みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#57 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月02日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:11分20秒から13分31秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

18世紀の啓蒙運動が終わって間もなく、古典的統合は崩壊し始めた。

インマヌエル・カントは、強烈な批判を顧みることなく、あの古典的統合はいずれ廃れるであろうという従来の義論を世に提供したのです。

それ以降、古典的統合を再建しようとする試みはすべて失敗に終わりました。

しかし、当時、大学において、神学はサイエンスの花形であり、哲学は女中の扱いでした。

これは、主にオーガスティンによって成し遂げられたアプローチ法のおかげだったのす。

私が理性的に思うに、オーガスティンがやりたかったこととは、不確実要素を超えて確信(必然)を手に入れることでした。

何故なら、神の存在(実在)を確信をもって断言できるようになれば、弁証学の他の疑問ははるかに単純なものになるからです。

弁証学の主な2つのテーマは、神の実在と神のことばとしての聖書であります。

この2つの問題さえ解決できれば、他の問題のすべては単なる釈義でしかない。

そこで、もう一度、今日私たちの住む環境において、現代の無神論と懐疑派たちの銃口はすべて、神に関する教理へと向けられています。

もし彼らが創造主の存在しない世界観を手に入れたとしたら、何か他のことが進行していく、すなわち、彼らはもはや活動の場へのキリスト教教会の侵入を阻む必要がなくなるのです。

これが、オーガスティンが取り扱おうとしていたことなのです。

知覚は常に限界があるので、そのような不確実なものを土台にして動くのではない。

オーガスチンは、「曲がったオール」という有名な類推法を導入した。

「曲がったオール」類推法を聞いたことのある人はどれくらいいますか。

彼はよくこの類推法を引用しておりました。ストーリーはこうです。

湖へと降りていき、手漕ぎボートに乗り込み、2本のオールを手に取り、各サイドへとおろす。明るく晴れた日に湖面をのぞき込んで、オールを見てみる。