パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ぐぅです

2008-04-26 21:16:39 | Weblog
 黒岩涙香の怪奇推理小説、『鉄仮面』読了。

 以前、一度読んだことがあるのだが、中身はほとんど忘れていて、でも面白かったことは覚えていたので、読み直したのだが、いやはや面白い。

 フランスブルボン王朝の独裁専制君主、ルイ14世に叛旗を翻そうとしてことが漏れ、鉄仮面をかぶせられて幽閉された男を、その妻と部下たちが救おうとして30年近く苦心惨憺する、という話だが、救おうとするほうも救われるほうも、年々体力が衰えてゆく。しかも、鉄仮面はいかなる場合も外されることがなく、その正体は、国王と警視総監と、幽閉している牢獄長など数人しかいない。彼の妻も、部下たちも、状況証拠からみて、きっと夫だ、きっと御主人様だ、と推理しているだけで、真実は、救い出して、鉄仮面を剥いでみないとわからない。もちろん、読者にも知らされない。

 まるで量子力学の不確定原理みたいな話で、最初読んだときは、そのために途中からいらいらしてしまい、ストーリーがすんなり頭に入らなかったきらいがあったのだが、今回は、全然イライラしなかったというわけではないけれど、いい加減にしてくれないかなあ、かつての美人ももうお婆ちゃんじゃないか、早くしないとみんな死んじゃうぜ~とイライラし出した頃に、大どんでん返しの解説に突入してくれて、助かった。

 そのどんでん返しの詳細については一応ふせておくが、要するに警戒が厳しく、どうしても脱獄が無理ということで、最後の手段として一時的に仮死状態にする薬を鉄仮面に飲ませ、葬られた後で、墓地から掘り返す、ということにしたが、最後、鉄仮面を外したら……ヒエ~、ち、ちがう、という話で、全員がっくし、でも、せめて真実を知りたいと思い、蘇生薬を飲ませて生き返らせ、事情を聞こうとするが、飲ませるのが遅過ぎたか、生き返らせるのにも失敗、もはやこれまでと思ったところに、その鉄仮面が死ぬ直前に鉄仮面から最後の告解を聞いた教会の長老が現れ、真実を語るという仕掛け。

 この最後に聖職者が現れて真実を語るというやり方は、『カラマーゾフの兄弟』もそうだったし、欧米の小説ではひとつのルーティンなのかもしれない。しかし、最後の「なぞ解き」を充分に生かすためには、それまでのお話をいかにがっちりと遺漏なく組み立てておくかが重要になるわけだが、翻訳とはいえ、その伏線のはり方など、さすが黒岩涙香、もしかしたら原作よりうまいのでは?と思わせるものがあり、面白かった。

 ぐぐぐぅ~!

 格差社会、ワーキングプア問題をとりあげた『朝生』で、自民党の世耕が、「負の所得税を研究中」とちらりと発言。これまで何度もとりあげたベーシックインカムのことだ。

 しかし、例によって田原はそれを無視。というか、知らなかったのだろうが、当日のテーマからして、出席者の何人かは反応してもよいのではないかと思ったが、これまた無反応で、フォローする者もなし。『朝生』じゃあ、しょうがないか。

本末転倒

2008-04-25 15:48:26 | Weblog
 イギリスのスピード社が開発した競技用水着の性能がすごくて、オリンピック本番では同社の水着を着た選手が世界新記録を連発するだろうと言われているが、日本水連がミズノ,デサント,アシックスの日本の3社と契約しているため、日本選手はスピード社の水着を着ることができず、ピンチ!に陥っているらしい。

 調べたら、スピード社は去年の秋までミズノと契約を結んでいたが、「ミズノブランド」で統一することにしたので、契約を解消したんだそうだ。ミズノが、自分のところに開発能力があると勘違いした結果の「ミス」だろう。

 しかし、もっとも驚いたのは、つい数日前までやっていたオリンピック出場選考を兼ねた日本選手権で、日本ランク17位の選手が、スピード社の水着をつけて2位に入り、めでたくオリンピック出場を果たしたのだが、本番では着用禁止。

 ええええ? こういうのを「本末転倒」というのだろう。ちょっとバカすぎる。

ンプァッ!

