パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

年の瀬に

2008-12-31 21:42:47 | Weblog
 『大阪府警潜入捜査官』の翌日、『阿修羅の瞳』なんかを見てしまった。

 結論的に言うと、これも予想外に面白かった。とはいえ、最後まで見ることはしなかった。何しろ、誰が主人公なんだかよくわからず、然り伺候して、最後までつきあう必然性を感じなかったのだ。

 見ながら、ぼんやり考えたのは、意外なことに黒澤明だった。

 もし仮に、黒澤が今映画界に入って来たとしたら、こんな映画を撮るのかなあと。

 要するに、黒澤映画のような、紙芝居的「活人映画」で、精神的深みのようなものはない。

 黒澤は神様になっちゃってるから、当然精神性も深いものがあるだろうと思われがちだが、全然そうじゃない(と思う)。

 『野良犬』の最後、お嬢様のピアノの音色をバックに脱獄犯と刑事が格闘する有名なシーンなんか、「精神性」という意味で言うと噴飯ものなんだけど、一応、精神性に溢れた素晴らしい名場面ということになっている。(私も、見ると「いいなあ」とか思ってしまうのだけれど。)

 紅白で森山直太朗が、「生きるのがそんなに辛いのなら」とかいう歌を歌うそうで、今頃、歌っているのかもしれないが、なんでそこまで自分を追い込むのか。

 「生きさせろ」というスローガンもそうだ。

 そもそも、「生きる権利」なんて、憲法に書いてあるのかないのか知らないが、「権利」というのは、そんなわけのわからないものじゃない。もっともっと具体的なもので、それが侵されたら、決死の反撃をしてでも守ろうとするものだ。


 「生きる権利」を守るために武装闘争をはじめることができるか? できるわけがないし、実際、そんなことは起きなかったわけだ。

 市民主義者は、「日本人は大人しすぎる」とか言うけれど、日本人が立ち上がらないのは、そのための基礎となるものの設定そのものが、間違っているからだということに気づかない。

 2chに、「格差社会に代る言葉をください」というスレがあり、そこに、「格差社会」は「縦社会」と呼ぶのが正しいだろうと、次のような書き込みをした。

《横社会における「階級」が、縦社会では「格差」にあたる。

「横社会」では、その階級に属しているものは基本的に他の階級に移ることは
できないし、しない。

「縦社会」では、貧乏人の子供でも勉強ができれば東大に入ることができ、
その結果高級官僚にだってなることができる。つまり、当人の努力次第で「出世」
できるが、その代わり失敗したやつは敗北感に苛まれる。「格差」という
言葉はこの敗北感から出て来たと思われる。》

 しかし、2chでは(いや2chに限らず)みんな感情的になって、単なる不況に伴なう生産調整の
ための人員整理に対して、重役以上は給与をゼロにして雇用を維持せよとか、農村では人手不足な
んだから失業した元派遣は農村へ行けとか、むちゃくちゃである。

 ホリエモンが、どこかのTV番組(『太田総理』かな)で、「ベーシックインカム」の導入を主張したらしいが、来年は、ベーシックインカム論議開始元年としたいものだ。

 年頭に当たってとか、一年の締めくくりとしてとか、私はまったくナンセンスであると思っているのだけれど、まあ、決り文句と言うことで、そろそろカウントダウンだ!

『大阪府警潜入捜査官』

2008-12-29 18:03:28 | Weblog
 『大阪府警潜入捜査官』なんてのを見てしまった。

 珍しく冒頭近くから見たのだけれど、タイトルを見逃したので,最初、大友克洋の『ワールドアパートメントホラー』かと思い、今時奇特なテレビ局もあるものだなと思っていたら、見ているうちにちがうと気がついた。

 結構面白く、最後まで見てしまったけれど、その半分は,今時の日本映画の傾向を知りたいと思って見た。

 テレビで広告されている映画は、みんな「感動もの」だそうで、「よかったです」と言って涙を拭いている若い女性なんかがかり出されていて、とてもじゃないが見る気が起こらないのだ。

