みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#63 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月13日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:27分59秒から31分36秒まで

◇◇

私の個人連続体は、私の心の中にあるのです。

日本が降伏し、第2次世界大戦が終結した日に、私が何処にいたか、何をしていたか、はっきりと覚えています。

その瞬間の鮮明な記憶があります。

フランクリン・ルーズベルトが死去したというラジオニュースを聞いた時、何処にいたか、また
何をしていたか覚えています。

それは大昔の話、半世紀以上も前のこと。

戦争が終わり、シカゴの通りでスティックボールごっこをしていた6歳の頃の私と現在の私は同じ人ではありません。

しかし、同時の少年は私です。

私は1945年にシカゴにいた少年Sonny Sproulであります。

それはまさに同じその人、すなわち私であります。

さまざまな変化と、さまざまな成長がありましたが、いまだにそれは私自身であります。

それは私に当てはまるだけでなく、皆さんにも当てはまります。

心の中で、今日の私である人のみならず、50年前に私だった人を意識するのです。

そして、心の中で、次々変わっていくその様(さま)を激しく意識するのです。

さて、このことがキリスト教弁証論とどのように関わっているのでしょうか。

後にカルヴァンが述べたように、オーガスチンが語ったことは次のようなことです。

私たちの心の中にある自我意識という考え、決して論じる必要のない考え、消滅させることのできない考え、確信をもって理解していること、私たちは自我意識によって存在しているということ、自我の意識により、私たちは有限であるという自覚に直ちに突き当たるのです。

有限性という考えは濃縮され、それぞれの自我意識体験とともに閉じ込められます。

それ故、私は私だけれど、私は有限であることを知るのです。

確かに、1945年まで、そしてそれ以前のことまで記憶を戻すことはできます。

しかし、自問してみる。1937年の春、私は何をしていたのか、何を考えていたのだろうかと。

確信をもって、その疑問に対する答えを知っています。

1937年春、私が考えていたことは何もなかった。

1937年春に、私がしていたことは何もなかった。

何故なら、私はなかったからです。

私は存在していなかったのです。

体がなかった。

心がなかった。

神の心の中で、神の考えの中で、私は存在していたと言いたい人がいるかもしれない。

しかし、私の自我意識の存在に関して言えば、私はそれを持ってはいなかったのです。