Defending the Faith
配信第1回:15分42秒から18分45秒まで
◇◇
そろそろ佳境に入ってきた。
内容が難しくなってきているので、分かりやすい(?)解説をしておきたい。
われわれの知覚(5感)は不確実であり、全くあてにならない(曲がったオール)。
従って、それらをいくら駆使しても、神の存在など聖書の確信に至ることは不可能。
まずは、得られた情報を整理・統合し、次いで考える必要がある。
不確実な知覚(感じる)からではなく、確実な思考(考える)から始めるべきである。
まずは疑え。疑うためには考える必要がある。考えるためには考える人が必要。
自画自賛するわけではないが、以前にそのようなことを主張したことがある。
周りの人の言うことをまずは疑い、自分自身で考えるべきであると。
クリスチャンにとって当たり前のことを主張するのだから、そこには必ず一致がある。
以下にあるように、デカルトが「我思う、故に我あり」と語る300年も前に、我ら改革派の大先輩オーガスチンが全く同じ内容のことばを言い残していたというのだから驚きだ。
--
当ブログ読者諸氏であれば、今のウクライナ情勢に関して、マスコミが垂れ流す情報をそのまま鵜呑みにしている人はまずおられまい。
思考を巡らすために、まずは情報を集めるのが手順。
プーチンは嵌められた可能性が高い。
◇◇
全文の日本語訳を提示する。
(メッセージ続き)
神の意識でもって始めることのできるのは神のみであります。
そして、私が誰なのかということは問題ではないことぐらい誰でも分かっているのですから、神意識で始めることは、私には利用不可能なのです。
35年程前に、このことに関して、前提主義者だった友人と歓談したことがあります。
私の自我意識による出発点に関して彼は不満をもらし、私が自律性で開始したふりをしているのではないかと言った。
「嗚呼、ジョン。(どのジョンか分かる?笑。分からないでしょう)自律性という概念は自我意識という概念に含まれていると分析しても良い理由を教えてくれないか。教えてくれたら私は自分の主張を捨てようではないか」と私は言いました。
そうではないのです。
事実、オーガスティンによれば、自律性は自我意識という概念に含まれていないだけでなく、彼の自我意識という概念の理解によれば、自律性という概念は自我意識から完璧に排除されているのです。
その出発点は、思考そのものに関してであり、私たちが思考を行なう存在であるという意識に由来するということであります。
オーガスティンが行なったのは実に素晴らしいアプローチ法だったのです。
そして、彼がそれを行なったのは、ルネ・デカルトが、彼の有名なことば「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)によって、全哲学体系を作り上げる300年も前のことだったのです。
哲学を勉強した人の多くは、まずは17世紀へと至り、デカルトが行なった精密な疑いの過程を経て、 これらのいろいろな分析や評価の後に、「フー、ここに私がいる」という結論に達する。
そして、後ろを振り返り、次のように言うでしょう「いろいろやってはみたが、結局ここに自分がいるということを見出すだけだった」と。
それって、大きな問題なのでしょうか。
次いで、あなたは哲学史の次の章へと進んでいきます。
そして、デカルトがしたことなど忘れてしまうのです。
次に、体験主義者の言うことに耳を傾け、彼らの仮説に挑戦します。
さて、哲学史上、当時はデカルトの発見ほど重要なものはなかったと思います。
デカルトが探し求めていたものとは、前提の基礎だったのです。
前提の基礎とは、論理的に、あるいは以前から疑う余地が微塵もないほどに確実な何かであります。
何故かと言えば、デカルトは、「私の理論を疑うことは、すなわちそれを証明すること」と語ったからです。
我考える、故に我あり。そして、それを疑うなら、それを疑うために、我はそれを考える必要がある。何故なら、疑うことは思考を必要とし、思考は思考する人を必要とするから。
だから、「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)に対する反論は、逆に「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)を証明することになる。
デカルトが探し求めていたこととはこれだったのです。
まさに、難攻不落の理論であり、これまで述べてきた出発点であります。
