのでもなく、周囲に「あれはあの人の癖なんだ」とだけ言わせて、それでおしまい。……加山雄三は三船に一目置いているのだが、この若者が三船に共感するドラマも皆無だ。……悪役仲代に同志を無惨に殺され遂に人々は決起するといった誰でも採用したくなるエピソードもなし。おまけにだ。バストショットはあってもクローズアップはなく、フルショットはあってもロングショットはない。皆さんはいったい、黒澤明の映画にとうとう一度も地平線が出て来なかったと言って、信じられます?》(『映像のカリスマ』)

 「地平線」に関しては、ラスト近く、仲代と三船の決闘シーンの直前にあったような気がするが、それはそれとして、『椿三十郎』が「ないないづくし」の映画であるという黒沢清の見立ては、なるほどそうにちがいない、と思う。

 しかも――ここが肝心なのだが――それにも関わらず、『椿三十郎』は面白い。

 何故面白いのか――これが、『椿三十郎』について考えるべきことの肝心の、そのまた肝心のことということになるわけだが、黒沢清は、それを、椿三十郎が、「ただただ、やたらめっぽうに《強い》」ところにあると言う。まるでターミネーターのように、いや、ターミネーター以上にターミネーターだ。しかも、この《強さ》を「正当化する感情的な、或いは説話的な理由は、何度も言うが、どこにもないのだ」と。(だから、ターミネーターなのだが)

 なるほどねー、私も、何故、『椿三十郎』が「面白い」のか、見ていて文句なしに「面白い」(時々、あえて『用心棒』より面白いとか、ひねくれて言ってみたくなったり)のに、その面白さの理由がわからないで困って(?)いたのだが、そういうことだったのか、と納得しつつ、でも本当の事を言えば、椿三十郎が強いのは、彼がイコール桑畑三十郎だからでしょ、それはわかっているはずでしょ、とまぜっかえしたくなる。

 つまり、要するに、『椿三十郎』は、画面の外に「物語」の根拠を持つ、一種の「楽屋落ち映画」なのだが、これは、物語映画の物語性を危うくするものではなく、それどころか、物語を支える本質=土台と考えるべきなのだ……でしょ? 黒沢先生。

 ところで、『映像のカリスマ』に収められている最初期の論文二つの初出誌が「緑光水」(1979、80年)となっていたが、「緑光水」って、買ったことがある。自主製作映画サークルが出した、せいぜい十数ページのガリ版刷りか、ボールペン原稿のコピー本で、ラムネ瓶のコピー映像をイラスト化して表紙にしてあったと記憶している。
 半ば、「緑光水」というノスタルジックなタイトルに引かれて買ったのだが、中を読んではいない。しかし捨てた記憶もない……いや怪しいなあ……まあ、もし見つかったら表紙だけでもアップします。

銛と焼き鏝

2007-06-27 23:00:17 | Weblog
 アメリカ議会の下院外交委員会で、従軍慰安婦に対して、日本政府の公式謝罪を求める議案が可決されたそうで、2chで大騒ぎである。
 しかし、議案が提出される以前にくらべると、意外に、提出されて可決された後のほうがなんとなく腰の座った議論がなされているような印象があった。アメリカと戦争だ!なんて極論は別として、ともかく「現実」が出ちゃったので、それをもとに考えようということなのだろうか。

 しかし、「公式謝罪せよ」ったって、ブッシュ×安部会談における安部の「謝罪」とブッシュの「受け入れ」発言との整合性はどうなってるんだろう。議会は議会、行政は行政ということなのだろうが……しかし、日米同盟がアメリカの世界戦略の大きな柱であることは、議会も当然わかっているはずで、実際、謝罪要求決議も、当初案から修正されて、「もし日本が慰安婦たちに公式に謝罪すれば、日本は、環境問題等においてこれまで世界に貢献して来た実績に鑑み、さらに尊敬されるであろう」といったニュアンスになっている。