 たとえば、少し前の作品だが、『3丁目の夕陽』とやらのテレビCMを見ると、街全体がくすんでいるし、ミゼットの3輪トラックなんかも、表面にさびが出ている。

 そりゃあ、40年前の街なんだから、くすんでいて当たり前かもしれないが、しかし、40年前には「今」だったわけで、ミゼットも、ちゃんときれいだったはずだ。

 もちろん、レトロ感覚を煽るためにわざとやっているのだろうけれど、なんか、おかしい。

 この「おかしさ」を、『大阪府警――』でも感じた。

 というのは、時代設定が「現在」なのに、なんか雰囲気が古くて、「なるほど、今、世の中はこうなっているのか」という感想が出てこない。

 たとえば、暴力団に潜入した警官がなんとか言うスナックに逃げ込む。(そこのママが藤真利子なんだが、最初、誰だかわからず、ハイヒールのモモコかと思った。あの藤真利子さんが、とちょっとショック)

 その雰囲気がまるで70年代なのだ。

 といっても、私は酒を飲まないので、最近の「スナック」とやらがどういう雰囲気になっているのか全然わからない。もしかしたら、70年代で時が止まっている可能性もあるが,『大阪府警――』の雰囲気はそういう自然なものでもなく、極めて作り物めいている。

 要するに、『3丁目の夕陽』の昭和3,40年代のセットを、そのまま現代の街(大阪なんだそうだが、どうもそういう雰囲気は感じられなかった)に移行したような、ややこしい感じがする。

 覚せい剤が切れて、幻覚を起こす場面で畳の隙間からウジ虫が湧いて出てきたり、ああいうのは、私が小学校にの入る前か、1年生の夏の夜、近くの豪徳寺の墓場の脇の空き地でヒロポン防止の宣伝映画で見たのと同じ場面・感覚だ。

 いったいいつの話だ!という感じなんだが、でも、書いたように、結構面白いことは面白く、たとえば、普通の日本映画だと、怪我をして逃げ込んだスナックのママとほにゃららの関係になったりするのだろうが、それが全然なく、かといって、ストーリーに関係ないかというと、そうではなく極めて重要な役回りになっているところなんか感心したが、調べたらどうやらこの作品は、韓国映画の翻案らしい。

 今は、韓国映画の方が優れていることを端無くも露呈してしまった感があるが,それはそれで韓国映画に学ぶなら学べば良いのであって,そんな意味も含め、今の日本映画では、「最良」にはいるのではないかなあと思った。

縦社会と横社会

2008-12-26 21:46:05 | Weblog
 昔、日露戦争で捕虜になって日本につれてこられたロシアの水兵が、日本ではどんなに貧しい家に生まれても、学校の成績が優秀なら士官学校に入ることができ、上級将校から、最後は大将にだってなることができることを知って、羨ましがったという話をどこかで読んだことがある。

 ロシアに限らず、一般に先進国と呼ばれる西欧各国でも、社会の構造は基本的にロシアと同じで、被支配階級に生まれた人は死ぬまで被支配階級に甘んじなければならないし、支配階級に生まれた人は、まさに生まれながらに人を支配する役目をになうべく教育を受ける。

 もちろん例外はある。ナポレオンなんかは、たしか、貧民の生まれではなかったか。それでも皇帝にまでのぼりつめて、樵の息子だったか、水車小屋の粉引きの息子だったか、かの「赤と黒」のジュリアン・ソレルなんか、それに憧れて身を滅ぼしたりしたんじゃなかったっけか。

 「赤と黒」は最初50ページくらいで挫折したままなんで、よくわからないのだが、ともかく、支配階級と被支配階級が完全に別れている社会が「横社会」で、社会を形成する紐帯は基本的に「横」に広がる。インドのカースト制度なんかがその極端なケースだ。