2008-04-22 22:15:23 | Weblog
 光市母子殺人事件犯、死刑へ、って、そうだろうなあ。もし、そうでなかったら、ドラエモンがどうのとか、生き返らせるための儀式だったとかの言い分を認めることになってしまうものなあ。少なくとも、世論、というか世間はそう思うだろう。私もそう思う。(世論は、輿論と書くべきだ。輿論の「輿」はお神輿の「輿」。この方が意味がちゃんと伝わる。)

 安田弁護士とやらは、一体何を考えているのだろう。ドラエモンが助けてくれると思って死体を天袋に入れた、とか、蝶結びをしたら死んでしまったとか、変なことを依頼者が言い出したら、たとえそれが事実としても、誰も信じないだろうし、世間を怒らせることになるから、法廷には出さずにおこうと考えるのが弁護士としては普通ではないか。

 2chなどでは、安田が死刑に追いやったものという書き込みが多いが、この件に関しては、同意だ。また、弁護団のなかで話し合っていることを法廷でもそっくりそのまま主張し、それで押しまくれば、それが弁護団の主張として認められ、判決に反映される、という風に思っているのだろうか。それとも、結果はどうでもいいから自分達の宣伝になればいいと考えているのだろうか? 2chで有力な意見だが、これにも賛成だ。

 スティーブンソンの『宝島』を読む。もちろん、マンガとかでは読んでいるけれど、ちゃんと原作を読んだのははじめて。

 案外短い。リブリー先生、凄い。というか、怖い。医者の義務として放っておくわけにはいかないから、という理由で、自分達を襲った海賊共を治療してやりながら、「お前たちを死刑台に送らずにすましたら、死刑台に申し訳ないからだ」、とその理由を彼らに向かって言い放ち、実際、その後の戦闘で彼らをあっさり殺し、残ったやつらは島に捨ててしまうのだから。(食料は残してやったとしても)イギリスのジェントルマンの凄みを感じた。

 『大菩薩峠』、第一巻だけ読了。

 面白くないことはないけれど、小説として読む価値のある部分は、机竜之介が、剣の腕の差は歴然としているから、明日の御前試合では手加減してくれと、その妻から頼まれた男を打ち殺し、あまつさえ、その妻を奪って出奔するまでで、後はおまけのようなもの。それが延々と20巻も30巻も続いて、しかも未刊なんて、全部(未刊なら「全部」とは言えないのかな?)読んだやつはアホだ。

 新聞かどこかに連載中、本作を読んだ泉鏡花が、「これまでの大衆小説とは違う何かがある」とかいって、絶賛したらしいが、これは反リアリズムの巨匠として、リアリズム小説に対する優位を誇るための「ためにする」発言ではないか。要するに、余裕を見せようとしただけだろう。はっきり言って『旗本退屈男』のほうが小説としては、格上だと思う。

 『旗本退屈男』は面白い。特に、退屈男(名前を忘れてしまった)と、退屈男の女房代わりの妹、その妹の思い人で、退屈男ともムフフの関係にあるらしい美少年、この三つどもえの関係はなかなか。

 近頃ちまたでは侍言葉がはやりとか。戯れにでもお読み下され。ンプアッ。

「美」がない

2008-04-21 17:52:04 | Weblog
 昨日は事務所にこもってあれこれしているうちに埼京線の終電に乗り遅れてしまった。しかし、時間は12時前。駅員に、早いなー!と嫌みを言ってから、山手線で池袋に、池袋から赤羽線で赤羽へ、赤羽から京浜東北線に乗って帰ったのだが、終電近くとあって、若い男が階段を2つずつ飛び降りるように降りていった。すごい。私にはできない。歳だから…じゃない、私は、子供の頃からブランコの飛び降りができない人なのだ。要するに運動神経が悪いのだ。

 やれやれ、やっとか、という感じだが、今朝の産經新聞に、石井聡という論説委員が、小麦の政府売り渡し価格の30パーセントの値上げについて書いていた。

 しかし、今回の値上げは、政府のやり方が変わって30パーセント値上げになったわけではない。これまで通りの政策を続けるには国家予算から補填しなければならないが、すでに毎年300億円使っているので、今時、さらに税金を使うことは世論的に難しいだろうから、政府売り渡し価格を挙上げました、という話なのだ。「政策を改めるという選択肢などございません」、と政府,官僚が勝手に決めているのが問題なのだ。