 でも、だったらブッシュ×安部会談後の安部の謝罪発言がまさにそういう観点からなされたものであり、そして、それをブッシュが受け入れたという構図のはずなのだが……。

 同決議案は、これから本会議で議決されるかどうかが問題らしいが、日本における世論の動揺がアメリカに伝われば、議決はなされないような気もする。いくら下院の議決に拘束力がないといっても、日本人はナイーブだし、下手したらとんでもないことになるかも、という懸念がブレーキになるかもしれないからだ。

 そのためにも、我々日本人は、映画『チート』における早川雪舟のように、「白人に対してサディスティックな復讐心を抱く残忍な黄色民族」として見られる可能性が常にあるのだということを肝に命じて、そうならないように、慎重に行動する必要があるだろう。

 具体的に言うと、「鯨」だ。伝え聞くところによると、日本人の鯨食習慣は、今や、南部アフリカの処女割礼と並ぶ、世界に残された「2大蛮行」なのだそうである。
 ちなみに、つい2、3ヶ月前、ロンドンのテームズ川に鯨が入り込んで大騒ぎになったようだが、これは世界中に発信された大ニュースだったのだが、日本だけは、ほとんど報じなかった。それで、欧米の特派員は、日本でニュースに《ならなかったこと》をニュースとして発信したのだそうである。

 鯨を撃つ銛は、今や、『チート』の焼き鏝以上に、日本人の残忍さのシンボルとして世界に流通しているのだ。

 私は、早稲田大学の学生会館の並びにあった定食屋の鯨肉定食が大好きだったが、それが食べられるなくなってしまったのも、「世界の潮流」を見誤った日本の役人のせいだと思う。最初から、規制に積極的に協力していれば、今頃は、一定量を確保できたにちがいないと私は思う。

 もちろん、絶対そうにちがいないとまでは言えないが、でも、日本の水産庁の「捕鯨」に対する執着に対して、欧米人が言う、「日本の水産業にとって、捕鯨業はそんなに大切なのか?」という疑問は、全面的に認めざるを得ない。捕鯨を全面中止したって、日本経済に何の影響もない。

 慰安婦問題についても、欧米人の「何故日本人は過去の事実を認めないのか」という言い方は、「捕鯨になんでこだわるのかわかりませ~ん」と似ているように思うが、慰安婦問題については、当初、犬殺しが野良犬を捕まえるように、「強制的」に女をつかまえたというニュアンスで非難しながら、そんなことはなかったと反論されると「広い意味で」と言い換えても自身の意見に執着する、日本の一部学者、マスコミの視野の狭い……ナニ根性といっていいか、すぐには思いつかないが、その根性が気に食わないのだ。

『散り行く花』と『チート』

2007-06-26 22:35:22 | Weblog
 『赤い惑星の少年』は残り2時間で、依然、1300円のままだ。オークションは最後の1分でどどどっと上がるから、まだわからないが、別に「貴重本」というわけではないから、こんなものかも。

 実は、手元に子供の頃によく読んだ、『ほら男爵の冒険』と、ジャック・ロンドンの『白い牙』、それにルゥイズ夫人の『揚子江の少年』がある。子供向けだが、いずれも箱入りだったり、箱入りではなくてもしっかりとした上製本だ。これらは、改めて読み直すこともないだろうし、出品すれば、1000円くらいにはなるだろうが、ちょっと出す気になれない。読まなくても、なでていたい。

 で、出すとしたら……鈴々舎馬風の自伝、『会長への道』がもし出品されたいたら、それは私が出したと思って下さい。本人筆の馬の絵が見返しに描かれている。馬風、けっこううまいw

 ところで、アメリカ女性が描いた、中国を舞台とする小説というと、パール・バックの『大地』が有名だが、『揚子江の少年』を書いたルゥイズ夫人もアメリカ人で、しかも『大地』とほぼ同時(『大地』が1931年、『揚子江の少年』が、1年後の1932年)に出版されている。パール・バックは両親がプロテスタントの牧師で、ルゥイズ夫人は夫が牧師と経歴も似通っている。

