みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#58 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月03日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:13分31秒から15分42秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

決意をもって、次のように宣言するだろう。水の中へと真っ直ぐに沈み始めると、次いで曲がり始める。何故なら、光の屈折などいろいろな事が人の目にいたずらを仕掛けるからです。

曲がったオールは、私たちが見たり聞いたりしたことに基づいて確信に達した場合の限界を指し示しています。

オーガスティンがやりたかったことはこうです。

彼は絶対に間違いのない何かから出発することを望みました。

その何かとは、論理的に思わず見入ってしまうようなもの、道理に反しておらず疑うことのできないものでした。

それが、彼の弁証学の出発点でした。

あらゆる弁証学の出発点は、まさしくオーガスティンが目指した地点でなければならないと私は思います。

そして、それは自我意識という出発点であります。

つまり、あらゆる弁証論の出発点は自我意識。

古典的弁証学を否定し、前提主義弁証学を擁護する改革派の友人の中に、次のように言っている人たちがいます。

自我意識を弁証学の出発点にするなら、ヒューマニズムに屈したことになる。自我を出発点にすることによって、自分の弁証論を人間中心主義へと向けてしまったと。

彼らはこのことを致命的なエラーと考えています。

もちろん、オーガスティンを支持しているのは、出発点についてのみ言っているのであります。

もしも私の出発点が、神、言い換えるなら神意識でなければならないと言うのであれば、私が神の意識でもって、私の弁証論を開始しなければならないと私にはっきり言うべきではないでしょうか。

神意識で始めなければならないのは一体誰なのでしょうか。

出発点において、私は神を意識しなければならないということになります。

最初に私(自分)を意識することなしに、出発点において、如何にして私は神を意識することができるのでありましょうか。