 ガソリン税問題もそうだ。マスコミはなんとなく地方の意志を批判することを避けているけれど、今年のはじめに岩国市の新市長がアメリカ軍の基地増強だったか、訓練区域の拡大を容認する条件として、凍結されていた国による補助金を求めていたが、それが何のための補助金かというと、新市庁舎の建設なんだそうだ。新聞記事の隅っこに載っていただけなので、気がついた人は少ないと思うが、私は親米右翼として新市長のアメリカ軍基地増強容認を支持するが、その代価が、新市庁舎建設という話にはまったく納得行かない。当事者としては家屋がぼろぼろでどうしようもないのですとか言うかもしれないが、「そんなの関係ねえ」だ。(いや、便利な流行語だ)ぼろぼろなら、修理して使え。

 地方だけではない。ここ新宿だって、「他を圧する豪華な建物」と言えば、決まって公共建築物だ。だから、言うのだ。

 「いや、そんな、他を圧する、なんて大げさに言わないでくださいよ、そんなに贅沢ではありませんよ」とか言うかもしれないが、「他を圧する」というのは、普通の民間会社だったら、経済効率から言ってあえて作ろうとは思わないよ、というような場所にドデーンと建っているため、「他を圧する」ように見えるのだ。(実際にもかなり豪華だが)要は、バランスの問題なのだ。美的感覚というか。

ウハウハな話(私がではない)

2008-04-19 21:52:29 | Weblog
 今日、埼京線で、男性から席を譲られてしまった。

 その30がらみの男性は、前に大きな旅行カバンを置いて座っていて、その隣が空いていたのだが、かなり体格のいい人なので、座ろうと思えば座れるが、まあいいやと思っていたら、目が合ってしまった。すると、その男性は席を立って、どうぞ、というのだ。「えええ? まさか…」と思いつつ、時々、席が空いたまま誰も座らない状況というのを目にして、立っているのだってスペースを使うわけだから、無駄だなあと思うことが多かったこともあり、「あ、どうも」とあっさりご好意を受け入れたのだが、きっと、目が合って、その時、座ろうか座るまいかと迷っている私の気持ちが伝わっただけだよな…毎日1万2000歩以上、歩いているんだし!とカラ元気。

 いずれにせよ、まだ後期高齢者というわけではないので、今話題の後期高齢者保険料問題は、私には「関係ねえ」のだが、ニュースによると、舛添厚生大臣は、休日返上で問い合わせに対応せよと命じたらしい。休日手当はどうするのかな。払わないわけがないだろう。

 細かいことを言うようだが、昨年来の混乱で、年金特急便だとかなんだかんだでいったいいくらかかったか。

 しかも、問題は解決のめども立っていない。…ということは、役人にとってみれば、これからもいくらでも仕事があるってことだ。テレビであれ、新聞であれ、雑誌であれ、そんな風な視点でみた記事は一切みたことがないが、役人にしてみればウハウハなのだ。私が、下っ端であれなんであれ、社保庁につとめていたら、そう思うだろう。決して、批判されてノイローゼになるなんてことはない。(実際、そんな話は聞かない)仕事をして、報酬がある、ということは、つまるところ、それが社会的に認められているという証しであって、「申し訳ない」とか、そんな気持ちにはならないものなのだ。

 自分で勝手に四球を連発して、それを自分で切り抜け、伝説として賞賛されている広島×近鉄日本シリーズ第7戦の江夏みたいなものだ。ちょっとちがうか。

 毎年入ってくる年金掛け金の2割が、社保庁の人件費、その他に使われているという話を、もうだいぶ前にきいたことがある。2割とはべらぼうな話で、あとで聞いた他の人の話ではそこまではいっていなかったと思うが、今回の騒動で2割は軽く越えているんじゃないだろうか。