 1931年と言えば、満州事変が勃発した年だ。『揚子江の少年』は、『大地』ほど有名ではないが、『大地』に負けぬ名作、傑作で、アメリカ人の中国人への同情心を大いにかきたてたのである。
 しかも、その10年ほど前に、『国民の創生』『イントレランス』の映画史上の巨人、グリフィスが、映画的完成度としては彼の最高傑作と言われている、『散り行く花』を発表(1919年)していて、これが、白人の美少女と中国人の青年の恋愛物語り。

 一方、日本はというと、『散り行く花』のさらに前にあたるが、セシル・B・デミル監督、早川雪舟主演の『チート』が大ヒットしている。

 雪舟は『チート』の大成功で、映画史上もっとも早期のスターの一人ということになっている。いや、実際そのとおりなのだが、『チート』という題名が「騙す」を意味しているように、内容は、雪舟扮する、日本からやって来た悪徳実業家が、アメリカ人女性をものにしようと、彼女の裸の背中に「焼き印」を押し付けるというもので、当時の日本人は、「日本に、焼き印を押し付ける風習なんかない」と怒って、ついに日本で公開されることはなかったといういわくつきの作品であった。

 一方、『散り行く花』はというと、粗暴な義父に虐待される薄幸の美少女を『国民の創生』で、野蛮な黒人の餌食になりかかったリリアン・ギッシュが演じ、その彼女を愛し、父親の虐待から助けようとする中国人は、アメリカに仏教を伝えようとやってきたものの、挫折して雑貨屋を営んでいるという設定で(中国は仏教国ではないんだけどねえ……)、これを演じたのは、顔の皮を後ろで引っ張って「中国人」風にメイクしたR・バーセルメスという白人役者。
 バーセルメスはこの後も活躍し、アメリカのヤングスターの典型を作ったそうなのだが……この「ちがい」はなんだ!?

 白人女性に欲情して、焼き印を押す悪い日本人は日本人自身が演じて、白人美少女と愛し愛され、最後に死を共にする中国人は、白人のアメリカ人が演じる。

 要するに、アメリカ人自身が見たいものが「それ」だったということなのだろうが……。

 だとしたら、これに対して、日本人は牧畜なんてやらないから、自分がモノにした女に「焼き印」を押すなんて発想そのものからしてあり得ない、いや、その前に、前のブログにも書いたように、日本人の男は、有色人としては例外的に、白人女性に特別の価値を見い出すという習慣はない等々、抗議してみたってしょうがないのだが、でも、日本人がそんな風に思われ、一方、中国人はアメリカ人にとって、どんなに毒入りメイド・イン・チャイナ製品で世界に害をまき散らしていても、いや、まき散らせばまき散らすほど、「崇高なプロテスタント精神」を喚起させられ、その害毒の中から「救わなければならない」対象として映るのだということを承知しておく必要はあるだろう。

 『赤い惑星の少年』の落札価格は1600円でした。

ある「再会」

2007-06-25 22:14:54 | Weblog
 ヤフオクにクーラーを出品したついでに、不要の本、雑誌も出品してみようと思ったが、その前に、今現在、どんなものが出品され、どんな値段がついているのか調べてみようと、つないでみたら、いきなり、R・ハインラインの『赤い惑星の少年』の表紙が目に飛び込んで来た。

 ハインラインの『赤い惑星の少年』は、SFが苦手の私が、唯一、夢中になって読んだSF本で、特に記憶に残っているのは、小松崎茂が描いた表紙で、潜水服のような宇宙服に身を包んだ主人公の少年が、後の日本アニメに出て来るような、球形のペットロボットを抱えている。ヤフオクに出品されていたものは、まさにこれであった。講談社、昭和31年刊、少年少女世界科学冒険全集第7巻だそうだ。……びっくりした。
 もっとも、「見たらびっくりするであろうもの」は、『赤い惑星の少年』の他にもいくらでもあるわけだから、今回、別に何か異様なことが起きたわけでもないのだが……でも、数千になるであろう出品物一覧のトップに現れると、やっぱり、ちょっと特別な気分になる。

