みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#9 携挙 The Return, NO.1

2024年07月24日 | 携挙

携挙という教えに対するR.C. Sproul師の見解。

以前に参照として掲げたことがあるが、丁寧に読み込んでいこうと思う。

これまでの検討から、携挙は聖書に存在しない教えであるという見解に変更はない。

◇◇

要旨:

第1テサロニケ4:15
For this we say unto you by the word of the Lord, that we which are alive and remain unto the coming of the Lord shall not prevent them which are asleep.
(KJV)

unto the coming of the Lord の原典は

εις την παρουσιαν του κυριου

comingと訳された原語はπαρουσίαで

παρουσίαとは、strong辞典によると

παρουσία
parousia
par-oo-see'-ah
From the present participle of G3918; a being near, that is, advent (often, return; specifically of Christ to punish Jerusalem, or finally the wicked); (by implication) physical aspect: - coming, presence.

παρουσίαとは、戦いに勝利したローマ兵が大歓声とともに凱旋帰国したときのような状況を指す。聖書では、世界の終末における主イエスキリストの再臨を表現する場合に使われる。

従って、第1テサロニケ4章13節~18節は主の再臨を宣べていると解釈するのが正統。

同4:16
・・それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり

「よみがえり」と書いてある。

死者の復活が起きるのは、主の再臨の時以外にあり得ない。

マタイ27章に記載されている死者の復活もこれに近似した内容と考えられるが、詳細は不明。

その時生きているクリスチャンも、瞬時のうちに霊の体に創り代えられて(よみがえって)主を迎えることになる。

そして、神の国の民は地上で主をお迎えして、天に昇ることなく(4章にそんなことは書いていない)主とともに地を支配する。全く欠けのない完成化した神の国の樹立、すなわち新天新地の到来。

過去記事を参照のこと。

参考:

Understanding the Parousia: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul

◇◇

では、始めます。


☞ The Return: What Did Jesus Do? - Understanding the Work of Christ with R.C. Sproul

最初から6分まで。

◇◇

本日、キリストの務めに関する一連のメッセージの最後となりました。

終末におけるイエスの再臨を手短に見ていこうと思います。

再臨の時、主イエスは御国を完成させます。

地上における主の務めは十字架と復活において完了し、昇天して、御父の右に座しておられますが。

にもかかわらず、主の再度の来臨があるのです。

主の御国の務めを完了させるために、世の終わりに主はもう一度来臨されます。

さて、長年に渡って、諸教会はイエスの再臨を祝福された希望と考えてきました。

ここで、このことについて簡単にコメントしておきます。

主イエスの再臨は、私たちの希望です。

見ることに恋焦がれ、経験したくて待ち切れないことです。

新約聖書の最後のことばは、Even so, come, Lord Jesus(しかり、主よ、来てください)。

さて、英語において、hope希望ということばを使う時、わたしたちは、起こることを願う何か或いは、起こることが見たい何かを指します。

しかし、それが実際に起こる保証も確証もありません。

今年はスティーラーズがスーパーボールで勝つと思うかと聞くとします。

私は、「そう希望するが、賭けをするつもりはないよ」と答えるでしょう。

しかし、新約聖書の語彙において、ギリシャ語で希望を意味することばelpisは、必然性を欠く何かではありません。

新約聖書で言うところの希望とは、神によってなされる、成就することが必然であるところの、将来における約束のことを言います。

疑う余地がないのです。

私たちはこの希望をいただいており、神によって、聖霊によって与えられたこの希望は、決して消え去ることなく、私たちが恥をかくようなものでもありません。

この希望は祝福されていて、主イエスの再臨を確約する祝福です。

さて、主イエスの将来の再臨に関して、新約聖書には多くの記事が書かれています。

一回のメッセージにおいて、それらをすべて積み上げるだけの時間的余裕はありません。

再臨に関する事柄のいくつかを、パウロがテサロニケにある教会に宛てた書簡を通して見て行きたいと思います。

まずは第1テサロニケ4章13節を見てみましょう。

パウロはこう書いています。

「しかし、あなたがたが先に眠りについた人たちについて無知であって欲しくありません、兄弟たち。全く希望のない他の人たちのように悲しむことのないように。主イエスが死んで、そしてよみがえったと信じるなら、そうであるならなおのこと、イエスとともに、神はイエスにあって眠っている人たちを連れて来られるでしょう。それで、主のことばによって、あなたがたにこう言います。主の来臨の時まで生き残っている私たちが、眠っている人たちよりも先になることはありません。大きな叫び声とともに、大天使の声とともに、神のラッパの音とともに、主は天から下りて来られます。キリストにあって死んだ人たちが最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、空中で主と会うために、雲の中に彼らとともに引き上げられます。かくして、私たちはいつも主といることになります。それ故、これらのことばとともに、お互いに励まし合いなさい。」

さて、ここに書かれていることは、一般には携挙と呼ばれるパウロの教えです。

携挙とは、主イエスの来臨に関してであり、主とともに聖人たちが空中に引き上げられることを指します。

この出来事については、多くの誤報や偽情報があると考えます。

しかしながら、携挙に関して、十分に理解しておくべき事項がいくつかあります。

第1に、主イエスの再臨は目に見える出来事であるということ。

それは肉体的であり、勝利的であるということ。

初臨の時のように、貧しさの中、静けさの中で来臨するのではない。

この時の来臨では、勝利の中、力の中、栄光の中、栄光の雲に乗って、主は来られる。

秘密裏にではなく、目に見える形で来臨する。

昇天に関する最後のセッションを覚えていると思うが、天使は弟子たちに話しかけました。

「ガリラヤの人たちよ。何故、天を見上げながら、ここに立っているのですか。この同じ神であるイエスは、同じように戻って来られます。」

つまり、私たちは目に見える来臨を切に期待しているのです。

栄光の雲の中を、見守られながら天に昇られたように、栄光の雲とともに、見守られながら主は再びやって来られます。

 

 

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