みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#70 終末預言 by R.C. Sproul

2022年03月23日 | 終末預言 
Defending the Faith

47分14秒から50分9秒まで

修正点あり:
感覚受容体 the deepest recesses of the human mind
→感覚受容体 the sense of the divine

◇◇

以下のメッセージを聴いて、直ちにひらめく聖書箇所がある。

伝道者の書3章11節
He hath made every thing beautiful in his time:
also he hath set the world in their heart,
so that no man can find out the work that God maketh from the beginning to the end.
(KJV)

新改訳で「永遠」と訳された単語は、上のKJVでは(the) worldと訳されている。

strong辞典を引くと
עֹלָם    עוֹלָם:
From H5956; properly concealed, that is, the vanishing point; generally time out of mind (past or future), that is, (practically) eternity; frequentative adverbially (especially with prepositional prefix) always: - always (-s), ancient (time), any more, continuance, eternal, (for, [n-]) ever (-lasting, -more, of old), lasting, long (time), (of) old (time), perpetual, at any time, (beginning of the) world (+ without end). Compare H5331, H5703.
Total KJV occurrences: 438

意味:適格に隠されている領域、消点、記憶のない時間枠、永遠、常在、永続、世界の初め(終わりのない)

世界の初めから始まり終わりのない永続する世界、つまり永遠(に継続している何らかの領域)

以上のような意味なのだが、面白いことに、神はこのעֹלָםを人の心の中に据えたと書いてある。

人は有限であるから、もちろん永遠に続く神の御業を見極めることはできない。

さて、上のKJV訳で(in their) heartと訳された単語は、strong辞典を引くと、

לֵב:
A form of H3824; the heart; also used (figuratively) very widely for the feelings, the will and even the intellect; likewise for the centre of anything: -    + care for, comfortably, consent, X considered, courag [-eous], friend [-ly], ([broken-], [hard-], [merry-], [stiff-], [stout-], double) heart ([-ed]), X heed, X I, kindly, midst, mind (-ed), X regard ([-ed)], X themselves, X unawares, understanding, X well, willingly, wisdom.

感情、意志、知性など広く使われる単語。勇気、親愛、理解力、知恵などの意味も含む。
日本語では「心」がやはり最も意味が近く、ギリシャ語であればψυχήに意味は近いか。

かなり大雑把ではあるが、לֵב(心)の中でも思考機能を有する知的領域にעֹלָםがあるということになる。但し、この領域には感情などを制御している領域が混在しているようだ。

神が行なわれる御業の中で最も重要な御業は何だろうか。

それはご自身の啓示ではないだろうか。

無神論者にさえ、その心の中に絶対に消すことのできない聖なる感覚受容体があるとR.C. Sproulは宣べているが、さらに何かとても重要な教理が隠されているように思われる。

永遠への思いעֹלָםと聖なる感覚受容体the sense of the divineとは同じものかどうかについては検討を要する。

神の存在を確信し、神の啓示を得る受容体と捉えれば同一器官で良いとなるのだが・・。

◇◇


天空は神の手細工を示している。

創造された秩序を通して、その秩序の中に、かつその秩序によって仲介された神の啓示の大劇場を見ることなしに、この世界を見ているとは言えないのです。

故に、神の存在について、それほど多くの議論がくりかえされてきたのです。

私たちが見ることのできる宇宙の存在根拠は神ご自身にあるということ。

私たちは、宇宙の創り主である神を見ることはできない。

しかし、神がなさることは見ることができます。

神の指紋を見ることはできます。

神が生み出すものの中に、ご自身の芸術性の刻印を見ることができる。

このことは、キリスト教弁証論において極めて重要であります。

それを無視することはあり得ない。

しかしながら、一般啓示には異なる側面があります。

それは、直接的啓示であります。

媒介(medium)の作者の背後にある媒介をいろいろ検索する必要はありません。

何ら仲介を経ることなく、人間の心の最も奥底に、直接に、即時的に、直ちに、神はご自身の存在を教えて下さるのです。

聖書は、オーガスティンが言っていることが正当であると主張しています。

自分を内観することにより、自分自身で自我意識を洞察することにより、オーガスティンは、容赦なく、必然的に、神の存在は疑う余地がないという結論へと導かれていくのです。

さて、オーガスティンの偉大なる弟子だったカルヴァンは、同様の主張をして、次のように述べています。

パウロがローマ書1章と2章で宣言しているように、あらゆる人間は外界における間接的啓示という大劇場の利益を享受できるだけでなく、私たちの心、つまり私たちの魂の中に、神の直接的啓示を得ることができるのです。

カルヴァンは、これを、私たち自身の内部にあり絶対に消すことのできない聖なる感覚受容体と呼びました。

これは普遍的なことです。

だから、人はホモサピエンスではなく、ホモレリジオサス(宗教の人)なのです。

人は神の知識から逃れることはできません。

何故なら、神の知識はあちら(外)にあるのではなく、ここ(心)にあるのです。

かつて、神の存在に関して、無神論の人たちと話す機会が与えられました。

彼らの質問を繰り返し聞いて、それに答えるよう努力しました。

「確かに、あなたがたは知的な議論をいろいろとしてくるが、分かりました。それらすべてに答えましょう。」

「しかし、私が何処から来たか説明する必要がある。すべてを明らかにしようではないか、それも、包み隠さずに。」

神に関するあなたがたの問題は、決して知的なことではない。

神に関するあなたがたの問題は、神が存在するかどうか分からないということでもない。

あなたがたの問題は、的確な判断ができないという点にある。

あなたがたは神を憎んでいる。

あなたがたは神に我慢がならない。

神を追い払うためには手段を選ばない。