 ぜひ、民主党には、これまでいくらかかったか、それはどこから出ているのか、国会で聞いてほしい。そして、年金の未払い分については、「わかった範囲で払う」ということで、今以上の調査は即刻中止し(だって、それしかないだろう)、以後は、年金制度を含むすべての社会保険制度の抜本的見直しにかかるべきなのだ。どう考えても。

チンパンだからチンパンだ

2008-04-16 20:22:54 | Weblog
 二、三日前、東京ガスから電話がかかってきた。といっても、東京ガス本体ではなく、東京ガスから依託されている会社からかかってきたのだが、アパートを引っ越す際に、ガスの元栓を締め忘れたらしくて、使用量はゼロだが、三ヶ月間分の基本料金が発生してしまっているので、払ってくれというのだ。

 もう数年前の話で、聞いてびっくりした。元栓を締め忘れたのはこちらの落ち度にはちがいないが、使用料ゼロでなんで4000円も払わなければならないのだ。決まりとはいえ、納得行かないなあとぶつくさ電話口で言ったものの、そんなにしつこく言ったわけではなく、「事情はわかりましたたので、払い込み票を送ってください」と言うと、担当のおばちゃん、「そうですよねえ、使ってないのにねえ。でも、送らないわけにはいかないので、送りますねえ」と言って、電話を切った。

 同じような人が多いのだろう。

 しかし、基本料金っていったい何のためにあるのだ? 慶応大学が入学金を廃止したそうだが、それは、諸外国には「入学金」という制度がなく、留学生を受け入れる際に、その存在理由を合理的に説明することができないので、廃止したんだそうだ。

 ガス、水道、電気代につきまとう「基本料」も「入学金」と同じだ。合理的説明ができない。つまり、習慣なのだ。ついでに言えば、不動産の「礼金」も同じだ。

 水道なんか、「基本料金」にあたるのが、たしか、5立方メートルくらいだったと思うが、半分にもいかない2立方メートルしか使ってないのに、5立方メートル分、とられる。それでいて、夏になると、節水、節電ってうるさいこと。

 水道で言えば、2立方メートルまで無料。どう考えてもこっちのほうが合理的だ。かなり多くの世帯が、基本料金以下におさめようとすろうだろうから、節水,節電にもなる。少なくとも、格差社会ってんだから、それに対応するには、基本料金の解釈を「逆」にして、貧乏人の大量発生に対処すべきだろう。料金減少分は、たくさん使うであろう金持ちが、たくさん払うようにすればよい。

 まったく腹が立つなあ、チンパン福田! すべて官僚の言うままにします、っていうなら、それならそれでいい。それもはっきりしない。一体、何のために「満を持して」登場したんだ? 首相になるからには、いろいろビジョンがあってなるだろうに、それが、2年以上「雌伏」していたくせに、何もないってのが、腹が立つのだ。いくらでも悪口を言う。それは、政策がどうのじゃない。人間として、やるべきことをやってないからだ。だから、チンパンなんだ。

 実は、電力会社への外資規制について書く積もりだった。「基本料金」が慣習でしかないことを知っている外資だったら、大株主になったら、「合理的経営」を主張して、異義を唱えてくれるかもしれないと思ったのだ。

 国策、公共秩序の維持の観点から諸外国はどこでも規制しているとか町村がぬかしていたが、大層なことを言えば言う程、中身が空っぽということが暴露される。

 これほど、日本の「保守」が、現実を見ようとしない、悪しき意味で「空想家」、「ナルシスト」だとは残念ながら、知らなかった。

経済が告げる……ん?

2008-04-15 22:58:01 | Weblog
 今日のサンケイ新聞に、「経済が告げる」というコラムがあった。一面に掲載されていたので、サンケイの意見と考えてもいいのだろうが、ひどいものだ。サンケイが経済に弱いことはわかっていたが……。

 そのコラムは、アメリカのサブプライム問題を扱ったもので、「なぜサブプライム危機が起きたのか? ローンの借り手がカネを返済できなくなったからである。米国の住宅ローンの大半は、返済できなくなれば担保の住宅を差し出せば返済義務から解放される。住宅価格が上がっていると、金融機関は担保価値の上がった分を低利で貸す。米国の住宅バブルも消費ブームも、借金を返さなくてもよいという思い込みの上に成り立っていた」と、解説している。