 一方、日本のように、通常なら被支配階級と目されるような貧しい家に生まれても才覚と努力で支配階級にのし上がることのできる社会が「縦社会」だ。縦社会では社会を形成する紐帯は横ではなく、縦方向に広がる、というかつながっている。

 ではどっちの社会が望ましいかというと、日本人だったら、たぶん、縦社会のほうがいいよ、ということになるだろう。

 炭鉱夫の家に生まれたら子供も孫も炭鉱夫と決まっているのではやりきれないじゃないかと。

 もちろん、今どき「炭鉱夫」なんて職業はあまりなくて、彼ら炭鉱夫はまた別の労働者になっているのだろうが。

 ところが、「縦社会」なる言葉を案出した中根千枝自身は、実は縦社会に否定的だ。

 論理的にはっきりそう言ったわけではなく、たぶん、公の場では日本はなかなか縦社会から抜けることができないでしょうとか、そんなふうに言っているのだと思うけれど、彼女の本を読んでみたら、縦社会の場合、「立身出世」できない多くの人々は敗北感に苛まれて一生を送ることになるが、たとえばインドのカースト制度のもとで扱いされている人々には、そのような敗北感は感じられないというのだ。

 たとえば、あるマハラジャの家の門番を何百年も続けている人間は、その仕事を当然のことと考えているので、ちっとも卑屈なふうは見えないと。

 もちろん、中根氏は、「だから横社会のほうが望ましい」と明言しているわけではないのだけれど、その「書き振り」は、ほとんどそう告白しているに近い。(まさか、「カースト制がよい」と言うわけではないだろうが)

 ただし、中根氏の本の最初の方をぱらぱらと読んだだけなので、いずれ全部読んで御報告したいと思うけれど、読んだ限りのところでは、そのような印象がある。

 つまり、「縦社会」の日本では、「貧富の差」というものが、屈辱感を伴う、耐え難い「格差」として存在してしまうと。

 「自己責任」という言葉が一時幅をきかせた。いや、今でもことあるごとに聞かれる言葉で、たとえばフリーター、あるいは派遣社員が職を失っている現状に対し、ある人は、「無能だから正社員になれないんだ」と「自己責任」をあからさまに言い募り、別の人は、「自分がそうなったら、そんなことは言えない」と反論し、返す刀で、雇用者に温情を要求する。

 実のところ、この両者とも、失業者を「敗者」と定義している点では変わりない。

 縦社会では、どうしてもそうなる。

 私は、麻生首相をどうしようもない阿呆だとは…思うけど、でも、ハローワークに視察に行き、仕事を探している若者に、「したい仕事を絞り込め」とアドバイスをして、「仕事を選べる状態じゃない」と、現実を知らないと非難する人が多かったが、そう非難する人々が、「どんな仕事でもいいからお金が欲しい」と思っている失業者かというと、多分そうじゃないだろう。

 多分、「敗者は、恥ずべき存在であり、したがって選択する権利なんかはない」と言うのが本音にちがない。

 佐藤首相が首相就任直後、ケネディ大統領に会いにいったが、ケネディは忙しくて会えないと断ってきた。

 佐藤首相は、だれのアドバイスかわからないが、「私は貴国に敗れた国の首相ですが、敗れた人こそ礼儀を持って接すべきだと○○がおっしゃいました」と言い返し、ケネディはたちまち態度を変えて会ってくれたという。(○○というのはとても有名な人でケネディが「知らない」といったらケネディの恥になるような人だ。)

 失業者であれ、フリーターであれ、ひきこもりであれ、職業を選択する自由、権利はどんな状況だってあるのだが、それは、失業者、フリーター、ひきこもりといった存在にも社会的権利があるということと同じだ。

 そのことが、縦社会で凝り固まっているとなかなかわからないのだ。

 

日本の医者のものすごい特権

2008-12-24 16:37:45 | Weblog
 飯島愛自殺…いやいや、「自殺」と決まったわけではないけれど、反射的にそう思ってしまった。

 いずれにせよ、「信じられない」ニュースではない故に、かえってショックだ。

 麻生首相、記者会見で、「世界で一番早く不況から脱出することを目指す」とくり返していたが、そんなことに意味があるのかなあ。発想が変だ。

 出産に現金不要の制度にした、と言っていたが、これが不況対策になるのか?