 残り一日で、入札者3人、1300円の値がついていたが、最終的には、1800円くらいか。明日、落札値段を確かめてみることにしょう。

昨日の続き

2007-06-24 20:54:16 | Weblog
 ここ数日、沖縄戦における住民自決に関する教科書記述変更問題が頻繁に取り上げられているが、何故かと思っていたら、昨日が、その沖縄戦の終わった日にあたっていたらしい。

 そんなニュースの一つだが、沖縄の県議会のメンバーが文部省を訪れて、《「集団自決が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」とし、「筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない」と批判。沖縄戦の実態を正しく伝え、戦争を再び起こさないため、文科省が検定意見を撤回し、記述の回復を速やかに行うよう求め》たんだそうである。(以上、読売)

 待てよ……教科書の記述が具体的にどう変わったのか、どこかのサイトで読んだのだが、新しい記述でも、日本軍の《関与》を否定してはいなかったのではないか。そう思って、もう一度、確かめようと探したが、見つからない。それで、私の脳みそをほじくり返すしかないのだが、文部省の検定官は、「日本軍の命令」とあったのを否定したのであって、広義の意味での、「日本軍の関与」を否定してはいなかったように思う……。記憶を呼び起こすとという程以前の話ではないが、「日本軍の命令で集団自決や住民同士の殺しあいが行われた」という記述が、「日本軍のもと、多くの沖縄住民が集団自決が起こった」と変更になったのではないかと思う。(正確には、「日本軍の徹底抗戦の方針のもと」といった文言が入るべきだが、それはなかったと記憶している)

 ところで、今、文部省に抗議している連中は、「日本軍の強制」の有無からスライドして、「日本軍のもと云々」に焦点を絞り、これでは日本軍と集団自決の関係が曖昧でよくないと、主張しているのだが、しかし、沖縄県議会の件の文書自体、「日本軍の強制なしには起こり得なかった」ではなく、「日本軍の関与なしには」と、なっているのだが……? 「日本軍のもと」と「日本軍の強制」の中間が、「日本軍の関与」ということなのだろうか。(ここらへんの駆け引きも、広義と強制の間を揺れる「従軍慰安婦問題」とそっくりだ)
 しかし、私が思うに、人間の行動と精神の関係は、それ自体、すこぶる曖昧であって、したがって、今回の教科書検定の「日本軍の命令で行われた」から、「日本軍のもとで起こった」への「曖昧化」も、しごく真っ当な改変だと思う。

 それより、彼らの意見書にある、「沖縄戦の実態を正しく伝え」というのはいいが、それが、「再び戦争を起こさないために」とつながるのは、どういう理屈でつながっているのか、全然説明がないのが気になる。ただ、本人の主観の中でつながっているだけだ。むしろ、これこそ、没論理の曖昧な話ではないか。
 その結果、たとえば、伝えるべき「実態」は、「戦争を起こさないために」という目標(理念)に縛られ、そのため、「実態」以上に、悲惨に描くことが推奨されはしないか。こうして、日本の自然主義リアリズムは、「実態をそのままに描く」というリアリズムの精神は反故になり、とどのつまりが、「虚妄」に終わったのではないか。

 んなことを考えた雨の日曜日であった。

おばあの証言

2007-06-23 23:18:40 | Weblog
 ヤフーオークションの出品手続きがようやく終了し、手始めに、使わなくなった窓用クーラーを出品した。100円スタート。欲しい人いたら、今すぐ(でなくても)ヤフオクへゴー!

 沖縄における住民の集団自決に関する教科書記述から、「軍の強制」が抜けたことに関して、またまたマスゴミのうるさいこと!
 