 
 事実は、確かに仰る通りだ。アメリカのサブプライム融資システムは、ローンを返済できなくなったら担保物件を渡せばよい、という「ノンリコースローン」(月光」で、もう4、5年前にかなり詳しくとりあげた)という仕組みの上に成り立っている。でも、「借金を返さなくてもいい」というわけじゃない。借金をかえせなくなったら、担保としての住宅はたちまち取り上げられてしまうのだから。そして、それで終わりだ。住宅融資は、住宅に対して行われるのであって、人間にではない、というのがその理由だ。それがノンリコースローンだ。

 日本の場合はちがう。担保(住宅)を取り上げられた上、借りたものは借りたものだから、という理屈で、全額返さなければならない。もしかえせなくなったら、連帯保証人が払わなければならない。住宅融資は住宅にたいしてではなく、人間に行われるのだ。

 どっちがいいのか? 借りる側にしてみれば、アメリカ式がよく、貸す側(銀行)にしてみれば、日本式がよい……はずだが、だったらなんで、日本でバブルがはじけ、銀行が軒並み倒れたのか? 私が思うに、日本の場合、借り手が金が返せなくなっても、連帯保証人が肩代わりするのだから、銀行にしてみれば不良債権ではない。それでずるずるずるずると、いわゆる、「損切り」を行えぬまま、赤字を膨らませてきたのだ。

 対するアメリカ式の場合、ローンを返せなくなった、あるいは返したくない人(!)は「シングルメール」と言うらしいが、住んでいる住宅の鍵を封筒に入れて銀行に送ればよい。それでおしまい。金の貸し手は、否応なく「損切り」をしないわけにいかないのだ。

 ところが、このサブプライム問題について、アメリカの有名なドキュメント番組、「シックスティミニッツ」で、よく顔を見るベテランインタビュアーが、貸し手である銀行員(銀行員というよりサブプライム専門の金融業者のようだったが)が、「最近のアメリカ人は借りた金を返そうとしないのですよ」と言うのに対し、「われわれが若い頃は、そんなことはなかった。借りた金は返さなければならないのが、当たり前だった」と、相槌をうっていた。

 担保物件を渡せばそれでおしまいなことを、アメリカ人自身が知らないことに、びっくりだ。マスコミが「アホ」なのは、どこでも同じと思ったが、借り手に責任転嫁しようとしている(といっても、制度的には責任転嫁は不可能なはずだが)インチキ金融業者に丸め込まれている。

 サブプライム問題の本質は、そんなところにはなく、融資の対象が人間ではなく、「住宅」であるということを利用して、その住宅を担保にした借金を細かく証券化し、アメリカ国内外に売りまくったことが問題になっているのだ。

 この番組では、ローンを返せなくなった黒人やヒスパニックの夫婦なんかが、哀れな顔でインタビューを受けていたが、そんな哀れな顔になる必要はない。ただ、元のアパートに戻ればいいだけだからだ。背負う借金はゼロだ。哀れな顔は、たぶん、番組側プロデューサーの演出なんだろう。

 しかし、その哀れな彼らの「絵」を見ていて思った。どう考えても、彼らは、寝室がいくつもあるような豪華な住宅に住む人間じゃない。……なんて言うと、物議をかもしそうだが、でも、そこにサブプライム問題の本質があるのではないかと。

 要するに、ノンリコースローンの場合、住宅物件そのものに金を貸すわけだから、文無しでも、百万ドルの家を、その家を担保に、百万ドル借りれば手に入れることができる。もちろん、あくまでも理屈では、ということだけれど、その理屈に近いことを実際にやったのがサブプライムローンで、でもやっぱりそれは理屈で、実際には無理があった、ということを「絵」を見ていて思った。

 尻すぼみの書き込みになってしまったが、いずれにせよ、サブプライムローンがノンリコースローンを前提にしている事実を抜きに語ることはできないはずなのだが、でも語っちゃってるのが現実だ。件のサンケイ氏にいたっては、大事なのは制度ではない、モラルだ、一円でも借りたものは返すという日本人の遺伝子を大事にせよ、って話になっちゃってるが、話がちがうでしょ。「一円でも返す」、なんて言われたら、「おまえは、一円でも返さないといちゃもんをつけられるのではないかとオレのことを思っているのか?」と、漱石の『坊ちゃん』の話になっちゃう。たしかに、これは日本人の遺伝子レベルの話かもしれないが、「経済」とはなんの関係もない話だ。