 もちろん、この政策自体は望ましいことで、とっくの昔に実現しているべきだった。

 ちょっと前、小泉チルドレンの一人だった女性大臣が(猪口邦子とかいったかな?)、出産費用の無料化を打ち出した時、マスコミがいっせいに「素人大臣」、「何も知らない」と罵った。

 なんでだろう?と思ったら、今の制度でも「事実上」無料で出産できるから、改めて「費用無料」と主張する必要はない、よってチルドレンのパフォーマンスに過ぎないという理屈だったと記憶しているが、しかし、それは後でかかった費用が戻ってくるという仕組みで、いったんは自腹で払う必要がある。

 だったら、最初から無料でいいじゃないか。なんで2度手間をかけなければならないのだ? そもそも、「戻ってくる」とはいえ、現金が必要な制度と、いっさい無料という制度では全然ちがうはずだが…マスコミはあの「悪罵」を撤回せよ!


 サッカークラブワールドカップの決勝を見た後、NHKを見ると、医療問題の特番をやっていた。

 そこで、びっくりしたことを報告。

 日本では、開業医は「自由開業」「自由標榜」の二つの特権を持っているんだそうだ。

 「自由開業」というのは、どこで病院をはじめようが、まったく自由なんだそうだ。

 ちょっと前までは酒屋以外で酒を売ることはできず、そのため、酒屋の営業は厳しく規制されていたのだが、医者がどこで営業をしようがまったく自由だというのはびっくりしたが、もっと驚いたのは「自由標榜」である。

 これはどういうことかというと、医学部を出て医師免許を持っていれば、どんな看板をかかげようが自由ということなんだそうだ。

 つまり、内科の学部を出た医者が独立する際、外科の看板をかかげてもいいんだそうだ。

 これには心底驚いたが、実際に、若い医者が独立する際、どんな看板にするか悩んでいる様子を映していた。

 この医者は、結局、自分の専門以外に、いかにも完全に「客寄せ」としか思えない看板を並んでかかげることにしたようだったが、本人曰く、「実際問題として、自分が学んだことのない科目を看板にすることはあんまりないと思います(から無問題)」と笑っていた。

 もちろん、たとえば工学部出身で全然畑違いの仕事につく人もかなり多いけれど、医学部の場合は別だろう。

 それとも、医学部の学生が学校の教室で教わることなど、工学部や法学部、文学部の学生が学校の教室で教わることと本質的になんら変わるものではないということだろうか?

 そうかもしれない。

 だとしたら、フリードマンが言ったように、医師免許なんてものはそもそも当てにならないもので、自由競争に委ねるのが正解ということになる。

 ところが、日本の医師会はその一方で、医者の数を増やすことに「質が落ちる」と一貫して猛反対してきた。

 ということは、日本の医者は免許さえあればどこでも開業でき、しかも数が少ない。つまり、競争がない。

 だったら、不便な田舎でわざわざ開業しようなんて奇特な医師は、本当に「赤ヒゲ」のような「奇特」な医師以外にいないことになる。

 だとしたら、今の医師不足問題は簡単じゃないか。

 「自由開業」、「自由標榜」の権利を守りたいのだったら、医者の数を増やし、「自由競争」のもとで行われなければならない。

 「自由競争」を避けたいなら、「自由開業」「自由標榜」の特権は放棄し、国、地方自治体による割り振りを受け入れなければならない。

 このどちらかだ。

 ところが、番組の司会者は、日本の「自由開業」「自由標榜」の制度について、「私達は、それをごく当たり前と思ってきましたが、ヨーロッパではまったく違うのです」とかのんきに言っていた。(アメリカのことには触れていなかったが、多分、アメリカでは、一切が「自由」なんだろう)