配信第1回:15分42秒から18分45秒まで
◇◇
そろそろ佳境に入ってきた。
内容が難しくなってきているので、分かりやすい(?)解説をしておきたい。
われわれの知覚(5感)は不確実であり、全くあてにならない(曲がったオール)。
従って、それらをいくら駆使しても、神の存在など聖書の確信に至ることは不可能。
まずは、得られた情報を整理・統合し、次いで考える必要がある。
不確実な知覚(感じる)からではなく、確実な思考(考える)から始めるべきである。
まずは疑え。疑うためには考える必要がある。考えるためには考える人が必要。
自画自賛するわけではないが、以前にそのようなことを主張したことがある。
周りの人の言うことをまずは疑い、自分自身で考えるべきであると。
クリスチャンにとって当たり前のことを主張するのだから、そこには必ず一致がある。
以下にあるように、デカルトが「我思う、故に我あり」と語る300年も前に、我ら改革派の大先輩オーガスチンが全く同じ内容のことばを言い残していたというのだから驚きだ。
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当ブログ読者諸氏であれば、今のウクライナ情勢に関して、マスコミが垂れ流す情報をそのまま鵜呑みにしている人はまずおられまい。
思考を巡らすために、まずは情報を集めるのが手順。
プーチンは嵌められた可能性が高い。
◇◇
全文の日本語訳を提示する。
(メッセージ続き)
神の意識でもって始めることのできるのは神のみであります。
そして、私が誰なのかということは問題ではないことぐらい誰でも分かっているのですから、神意識で始めることは、私には利用不可能なのです。
35年程前に、このことに関して、前提主義者だった友人と歓談したことがあります。
私の自我意識による出発点に関して彼は不満をもらし、私が自律性で開始したふりをしているのではないかと言った。
「嗚呼、ジョン。(どのジョンか分かる?笑。分からないでしょう)自律性という概念は自我意識という概念に含まれていると分析しても良い理由を教えてくれないか。教えてくれたら私は自分の主張を捨てようではないか」と私は言いました。
そうではないのです。
事実、オーガスティンによれば、自律性は自我意識という概念に含まれていないだけでなく、彼の自我意識という概念の理解によれば、自律性という概念は自我意識から完璧に排除されているのです。
その出発点は、思考そのものに関してであり、私たちが思考を行なう存在であるという意識に由来するということであります。
オーガスティンが行なったのは実に素晴らしいアプローチ法だったのです。
そして、彼がそれを行なったのは、ルネ・デカルトが、彼の有名なことば「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)によって、全哲学体系を作り上げる300年も前のことだったのです。
哲学を勉強した人の多くは、まずは17世紀へと至り、デカルトが行なった精密な疑いの過程を経て、 これらのいろいろな分析や評価の後に、「フー、ここに私がいる」という結論に達する。
そして、後ろを振り返り、次のように言うでしょう「いろいろやってはみたが、結局ここに自分がいるということを見出すだけだった」と。
それって、大きな問題なのでしょうか。
次いで、あなたは哲学史の次の章へと進んでいきます。
そして、デカルトがしたことなど忘れてしまうのです。
次に、体験主義者の言うことに耳を傾け、彼らの仮説に挑戦します。
さて、哲学史上、当時はデカルトの発見ほど重要なものはなかったと思います。
デカルトが探し求めていたものとは、前提の基礎だったのです。
前提の基礎とは、論理的に、あるいは以前から疑う余地が微塵もないほどに確実な何かであります。
何故かと言えば、デカルトは、「私の理論を疑うことは、すなわちそれを証明すること」と語ったからです。
我考える、故に我あり。そして、それを疑うなら、それを疑うために、我はそれを考える必要がある。何故なら、疑うことは思考を必要とし、思考は思考する人を必要とするから。
だから、「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)に対する反論は、逆に「Cogito Ergo Sum」(我思う、ゆえに我あり)を証明することになる。
デカルトが探し求めていたこととはこれだったのです。
まさに、難攻不落の理論であり、これまで述べてきた出発点であります。