 「経済が告げる」どころか、である。

晴れた空のように、しっかりと、ね(by福田)

2008-04-12 16:34:18 | Weblog
 数日前、呉智英が、サンケイ新聞のコラムで、「勝ち組」という言葉の使い方が間違っていると書いていた。

 「勝ち組」とは、本来、ブラジルの日系移民が、太平洋戦争における日本の敗北を認めず、「日本は勝ったんだ」と主張したことから、彼らを「勝ち組」と言うようになったのだが、今、日本で使われている「勝ち組」はそのような本来の意味をまったく無視している。言葉は正しく使わなければいけない。

 と、大体そのようなことを言っていたのだが、私も、「勝ち組」という言葉の使い方には違和感があったので、呉智英の文章を読んで、「そうだった!」と納得した。「勝ち組って、日本の敗北を信じないブラジルの日系移民たちのことを指してたんだ、忘れてた!」と思ったのだが、呉智英の文章はそこまでなのだ。これじゃあ、だめだ。もっと突っ込まないと。

 というわけで、呉智英の文章の補足なのだが、「勝ち組」の言葉の正しい使い方とは、負けたものが妄想のなかで「勝った」と思うこと、それが「勝ち組」の由来だと呉智英は言うわけだが、要するに、勝った人間が「勝った」という必要はないのだ。現実が「勝った」なのだから。もちろん、勝ちどきの意味で「勝った!」と言うことはあるけれど、勝ったものを指して「勝ち組」というのは、本来、そんな必要はないということで、「正しくない」。

 では、言葉が「正しい」とはどういうことかというと、内発的に発せられる言葉が正しい言葉なのだ。「勝ち組」の場合で言えば、負けた人間が「失った勝利」を望む心が内発的な動機となり、「勝ち組」という言葉になる。ここに言語的真実というものがある。つまり、負けたのに、いや、負けたが故に、勝ったと主張したブラジルの日系移民たちを「勝ち組」と名づけたのは言語理論的に正しいのであり、逆に、勝った人間を「勝ち組」と名付けるのは、内発性に欠ける故に、正しくない。

 理屈っぽいことを言ったけれど、今の日本でもっとも欠けていることは、勝った人を指して「勝ち組」と名づけてしまうように、言葉が内発性を失っていることだと思うのだ。勝ったやつを指して、「勝ち組」と言う、その単純さ、ここには、人間的精神の働きというものがない。だから、医療費がピンチだ→原因はなんだ?→太りすぎだ→役人の指導で太り過ぎを防ぐ……なんて、ばからしいほどストレートな発想しかできない。サンケイ新聞は、この新たな厚生省の取り組みを、「画期的」と称讃する。「健康のために痩せる」と言う個人的な課題に加えて、医療費削減にもつながるからというのだが、ここは読売新聞の指摘することが正しいだろう。読売は、「これまで問題のなかった人まで病人ということになって、医療費が増える恐れがある」というのだ。

 そもそも、件のサンケイ新聞の社説には、今月から始まった「特定健康・保険指導」(「指導」が好きだなあ。戦前とちっとも変わっていない)について、「海外の公衆衛生関係者が画期的とうらやみ、論議するのも無理はない」と書いているが、「うらやみ、論議する」ってなんだ? うらやむほどよい制度なら、なんで「論議」する必要があるのだ?

 まったくやんなっちゃうなあ。マスコミのアホには。出稿する前に、読み直ししないのか?