 おいおい、である。オレは全然知らなかったぞ。
 
 この番組の司会者はけっこうがんばって医師会会長にも食い下がっていたが、「制度的」観点からはここが「キモ」なのに、それをスルーしちゃうなんて、画竜点睛を欠くとはこのことじゃないか。

ハロゲンストーブの正しい使い方

2008-12-18 17:53:35 | Weblog
 ハロゲンストーブの「正しい(?)」使い方は、股火鉢のように、ストーブを抱え込むようにするのがいいらしい。

 というか、それ以外ない。

 人間の身体は、表が熱くて裏(背中側)が冷たいという状況には耐えられるが、右半身が熱くて左半身が冷たいという状況には耐えられないのだ。

 いや、なかなか「教育的」な暖房機具だ、ハロゲンストーブは。

 どこかの地方都市で、子供達がサッカーや野球の練習場として使っている空き地に警察が官舎と建てるということで、子供達が反対の署名を集めている絵がテレビで流れていたが、そもそも警察官って、官舎に住むことに決まっているのだろうか?

 小学生時代、近くに警察の官舎があった関係で、同級生の三割近くが警官の子供だった。

 それで、その官舎に遊びにいって、腐った畳を踏み抜いたことを覚えているが、それはそうとして、警察官はみんな官舎に住んでいるというイメージがある。

 もちろん、高級キャリアは、別だと思うし、全員が官舎に住むことという決まりがあるわけでもないだろうが、いずれにせよ、官舎に住む必要なんかないだろう。

 普通にアパート、マンションに住めばいいではないか。

 そうすれば、治安にだっていいだろう。

 女性の悲鳴を聞いて知らんぷりということは、多分、警察官だったらないだろう。一応、訓練は受けているはずだし。

 しかし、なんでこう身内で固まりたがるのか、日本人は。身内でなくても、擬似的に「身内」をつくって固まりたがる。

 ハッキリいって、「田舎者」の感覚なのだ。

 夏目漱石の「坊ちゃん」をはじめとして、漱石はなにかというと、田舎者を罵倒する。 

 最初、読んでいてちょっと異常じゃないかと思った。

 というのは、漱石自身、精神が尋常ではなかったことが知られているので、どうもそこらへんで問題がごっちゃになってしまうのだが、「田舎者」に対する批判は、それとは別に、制度的な問題として考えてもいいように思う。

 漱石の精神の異常ということで思い出したが、漱石夫人の話によると、漱石の書く文字の大きさで、漱石の精神状態がわかったという。

 文字が大きくなると「ヤバい」のだそうだ。

 反対に、精神が安定してくると、文字がものすごく小さくなるんだそうだ。

 文字がでかいと、「やあ、元気そうだ」とか、「さすが、大物だ」とか言ったりするので、漱石の場合も、文字が大きくなると快方、小さくなると悪化という風に考えがちだが、そうじゃないのが面白い。

 書く文字が小さいので有名なのは、ベンヤミンだ。

 彼の場合は常に小さいのだが、著述に熱中すればするほど、虫眼鏡でなければ判読できないくらいに、文字が小さくなるのだそうで、本人によると、文字が小さければ小さい程、自分の書いた文章を一望に見渡せるので、「よい」のだそうだ。

 多分、漱石の場合も同じだろう。

 文字が小さければ小さい程、世界観が大きくなるのだ。

 もちろん、この「方程式」は、漱石やベンヤミンの場合はそうだというだけで、一般的に、文字の小さい人は世界観が広く、文字の大きい人は世界観が小さいというわけじゃないけれど。