 で、どう変わったのかというと、「日本軍の命令で自決や住民同士の殺し合いが行われた」とあったのを文部省の検定官が、日本軍が「命令」をしたという事実はないので削るように言い、その結果、「日本軍の関与のもとで集団自決が起こった」と変えさせたことについて、沖縄県民の一部が抗議しているというもの。「関与」という表現ではなかったかもしれないが、いずれにせよ、昨日のTBS、ニュース23がこの問題を大々的にとりあげ、女性アナウンサーが、沖縄で「集団自決」したお婆さん……じゃない、それじゃあ、お婆さんは幽霊になってしまう……当時、「集団自決した人々の近くにいた」お婆さんに、「日本軍はあなた方を守ってくれましたか?」と聞いて、「自分たちも食べるものもないのに、そんな余裕はないでしょ」と答えていて、笑ってしまった。「日本軍はあなた方を守ってくれましたか」と聞く、このアナウンサーは、「パンがないならケーキを食べればいいのに」のアントワネットに匹敵するお嬢様か、はたまたアホか、それともそう質問せよと言われているのか……。

 そもそも、沖縄は、戦前、日米共に戦略上の要地とはみなしていなかったのが太平洋戦争がはじまってから沖縄の背略的重要性がわかり、取り合いの対象になった。したがって、日本軍が沖縄に派遣されたのも、たしか、太平洋戦争が始まってからと、本で読んだ記憶があるのだが、ともかく、そのようなわけで、駐留日本軍と沖縄の住民との関係が、「親密」と言えるような関係に至っていなかったことは事実なのだろうが、でも、お婆さんの(番組のナレーターは「おばあ」とか言っていた。個人的には、とてもとてもとーっても嫌な感じ)「日本の兵隊さん達も大変だった」と言う、その物静かな口ぶりは、おそらく今も存在するであろう、「ウチナンチューとヤマトンチューの間の隔壁」の存在を踏まえた上で、かく語っているように思われた。(はっきり言って……朝鮮の元慰安婦とは大違い……)

 このお婆さんは、また、「日本軍の命令」については、「捕虜になったら若い女は強姦され、男は股裂きにされて殺されるから、捕虜になる前に自決しなさい」と言われていたと証言していたが、実際、「戦車に縛り付けられてひき殺される若い日本兵の図」なんてのが、戦争が終わってから10年近く経ってもまだ少年雑誌に掲載されていたことを、戦車のキャタピラーに縛り付けられた少年兵(なんで、「少年兵」かというと、多分、悲劇性を高めるためだろう)のイラストともに、鮮明に憶えているくらいだから、戦中、まして「軍民一体」で戦場となった沖縄では、どれほど「鬼畜英米」が、真実味を帯びて語られていたか、想像に難くないのだが、でもそれを、すべて日本軍の存在のせいにするのは、ちょっとフェアじゃないと思う。というのは、残念ながら、それを信じてしまった自分の責任だってあるのだから。

 実際、私は、テレビで語る「おばあ」の顔に、テレビ局が期待する「告発」よりは、むしろ「慚愧の念」を見たように思ったのだった。

ベストアンサーを目指して……

2007-06-21 23:06:03 | Weblog
 今回は、社保庁民営化の話。

 私は、基礎年金(国民年金)部分は税金でまかなうべきだという考えだから、社保庁は完全解体し、とりあえず、役人は財務省の一部局に繰り込めばいいと思う。(今さら急に「全員クビ!」ってわけにもいかないだろうから)

 これは、民社党の意見と同じなのだが、最近の動きだと、民社党はこの「公約」にあまり熱心のように見えないのが残念だ。これから、選挙まで一ヶ月ほどあるから、それまでに「やる気」を見せるかどうかで、こちらの態度もきめることにしよう。

