Defending the Faith
訳出時間枠:50分9秒から最後まで
◇◇
前回記事に修正点あり
聖なる感覚受容体the deepest recesses of the human mind
→聖なる感覚受容体 the sense of the divine
◇◇
R.C. Sproul師によるメッセージは分かりやすく、また身近な問題を取り扱っている場合も多く、今後も師のメッセージを中心に聖書の学びを継続しようと考えております。彼は数多くの本も出版しています。面白そうな内容の本があれば適宜紹介します。改革派神学は土台が強固であり、しかも徹底的に練られているため安定感があり、学んでいて実に楽しい。
さて、次回のメッセージですが
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity
を予定しております。
狭き門とは一体何か。
◇◇
それが、人間の状態が如何なるものかに関して聖書に描かれている現実なのです。
私たち人間の思考の中に神はいないのです。
しかし、ここにひとつの解決策があります。
神は、私たちが自分の思考からご自身を消し去ることを許しません。
私たちは神から逃れることはできないのです。
私たちはこの考えを抑圧しようともがきます。
この考えを否認しようとします。
あらゆる猛抗議により、その思いをかき消そうとします。
安らぐために黙らせようとします。
うなじをこわくしたり、自分の意識を石のように硬くしようとします。
しかし、あなたは神の知識を消滅させることはできません。
神の知識は、あなたの心の中の内なる宮に押し寄せてきます。
もう一度言います。
神があなたの心に植え付ける知識は必ず人を動かすのです。
トマス・アクィナスの偉大なる知恵と神の存在に関する主張は、神へと至る5つの方法の中にありました。
また、彼は宇宙論的議論についても語っています。
大変に優れた業績でありますが、必然的な存在としての神という点において、それが彼の考えの深きにまで達し得たのかどうかは疑問であります。
神は必然的な存在であると言う時、それは何を意味しているのでしょうか。
それを解くための時間を少々頂きたい。
必然的存在としての神について語る時、2つの方法があります。
存在論的に神は必然なのか、それとも理論的に必然なのかということ。
感謝する、そこで翻訳している諸君。チャック君、やればうまくできるはずだ。
神の存在論的必然性とはこういうことです。
オーガスティンは自分の意識、自分の存在について考察し、自己として自分を認識した瞬間に、自分は有限な存在であることに気付くということを理解したのです。
その有限性とは自我意識の一部だったのです。
その時、オーガスティンという存在は必然ではないことを悟ったのです。
同様に、R.C. Sproulの存在も必然ではありません。
私がいなくても、世の人々ははうまくやってのけるはずです、恐らく。
世の動向を調べるために、私が存在する必要はありません。
私の存在は不定的、非主体的、依存的、有限であり、それは変化しやすいのです。
つまり、私の存在は必然とは言えません。
必然的存在とは、存在しないことがあり得ない存在。
今日私は、あなたがたの心の中にこの過程を紹介しました。
今存在するなら、それは永遠に存在しており、永遠に存在している何かは必然的存在を有しており、それが存在しないことはあり得ない。
(* or it couldn't beは or it couldn't not beの間違いと思われる)
必然的存在を有している唯一の存在は神であり、純粋なる存在、変わることのない存在、依存していない、有限ではない、不定ではない、派生的ではない存在であります。
それは、それ自身の中にパワーを持っている。
よくよく考えてみて下さい、友よ。
神とはどのような存在であるのか熟考してみれば、あなたの祈りははるか遠くまで飛んでいくでしょう。
神は必然的存在。
神は存在しないことがあり得ない存在。
神が存在しない時は決して存在しない。
神が存在しなかった時は存在しなかった。
「私はそれである」つねにいまし、永遠に在るもの。
神の存在が必然であるのは、存在論的意味にあるだけではなく、その存在が論理的意味合いにおいても必然であるからです。
再度、それが今存在するなら、論理的に必然的存在でなければならない。
つまり、論理が必要であります、4+3が7であるように。
論理が自己単立的存在、永遠なる存在を要求するのです。
論理的要求、つまり必然なる存在のために必要とされる論理をあなたが持っているとすれば、あなたは達観的確信を持っているわけです。
話はシンプルです。
確信をもってあなたが知っていることのトップテンの中に入れるべきこと、それは、神が存在するということを知っているということ。
ただ期待するのではない。
ただ信じるのでもない。
知っているのです。
存在しないことはあり得ない。
私がその真理を見出すのは、あなたを見たからでも、あなたと話したからでもない。
私はその真理を、私が生きているところで見出すのです。
そう、私の心においてであります。
お祈りしましょう。
父よ、私たちの心にあなたの知識を投影して下さり感謝します。私たちはそれを憎み、軽蔑し、それから逃避しようとします。しかし、あなたは、私たちが天の番犬から逃げること、そして私たちの心への必然的な投影から逃げることを決して許そうとしないことに感謝します。今の教会時代において、私たちがしっかりと目覚めていることができますようにお願いいたします。そして、純粋なる存在でありますあなたを必要とし、その甘さを必要とし、その栄光を必要とするこの世において、私たちが純粋なるあなたを愛し、あなたに心から服従できますようにお願いいたします。イエスの御名によりお祈りいたします。アーメン。
