朝日新聞の6月26日朝刊の「税と社会保障のいったい改革,問題点は?」という連載コラムで、竹中ナミという福祉法人の理事長さんが、「社会保障というと,強者が弱者を救うことと思われがちだが,弱者が弱者でなくなるようにしていくことが本来の姿だと思う。与えるだけの福祉は、人の誇りを傷つけると思う。認知症の85歳の母と,重度障害を抱える39歳の娘を抱える身で,費用の9割は社会保障に助けてもらっているけれど,助けてもらうのは当たり前という発想はありません」と言っていた。
これは、いかにも一般世論の支持を受けるような言い分というか、反対しようにも反対できない言い分のように思える。
でも,これこそ戦後日本の官僚がつくった「救貧ではなく、防貧」というスローガンなんだと、私はずっと言い続けて来たのだ。
「弱者が弱者でなくなるように」と言うけれど、そうなるように皆が一生懸命努力して、それでも「弱者」になってしまう人は必ず出る。
でもその数は大したものではないので、生活保護で対応できる、というのが日本政府,官僚の言い分だった。
しかし、その「数」は、当初の見込みを大きく上回ってしまった。
どうするか?
日本政府、官僚の答えは、想像であるが、「弱者を減らす」だ。
現実には「弱者」の数は増え続けているが、時間をかけて、経済情勢を好転させれば、生活保護受給者は対応可能の数に押さえることができると。
この理屈は、先日テレビで見た、高速増殖炉の研究を続けるべきという学者の「百年単位で見てくれ」の言い分と同じだ。
あるいは、現実にデフレなのに、将来インフレになるとまずいから、という理由でデフレ政策を続ける日銀の言い分とも、多分,同じだ。
しかし,もし仮に、いつか経済情勢が好転して生活保護受給者の数を「対応可能」な数に減らすことができたとしても、その受給者は、「弱者」という「人の誇りを傷つける」レッテルを一身に背負って強者から助けてもらうことになってしまう。
竹中ナミ氏は「助けてもらうのが当たり前とは思わない」と言うけれど、こういう心理構造が、現実に「助けてもらって生活している人」を「当たり前でない人」、つまり被差別民にしてしまうのだ。
数が少ないからいいという問題ではない。
ではどうしたらよいのか。
これに、キリストは「貧しいものは幸いである」と言ったのだった。
金持ちは金を持ったままでは天国に行けないから、死ぬ前には全部金を寄付して、スッカラカンにならないと天国に行けないが、いつもスッカラカンでその日暮らしの「貧乏人」は、それだけで天国に行けるので、だから「幸い」であり、「正しい」と。
これは,宗教というより、横社会としての「階級社会」の論理であって、だから私は「階級社会」をつくれ、と言っているのだ。
しかし、こんな理屈をこねる奴はいないだろうなあと思っていたのだが、昨日の「朝生」を見て、そうでもないようだと感じた。
というのは、社会保障というか福祉概念として「自助公助」という言葉が出て、これを、50以上の,特に男性は、当たり前の倫理的な言葉として受け取っていたようだが、若い評論家は、これに「嫌な感じ」を持っているようだった。
ただ、「嫌な感じ」は、まだ理論化はされていないようだったが、
これは、いかにも一般世論の支持を受けるような言い分というか、反対しようにも反対できない言い分のように思える。
でも,これこそ戦後日本の官僚がつくった「救貧ではなく、防貧」というスローガンなんだと、私はずっと言い続けて来たのだ。
「弱者が弱者でなくなるように」と言うけれど、そうなるように皆が一生懸命努力して、それでも「弱者」になってしまう人は必ず出る。
でもその数は大したものではないので、生活保護で対応できる、というのが日本政府,官僚の言い分だった。
しかし、その「数」は、当初の見込みを大きく上回ってしまった。
どうするか?
日本政府、官僚の答えは、想像であるが、「弱者を減らす」だ。
現実には「弱者」の数は増え続けているが、時間をかけて、経済情勢を好転させれば、生活保護受給者は対応可能の数に押さえることができると。
この理屈は、先日テレビで見た、高速増殖炉の研究を続けるべきという学者の「百年単位で見てくれ」の言い分と同じだ。
あるいは、現実にデフレなのに、将来インフレになるとまずいから、という理由でデフレ政策を続ける日銀の言い分とも、多分,同じだ。
しかし,もし仮に、いつか経済情勢が好転して生活保護受給者の数を「対応可能」な数に減らすことができたとしても、その受給者は、「弱者」という「人の誇りを傷つける」レッテルを一身に背負って強者から助けてもらうことになってしまう。
竹中ナミ氏は「助けてもらうのが当たり前とは思わない」と言うけれど、こういう心理構造が、現実に「助けてもらって生活している人」を「当たり前でない人」、つまり被差別民にしてしまうのだ。
数が少ないからいいという問題ではない。
ではどうしたらよいのか。
これに、キリストは「貧しいものは幸いである」と言ったのだった。
金持ちは金を持ったままでは天国に行けないから、死ぬ前には全部金を寄付して、スッカラカンにならないと天国に行けないが、いつもスッカラカンでその日暮らしの「貧乏人」は、それだけで天国に行けるので、だから「幸い」であり、「正しい」と。
これは,宗教というより、横社会としての「階級社会」の論理であって、だから私は「階級社会」をつくれ、と言っているのだ。
しかし、こんな理屈をこねる奴はいないだろうなあと思っていたのだが、昨日の「朝生」を見て、そうでもないようだと感じた。
というのは、社会保障というか福祉概念として「自助公助」という言葉が出て、これを、50以上の,特に男性は、当たり前の倫理的な言葉として受け取っていたようだが、若い評論家は、これに「嫌な感じ」を持っているようだった。
ただ、「嫌な感じ」は、まだ理論化はされていないようだったが、