 それはさておき、実際問題、社保庁は民営化されることに国会で決まったようなのだが、では、この政府与党のすすめる民営化とは何なのか。

 これが、また、今一つよくわからないのだが、ヤフーの「知恵袋」をみたら、こんな質問がなされていた。

 Q 社保庁が解体し民営化され倒産すると、年金は再び消えた年金となるの。

 ベストアンサー いずれにせよ問題が生じたとき、政府に責任はない!と強弁できます。厚生労働省はこの手のことが大得意。予防接種で合併症がでれば、強制を止め、勧奨に。これで何かあっても受けた人の責任。政府は関係ないもん・・。受ける人が少なくっても、勧奨に応じないヤツが悪いんだもんってなもんです。その結果、日本は世界に冠たる麻疹流行の危険国に落ちてしまいました。とにかく責任から逃げたかっただけでしょ。不祥事の始末をつけて、責任者をはっきりさせてから民営化でも何でもやってね。

 『ベストアンサー』というのは、ネット参加者の投票で決まるようだが、これはないでしょ。

 何故って、これでは、民営化した社保庁は世界最大の金融機関の数倍、あるいは数十倍の規模をもつモンスター金融機関になってしまう。もっとも、これが自民党政府の狙いで、やらせている黒幕はユダヤなんだ、という話もあるみたいだが、それはない。

 もっとも、ここで、「ない」と断言する証拠もないのだが、そもそも、私の理解する「社保庁の民営化」というのは、三菱銀行と野村證券と日本生命を合わせてさらに大きくしたメガ金融機関の新たなる誕生……ではなく、「政府の下請けとして、年金掛け金の集金と配分を行う会社」と理解しているわけ……なのだが……これでいいのでしょ? 喩えて言えば、今問題になっている「コムスン」みたいなもの。

 つまり、「コムスン」は、政府(厚生省)と契約して、介護作業を請け負い、政府からその代金を貰う。ここで、インチキをしたので、契約を解除されてしまった。

 新しく発足する社保庁もこれと同じで、年金《事業》ではなく、年金《作業》を行って、その手間賃を貰う。これが、年金《事業》だったら、年金基金を運用して、それ自体から利益を得る。そんなこと、元になるデータを数千万、もしかしたら「億単位」で紛失してのけた、旧社保庁にやる能力もなければ、行政側も、まさかやらせる積もりはないでしょ、と思うのだ。

 というわけで、コムスンに対する厚生省の態度が、ちょっとやり過ぎではないのかと思えるくらい厳しいのは、多分、社保庁民営化を目前にして、引き締めにかかっているからではないかと想像するのだが……。

 それはともかく、新しく民営化する「社保庁」は、年金資金の運用に携わるのではなく、年金にまつわる「手間賃」だけを貰うのだと、私は理解しているので、ヤフー知恵袋の「倒産したらどうなるの?」という質問に、私だったら、

 「コムスンの代りに大衆割烹のオーナーが名乗りをあげたように、別の組織がやることになると思います」

 と答えることになるんだが、これでは、「ベストアンサー」にはならないだろうなあ。

年金の危機(?)

2007-06-19 22:51:11 | Weblog
 また、年金の話を。

 政府、与党としては、参院選挙までの間に国民の年金問題に関する熱が醒めてくれることを期待しているということだが、今回はそれはないのではないか。もっとも、だからといって民主党にも期待できないし……困った。
 しかし、それより何より、世論は相変わらず、社保庁の不手際を責めてばかりで、うんざりだ。もっと、根本的な疑問、たとえば、厚生省は、国民年金の滞納者が四割を越えているので、年金財政が危機に瀕していると言っているが、年金は最低25年間収めなければならず、それ以下の人は無年金になる、つまり払わなくてよいわけだから、それで、なんで「危機」なのだろう。ずっと疑問に思っているのだが、是非、役人に質問してほしいところだ。

 もし、役人の答が、無年金の老人が大量に発生すること、それこそが「危機」なのだ、というのだったら、厚生省の役人は「健全」な心の持ち主と考えてよいし、そこから、政治家と一緒に対処法方を考えればよい、ということになる。