 福田首相が、新宿御苑で開いた「桜を見る会」で、久しぶりに晴れ上がった空を指して、「私は、この空のように、日本をしっかりさせたいと努力しているんですよ」と言っていたが、「晴れた空」は、「明るい明日」とか、そういう言葉とつながるが、「しっかりさせる」という言葉とはつながらないのではないか、普通。多分、ガソリン税の再値上げで、財政基盤を「しっかりさせる」ことばかり考えているので、晴れた空を指して「しっかりしている」なんて頓珍漢なことを言ってしまったのだろうが、もっと問題なのは、「値上げはしょうがないので、やりくりして工夫するしかありません」と発言したことだ。これは、「値上げには消費を控えることで対処せよ」と同じだ。

 再値上げは、「元に戻るだけ」だから景気には影響しないと考えているのか? 再値上げも値上げは値上げ。消費者はその分、他の消費を削る。「元に戻っただけだから」と元の消費行動に戻るわけではない。それなのに、財政数字の帳じり合わせばかりに目がいって、この「再値上げ」の危険性をどこも指摘しないのは、例の「単純思考」に陥っているからだろう。

 劇場版『クレヨンしんちゃん』、「栄光の焼肉ロード」を見る。(テレビで)

 劇場版の『クレヨンしんちゃん』の評判が高いことは知っていたが、面白い。ほんと~に、面白い。音楽のセンスもいいし。麻原をモデルにしたような「黒幕」が、マイクを手にステップを刻みながらロックを歌うところなんか、見てる方もステップしたくなる、『ロッキーホラーショー』以上の面白さだ。子供達が列をつくって追っ手から逃げるところなんかも、昔のテレビゲームを完全に意識した動きで、ホー、着眼点がいいなあ、才能あるなあと思った。(私は、実は、一度も、本当に、ただの一度もテレビゲームというのをやったことがない……あ、一度だけインベーダーゲームを200円分ほど……)

 映画界は、なんで、アニメに才能が集まるのだろうか。実写映画の世界が因習的で、権威的だからだろうか。テレビに出てくる「映画監督」を見ると、「エラぶる」のが映画監督になる唯一の条件であるとしか思えないようなやつばかりだものな。そんな風に思いたくもなる。

そこのけそこのけ、聖火防衛隊がゆく

2008-04-10 23:08:41 | Weblog
 中国は、青い服を着た、聖火防衛隊なるものを各国に派遣して聖火リレーを妨害するものを排除しているのだそうだが、その排除しようとしている防衛隊を現地の警官がまた排除しようとしていたりしているそうで、亡くなられたチベットの方々には申し訳ないが、抱腹絶倒だ。

 しかし、先ほどのNHKのニュースに、現代中国史に詳しい大学教授とやらが出てきて、ダライラマと中国当局は、それぞれ対外アピール合戦をしているのだ、と解説していたが、ダライラマはわかるが、中国当局が本気で対外アピールをしているとはとても思えない。誰がみたって、あれで諸外国の支持が得られるなんて思わないだろう。それは、中国当局だっておなじはずだ。

 モンゴル史が本職の岡田英弘氏によると、中国人が外国人に向かって外国人を非難している時は、もちろん、その外国人とけんかをしているときもあるだろうが、ほとんどの場合、中国人に向けたお芝居なのだそうだ。そうしないと、足下をすくわれるのだ。だとしたら、現政権の対チベットの強硬姿勢も、もしそうしなかったら自分たちの立場がやばいので、そうしているのだということになる。

 普通の人には到底理解しがたい、あの対チベットの強硬姿勢は、実際、そう考えなければ理解できないだろう。ポーズだけでもダライラマと話し合ってもいいだろうし、普通の国だったらそうするだろうに、それすらしないのは、たとえポーズでも、柔軟姿勢を示したら、それにつけこまれてしまうのだろう。つけこまれて、食べられちゃったりするかもしれないから、そりゃあ、必死だろう。

 ということは、結局、現政権の強硬姿勢は、中国人民の意志を味方に付けようと、どこか、別の勢力と争っているわけだが、中国は2000年の昔からずっとこれをやってきたのだ。

 中国人は、これを、われわれの民主主義だというのだが、実は詭弁なのだ。実際には、民草は、権力者の覇権争いの犠牲に供せられているだけなのだ。そして、その舞台が四川省や山東省だというのも、相変わらずだ。四川省などは、何度も人影が絶えてしまうほど、多くの人民が、権力争いの道具となって殺されてきた。しかも、問題は、そのことに中国人民自身が気づいていないことだ。自分と、自分の同族以外なら、どんなに残酷に殺されようが、どんなに大人数の人間が殺されようが、まったく関心がない。笑って見ている。まして、チベット族においておやだ。中国国内で何が起きているか、想像するだに恐ろしい。