手品のような…

2008-12-15 18:36:49 | Weblog
 寒いなあ、地球温暖化しているはずなんだが。

 というわけで、足下を暖めるために、ハロゲンストーブとやらを、もちろん、リサイクル屋でだけれど、買ってみた。

 びっくりである。

 局部的にしか暖まりませんよ、部屋全体が暖まることはありませんよ、と念をおされ、また私自身そのようなことは知っていたのだが、聞きしにまさる「局部暖房」だ。

 本当に、ストーブに当たっている面しか、まったく暖まらない。

 もちろん、それだけだって、部屋全体の温度に少しは影響しているはずだが、体感温度にはいたらない。

 ほとんど手品だ。

 「ほら、こちらはこんなに熱いのに、裏は冷たいですよ~」

 地球が暖かいのは、もちろん、太陽のせいが大きいのだが、それは、太陽が地球自体を暖め、その熱を大気が吸収し、その結果、「暖かい」のだそうだ。

 もし、大気がなかったら…月のように、太陽に当たっている部分は灼熱地獄、当たっていない部分は凍結地獄となってしまうが、ハロゲンストーブは、このことを実感させる、実に物理教育的に適した優れた機械と言える。

 と皮肉りたくなる。

 なんで、こんな、買った瞬間に後悔するのが目に見えているものが韓国で大ヒット商品になったのだろう。

 とか言って、私も買った一員ではあるのだが。

 その韓国で、キム・ヨナをやぶって浅田真央優勝。

 視聴率が25%くらいに達したらしいが、これは、彼女が優勝することを期待しての数字ではなく、彼女の美しさを堪能したいという人々の期待をあらわす数字ではないか。

 とか言いたくなるくらい、別格だ、彼女は。

 しかし、キムがこけたから勝てたと言っているマスコミ関係者がいるらしいが、なんでそこまで悲観的に言わなければならないのか。

 「ドーハの悲劇」を10年近く言い続けて、「オレ、そんなの知らないよ」と選手自身に言われるまで、「敗北」を強調することが応援することだと思い込んできた奇妙さに気づかない民放は(今でも気づいていないかも知れないが)、本当にスポーツ中継から撤退してほしい。

右か左か

2008-12-13 15:47:27 | Weblog
 『イギリスから来た男』を見る。

 もちろん、テレビでだけれど、また例によって途中からだったので、題名も出演者も誰だかわからないまま、見続けた。

 というわけで、「イギリスから来た男」が、実はテレス・スタンプであること、彼が娘の仇として命を狙う相手がピーター・フォンダであることも、翌日ネットで調べてわかった。

 もっとも、スタンプの若いころの出演作が男の回想場面に挿入されるので、「あれれ?」とは思ったのだが。

 それにしてもまあ、年をとったことだと感嘆する。

 ソダーバーグ監督作品で、製作年が1999年だそうだから、もう、今から9年も前ではないか。それで、あれかね、テレス・スタンプ。

 しかし、年はとっても妙にかっこいい。いったい、誰なんだろうと終始思いつつ見ていたのだが、そんな風に、「気になるじじい」ではあった。

 それはそうと、LAの近郊の太平洋岸を舞台にした映画というのは結構あるけれど、みんな似た雰囲気をかもし出す。

 別に嫌いというわけではないのだけれど、やっぱりコンサバティブな東海岸を舞台にした映画にくらべて安定感、安心感のようなものはない。

 いつもいつも、終末に向かって急かされているような雰囲気が漂う。

 遅かったので結局最後までは見なかったのだけれど、フォンダが恋人と一緒にコンバーチブルで海岸ぞいの道を走らせているとき、画面向かって左が海、右が陸であったが、ということは、右をずっといけばニューヨーク、左の海をずっと行けば、ハワイ、日本なのかなと思ったりした。

 というのは、フォンダの運転する車は画面上に向かって走っているので、いわゆる「北上」しているのだと無意識の内に考えてしまうのだ。

 だとしたら、「南下」はどう撮れば「南へ向かっている」と思わせることができるのだろう?