 ところが世論の一部には、未納の結果、無年金になった老人は、身から出た錆なのだから、勝手に自殺するなり、野垂れ死になりせよという向きもあるようだ。遊び呆けたキリギリスは死んで当然、というのだ。そして、実際の話、今のままだと、こういった世論がさらに大きくなる可能性がある。

 しかし、実は、私としては、こういう世論が――あえて言うのだが――もっともっと大きくなればいいと思ったりもするのだ。というのは、このような《世論》に対決することによって、政治家、官僚たちの「公器」としての真価が発揮されると思うからだ。

 ちょっと花田清輝風になってしまった。

素数蝉の謎

2007-06-18 22:38:02 | Weblog
 「蝉」は、周知のとおり、一生のほとんどを地中で幼虫として過ごし、地上に「大人」の蝉としてあらわれると交尾をしたらすぐ、2週間ほどで死んでしまう。
 その幼虫の期間だが、日本では大体6、7年だが、アメリカの蝉は、13年と17年と決まっている。
 というのは、アメリカでは、氷河期にほとんどの蝉が絶滅し、13年蝉と17年蝉だけが生き残り、13年と17年ごとに七〇億匹に達する大量の蝉が、ある限られた地域で大発生するので、大変なことになる。
 で、今年が17年蝉の発生期にあたるのだそうだが、問題は、何故、13年と17年なのかということで、これの答が、13と17がともに「素数」であることにあるらしい。

 では、素数とは何かというと、1と自分自身の数でしか割ることの出来ない数字のこと。
 まず、1。1は1と自分自身、すなわち1でしか割ることができない。だから素数である。
 2も素数だ。1と2でしか割れないから。3も3と1でしか割ることが出来ないから素数だが、4は1と4以外に、2で割れるから素数ではない。しかし、5は1と5でしか割れないから素数、次の6は1と6以外に、2と3で割れるから素数ではない。……
 ここで蝉の話に戻ると、アメリカ大陸の蝉は、そもそも12年間から18年間を地中で幼虫として過ごす蝉がいたのだそうだ。それが、厳しい氷河期に13年と17年の2種類に絞られたのだが、何故かというと、例えば、12年蝉と15年蝉がいたとすると、この2種の蝉は、12と15の最小公倍数、すなわち60年ごとに発生が重なってしまう。ただでさえ氷河期で生存に厳しいのに、大量に発生してしまうとさらに厳しくなる。また、12年蝉と15年蝉が出会って交尾してしまうケースも無数に出てくるが、その結果、遺伝子がごちゃごちゃになって、純粋な12年蝉、15年蝉はますますその数を減らしてしまう。
 ところが発生周期が素数の蝉は、他の周期の蝉と発生が重なることが少ない。例えば、17年蝉と12年蝉の発生期が重なるのは204年ごとである。

 こうして長い時間を経て、12~18年蝉のうち、13年と17年の「素数」を発生周期とする蝉が生き残った、というのである。

 以上、一昨日の産経新聞のコラムに載っていた話で、筆者は竹内薫というサイエンスライターだ。

 竹内氏は、何故か、最近売れっ子で、日本テレビのニュースのコメンテイターもやっているが、人間の抱える諸問題を「数学」で説明するのは難しいらしく、遠慮がちのコメントばかりで、大いに物足りない。トンデモに思われても構わないから、親子殺人を数学論理で考えるとこうなる、とか解説したらいいのにと思う。

 無理か。

 それはさておき、「素数蝉」の話は、一種の「進化論」だが、とても面白い。宇宙もまた、こうして、素数中の素数、「1」を見い出すことから始まったのではないだろうか、なんて妄想したりする。

 ちなみに、数学者に「数って、本当にあるのですか?」と聞くと、「当たり前じゃないですか。実在しますよ~ん!」と百%、答えるそうだが、これは、「素数」のことを言っているのかもしれない、なんて思ったりした。