 魯迅は、この中国人の極端なエゴイズムをなんとか是正しようとしたのだが、結局失敗した。相互不信を前提にしてしてできあがっている社会だから、無理と言えば無理だったのかもしれないが。

 しかし、驚くべきことは、海外に在住し、その地の市民権を得て、その国の国民になっているはずの中国人もまた、国内の中国人と同じだということだ。メディア規制がなく、真相がわかっているはずなのに、声高にチベット人を非難する。中国人はどこにいたって中国人だということはわかっていたが、若い女性が、目の前に証拠を突きつけられても平気で無視することには、本当に驚いた。中国の外で暮らしているのだから、中国国内の動向など無視できると思うのだが、対人不信が行動基準であることが、遺伝子レベルで習い性になってしまっているのだろうか。要するに、真実というものに何の価値も置いていない、そういう文化なのだろうが…。

コーエン兄弟か!

2008-04-08 15:34:19 | Weblog
 『悪党谷の二人』とかいう変な映画を見た。西部劇である。主人公はロバート・ミッチャムとジョージ・ケネディの二人。その他にも、出てくる人物は、みなどこかで見たような顔ばかりだ。

 例によってテレビで、途中から見たのだが、寅さん映画の冒頭の「夢のシーン」のような、現実感が極めて薄い場面が続く。どこかで見たような顔ばかり、というのもそれに拍車をかける。そのうち、ハハーンと思った。確信的に「夢」として演出しようとしている。

 ところが、何故か最初、これを、ハワード・ホークスの映画かと思ってしまった。『リオ・ブラボー』とか、あの手の系統だが、いくらなんでも、この現実感の無さはおかしいと思ったのだが、もしかしたら、自分の感性が変わってしまったのかもしれないと思ったりした。つまり、ホークス映画の本質は「夢」だったのではないかと。そこまでして、ハワード・ホークスの映画だと思い込まねばならない理由も無いのだが……。

 町の有力者でもある悪人が、老人を後ろから撃って殺す。ロバート・ミッチャムは、この撃たれた老人の友達で、保安官をしていたが、今はリタイヤして若い保安官に代っている。しかし、この保安官はまだ経験も貫禄もなく、犯人を捕まえても毅然とした態度をとれない。そこで、ロバート・ミッチャムは、かつて愛していたが今は他人の妻である女性に懇願され、正義を維持し、町の秩序を守るために立ち上がる……という話なのだが(この、かつて愛したことのある女性が忘れられなくて云々といったあたりが、『リオ・ブラボー』と混同した原因なのだが)、それはともかく、事件の数日後、頼り無い新米保安官にはっぱをかけるべく、一人のお婆さんが保安官事務所にやってくる。

 お婆さんは、極悪人に断固とした罰を与えるように要求する積もりだったのだが、事務所には保安官は不在なので、留置所の檻の中の犯人に直接、「早く吊るされるがいいわ」と言って非難する。これに対し犯人は、へらへら笑いながらお婆さんをからかい、お婆さんは白目を向き、「なんて失礼なことを!」と叫びながら、去ってゆく。

 去ってゆくお婆さんを檻の中から見届けた犯人は、おもむろに檻の扉を開ける。鍵はかかっていなかったのだ。そして、隣の部屋に行くと、椅子に縛られた保安官をひとしきりからかい、その後、ひとり悠々と保安官事務所を後にする。

 おかしいのは、この犯人は、仲間だか部下だかによってとっくに脱獄に成功してしまっているにもかかわらず、お婆さんがやってくるまで檻の中にいるのだ。まるで、お婆さんが自分のところに悪口を言いにやってくることを知っていて、それを待っていたかのようだ。

 このタガのはずれたような、奇妙なストーリーの展開は、まさに「夢」を確信的に演出しているかのようで、なんにせよ、不思議な映画だなーと思っていたら、シナリオは、○○・コーエンとなっていた。○○は覚えていないが、コーエン兄弟の片割れか?