 海岸(太平洋)を「右」にもってくればいいのか?

 『ガルシアの首』とか、南のメキシコに向かって逃亡する映画を検証してみるか。


 もう、一月程前だと思われるが、醤油のびんを倒してしまい、しかも、大分長い間放置してしまった。

 ふたはしてあったので、倒した当初、そのことに気がつかなかったのだが、じわりじわりと中身が滲みだし、醤油のにおいが当たりを包むようになったので、さがしたところ、タイルカーペットが黒くなっていた。

 意外なことに、その「染み」は、水に濡らしたティッシュで簡単にとれたが、においがとれない。

 タイルカーペットをはがして見ると、一面に醤油が広がっている。

 それもティッシュなどできれいに拭き取り、もとに戻したのが、でも醤油のにおいがなんとなくとれていない。

 カーペットの外面には、もう染みはないのだが、もしかしたら、その下で、「飛び地」的に醤油が残存していて、それがにおうのかも知れない。

 「醤油」は、焦がしたり、料理に使っている場合は、「いい臭い」なのだが、これはたまらない。

 外国から日本に帰ってくると、まっ先に「醤油のにおい」がするといわれるが、そう言う人々は、それをあんまり「好ましいこと」としては言っていない感じがする。

 それは、要するに、「家庭の臭い」なわけで、あれはその家庭に属している人にとっては好ましくても、そうではない人にとっては好ましいものではない。

 「醤油の臭い」には限らないのだが、ある程度長期間日本を離れていた人が日本に帰ってきた時に、どうしてもある種の「違和感」を感じてしまうものだが、それは、要するに、「家庭の好ましさ」と「家庭の嫌らしさ」を同時に感じてしまっているのだろう。

 隣の夕御飯」とか言って、プラカードを持ってずかずかと他人の台所に乗り込む米助の「本音」を聞きたいものだ。(あの番組は終わったのかな?)

麻生首相週内に辞任?

2008-12-11 17:43:15 | Weblog
 ここのところ、忙しくて、というか、なすべきことに集中できない状態が続いて、更新もままらなかった。すいません。

 まだ、この状態は続いているのだけれど、とりあえず、更新だけやっておこう、ということで、やっぱり気になるのは麻生首相だな。

 支持率が20%前半に急落した日にインタビューを受ける麻生首相の顔は、まるで生気がなかった。

 今日、テレビで見たら、同じ。すこーしだけ元に戻ったような気もしたが、無理に元気を装っているみたいで、生気がないのは同じ。

 前より、「無理」が重なっている分、より、無惨だった。

 今週中に辞任発表かというニュースが流れたそうで、もちろん、ガセネタだと否定したが、ありそうな感じがした。

 タバコの増税問題という、世論の支持を得られるであろう問題ですら指導力を発揮できないんじゃあ、首相の座にいる意味がないとマスコミが書いていたが、そういうことだ。

 2chの一部では、マスコミのネガティブキャンペーンのせいだと言っているのがいるが、さすがにそれはない。

 本人、「低支持率は私のせい」と言ったらしいが、それが正しい認識。

 でも、こんなところで正しくてもなあ、である。


 ノートパソコンは、結局、画面が小さいのがどうしてもネックになるようだ。とくに、DTPなんかの場合。

 テンキーがないのも、使いにくい。

 なんでも、実際にやってみないとわからないものだが、今、モバイルなみの小ささの低価格ノートパソコンが売れているみたいだが、あれにもどんなのでもいいから携帯電話機能がつけば買いたい、と思う。

鶏と卵

2008-12-05 22:13:33 | Weblog
 モジラだと、ミクシーでも画面が壊れず、入力できるが、英語のサイトから日本語用を引っ張ってきたせいか、文字が汚い。「読めればいい」と思っていたが、いざとなると案外気になる。