訳出時間枠:50分9秒から最後まで
◇◇
前回記事に修正点あり
聖なる感覚受容体
→聖なる感覚受容体 the sense of the divine
◇◇
R.C. Sproul師によるメッセージは分かりやすく、また身近な問題を取り扱っている場合も多く、今後も師のメッセージを中心に聖書の学びを継続しようと考えております。彼は数多くの本も出版しています。面白そうな内容の本があれば適宜紹介します。改革派神学は土台が強固であり、しかも徹底的に練られているため安定感があり、学んでいて実に楽しい。
さて、次回のメッセージですが
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity
を予定しております。
狭き門とは一体何か。
◇◇
それが、人間の状態が如何なるものかに関して聖書に描かれている現実なのです。
私たち人間の思考の中に神はいないのです。
しかし、ここにひとつの解決策があります。
神は、私たちが自分の思考からご自身を消し去ることを許しません。
私たちは神から逃れることはできないのです。
私たちはこの考えを抑圧しようともがきます。
この考えを否認しようとします。
あらゆる猛抗議により、その思いをかき消そうとします。
安らぐために黙らせようとします。
うなじをこわくしたり、自分の意識を石のように硬くしようとします。
しかし、あなたは神の知識を消滅させることはできません。
神の知識は、あなたの心の中の内なる宮に押し寄せてきます。
もう一度言います。
神があなたの心に植え付ける知識は必ず人を動かすのです。
トマス・アクィナスの偉大なる知恵と神の存在に関する主張は、神へと至る5つの方法の中にありました。
また、彼は宇宙論的議論についても語っています。
大変に優れた業績でありますが、必然的な存在としての神という点において、それが彼の考えの深きにまで達し得たのかどうかは疑問であります。
神は必然的な存在であると言う時、それは何を意味しているのでしょうか。
それを解くための時間を少々頂きたい。
必然的存在としての神について語る時、2つの方法があります。
存在論的に神は必然なのか、それとも理論的に必然なのかということ。
感謝する、そこで翻訳している諸君。チャック君、やればうまくできるはずだ。
神の存在論的必然性とはこういうことです。
オーガスティンは自分の意識、自分の存在について考察し、自己として自分を認識した瞬間に、自分は有限な存在であることに気付くということを理解したのです。
その有限性とは自我意識の一部だったのです。
その時、オーガスティンという存在は必然ではないことを悟ったのです。
同様に、R.C. Sproulの存在も必然ではありません。
私がいなくても、世の人々ははうまくやってのけるはずです、恐らく。
世の動向を調べるために、私が存在する必要はありません。
私の存在は不定的、非主体的、依存的、有限であり、それは変化しやすいのです。
つまり、私の存在は必然とは言えません。
必然的存在とは、存在しないことがあり得ない存在。
今日私は、あなたがたの心の中にこの過程を紹介しました。
今存在するなら、それは永遠に存在しており、永遠に存在している何かは必然的存在を有しており、それが存在しないことはあり得ない。
(* or it couldn't beは or it couldn't not beの間違いと思われる)
必然的存在を有している唯一の存在は神であり、純粋なる存在、変わることのない存在、依存していない、有限ではない、不定ではない、派生的ではない存在であります。
それは、それ自身の中にパワーを持っている。
よくよく考えてみて下さい、友よ。
神とはどのような存在であるのか熟考してみれば、あなたの祈りははるか遠くまで飛んでいくでしょう。
神は必然的存在。
神は存在しないことがあり得ない存在。
神が存在しない時は決して存在しない。
神が存在しなかった時は存在しなかった。
「私はそれである」つねにいまし、永遠に在るもの。
神の存在が必然であるのは、存在論的意味にあるだけではなく、その存在が論理的意味合いにおいても必然であるからです。
再度、それが今存在するなら、論理的に必然的存在でなければならない。
つまり、論理が必要であります、4+3が7であるように。
論理が自己単立的存在、永遠なる存在を要求するのです。
論理的要求、つまり必然なる存在のために必要とされる論理をあなたが持っているとすれば、あなたは達観的確信を持っているわけです。
話はシンプルです。
確信をもってあなたが知っていることのトップテンの中に入れるべきこと、それは、神が存在するということを知っているということ。
ただ期待するのではない。
ただ信じるのでもない。
知っているのです。
存在しないことはあり得ない。
私がその真理を見出すのは、あなたを見たからでも、あなたと話したからでもない。
私はその真理を、私が生きているところで見出すのです。
そう、私の心においてであります。
お祈りしましょう。
父よ、私たちの心にあなたの知識を投影して下さり感謝します。私たちはそれを憎み、軽蔑し、それから逃避しようとします。しかし、あなたは、私たちが天の番犬から逃げること、そして私たちの心への必然的な投影から逃げることを決して許そうとしないことに感謝します。今の教会時代において、私たちがしっかりと目覚めていることができますようにお願いいたします。そして、純粋なる存在でありますあなたを必要とし、その甘さを必要とし、その栄光を必要とするこの世において、私たちが純粋なるあなたを愛し、あなたに心から服従できますようにお願いいたします。イエスの御名によりお祈りいたします。アーメン。