 一番きれいなのは、サファリだが、サファリの文字は平成体というやつで、見やすいし、読みやすいのだが、今いち、好きになれない。

 ところで、JR線の最新車両に装備されている案内テレビ(こんなものが通勤電車に整備されるとは、ちょっと驚きだ。とりあえず、今のところ、私にとってもっとも「未来的」な風景だ)に採用されている文字も平成体だ。

 なんでだろうと思ったが、結局、平成体が、今のコンピュータシステムのデフォルトになっているようだ。

 それはさておき、テレビの国会中継を見る。

 本当に激しくつまらない局製作番組より、よほど面白い。

 印象を言うなら、麻生首相は、たしかに悪い人ではないのだろう。

 社保庁や厚生省の不手際で被害を被った人々について、どう思うかと民主党の議員に聞かれた時、態度も言葉もぶっきらぼうだったけれど、「同情心」というものは本来備えている人だと感じた。

 質問の多くは景気関連で、結局、「雇用問題」に集約されるような質疑応答だったけど、しかし、不況だから雇用問題が生じているわけで、鶏と卵というか。

 朝の番組で、小倉智昭が、スーパーの安売り合戦が過熱していることに対して、そのスーパーがリストラで社員の首を切っているのはどういうわけか、と怒っていた。

 要するに、社員に払う給料をカットして、安売りにまい進するのは、自分の首を絞めるようなものじゃないかと。

 でも、小倉の言う通りにしたら、そのスーパーはあっという間に潰れるだろう。

 これもまた、「鶏と卵」問答みたいなものだと思うが、実際のところは、社会の仕組みそのものが変わりつつあるんだと思う。

 どの国の為政者がそのことにいち早く気付くか、じゃないかなあ。

ようやく解約

2008-12-02 21:42:32 | Weblog
 書き込みが滞るとしたら、大概、パソコントラブルが原因だが,今回も同じく。

 パソコンが1台しかないと,原因究明が難しいので,ソフマップで、液晶のバックライトが不安定だがその他は正常というMacノートを7000円で買い、さらに内蔵ハードディスクを、60ギガ1000円ちょっとで買って入れ替えてみたりとか,あの手この手でやってみたが、結局,アプリケーションソフトを使用中に、ちょっとした操作ミスがあったようだ。

 …あ、でも、だとしたら,ある特定のファイルがおかしくなってしかるべきだが、そのソフトでつくった他のファイルも一斉におかしくなってしまったのだ。

 ところが、新しく作ったファイルは、正常だ。

 結局,やっぱりなにがなんだかわからない。

 一週間ほど前、携帯電話をまったく使わないので,解約した。

 ソフトバンクのホワイトプランだから、毎月1000円でしかなく、だったら、必要になった時にまた契約するのも面倒だし、まあいいかと思っていたのだが、1000円とはいえ、もったいないので、ようやく解約したのだが、自分であれこれ操作するのは面倒なのでサービスセンターに直接持ち込んだ。

 すると、窓口の若い男性が、「停止にしますか、解約にしますか」と言う。

 停止と解約とどうちがうのかと聞いたら,停止は一時停止なので、再開を申し込めば、同じ電話番号ですぐまた使えますが、解約は,完全に契約の解消です、という。

 じゃあ、停止にしとこうと言ったら、「基本料金がかかります」と言う。

 ええええ? ちょっと待って、基本料金を払うの?と言うと、「当たり前じゃないですか」という。

 な、なんだ、この言葉遣いは!と思ったが、胸元を見ると「研修中」の札が。

 しょうがない、今は見逃しておいてやると思いつつ,「当たり前、ったって、今現在、その基本料金を払っているんですよ。なんで、わざわざ《停止》にした上,同じ金を払う必要があるの?」と言ったら、苦笑いしていたが、せめて半額にしたらどうか。

 まあそんなことより、前からしつこく言っているけれど,「基本料金」という制度そのものが、全然意味のない制度なんだが。